工房釜神 【釜神の伝説 言い伝え 習俗】
各市町村史(誌)、郷土史、書籍等から抜粋の釜神関係記事

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◎岩手県
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◎宮城県
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鳴子町鳴瀬町迫町花山村古川市松島町南方町宮城県宮城町宮崎町村田町本吉町桃生町矢本町米山町
涌谷町

釜神に関する一般の書籍・論文等

栗駒町(カマ神と絵馬:栗駒町教育委員会より)
【はじめに】:火や灯りは家族や人々の寄り集う所であり、生活の拠点であるともいえる。そうした火を取り扱う場所としての竈を大切にし、信仰の対象とする例は古くから全国的にみられることであるが、宮城県から岩手県南部にかけての地域では、特に、土間の竈近くの柱や壁に土や木の面をまつる風習がある。これ等の面は一般にカマガミサマと呼ばれ地域によってカマオトコ・カマズンツァン・カマノカミサマ(宮城県)、カマダイコク・カマベットウ・カマメンコ(岩手県)などと称されている。宮城県では昭和60年度に所在確認調査を行い、県内で約2000面、岩手県で約400面が確認されていが、最近家の新改築によるカマドの激減や、カマ神そのものの破損・移動・消失によって、体系的な研究は困難な状況になっている。
カマ神についての最も古い記録は、菅江真澄の紀行文「続・はしわの若葉」で、天明6年(1786)9月に今の河南町曽波神で見た事が記録されている。約200年前の事で、カマ神信仰がこれよりいくら遡る事になるか、今の所知る事ができない。牛柱やカマドの背後に、目を異様に光らせ恐ろしい顔をしたカマ神から受ける畏怖の念が、火や災難から一家を守ってくれる神として人々の信仰を得てきたと思われる。しかし今や竈が消失し、かつては恐ろしい顔で土間を見下していたカマ神もしだいに消滅しつつある現況である。今回の栗駒町内のカマ神紹介が、町民皆様のカマ神についての思いを呼び起こし、その保存や解明の契機ともなれば幸甚である。

【分布】:現在まつられている地域はほぼ旧仙台藩領に相当し、一部落境地帯も含まれる。分布数が多いのは仙台市以北から一関市付近にかけてで、とりわけ宮城県の北東部から岩手県の東磐井郡にかけてと、宮城県北西部の古川市以西と奥羽山脈沿いの地帯にかけて分布密度が濃い。南の白石市と岩手県の石鳥谷町に各1体あるが、いずれも他の地区から伝えられたものである。岩手県の藩境地帯である江釣子村や東和町などでも小数乍ら分布が確認されている。
ところで、一般に仙台藩特有の信仰といわれているが、南部の伊具郡や亘理郡では所在が確認されていない。また、北部の気仙郡の場合は、陸前高田市にはまつられているが、それより北には見られない。隣接の県についてみると、福島県では遠く離れたいわき市に2体報告例があり、山形県の尾花沢市内で見かけたことがあるという話がある。
栗駒町では101体が確認されているが、この数は、古川市442、鳴子136、岩手県藤沢111、宮崎105、志津川102に次いで、県内各市町村の中では群を抜いて多数のカマ神を所有する町である。町内を各地区に分けてみると、姫松24、文字22、尾松39、栗駒5、鳥矢崎8、岩ケ崎3で、尾松地区が特に多い。この数は昭和62年調査の数で、調査漏れなどでこれ以上に増える事が予想される。

【まつり方】:カマ神がまつられている場所が土間の竈の近くである点はどの地域も共通している。その位置は竈より高いのが普通だが、面を取り付けている所は一定していない。多いのは土間の柱である。ただし、柱の位置や呼び方は地域によって異なる。よく間かれるのは、ウシモチ柱・カマ柱・ヨメゴカクシ柱などと呼ばれる柱である。このほかに、梁や長押に取り付けている例もある。江刺市や北上市周辺では壁に直接面を塗り込む方式も見られる。なお、カマ神の多くは土間の入口を向くように取り付けられているが、岩手県の東磐井郡地方の笑顔の面相のものはイロリの方向をとる場合が多い。我々の調査経験では、カマ神は古い農家や漁家でまつられている例が多いように見受けられた。
それをまつる日や方法は地域によって多様である。大体は年の暮れに煤を払って注連縄や幣束を飾る例が多く、この時以外に特に掃除はしないのが普通である。正月にはほとんどの家で餅や御神酒を供えて拝んでおり、小正月にもマユダマを飾ったりする。そのほかにはあまりまつることをしない例が多いが、中には節句などの特別な日には赤飯やお膳をあげる家もみられる。ただ、かつて紙漉が盛んだった岩手県東山町では、楮の煮釜を使用する時節に特におまつりしたといわれ、また、宮城県東和町では炭焼窯のカマブチが終わった夜に餅や酒をあげており、火を使う仕事において特に信仰された地域もある。また、田植えの時にカマ神に苗や苗を束ねる藁を供える家もあり、この神が田の神としての性格もあわせもつことをうかがわせる。なお、カマ神に張る注連縄は正月が過ぎてもおろさず、屋根の葺きかえや不幸がある年まで毎年かけ加えて行く風習もみられる。このほか、水沢市では毎年2月に馬のワラグツをカマ神の頭上に振り分けに垂らして供えた家がある。宮城県では栗駒町に、ワラグツのほかに馬の姿を切ったキリコを年末に飾る例があり、また歌津町には馬の鈴を供える家もみられる。これには馬の健康や農作業での働きを期待する気持ちがこめられている。
カマ神をまつっている人々の信仰でもっともよく聞かれるのは、火の守り神として火難よけとする意識である。ついで、魔よけ・盗難よけなどともしている。いかめしい顔付や入口正面を向いてまつられる例が多いことから、悪いものの進入を防ぐ効果を期待するのは自然の発想と思われる。また、台所近くにまつられているためか、一部には炊事をする女の人を守る神と伝える家もあった。なお、桃生郡や登米郡などには、煤払いの際に、土製のカマ神の眼をみがき、墨で黒眼を描き入れる家がある。こうした家では、カマ神の眼をきれいにしておくと眼病にかからないという話も聞かれた。

【作り方】:カマ神は家を新築した時に、大工や左官屋によって作られたと伝えることが多い。これが事実かどうかはまだ研究の余地があるが、カマ神の素材は粘土(土製)と木(木製)に大別されるのは事実である。土製のカマ神の作り方は柱や壁にはじめから取り付けるものと別に作ってから張り付けるものとがある。直接取り付ける場合は柱や壁に竹串や木串を差込み、串に縄を絡めて面の芯とし、その上に藁を細かく刻んで混ぜた粘土を張り付け、造形したとみられる。この場合、あらかじめ柱に縄を巻きつけておくのもある。柱よりカマ神のほうが大きい場合は柱の脇のほうまで粘土を巻きつけることもある。可塑性のある粘土は乾くまでに時間がかかり、形がくずれることもあったとみられ、職人の腕のみせどころであったにちがいない。別に作ってから張りつける場合、多くは板を用意し、竹串や木串を打ち込み、縄を絡めて面の芯とするのが普通であった。あらかじめ板に細い縄を巻く場合もある。できあがったら面の付いた板を柱や壁に釘打ちする。土製の場合、仕上げは鏝を用いたとはっきりわかるものもあるが、指や掌でなでつけたとみられるものも多い。象嵌が簡単なので、キラキラ光る貝殻や白い瀬戸物などを目や口にはめこみ、目や口もとを強調し、表情を豊かにするものが比較的多い。貝殻はアワビ貝が多いが、シウリ貝やホタテ貝をもちいることもある。瀬戸物を利用した場合、墨で黒く瞳をいれたり、歯並びを現したりする場合もある。また、眉や髭などを綿や麻で作ることもある。宮城県豊里町には頭に縄で鉢巻をするものがみられる。
木製の場合は、別に製作して、のち壁や柱に掛けるのが普通である。材料はマツ・クリ・ケヤキなどが多いが、調査の段階では判断つかないものが多かった。作りが平板なものと彫りの深いものとに分かれるが、区別が難しいものもかなりある。平板なものは器用な素人が作ったという感じのものが多いが、作風が素朴で親しみある表情をしめす。平板な作りとなるため、鼻には別の木をたして高く表現するものもある。またクリの古木などに宿り木がついてこぶができた部分を利用してつくられたものもある。裏側に抉りがあっても浅いものが多い。彫りの深いものは木彫にたけていた人が作ったと思われるものが多い。仏像や神楽面を製作する専門家あるいは器用な人が副業に製作したのであろう。製作は上手であるが、地域ごとに類型化したものが多い。軽くするために裏面を大きく抉っているものも多い。また、耳を別につくり接合しているものもみられる。
なお、宮城県大崎地方では、やや新しい時期のものであるが、目の部分を裏から抉り、目玉を書き入れたランプのガラスをはめこみ、後ろから和紙をまるめたもので抑えているものがある。木製のものには彩色されたものもある。その他、コソクリート製のもの、やきもの、鋳物(銅製)などがあるが、年代的に新しいものや、他の部品を転用して利用されたものが多い。



桃生町 (桃生町史より)
釜神は、他に例をみない独特の風貌をしている。しかしそれは、旧仙台領の中心から北部にかけて集中するのも特徴である。この神の起源・信仰などの詳細はわかっていないが、菅江真澄の紀行文『続・はしわの若葉』によると、天明6年(1786)に曽波神で釜神を見ているので、200年前にはすでに祀られていたことが分かる。水とともに生活上大事な火を常に取り扱う竈の側らに祀られる釜神は、生活の身近な守護神であったとは解されないだろうか。昭和30年以前は殆ど毎戸祀ってあったが、家の新改築により激減し、現在わずかに保存されているものも破損が目立つようである。祀り方、供え物などは各家によって多様である。当町の場合のカマ神の特徴としては、@板に細い縄を丁寧に巻きつけ、そこに竹串などを挿し込み、縄を絡めて面の芯としている(柱にとりつけるときに便利)。A細い紐状の粘土で頬や顎・眉・額などに凹凸を付け、いかめしさを出している。B目に盃や小さい飯茶碗を伏せてはめ込み、糸尻に黒目を入れる。C髭や眉の部分に真綿を用いている。以上のことがあげられるが、これは陸前高田から町内脇谷に移住した壁職人、通称ハダカカベ(阿部浅之助)の作品と伝えられていて、特に盃を目玉にみたてるなどはユニークである。町内のおよそ8割はこの人の作品と考えられ、町内ばかりでなく、河北町、豊里町、津山町、更には仙南のほうまで、その分布は広い。ハダカカベ以外の作者は作風から4、5人の手になるものと考えられるが、作品の数は少ない。カマ神はカマド神として祀られるが、時として福の神としての要素を併せ持つとされるところもある。



色麻町 (色麻町史より)
【住居】:煮炊きのための台所の竈、またはクドと呼ぶ煮炊きの場の上、若しくは近くの臼持ちと称する柱の上に赤粘土で作った、目玉に鮑の光る貝殻が入れられたいかめしい面相の黒くすすけた釜男・釜神さまが掲げられ注連縄を張り、神符や幣が捧げられている。人間生活に欠かせないものであり、火そのものの持つ神秘的な威力に対し、畏敬から信仰に発展したものであろう。一家の経営をカマド持ち息子にカマドをゆずるというのは家の繁栄をねがったものであろう。
【釜神様】:釜神・釜男という土製、木製の異様な面を土間の釜柱にかけているのが旧家に見受けられる。釜神のない家でも釜神の棚を作り、注連縄を飾り、幣束を立てたりお札をたてる風はどこでも見受けられる。火は生活上欠くことのできないものであり、火を粗末にして、火災にあわないよう火をあがめ祀ったのであろう。福が授かった女房を追い出したため零落した男が、その後富裕になった女の家の釜たき男になりさがって死んだのを祀ったという由来もある。家の繁栄のもとが火であるとして信仰し、いかめしい顔でこの家に悪魔悪病がはいりこまないよう睨んでいるのだともいい、正月には注連縄を張り、神符や幣をささげる。



宮崎町 (宮崎町史より)
【竈の神様】:最近建てられた家は勿論、住まいの改善、燃料の革新から囲炉裏と竈が姿を消して来た。しかし旧家には台所の竈場の上、もしくはその近くの柱、大黒柱の上の方に竈の神と称する木の面が掲げられている。やさしい面もたまにはあるが、いかめしい面相のものが一般的である。これは火熱に対する恐怖又は災禍を除ける神としてふさわしい形相というところから出たものと思われる(竈男またはヒョットコ「火男」といわれるのはこれに関わる)。爾来人間が火に対する畏敬から信仰に発展し、火を祀ることになったものであろう。火は照明に採暖に人間生活上必要欠くことの出来ないものであるが、特に炊事は重要であるから、カマド又はクドと称する所にこの神の面を飾って崇拝し同時に火の用心の鑑ともしたと思われる。



矢本町 (矢本町史より)
【竈神(釜神)】:カマドとは要約的にいえばお釜を掛けるところということで、屋内の土間の炉で火を炊く場所に祀られる神、本来光熱を司る神火そのものを神聖化したもの、古事記にある大年神の子→奥津日子神 奥津比売命(大戸比売神)が祭神「諸人のもちいつく竈神や」関西以西では「荒神」近畿中国地方は「土公神」関東の「オカマサマ」は炉辺に祀られ、宮城県では「釜神様」として炉や釜の上に恐ろしい顔をした女が目を爛々と輝かせていた面が各戸にあったが、住宅の改造電気ガスの普及や新築で現在残っているのは甚だ少ない。



陸前高田市 (陸前高田市史より)
【いろり・かまど】:囲炉裏は炊事及び防寒用のための炉である。大きさは三尺四方のものが多いが、かつては四尺から六尺大のものも少なくなかった。屋外で農作業をしたあと、土足のままで炉の中に入り、暖を取ったり食事をしたりすることの出来る炉を「フンゴミ炉(踏込炉)」と称しているが、これは台所に大きく作られる。台所に作られるのが普通であるが、中の間、オカミなどにも設ける。これは台所のものと違って一般に小型のものが多い。台所以外の炉は、防寒用または養蚕などのため乾燥用であって、炊事用としないのが普通である。いずれの炉も、人の屋内生活の中心となっていることは明らかで、そのためにいろいろな作法や禁忌が伴うことはよく知られているところである。炊事を専らとする「カマド」は釜所、すなわち、釜で食物を煮る所の意味が物名化したものである。これはもと釜台として、火の調節用として置いた数個の石が、しだいに工夫され発達して今日のものになったものと考えられる。要するに家の火所、つまり「ヒドコ」の一つで、地方によっては「クド」と称する所もある。カマドは土で築いたクドだという所もあるが、土竈が築かれる以前は炉とカマドは一致していたものとみられるのである。
さて「イロリ」の語源はまだ明らかでない。「イルリ」「ユルイ」などの表し方も全国的に広く行われており、炉の中央を「カマド」と称している地方もある。九州では炉を「イジロ」、すなわち「居る区画−場所」と称しているという。したがって、イロリ・イルリも家の中心の居場所を示す言葉であることは、ほぼ間違いないと思われる。

【いろり:配置と座】:当地方の「イロリ」は通常、台所と「オカミ」の二つがある。台所の炉は一般に大型で、一間半に幅三尺くらいの長方形で、古風なイロリには長さが二間以上のものもある。そして土足のまま入れる踏込炉が多かった。これに対して「オカミ」の炉は一般的には小型のものが多い。そして畳を敷くようになってからは、炉縁だけの浅い炉が大部分になる。当地方の炉の配置・座席は家に向かって右方に裏口がある場合は、裏口の土間から見て炉の奥正面の座席が「横座」、あるいは上座と称して家長専門の座席である。ここには一家の主人、もしくは「跡取り息子」でなければ座ることはできないものとされた。寄合いがあって大人数が炉端に集まり、そのため他人が横座近くに座らねばならないとき、家人が「気にせず、どうぞ座って下さい」とすすめても「どうも横座に座って…これでは米を買わねばなりませんな…という類のあいさつをするのが儀礼であった。横座から見て左の方の席を「女ご座」「カカ座」などと称するのが普通であるが、ここ(広田)では「嫁座」と称している。この家では主婦はいるが、新しい嫁がまだいないので、主婦の座をあえてヨメ座と称したものであろう。このカカ座の後方に、家人一同の飲食をする場所かあり、台所の「流し」なども近くにあるのが普通である。「カカ座」の向かい側、すなわち横座の右方にある席が「客座」である。「向こう座」と称する家もあった。文字通り来客用の座であり、客のいない場合は長男、または婿などの座となる。次・三男なども、この客座の下手に座り、女たちは、カカ座の下手に座るのが例であった。横座の向かい側、土間に添った側の席が「木尻」「木ノ尻」と称して下男・下女などの席とされるが、ここには多くは座るほどの席もないのが普通である。「嫁は木尻からとれ」という言い習わしが伝えられているが、かつては「カカ座」近くの木尻が「ヨメ座」であったと言う古老もいる。薪炭をくべる座で、床から一段と低く作られていたともいう。このような座席の割り振りは、家長を中心とした家族制による秩序を示すものであるが、客座については注意すべきものがある。それは、客人は主人の上位に招くのがわが国の古来の作法であったにもかかわらず、台所の囲炉裏の場合は、主人は決して横座を客にゆずらないことである。その理由として「民家がもとは台所を中心として、それに若干の臥所を加えたものであり、客人のある場合は、別に仮 屋を建て招じたのが後世常用の客室をも添加した今日の建築に発達したためである」(『民俗学辞典』東京堂刊)としている。つまり炉端の座席は古い時代の主人・客人の区別を残しているものであり、かつ、これによって炉が住居の中心であったことがわかるというのである。

【燃料・発火】:囲炉裏に燃やす薪は松木・松葉・柴本・粟割木・カタキ・雑木で、これは五尺×六尺に積み重ねたものを一棚と称する単位とする。炉で燃やしてならないものとしては縄類・青木・梅の木・サゴミ・クズ・蔓物がある。発火は、かつては火打ち石を使用した。常々箱の中に「ヤキリ」と「火釜(打金)」を入れて備えておき、これを炉垣(炉の内部)に引き出しを作って入れておいた。「ヤキリ」とは、柳の木の腐ったものを焼いて作ったもので、着火が良好であった。ほかに「クマノフクジ(サルノコシカケ)」と称するキノコの一種を、「ヒワタ(檜綿)」のように砕いて、これに着火させたという。多くは漁人が船上で使用したものという。発火用具はその後、付け木、マッチが出現し、たきつけとしてはガマの穂、杉の葉(シンパ)が長い間使われた。なお、台所用の照明に、古い時代は丸い石に松の根を細かく割ったものを載せて着火して明かりをとった。次にはロウソクの代わりに米糠と松ヤニを混ぜて練り、糸を芯にして、これを行灯に用いた。次には「デッツ」と称する手ランプが普及、石油の代わりに魚油を使用。それから「掛けランプ」となり、電灯となった。

【炉端の信仰】:イロリの上方には必ず火棚を設けたものである。木で枠を組み、格子にするもので、五、六尺四方のおおむね正方形にする。火棚の上に食糧や穀物、ときには衣服などを置いて乾かしたり、食物などは薫製にしたりする。火桶の真ん中を貫いて自在鈎がつるされる。鈎には釜・鍋など煮物をする容器を火に対して上げたり下げたりする。上げ下げを調節する魚形のものを「コザル」と称しているが、魚の形にするのは、これが火を守る、火事を防ぐものという信仰があるからだという。鈎は、火の神の憑代であって、これに“寄りつかれる”と考えられたのである。後に鉄輪や五徳が使用されるようになっても、鈎は後々まで使われたのは、火の神の憑代だとされたことによるという。火棚には干魚などの保存・薫製などのためにワラ束で作った「べんけい」も吊される。ワラの「ツトコ」のような体裁のものに串ざしの魚などを何本も剌したもので、その形がちょうど弁慶の七ツ道具を思わせるところからつけられた名といわれる。「炉端には必ず神がおられるから、炉の内外は常に清めておくもの」と、古老は言う。子供がどうかして小使を炉端にもらしたりすると、その小使を指で額にこすりつけられ「お不動さま、勘忍してけろ……」とわび言を言わせられる。お不動さまが火の神であるという信仰は、修験道や仏教からきたものであるが、直接的には、かつて庶民生活とかかわりの深かった山伏や六部らの影響によるものと思われる。火そのものの持つ威力は、昔の人にとってはまさに畏怖尊信の対象であった。「火ほどありがたいものはないが、火ほど恐ろしいものもない」というのが、古人の共通の観念であった。そのため、火の神「荒神の信仰」が生まれ、火そのものを神聖視したため、炉端周辺にはさまざまの作法や禁忌(タブー)が生じたものである。ちなみに荒神は「三宝荒神」、すなわちカマド神と解されるが、一族ごとの氏神のような性格を持つ一方、激しい性質の崇りやすい荒ぶる神と観念される神である。

【かまど】:カマドと家:家の火所で「ヒドコ」の一つが、カマドである。ヒドコという場合、 炉を意味する地方とカマド(へっつい)を意味する所があるが、これは明確に地域的に分けることは難しい。当地方では「カマド」、または「クド」といい、「流し場」に近い土間 に火人れ口を裏口に向けて作る。北口に向けて作ると病人や災いが絶えないという。たいていの家では大小の二個を作るが、多人数の家族や使用人のある家では、大釜を一度に三つ四つも据えられる大型のものを備えている。「へっつい」という語は「家の火」という意味で、火はまさしく家の象徴であり中心であった。家族の一員であることは、火の神の承認によって初めて決まったもののようで、そのために他家の火の神は拝むものではないというふうがあったのである。例えば、婚礼の当日、嫁が婚家先に入家するとき、台所の入り口から入り、まず第一にカマドの火の神を拝むという風習がある。これは今でもわずかに残っている習わしであるが、新家族の一員として、この家の火の神の承認を得ることを意味しているのである。また分家などをする場合、今日でも「カマドを建てた」「カマドを持った」などと言うのは、本家の火の神を分けてもらい、新しく祀ったという意でもある。「カマドけぁし」というのは、家をつぶした者との意味であるが、これらのことから、カマドは火所のある建物たる「イエ」そのものを指す語であったことがわかるのである。屋移りのとき、まず初めに火の神(カマドの灰)を先頭にして移るふうがあり、分家するときも本家のカマドの灰を分けて貰う習わしもある。これらはいずれも、カマド―火の神―家といった関連を物語るものである。

【カマド神】:カマド神は、火をたく場所に祀る火の神である。カマド神様を祀るとして、カマド近くに神棚を設けたり、そこに神符や幣束をおさめたりするのが、最も一般的な形となっている。現在でも氷上神社その他の火伏せのお札が配られ、これをカマド近くの柱にはって拝し、鎮火を願うふうがある。しかし、これよりも古いとみられるのは、カマドの神の面を、カマドの上部や傍らの柱に掛けて祀る風習である。その面は木製のものが多く「カマオトコ」とも呼ばれ、大変みにくい恐ろしい顔をしたものである。まれに紙におした絵像であったり、コブのある自然木の株を利用したりするものもある。カマ仏・火男というが、「ヒョットコ」はヒオトコで、火を起こしている顔つきが、その顔にされているのである。カマド神の目は金物で作り、馬の毛を配し、モの上に竈注連を張っているが、このような面を「カマジン」と呼んでいる。この神のお祭りは家々で別々に行われ、祭日もまちまちであるが、昔は旧正月の十五日、ヒナの節句の三月に行い、お神酒や供え餅をあげたが、いまは毎月の一日、十五日、二十八日に米飯を供えて拝むという。カマド神については、いろいろな言い伝えがある。その家に子供が生まれると、この神の前に座って無事成長を祈る。また子供が水泳ぎに出かけるときは、カマドのすすを顔に塗って行けばカッパにもさらわれず、水難事故も起きない。家の主人が亡くなれば、カマドの灰を新しく替えるという風習。またこの神は農事の初期と終わりに、里と山との間を往来するという。これなどは、明らかに生産の神でもある農神とも関連してくることになる。
 市内米崎町には次のような言い伝えがある。.....昔、ある旧家に乞食が泊まったが、文句ばかり言い、たいへん横暴なことばかりする。そのうえ大食いで、しかも所かまわず排便をして歩くので、家人一同大いに困惑した。そのうち乞食は、黙ってどこかへ立ち去ってしまう。「なんと礼儀も知らぬ。無礼な乞食だ」と、皆で言い合っていると、下女の一人が悲鳴をあげている。なにごとかと一同、そこへ行ってみると、その家の大きなカマドの前に、ひときわ大量の排便がノッコリとされていたのである。ところが、その大便はよく見ると、ほんとうの黄金になっていた。そこで、その家の主人は、その乞食の人相をかたどって面を作り、神としてあがめることとした。その家はいよいよ繁盛し、大金持ちになったという。これがカマド神の由来だというのである。ちなみに、柳田国男の『雪国の春』には、次のような伝説が記されている。
 山へ柴刈りに出かけた爺様は、ヒョンなことが縁で美しい女の人から、ヘソばかりいじっている醜い男の子をあずけられた。その子は、あまりヘソばかりいじくっているので、爺様が火箸でチョイと突っついてみると、そこからプツリと金の小粒が出た……おかげて爺様の家は、たいへん裕福になった。ところが、その家の婆さまは欲張りで、爺様のいない留守に、子どものヘソをグイグイ突っついて、金をいっぱい出そうとしたところ、金が出ないばかりか、あんまり強く突いたのでその子は死んでしまった。爺様が帰って来てこれを知り、大いに悲しんでいると、夢に子どもがあらわれ、「泣くな泣くな爺様、おれの顔に似た面を毎日見えるところに掛けておけば、この家はきっと栄える……」という。子どもの名前は「ヒョウトク」といったが、爺様はさっそくそのとおりにし、「ヒョウトクの面」をカマド近くに掛けた。そこでこの辺りの村では、醜い面を作って祀っているのだという。(以上要旨)
 このような伝承の示すところは、カマド神は火の神であり、作神でもあるが、福を家にもたらす神としてあがめられる家の基本的な守り神であったということであろう。カマド神として、面を飾り祀っている家が米崎町にたくさんあるが、特別に何も飾らずとも、カマドそのものを神聖視する風潮は、今でもいろいろな形で残っているのである。

【火留】:火の神様は荒神で粗末にすると、さまざまの罰を下すという。そしてこの神は実は女の神様だともいう。作物をはじめ、一家一身の安全を守る神であるとされる。正月に炉やカマドに注連縄を飾るのは、明らかに神の存在を意味する行為であるが、カマド神は家のシンボルとしての性質を持つものとも言えるのである。カマドの火は朝、主婦か嫁が燃やす。前夜の残り火を使って火を起こすのであるが、火種がなくなって隣家にもらい火に行くことは恥とされたのである。農家でも漁家でも火生木を毎夜灰の中に埋めて火種を絶やさぬよう努めたのであった。薪火の炭化した残り火(「おぎり」という)に灰をていねいにかけて、その上に釜などを載せ、決して消えぬようにする。こうして年中、家によっては何十年も火種を絶やさぬよう保持していた家もあったのである。もっとも年中に不浄なこと(家人の死など)があれば、灰とともに火種を新たにするというのが普通であった。また年越しの日には、新たな火種を起こすという家もある。そして、平素も炉やカマドには不浄だとされる樹木や縄、便所で使用した古材などは決して焚ものとはされなかった。これらはひたすらに火の神様を守り、災いを避けようとする信仰からきた「タブー(禁忌)」だったのである。

【カマ神さま】:家の炉やかまどに祀られている竈神は全国でみられるが、炉やかまどの近くに大きな面を掲げて「カマガミ」としている風習は旧仙台藩領に限られ、なかでも仙北地方から岩手県南地方には濃密に分布している。面の特徴は目鼻や口が強調されている点で、土製の場合には杯の糸じりや鮑貝が利用されている。カマ神という呼称が一般的であるが、地域によっては「カマオトコ」「ヒオトコ」などと呼ばれている。カマ神は、母屋を新築した際に、大工や左官によって作られる。カマ神を祀る理由についてはさまざまな伝承があるが、市内には四軒に残されており、旧仙台藩領内の沿岸地方におけるカマ神の北限であるとみられる。
 【米崎町のカマ神】:大佐野は梨野の別家で、同家の先祖に大工をした人がおり、同じ木から二面のカマ神を彫り、本家、分家で祀ってきた。カマ神の祭日は特に定まっておらず、正月に注連縄を飾って幣束をあげて拝み、正月が終わるとこれらを下ろす。カマ神の面は戸口に向けて掲げておく。
【竹駒町のカマ神】:壷の菅野家では、かつては土間の大黒柱にカマ神を掲げていた。火傷にならないように祀るものだといわれ、祭日は特に定まっておらず、大みそかの晩にお供え餅をあげる。この餅は正月が終わると下げてとっておき、ハガタメ餅として食べた。
【気仙町のカマ神】:荒川の菅野家では、神棚にカマ神の面を祀っている。以前は、土間のかまど近くに掲げられていたといわれる。



東和町 (東和町史より)
【釜神(カマド神)】:わが国のカマド神は、奥津日子、奥津日売の二神で、太歳神の子と称せられる(古事記)。そしてこの二神に土祖即ち埴安姫神を加えた三座を大和の三笠山に祀り、これを荒神と称した(神社啓蒙)。それが三宝荒神とも称せられることもある。カマド神は、全国的に家の神、火の神として祀られている。特に岩手県下ではこのカマド神の面を釜神さまと呼ぶところがある。この地方の館迫部落にも、この“釜神さま”の面を祀っている所があり、非常に恐ろしい形相をしている。この“釜神さま″は面だけを木製にし、平素はよくカマドの上か側の柱などにかけられているため真黒に煤けている。いずれヒドコや釜をかけるところ、火を扱うところに吊して火を守って貰うために祀っているものであろう。岩手県下には、このカマドの神の面を、カジンと呼ぶところがある。この面は木製であるが目は金物、毛は馬の毛などを用い、その上に竈注連を張っている。しかし格別の祭は行わなくなっている。またカマド近くの柱に、ただカマジメとよぶ注連を張るだけの祭り方もあるようだ。或は何も特別なしるしは設けないが、カマドそのものは火を取扱うところとして神聖視する風もある。
 東北地方に来るとヒヨットコ(火男)と呼ばれる面がある。どこの家でも祭られているわけではないが、遠野の佐々木喜善の書いた「江刺郡昔話」という本に、そのヒヨットコの始原について次のような民話を伝えている。一寸面白いので引用してみよう。

【ひょっとこの始まり】ある所に爺と婆があった。爺は山に柴刈りに行って大きな穴を一つ見付けた。こんな穴には悪い者が住むものだ。塞いでしまった方がよいと思って柴を一束その穴の口に押し込んだ。そうすると柴はその穴の栓にはならずに、するすると穴の中に入って行った。また一束押込んだがそれもその通りで、それからもう一束、もう一束と思ううちに三月が程の間に刈り集めた柴を悉くその穴に入れてしまった。その時、穴の中から美しい女が出て来て、沢山の柴を貰った礼を言い、一度穴の中に来てくれという。あまり勧められるので爺がついて行って見ると、中には目のさめるような立派な家があり、その側には爺が三月もかかって刈った柴がちゃんと積重ねてあった。美しい女に此方に入れと言われて、爺が家の中について入って見ると立派な座敷があり、そこには白髪の翁が居て、此所でも柴の礼を言われた。そして種々と御馳走になって帰る時、これをしるしにやるから連れて行けと言われたのが童(ワラシ)であった。そのワラシは何んとも云えぬ見っともない顔の、臍(ヘソ)ばかりいじくっている子で、爺も呆れたが是非呉れると言われるのでとうとう連れて帰って家に置いた。そのワラシは、爺の家に来ても、あまり臍ばかりいじくっているので、爺は或る日火箸で突いて見ると、その臍からぷつりと金の小粒が出た。それからは一日に三度ずつ出て爺の家は忽ち富貴長者となった。ところが婆は欲張り女で、もっと多く金を出したいと思って、爺の留守に火箸をもってワラシの臍をぐんと突いた。すると金は出ないでワラシは死んでしまった。爺は外から戻ってこれを悲しんでいると夢にワラシが出て来て“泣くな爺さま、俺の顔に似た面を作って毎日よく眼につく所のカマドの前の柱にかけて置け。そうすれば家が富み栄えると教えてくれた。そのワラシの名をヒョウトクといった。それ故にこの土地の村々では今日まで醜いヒョウトクの面を木や粘土で作って、竈前の釜男(カマオトコ)という柱にかけておく。所によってはまたこれを火男ヒオトコともカマド仏とも呼んでいる。



水沢市 (水沢市史より)
【目に見えない魔】:人の目に見えない魔はいまどこにいるのか分らないだけに油断ができない。ニワの柱にカマガミの面(木彫または塑造)を入口に向けて取付けるのは、カマガミの威嚇的な睨みによって魔の侵入を防ぐためである。福原前谷地の素晴しい土製カマガミは、家の改築と共にどこかに仕舞いこまれてしまった。小山村(現胆沢町)の一農家のものは、疾うに失われたが、柱に繩を巻き、それに練り土をくっつけて作り、目に鮑貝を嵌めたもので、家人はカマオトコとよび、魔除けだと言っていた。鮑貝を嵌めたのは両眼の睨みの効果を高めるためであった。カマガミは戸外の魔には怖ろしくても、人には醜男に見えたので、汚いツラをしていると「カマオトコのようにけつがる」といわれた。
水沢市内では表小路の元坂野歯科医院の台所の柱に土製のカマガミが掲げてある。目は鮑貝の内面を出して嵌入しているので、煤けた顔に両眼だけが青く光っている。この目で家の主人が睨まれてはよくないので、目が床の間の方に向く位置には取付けない。福原のものは馬の藁靴を頭から振分けに垂らしていた。これは飼馬を護ってもらうためのもので、毎年二月二十八日に取換えることにしていた。

【かまど神】:かまど(釜処の意)は物を煮焼する設備で、所によってはくど、へっついなどともいう。炉の近くの土間におかれる土かまどが普通であるが、板間の足付き台の上に築かれたものもある。このへっついは明治中頃流行したもので当時の文化生活をものがたっている。土間の方には飯をたくかまどの外に雑水釜をおく。稲の単作地帯の水沢地方には、大正答とか、糠釜とかいう鋳物製のものが一時普及した。旧仙台領内ではかまどの近くの丑特柱や奥の壁にかま神・かまど神をまつっている。この神は三宝荒神ともいい、もとは炉の神であった。異形のかまど神の面をかまど附近に飾り、〆繩を張ったり幣束をさしたりする。幣束は一年に一度年越の夜飾るもので百本以上にもなる家があり、ふえるほど家計豊かで火事にならないなどという。この神は常住して家を護るので他の神とは区別して〆繩は外さない。
 かまど神の面はかまど男ともいい、眼を大きく開き歯をむき出した男の顔や、素朴な顔を木に彫ったものや粘土でつくり鮑貝を目に嵌めたものなどがある。かまど神の面がない家でもかまどの中や丑持性にかまど神がかくれていると信じられている。正月の外に毎月一日、十五日にまつる家もある。市内には黒石、羽田の河東方面に多く、水沢町内では福原佐藤家、表小路坂野家に古い型のものがある。坂野家では黒く煤けた顔に鮑貝の眼が青く光り、主人の顔をにらむので床の間の方に向けないという。
 かまど神の由来については、火の用心のため家を建てた人の顔に似せてつくるとか、かまどを築いた人がその腕を見せるためにつくるとか、いろいろの説がある。佐倉河八幡にはかまど神社があり古くからの信仰が知られる。



金ケ崎町 (金ケ崎町史C民俗、金ヶ崎の民間信仰より)
【家の神】:家に代々伝わり、その家を守り、また、家の繁栄や家族の安寧を祈願する対象を家の神とする。

【カマ面】:「カマ神様」あるいは「かまど神」とも呼ばれる。岩手県南から宮城県北に分布する神で、木または土でできている。その家を建てた大工、または左宮がつくったともいわれるが、定かでない。ただ、その表情は千差万別で、あるいは鬼のような顔、あるいは大黒様のような顔、またあるいはヒョットコのような顔と、一様ではない。したがって、専門のカマ神職人がいたのではなく、その都度、技術や風土に合わせ、職人や当主、あるいは本家筋などがつくった物ではないかと推測される。「かまど」の名でも呼ばれるように、一般的には火を守る神と言われるが、「かまど」は家をも表すので、むしろ家全体を鎖る神と考えた方が妥当だろう。
 このカマ面がいつの時代からあるかは定かではないが、菅江真澄(一七五四〜一八二九)の紀行文『続・はしわの若草』では、天明六年(一七八六)九月、宮城県河南町の曽波神で、此のあたりのいえ、かまどの柱に、土をつかねて眼には貝をこみて、いかる人のつらを作りたり。これを『かまおとこ』といひて『耳のみこのふるごとありと』てひつとう。その時代には相当普及していたと思われる。金ケ崎町には、現在、三面が確認されている。

【石母田家】:石母田家のものは「カマメン・カマ神様・かまどの神様」などと呼ばれ、木製である。その面相は忿怒相(氏は侍のようだと見てきた)で大きさは小さめ(19p×12.2p)である。ススで真っ黒になっている。製作年代ははっきりしていないが、石母田家が分家になった時(約百六十年前)、といわれ、その時の大工が作ったと伝えられる。現在も火を使用するところに祀られているが、茅葺き屋根の家の時は土間のヨメゴカクシと呼ばれる柱に入り口(南)を向くように祀られていた。火難除け、へっつい守りの神であり、正月に餅を上げて拝む。また、餅をついたときは必ず供える。石母田家は宮城県からこの地に来て落ち着いたので、宮城の風習に倣ったのだと間いたことがある(氏談)。
【小沢家】:小沢家の物は「カマメン」と呼ばれ、木製である。面相は忿怒相であり、面としてはやや大きい。(30.5p×31.5p)。製作年代は分からないが、作者は先祖様の一人で、大正の初め頃に亡くなった人であると間いている。目に銅板を張り、まゆ、あごに馬(?)の毛を植え込んでいる。昭和五十一年頃に塗り直しをして、黒地に目・鼻穴・眉間に朱を入れたが、以前は真っ黒であったといわれる。現在は台所の入り口に掛けているが、昔は(茅葺き屋根の家)カマ柱(ヨメゴカクシ柱)の南面(入り口向き)に掛けていた。先祖様の中に器用な人がいて、このような面を教個つくり、親戚などに配ったと聞いている(氏談)。
【金ケ崎町教育委員会蔵】:この面は、金ケ崎町西根千貫石の高橋家のものであった。高橋家では「魔除け」と呼んでいた。その面相はへの字に結んだ□、つり上がった目から忿怒相であろう。大きさは22p×16.2pである。製作年代、制作者ともに不明。ヨメゴ柱の南面(入り口)を見るように掛けられていた。魔除け、火難除け、火の神様として拝んでいたという。正月に餅をあげた。馬のワラジも一緒にあったといわれる。
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住田町 (住田町史より)
【かまど】:「カマド」あるいは「クドという」。家の火所の一つで炉を意味する所と竈・ヘッツイのことをいう所とがある。当地方はおおむね後者を指す。カマドは釜を掛ける所という意である。当地方ではカマドは台所の土間の一隅に造られる。炉の火所では飯を焚き、カマドでは大きな釜を掛けるものと割り切っている家もあれば、多人数の共同食用の煮炊きはすべてカマドで行うという所もある。いずれカマドは家の中心をなすものであり、それは「火の神」の信仰を端的に示すものでもあった。「カマドを持つ」あるいは「カマドを立てる」という語はいまでもよく使われるが、それはそのまま「家を持つ」「家を建てる」という意味である。当地方で「カマドけぁし」「カマけぁし」などということをよく耳にするが、それは「家をつぶす」「破産する」ということにほかならない意味である。「カマドを分ける」は、分家を出すということであるが、分家を出すときは、本家から火の神の灰(カマドの灰)を分けてもらい、新しい分家のカマドに入れて、火の神を祀ったのであった。つまり、カマドの火は家の火であり、家の火は「家の神」と考えられたのである。そこで、カマドの付近には神棚を設け、神符や幣束を納めて祀るふうがあまねく普及していたのである。
気仙地方には「カマオトコ」(またはカマジン)と称して木製の大きな面を作ってカマドの上あるいは近くの柱に掛けるふうがあり、いまでも旧家などでこれを見ることができる。カマド神だと称しているが、これは火の神信仰の古い形態であったのである。この「カマオトコ」は、コブのある自然木を用いたものなどがあり、「カマボトケ」「火男(ひおとこ)」などと呼ばれた。俗にいう「ヒョットコ」は「ヒオトコ」のことで、男が「火吹き竹」で火を起している顔つきがそれだという。「カマジン」ともいわれ、大変恐ろしい顔をしているのが、「カマド神」であった。もっとも家によっては面や護符などを飾らずに注連縄だけを張り、カマド付近は「聖域」であることのみを示している所もある。なお婚礼の際花嫁が婚家に初めて入るとき、台所から入家し、その折カマドに一礼したあと座敷などに上がるという習わしがあったが、これはその家のカマド神(火の神)に家族の一員となることを告げる大事な儀礼であったのである。



東山町 (東山町史より)
【かま神信仰】:昔からのたたずまいの大きな家に入ると、かまどの上やうしもち柱に黒々とした「面」がかけられている。これが「かま神さま」である。かま神さまの分布は、宮城県北から岩手県南に限られているという。どうしてこの地方にだけ限られて残っているものかは明らかでない。宮城県北から岩手県南といえば葛西氏、大崎氏を思い浮かべるが、その関連は分からない。かま神の発生と分布についてある人は、塩釜神社信仰であるという。新しく家を建てた時、坐土に使った残土に塩を加えてひび割れを防ぎ、それで神面を作って祀ったものであろうと言う。かまど神信仰の歴史は古く、歴史書にも見えており、火の神であり大膳職に坐す神であるという。「かま」「かまど」は表裏をなすものであるから信仰の面では同一であっても良いのではないかと言う人もある。
かま神は一般的には火難・悪魔よけを目的として祀られているが、それが次第に家内円満・お家繁昌も祈られるようになったのであろう。
 町内のかま神は、土製・木製・素焼製とあるが、木彫りがもっとも多く、土製がこれに次ぐ。素焼は特異のものである。面相は鬼面相・醜男相・人面相・福神相・明王相、天狗相・虎面相などさまざまで、神楽の名手、佐藤金治郎の作ったものなどもある。当町は東山和紙の産地で、和紙製造には火を用いることが多かったので、かま神は多く祀られたのではないかと言われている。製作年代は土製のものが古く、木製のものは江戸末期以降のものが多いとされている。



藤沢町 (藤沢のかま神さまとおしらさまより)
昭和38年、文部省文化財保護委員会が、岩手県を民俗資料緊急調査の指定県とし、県としては三十地区にわけて調査をした。その内に藤沢町大籠地区も選ばれた。調査項目の中に「かまど・いろり」というのがあった。たとえ「かま神」が神面として祀られていなくも、「かま神」は「いろり」の近くに必ずいるものだといって、正月は「かまど」へ丸い重ね餅(お鏡餅)をお供えして祭る。「ろ」を不浄にすると神さまの怒りにふれ、家族に病人がでるとか、火事がおきるという。神を迎えているという意味で紙の幣を祀っている地方もあり、小さな「へら」を沢山火棚へつるしているところもある。さて、筆者の知見では、神面の「かま神」を祀っている範囲は、北は稗貫郡新堀、東は和賀郡東和町晴山、南は宮城県栗原郡花山から黒川郡宮崎の線と、宮城県桃生郡河北町である。種類は、土面、あるいは木製面など、面相までふくんでさまざまである。はじめて家を建てたとき、残りの壁土へ塩を混ぜて練って造ったなど、火除けとか、塩土翁(塩竃神)の説話に結びついたのが、土面の場合のすべてのようで、これは正に日本の原始信仰に源流があろう。「爐ばた」は、火の神の寝床のことで、目覚めて常に火を見守るところが、「うし柱」である。だから「かま神」を具象化し神面として鎮坐させたのであったろう。それへ外国の民俗文化が入ってきた。一は、中国の五つの祀りの一つの「かまど神」として、火の神の祝融を祀ることが千余年前から日本へ入ってきて生活へ定着した。古い言葉に「祝融に見舞われた」と、火事に遇ったことをいっているが、「火の神に怒られ罰あてられた」という意味である。もう一つは、仏典(お経)に説かれたインドの火難防除の神「大黒天」を祀る生活であった。これは、岩手県地方へ密教(天台・真言・修験)が入ってきてからであろう。それにしても「かま神」が、東磐井郡に濃厚に現存しているのはなぜであろうか。新建材による家屋改造ブームのこのごろ、民俗文化財が急に跡形もなく失なわれつつある。このとき、藤沢町教育委員会が「かま神」を調査し、まとめて報告書としたことは貴重な事業であった。さらに「おしらさま」も調査し、採集聴書へ写真を添えられた。筆者はかつて、二戸市、川井村、住田町、遠野市、陸前高田市、江刺市、水沢市、北上市の「おしらさま」を調査し県へ報告したことがある。水沢市史へは執筆した。民俗文化財として、調査と考察に興味がある。祭り日、安置 場所、祭司者、唱え方、遊ばせ方、おせんたく、性格、禁忌、紀年銘、神体の材質、面相、伝承、いたことのつながり、子供とのつながり、布の数、布の図柄、織、色など貴重なものが発見される。最初の布は、布でなく植物の「ぜんまい」の綿、あるいは紙子のもある。住田町世田米には天文五年銘の「おしらほとけ」で「阿弥陀如来坐像」であった。川井村の「おしらさま」は天正二年、陸前高田市地方には天正、慶長銘が多い。神体には桑木、山竹、包頭、貫頭、烏帽子、馬頭などから臥牛まである。淵源は、中国の蜀時代の『図経』の「蚕馬記・神女伝」にある馬娘婚姻譚である、と、江戸時代の学者林羅山が紹介している。藤沢町での聴書や考察からの採取は、どうであったろうか。
昭和五十五年三月 岩手県文化財保護審議委員・東北民俗の会会員 司東真雄

長い本町歴史の中で培われた藤沢町の文化遺産を調査し、これの保存と、より正しい伝承をするため、御努力をいただいております文化財調査委員会委員の方々の調査、研究の成果を記した調査記録も今回で第九編を見るわけでございます。今回集録されました「オシラ様」「釜神様」は当地域のみならず、農山村に広く伝わる生活の中に根ざした信仰の偶像であります。同時に生活と共に育った芸術とも思われます。今日特に精神生活の不安定さが多くの問題となっている時、故郷の伝承文化を静かに振り返る機会でありたいと思います。更には、郷土藤沢町に伝わる貴重な文化財を正しく理解伝承し、文化財愛護の運動が一層広がることを願うものであります。 最後に、調査記録の刊行に至るまでの文化財調査委員各位の御研讃、御努力に心から感謝の意を捧げる次第でございます。
昭和五十五年三月 藤沢町教育委員会教育長 渡邊直記

文化財調査委員会発足以来、調査記録は今回で第九回を見た。この間調査委員の方には逝去された方、老令で退かれた方、新しく委員になられた方々等あり、調査の内には二、三年越のものもあったが、今回の調査は近年経済の高度成長と時代の変遷に伴い家庭生活の様相が変り、昔から郷土に伝わって来た信仰生活もいつしか忘れがちになって来たので、昭和四十三年度の保護調査をオシラ様と釜神様を対象とした。調査に当っては、藤沢、黄海、八沢、大津保の地区に担当委員を当て、予備調査の上各戸を訪問、写真に納め、伝承を交え整理したが、既に家屋の改築、改修により壊された物、又納められたものもあったが、オシラ様11ケ、釜神様111ケあったのは時宜を得たものであったと思考して居る。調査中感じた事は釜神様では材料が壁土、粘土、焼き物に類した物、木で造ったもの等あり、面相は人の似顔、仁王、大国様の三様であり、古いと思われるものは壁土で作ったものの様である。又口や目、耳に入れた物にはまぐり、あわび員、竹、ガラス類があった。オシラ様は数が少なかったが相当年代ものがあり、その中には年号が記入されて居るのもあり珍らしかった。この調査の万全を期するため、昨秋の文化財展に展示し町民の方に啓蒙したが、若し調査に流れた向は町教委に連絡の上追加整理して行きたい。最後に、この調査に当った各委員の労を多とすると共に日曜返上写真をとり車を提供した町教委の職員の方、それに所侍者の方々の御協力に対し感謝を申し上げる。
昭和五十五年三月  藤沢町文化財調査委員会委員長 伊藤正雄



大東町 (大東町のかま神―火を守る神々の表情より)
【台所、ニワのある暮らし】:戸の口(入口)の大きい戸をあけると広い土間と右か左の片側にあまり広くないイタバ(床)があります。土間はニワ(庭)で、稲こき、スルスビキ(摺臼挽)、たばこ挟み、藁細工等農作業の場所であり、摺臼、臼、杵、鍬、むしろ等農具置場でもあります。奥の方の薄暗い所にウシモチ柱、(大黒柱という家も)が石の上に建てられてあり、更に奥の方にカマ柱と呼ぶ柱のある家もあり、このどちらかの柱にかま神様又はかま別当と呼ばれる神様が祀られ、そのあたりには大きい竃が2つ3つぐらいつくられてあって、平釜や鍔釜が仕掛けられ、牛馬の飼料や味噌づくりの豆を煮たり、湯を沸かしたりします。片側の床は奥に続き広くなった所には炉が切られてあります。ここが台所(庭まで含めるところも)で、炊事の場であり、食事の場であり、家族団欒の場、そして接客の場でもあります。子供達は母親の炊事を手伝いながら台所の仕事を覚え、来客があればおじぎの仕方や他家を訪問した時の作法、客のもてなし方を覚えます。夜ともなれば、祖母は眼鏡をかけての縫い物、母はカテ切りや麦つぶし、父は藁仕事、そして子供達は机や箱を持ち出して勉強したり、祖父から昔噺を聞いたりしながら夜を過ごします。これが大正時代頃まで、或いは昭和初期頃まで大方の農家の台所の生活で、ウシモチ柱のかま神様は、こうした家族をほほえましく見守って居られたことでしょう。

【かま神様とは】:私共の家では昔からニワの柱に祀られてあったようなかま神様は、日本全国何処にもあるということではなく、今までの調査では大体岩手県南から宮城県北の地方、いわば昔の伊達藩領に限られるとのことのようです。こうしたことはどんなわけか、宗教的な、或いは政治的な何かがあるのかはまだはっきりしたことはわからないようです。竃は、家族を養う、命にかかわる食物を煮炊するところで、家族の最も大事な所として、例えば家を建立することを『かまどを立てる』、分家することを『かまどを分ける』、財産をなくした人を『かまどけぁし』という地方があり、梨やりんごにとって一番大切な種子のあるところを『かまど』と言うのもうなずけます。この大事な竃を守って下さる神様がかま神様で、火を護り、火難、盗難、悪疫よけ、また魔よけの神様、そして福を呼び、家の繁栄を招く神様、即ち家全体を護って下さる神様として祀られてあるのです。したがって、あらゆる神様が出雲に集まるという神無月(陰暦十月)にもかま神様だけは残って家を護り続けて下さる(金野静一著『岩手の民族散歩』)と言います。そのためか注連縄を年々おろさないで次の屋根葺までそのまま上げておく家もあり、大東町内にもお正月に上げたお神酒やお供え餅を1年中おろさないで上げておくところもあります。子供が初めて他所へ出かける時に鍋や釜の煤、あるいは墨(煤の代用)を少し額につけたりして、迷子にならないように、災に遭わないようにと願うことは大東町内でも行われましたが、これはかま神様のご加護をお願いするおまじないであったと思われます。ある地方では、顔に煤をつけて水泳に行くと溺れないし、カッパにも引込まれないとしているそうです。婚礼や披露を家々で行なっていた頃は、嫁は婚家の台所から入るものとされていたのは封建時代の家族関係の考え方もさることながら、嫁は台所を預り、竃を使う人であるから先ずかま神様を拝み『どうぞよろしく』とお願いするという意味であるものと思われます。

【呼び方】:かま神様の呼び名は色々あるようですが大東町内では『カマガミサマ』『カマベットウ』(又はカマベットウサマ)の二通りのようで、他は『コウジンサマ(荒神様)』と『ハンニヤメン(般若面)』一軒ずつありますが地域性もあるようで、大原と曽慶はカマベットウ、カマベットウサマが多く、摺沢、猿沢のほとんどがカマガミサマのようです。他の地方では色々の呼び名があるようですが岩手県内ではカマガミ、カマベットウ、の他にカマドガミ、カマオトコ、カマダイコク、クドカミ、カマジン、カマメンコ、カマボトケ、カマジンゾウ、カマオヤジ、ヒョットコなど様々あるようです。

【顔かたち】:かま神様の顔は怒った顔、笑った顔、このどちらでもないような顔とあるようです。かま神様は火の神様、火を護る神様として信仰されておりますが、火に関係のある神様といえば三宝荒神即ち荒神様があります。荒神様は不浄を嫌い、家の中で最も清浄な所とされる竃の中に常時居られるとのことで『日本石仏事典』(庚申懇話会編)には『三宝荒神は一般的に竃の神、そして台所の神として信仰され、江戸時代には民衆の台所に必ずといってよい程祀られていた』とあり、渋民にはかま神様をコウジンサマと呼び、春と秋に生出(東山町)の荒神様のお礼をあげて拝む家、また荒神様の祭日には必ずかま神様を拝む家もあります。このかま神様の像容は三面六臂(顔が三つ、臂が六本)で三面とも忿怒相、即ち怒った顔です。怒った顔のかま神様は荒神様と関係があるのでしょうか。笑顔のかま神様の多くは恵比須、大黒の像容のようで、烏帽子を戴いた恵比須様、頭巾をかぶった大黒様とはっきりわかるものもあります。恵比須様、大黒様は七福神のうちの神々で、恵比須様は豊作や大漁、また商家の信仰も厚い神様であり、大黒様は豊饒、財宝を掌る神様で『護法善神として食堂に祀られていたこともあった。』(前書)とか、このようにこの二神は招福の神としてあやかったものでしょうか。怒った顔、笑った顔のどちらにも当たらないような顔に人面相と思われるものがあります。曽慶には『だんな様の顔に似たように作った』とか摺沢には『自分の顔に似たように作った』というものもあります。なお、神楽面や歌舞伎面のようなものもありますが、これらはどちらかといえば怒った顔のようです。

【祀り方】:現在は古い家を解体して新しい様式に新築したり、改装したりしたところが多くなり、したがってかま神様も炊事室の柱や長押、壁等に、あるいは座敷、神棚に祀り、又は箱に入れてしまったりしていますが、昔からのままの所では、ウシモチ柱、大黒柱、カマ柱等名称は様々ですが、ニワの竃の近いところにある柱、家の構造によっては裏口の近くの柱、梁等に祀られてあります。そして、笑顔のかま神様であればヨコザ(炉の上座)の方に、怒ったような顔のかま神様であれば戸の口の方に向くように祀ることが多かったようです。これは福を招く顔は家族を和ませ、恐い顔は悪いものが家に入らないように、にらんでいるのでしょうか。昔は、毎月1日、15日、28日には氏神様をはじめ家に祀ってある神々様を拝みましたが、今はそういうこともあまりなくなったようです。それでも昔のままのところが10軒程もありました。神々様を拝む時は先ずかま神様を拝んでからという家、荒神様の祭日には必ずかま神様を拝む家もあります。元紙すきをした家では、煮剥ぎの初釜の時は先ずかま神様を拝んでから始めたのことです。神様を拝む時はお神酒やお供え物を上げることもありますが、摺沢には元旦にかま神様に上げたお神酒とお供え餅を1年中おろさないで上げておく家がありますが、かま神様が昼夜、年中家から離れないで護って下さることへの有難い感謝の心のあらわれでしょう。

【製作】:かま神様は家を建てる時に係わった職人さん達が夫々の材料を使って作るものとされていたようですが、その他にその道の職人やその家の先祖の人々が作ったものもありました。たとえば曽慶には近所の法印(修験)さんがお伝いがわりということで、ウシモチ柱の一端を使って彫刻して下さったという家、摺沢には奥玉のその道の職人さんの作と伝えられている家も2、3軒あり、興田には神楽面様のものが幾つもありましたがこれも同類でしょうか。また摺沢には渋民出身で有名な彫刻師法眼芦正太郎(友慶)が5歳(7歳とも)の時に作ったと伝えられているものが2面ありました。渋民には裏の口の脇の壁に縦80糎米、横60糎米一区画いっぱいに作り付けられたかま神様がありますが、これは家を建てた時の左官の作であり、大東町で唯一つの珍しいものです。猿沢、興田には梁や余った材料で大工さんが作ったというもの、左官さんが土蔵の余り土で作ったとか、家の遠い先祖、曽祖父、祖父、父というようにその家の人々の作ったものもあります。材料は前記のように木や土が使われていますが、木はけやき、杉、松等のようで神楽面様のものは全部桐が使われていました。土は壁や竃に使った粘土と思われますが、曽慶には土蔵に塗った漆くい、防空壕を掘った時出てきた粘土を使ったものもあり、コンクリート製や焼物にしたものもありました。作り方については木のものは裏側を平面にしたものとえぐったもの、神楽面のものは目は孔があけられてあります。土製のものは柱等に直接作り付けたものと板に作り付けて固定するようにした物とあり、柱に作り付けたものの中には柱の三方を巻くように作られたものもありました。内部の構造は壊れた物などを見ると、竹釘、藁等を使いそれに粘土を塗って形を整えたもののようで、摺沢には篭に縄を巻いて下地にしたものもありました。また、薄暗い所でも恐ろしい形相が分かるようにするためか目や歯にあわび貝の内側の光るところが見えるようにはめこんだものが相当数あり、また、目に蛤、小貝、卵、陶器等を使ったもの、大原には髭、眉毛、鼻毛を着けて怪しげな形相を思わせるものもあります。使われている材料としての木と土の比較は興田と曽慶は木が、摺沢は土が多く夫々2倍かそれ以上の比率になっていますが、これは特に理由があるのか、偶然か分かりません。なお、大東町全体としては木の方が多く使われています。

【伝説など】:◎山中で爺さんが美しい女からなんともみっともない見苦しい顔の男の子を貰って帰ったが、その子は何時も炉ばたでヘソばかりいじっているので爺いさんがヘソをつついたら黄金が出て来て家が豊になった。爺さんの留守中に欲張り婆さんが火箸で何度もつついて死なせた。家へ帰って来た爺さんはひどく悲しんだ、ある晩死んだ子供が『私に似た面を作り竃の前に掛て置くと身上が良くなる』といわれ、その通りにしたら身上が良くなったと
◎ある家に乞食が来て宿を乞うたので泊めたが何日たっても出て行かない、家族の人達は嫌がったが主人はだまっていた。ある日乞食が竃の後ろに大便をして出て行った。汚いので女中さんが灰をかけて片付けようと行って見たら、大量の黄金であった。主人はありかたいことだとその乞食の顔の面を作って竃の所の柱に祀ったら家が富み、栄えたと。
◎乞食を竃の火炊きに雇ったところその家の娘の病気を治してくれたので、この火炊き男を祀ったのが竃神様である。
◎娘に貰った婿が怠け者だったので家から出したが、乞食になって巡りながら元の婚家を訪れた。娘はその姿をかわいそうに思い火炊ぎ男として家に入れ一生を送らせたが、この男を祀ったのが竃神様である。
◎嫁を貰ったが働きが悪いと追い出した。ところがこの家は間もなく潰れ息子は家を出て乞食となり、方々を歩く内に前に追い出した女の家に行った。女はかわいそうに思い火炊きに雇ったが、その内に竃の前で死んでしまったので、この男を竃神様として祀った。




石巻市 (市報いしのまき8月号文化財たんぼう 石巻市文化財保護委員千葉昌子より)
【釜神と鏝絵】:市内桃生町には「釜神」という土製で憤怒相をした神様が祀られている家があります。今回は、この釜神の製作者阿部浅之助(通称ハダカカベ・1865〜1933)とその作品を紹介します。
「釜神」は旧仙台領に多く見られ、カマド(クドともいう)近くの柱や大黒柱などに祀られ、火防と家内安全を司る大変親しみやすい神様です。江戸時代の学者菅江真澄は、天明6年(1786)9月16日の日記の中で、「…曾波神の御山のかたちは蕎麦の形に似たればしかいふとか。此あたりの家のかまどのはしらに土をつかねて眼には貝をこみていかる人のつらを作りたり。是を「かまおとこ」といひて「耳のみこのふるごとありと」いひつとふ…」と記し、鹿又村に釜神が祀られていたことがわかります。真澄は「かまおとこ」と書いていますので、当時は釜神とはいわなかったのかも知れません。また、「耳のみこのふるごと」とあり、大黒様と同様に台所の神・福の神としても親しまれていたのでしょう。
さて、ハダカカベこと阿部浅之助は、陸前高田竹駒に生まれ、気仙壁(左官)として明治の中ごろに桃生村脇谷に定住し、68年の生涯を終えました。名人級の技を持ちながら自由を愛し酒を愛した裸一貫の人。作風は、独特で真似物でないオリジナル。依頼主に似せたというだけに、一体ごとに異なった味わいがあります。目は盃をふせて塗り込め、白目と黒目を際立たせ、憤怒相の中にユーモラスな温かいものが漂います。アゴヒゲは、白い麻糸(真綿もあり)を縒り合わせたものを何本か長く垂らし、次第に煤で真黒になり焼けこげたりして、面が真黒になる頃にヒゲも短くなるという仕掛けが見えます。次に鏝絵ですが、左官道具の鏝を用いて壁面に漆喰で絵を作るもので、江戸時代、伊豆松崎の入江長八(伊豆長)が名人として今に名を残しています。入江長八の鏝絵は洗練された上品な静けさ。たとえるなら弥生土器の美しさとでもいいましょうか。一方、浅之助の作品は、縄文土器の持つ力強い生命力、現代アートを感じさせます。これらの作品は、今、個々の家で守られています。何しろ材料が土や漆喰ですから。釜神は家の建替や補修で壊れたり、人手に渡ったものもあります。 因みに1994年時の調査では、市内(1市6町)には347体が確認されています。

石巻市(石巻の歴史第3巻民俗・生活編より)
カマド近くの柱や流しのあるカマ柱にカマドの神を祀っている。目はセトモノか鮑貝、面は泥土でつくられてある。お正月の年取りの日に神酒をあげ、火難・悪魔払いのために拝む。田代島仁斗田ではカマドの神は出雲の国に帰らず、年中家にいる神として、年越しの晩に神酒と供え餅をあげ、注連縄(わどし)をはる。

石巻市(石巻文化財たんぼうより)1992
 一昨年の夏、南境に民俗資料の採訪に行きました。
 中斎の日野さんの戸口に立って敷居をまたごうとしたら、薄暗い土間の柱から『こらっ!うぬなさきた。災いを家にもってきたらただでおかないぞ』と言わんばかり、目を爛爛(らんらん)として、睨んでいる黒びかりの土面にあって一瞬足がすくみました。
 これが牡鹿半島から石巻周辺の旧家にあるカマガミサマ・カマノガミ・カマオトコと呼ぶ粘土製や木彫製の竈(かまど)や炉の神様です。左官や大工が新築記念に、あまった壁用粘土で顔を、目や歯は瀬戸物や鮑貝をはめこんで作ったものです。
 日野さんの話によると、カマガミサマは火災・盗難・悪病・悪霊が入らないように防ぐ家を守る神であるらしいということです。
 田代仁斗田の阿部さん宅では火の用心の神として、年取りの晩にワドシ(注連縄・しめなわ)をはり、お神酒・お供え餅をあげて祀りました。一月十四日のお正月様を送る松納めの時には、この神だけは、留守神だからと言ってワドシを村氏神に納めないで、一年中そのまま飾っておきます。
 水沼の高城さとみさんの家では食事神として祀っています。本来、竃は家の火所(クド←ホド・ヘド)で食料を加工し、人間に活力を与える食物を作る場所として欠くことのできない所であり、特に女性にとって火を扱う神聖な場所とされてきました。
【竈神由来譚(かまがみゆらいたん)】
  伝承者  石森きく子さん(明治三十九年生)
 昔、鉄砲ぶつ二人が山さ言ってホウキ(箒)神と山の神を見つけ、出産を予言されました。まもなく二人の妻は、一方は幼いときから竹細工の上手な男の子を他の一人は一日に五俵を摺く働き者の女の子を生みました。やがてその男の子と女の子は夫婦になりましたが、男は家を出払って箕作りに零落し、物ごいして歩く乞食になりさがりました。女のほうは再婚し、福運にめぐまれ、身代も多くなっていました。何年かたって、男は金持ち女(前婦)の家の門口に立って『はらへった、はらへった』と言って物乞いをしました。女は男(前夫)を可哀相に思って焼飯にぎりに銭を入れてくれてやりました。男は門口をでるとすぐ食べたため、銭がのどにふさがり死んでしまいました。女(前婦)はこっそり死体を竈の後ろに埋め、土間の柱に朝晩、男(前夫)を見ることができるカマガミを作ったということです。
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岩出山町(岩出山町史 上)S45
かまど神・かま男
農家の住宅には居間につづいて、台所庭(作業場)があった。台所庭の奥にかまどがとりつけてある。このかまどの後の柱をかまど柱といって、この柱にかまど神を祀っている所が多い。この柱に、恐ろしい釜男の面を飾って、正月にはかまを書いた御札をはり、しめ繩を飾ったりする。釜男については、昔から伝説もあるが省略することにする。火は我我の生活になくてならぬ大切なものであるが、同時にまた恐ろしいものである。一度あやまると火事をおこす。釜男の恐ろしい形相をしているのも、火の恐るべきことを知らせ、火難を免れるための祈りを教えて来たものと思う。



岩出山町(岩出山町史 民俗生活編)2000
◎釜(竃)神様
かまどの背後にある勝膳柱、または釜柱の上の方に、恐ろしい形相をした人の顔面が戸口をにらむように掛けてある。この人面をカマオトコ、あるいはカマガミサマと呼んでいる。木製と土製とがあり、それぞれの家ごとに作られ、独自の大きさ・形相をしている。新築した際に大工や壁屋、あるいは家の人によって作られた。木製の始まりは、太い木のコロ(根元)を切り取って刻み、建築材の太さや大工、左官の腕前を誇示する目的で、作ったものといわれる。目玉としてあわびの貝殻などがはめ込まれたものもあり、目が光り、真っ黒な面は恐ろしさを感じさせる。
「魔除け神」「防火の神」として祀っている。本来の釜神は、奥津彦神と奥津姫神の二神で、カマオトコ近くにお札が祀られている。
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古川市 (古川市史下巻より)
【釜神】:古い民家の台所や釜場の上に、あるいは大黒柱に黒く煤けたいかめしい面相の木彫の面が掛けてあり、注連を張り神符や幣が捧げられているのを見かける。これを普通「カマガミ」または「カマジン」と呼んでいる。この由来については、火は人間生活上必要欠くべからざるものであるが、一旦その扱いをまちがうと一瞬にして家や財産を灰燼に帰せしめるおそろしいものでもある。そこで、火がもっている神秘的な威力を畏怖して火を崇め火を祀る形式が生れたものと考えられ、火の神に対する信仰となり、炉や釜に対する信仰に発展した。老人は今でも、一家を経営することを「カマド持ち」といい、戸数を数えるのに幾カマド(世帯)と呼び、分家することを「カマドを分ける」という。家の繁栄は釜の威力にあり、ここに神の存在を認め、家族繁栄の神として釜神を祀り、専ら釜や炉の清浄を旨としてきた。
さて釜神のご神体であるが、一名魔除けの神ともいわれ、いずれも厳めしい鬼神面で、火勢や悪魔に対する恐怖と崇敬の意がこめられている。毎年正月には神符・幣を捧げ神酒を供える。また家長の死に際しては、炉の灰を新しく取り替えるところもあり、子どもが生れると釜神に無事成長を祈願し、水泳ぎに行くときは釜神の煤を顔に塗って水にはいると河童にさらわれないとか、あるいは、田植が終れば苗を、稲刈が終れば稲束を供えるなど、何につけ釜神を大事に信仰してきた。



古川市(古川市史 別巻平成風土記より)

釜神様など【古川編】
釜神の由来
最も古い記録によると、一七五八年(約二四〇年前)仙台藩時代に起源すると言われている。
初期には、「金」を精製するかまどの前に死人を祭ると良い金が取れると言われ、これが後に、顔をまねて木や粘土で作られるようになり、火の守り神、厄除けの神として土間の柱や壁に祭って信仰する風習になった。
釜神の分布する地域は、ほぼ仙台藩領に相当し、分布数が多いのは、宮城県北東部から岩手県の東磐井郡にかけて、と、宮城県北西部の古川市以西と奥羽山脈沿い地帯にかけてである(宮城県内に約2000体、古川地域に約400体あると言われる)。
また、大工の棟梁や左官屋さんによって、その家の新築時に、大黒柱である主人の顔に似せて作られたものだとの言い伝えもある。現在は、新増改築、就職・退職、結婚祝い、部屋のインテリア等々、贈り物として利用され、「火の神」「産業振興のシンボル」として、人々に受け継がれている。

釜神様の由来と伝説【東大崎編】
御神体
憤怒の形相をした不動明王のような面相のものが多く、これを、竈に近い柱などにかけて、火伏せや魔よけの神として祀った。旧仙台藩領(宮城県・岩手県南部・福島県北部)に見られる風習で、今日もなお、お祀りしている旧家もある。
由来
【蝦夷謀反】
古代の中央政権は、関東以北の原住民を都人に対し蝦夷族とあなどり、また中央政府に従った原住民を俘囚と呼び、その豪族を俘囚の長と呼んでいた(宮城県地方は早くから概ね俘囚となっていた)。
平和であった東北に、中央政権が皇極天皇六四二年に国司という行政官を派遣し、やがて孝徳天皇六四五年、大化の改新により公地公民としたので、横暴になった役人に反抗する一揆が続発し、拡大の様相を呈してきた。その対策として、軍事職の按察使を新設、さらに、柵や城を築き、征夷将軍次いで征夷大将軍を派遣して蝦夷征討を繰り返した。
【征夷大将軍 坂上田村麻呂の戦略】
田村麻呂将軍は、延暦一三年(七九四)鎮守府将軍、同一六年征夷大将軍として、二度宮城県の多賀城に赴任している。当初は積極策を採らず、福島・宮城・岩手にたくさんの神社寺院を追って撫夷工作を行っている。築館町の杉薬師・志波姫神社等その数、何十とある。
田村麻呂将軍は、一〇万といわれる大軍の中に一〇〇〇人近い信徒を連れてきた。この信徒を神社・寺院建立の責任者としてそれらの一族を村々に配し、中央政権の力を見せつけ、人々を喫驚させて味方に引き入れつつ北上した。従属しない者、協力しない地区民には、徹底した焼き打ちなどの惨酷を極めた。飽くまでも反抗する者たちは、日高見国として知られた今の岩手県水沢を中心とする広大な穀倉地帯を目指して逃げた。蝦夷族の総大将大墓公阿弖流為は、胆沢地方にあってこの地方も支配し、北方民族特有の文化圈を形成して目高見国王と称されていた。阿弖流為は、中央政権のあくどい撫夷工作に抵抗し、さらに関東以北の豪族たちとも通じていた。
【徹底抗戦した大墓公阿弖流為】 阿弖流為は、蝦夷族総勢数十万人と戦闘員約五万人を擁していたといわれる。そして阿弖流為直属、副将軍の磐具公母礼(いわぐのきみもれ)・大岳丸(おおたけまる)・人首丸(ひとかべまる)・苅田丸(かりたまる)・伊達丸(だてまる)・磐城丸(いわきまる)・大多鬼丸(おおたきまる)どのほか、多くの武将たちを各地に配し、奥六郡といわれた岩手県を拠点として抗戦した。なかでも大多鬼丸の軍勢は、坂上田村麻呂の出身地である福島県田村郡三春町あたりまで暴れ回るなど大鬼神振りを発揮し、一時は多賀城を攻略して、物品略奪のほか征夷軍に協力した民家の焼き打ちもしたと伝えられる。
【両雄の対決と和議成立】
多賀城を根拠地とする征夷大将軍坂上田村麻呂の兵力は、北上するとともに増大し、目高見国にせまった。これを迎え撃つ蝦夷族の大王として尊敬されていた大墓公阿弖流為とが直接対決した。延暦二一年(八〇二)阿弖流為は田村麻呂の謀略和議の申し入れに応諾し、副将の盤具分母礼を連れて胆沢の城に出頭降伏した。二人は京都に送られ同年八月一三日河内国杜山(大阪府枚方市)にて、約束違いの斬首の刑に処せられた(三条河原の説もある)。同年鎮守府が多賀城から胆沢城に移される。
【火伏神の御神体】
こうして、桓武天皇延暦年間(七八二〜八〇五)中央政権に徹底抗戦した阿弖流為の降伏によって、二十数年以上も続いた民家焼き打ちなどの戦火からやっと解放された。住民たちは住居の再建にとりかかり、どの家も竈の近くに阿弖流為の似顔を木面に彫って、釜神様として祀るようになり、福島北部・宮城・岩手南部まで広がったと伝えられる。
昭和二五年(一九五〇)古川市に合併の年、東大崎村の戸数は六一四戸、その八割以上が立派な釜神様を祀っていた。その後、新改築した家では、その間取りや生活様式(電気・ガス)の変化によって、廃止または倉庫などに保管されるようになり、現在は御神体を祀っている家は、かつての一割にも満たない。 しかし、正月には神社から釜神様の御神像をいただいて神事を行い、御神徳を仰いでいる家はたくさんある。

釜神様【敷玉編】
カマガミは県内では、カマガミサマ・オカマサマ・カマオトコ・カマジン・ヒオトコとも呼ばれ、土製で、目に鮑貝や瀬戸物をはめこんであるものもある。新築の際に左官や大工が納める場合が多く、木製の場合欅や松・杉材を用いて彫ったものが広く分布している。旧家の土間のカマドに祭られる場合がほとんどだが、あの憤怒の相をした異形の面を祀るのは、旧仙台藩領内だけとも言われ、特に県内に多くみられる。「カマガミ」は悪魔退散・悪疫退散のために祀るものだから、家の戸口をにらんで飾るという伝承もある。直接的には火の神であり、その火を管理する主婦が関わる神として祀られている。
所有者
◎下中目字六軒丁 某氏
製作時期  不明
製作者  不明
大きさ  縦30cm、横18cm 木製
◎下中目字六軒丁 某氏
製作時期 大正初期
製作者  小牛田町御免 伊藤大工
大きさ  縦50cm、横35cm 木製
◎下中目字六軒丁 某氏
製作時期 昭和中期
製作者  一迫町字川口 佐藤正夫氏
大きさ  縦43cm、横34cm 木製
◎下中目字六軒丁 某氏
製作時期 昭和初期
製作者  小牛田町御免 伊藤大工
大きき  縦40cm、横33cm 木製
◎下中目字古河 某氏
製作特則 昭和初期
製作者  小牛田町御免 伊藤大工
大きさ  縦40cm、横30cm 木製
◎所有者 桑針字元村 某氏
製作時期 昭和初期
製作者  小牛田町御免 伊藤]蔵氏
大きさ  縦45cm、横40cm 木製
◎所有者 深沼字谷地際 某氏
製作時期 明治28年居宅建築の時
製作者  工事に関係した左官屋と伝えられる。
大きさ  縦35cm、横30cm
◎所有者 深沼字上組 某氏
製作時期 明治初めと言い伝えられる。
製作者  箆峰寺大門坊の作と伝えられる。
大きさ  縦35cm、横30cm

釜神【清滝編】
炉やかまどに祀られている神である。多くは憤怒の形様した面が木彫や粘土で作られて、火所の上に祀られている。宮城県内の北部から岩手県南部にかけて、最も多い風習といわれている。釜神を祀るのは家に悪病が入るのを防ぐためで、面を戸口に向けて飾ると言われているが、近年、台所改善でほとんど竈は姿を消し、家事で火の取扱いは流し台の上のガスや電気などに変わった。したがって台所は室に区切られ、戸口に面した釜神への人々の意識は変わらざるを得なくなった。現在は火を扱うガス台などの上に移し変えたり、またうす暗い天井で家を守るかのように飾られている。以前広い土間に、そして高い位置に飾られていた釜神は、天井が設けられたりして、その姿は見えない家や、火難除けの意で火を取扱う場所に移した家、火所でなく戸口に移し変えた家、また茶の間に飾った家など、住まいする人の考えで場所が変えられている。
釜神様を飾っている家の数を調査してみると、清水沢14戸 元清滝12戸 北宮沢7戸 雨生沢8戸で計41戸あった。このようにいまだに釜神様尊崇者の多いのにおどろいた。



三本木町 (三本木町誌 下巻より)
炉のついでに竈がある、どこの家でも煮炊きするために台所にはカマド、又はクドと称して竈を備えその釜場の上若しくはその近くの柱の上の方に、いかめしい面相をした木彫りの黒く煤けた竈神と称する面が掲げられ注連を張り神符や幣が捧げられている。
この竈神の由来は何かと考えると、火は人間生活上必要欠くべからざるものであるが、一旦其の取扱いを失すると大厦高楼も一瞬にして灰燼に帰するという有様なので火そのものの持つ神秘的な威力に対し人間が火に対する畏敬から信仰に発展して火を崇め火を祀る形式となったものと考えられる。従って一家を経営することをカマド持ちと称するに至り、戸数を数えるのに幾カマドと呼び分家することをカマドを分けるというようになり、家の繁栄は即ち竈の威力にあると考え、其処に神の存在を認め信仰を持ち、家の神、家族繁栄の神として竈神を祀り専ら竈や炉の清浄を旨とする当地方の風習である。

蒜袋の横山家の釜神面(…略)の由来
横山某氏の祖先は平家の落人で、熊野社の御神体を背負うて鳴瀬川沿に蒜袋まで落ち延びて来たが、疲労が甚だしかった。そこでこの地に止まることが熊野神の御告げと決心し、ここに熊野社を勧請して氏神として今日に至っている。横山家はそれ以来の旧家である。この横山家には九代目栄作が彫刻したと伝えられる竈神面が台所の釜場の上に掲げられている。



仙台市 (仙台市史特別編6民俗より)
【カマド神とカンジョ神】:竃や炉の神をカマド神と呼び、これらの近くに神棚を設けて札を貼り、幣束を立てておく風習は全国的に見られる。しかしカマド神を憤怒の形相をした土製や木彫の大きな面を掲げてカマ神として祀っているところは、旧仙台藩領内でも伊具、亘理両郡には見られず、仙台以北より岩手県東磐井、江刺郡に至る限られた地帯である。住宅の新築や改造などにより、従来の家屋が解体されるに伴いカマ神も散逸したが、昭和63年(1988)の分布状況は図の通りである。とくに現仙台市域では旧宮城町において多数のカマ神が分布していたことが注目される。カマ神は悪霊や泥棒などが家に入らないようにと、戸口に向けて掲げられている。カマ神には特定の祭り日はなく、正月や鎮守の祭りあるいは朔日、15日など神に「アゲェホゲ」(神仏に供物をすること)する時は必ずカマ神にも供えていた。そういった供物は頂くものであったが、ただ、カマ神への供え物は頂くと縁遠くなるといって未婚者は忌んでいた。カマ神に飾る注連縄をカマ注連と呼び、正月が終わってもはずさず、屋根葺きの時にまとめてはずして明神に納めていた。田植えの時には、苗を三束と赤飯をカマ神に供えて拝み、初田植をし、供えた苗はそのままにしておく家もあった。カマ神は、10月に神々が出雲に行く際は家に留まっているという伝承もある。
便所をカンジョ(閑所)と呼び、棚を作り土製の雛人形を二体祀り、カンジョ神、カンジョ雛と称していたが、幣束だけを立てておく家もあった。正月には注連縄を飾り供物を上げた。カンジョ神はお産の守護神という伝承もあり、カンジョは常に掃除して奇麗にしておくよう戒められていた。



秋保町 (秋保町史より)
【土間と台所】:古い家屋は土台なしで丸石の上に直接立っている。戸口を入ると広い土間である。ここは「たたき」という名称が示すように、粘土を混ぜて堅めてあるので、濡れたままで入ってもぬからない。作業場として用いられ、古い家ほどこの部分の占める割合が大きい。尚、戸口の上には御札を納める箱が掛けてあり、魔除けの役割を果たした。「たたき」の隅には藁打ち石が据えてある。土間から上がった所は広い板の間になっており、その内奥を「ながし」(炊事場)、左手を「台所」という。「ながし」と「たたき」の間に「へっつい」(かまど)がある。周囲をしっくいで固め全面に漆塗りの板を取り付けたもので、上には大きな銅製の釜が掛けてある。これはいつもきれいに磨かれ、台所の飾りになっていた。その上には土造りの「かま神様」のお面が掛けられている。これは屋根替のつど作り替えたが、館にだけは昔からなかった。



宮城町 (宮城町誌より)
【竈神】:古い農家のくど、かまどの近くの壁や柱に真っ黒にすすけた面が取り付けられているのを見かけることがあるが、これが「かま神」である。別名、カマオトコ、カマオヤジ、カマオニ、カマボトケ、ヒオトコ、ヒョウトク等いろいろなよび名があるが、本町ではカマノガミと呼んでおり、かまどを守る神、火伏せの神、あるいは魔除の神として古くから信仰されてきた。この民俗信仰の歴史は遠く奈良時代の「古事記」には「此は諸人の以ち拝く竈の神なり」とあるとおり、1200年も前にすでに存在していたことが知られるが、面を祀る風習があるのはなぜか旧仙台藩領だけに限られているのが特色である。現在、宮城県内で約2000面(昭和60年度)が確認されており、その中で、古川市の432面が最も多く、次が鳴子町の136、河北町の74、色麻町の66など、県北地方に集中している。本町では63面が確認されており、大きさは縦30cmから40cm、横25cmから30cmと中型のものが多く、これを地区別にみると次のとおりである。
作並4、新川14、熊ケ根2、大倉20、上愛子8、下愛子7、芋沢3、郷六5



大船渡市 (大船渡市史第4巻 民俗より)
【かまど(カマドまたはクドという)】:かまどの位置は台所の炉を「流し場」に近い土間に火入口(炉)が裏口の方に向けて作るようである。たいていは大小の二個を作り、いずれも焚口を北に向けないように作る。北口にすると病人や災厄が絶えないという。かまどは多人数が寄り集まる「人寄せ」のときにのみ使用し、通常は湯を沸かすだけという家もあるが、大農家では大釜、大鍋等を一度に3〜4個も据えられる大型のものを備えている。かまどは語源的には、釜をかける場所の意味と考えられるが、クドもホドと同じように「火所」から出た語であろう。また「ヘッツイ」と称している所もあるが、「家の火」という意味であろう。当地方で「カマドをたてる」、あるいは「カマドけぁし」という話を聞くが、これは「家を立てる」こと「家をつぶす」ことの意味である。かまどは、火所のある建物である「イエ」そのものを指す語でもあることが分かる。分家する場合も「カマドを持った」と言うが、そのときには、本家の火の神の灰を分けて貰い、新しく火の神を祭るのが習わしであった。移りのときもまず火の神を先頭にして移る風が一般的であった。このようにかまどに対する信仰は、火の神信仰であるが、いわゆる「カマ神さま」はかまど近くに神棚を設けて、そこに神符や幣束を納めて祭っている家が多い。これよりも古い形と見られるものに、かまどの神の面をかまどの上部や近くの柱にかける形のものがある。この面は木で作ったもので「カマオトコ」等と呼ばれる恐ろしい顔のものである。「カマ仏」あるいは「火男」等とも呼ばれ「ヒョットコ」というのは、火を吹き起している顔つきを、その顔としたのだ等言われる。家によっては面を飾らずに、ただ「注縄」を張るだけの祭り方をしている所もあり、特別に何も設けず、かまどそのものを神聖視する風もある。一昔前までは婚礼のとき花嫁が婚家先に入って来るときに、かまどの前で拝礼の式をするのが習わしであり、日常の家族の出入りにもここで礼拝するのがしきたりであったという。

【カマド神】:昔、ある旧家にみにくい顔をした若い乞食がたずねて来ました。乞食が入ろうとしたところ、土間に箒が横だおしになっていました。乞食はこれを見て邪魔にならないよう立てかけてから中へ入りました。そして、家人に言うには下男として雇ってほしいと言うのです。「乞食などもってのほか….」とみな口ぐちに断りましたが、その家の主人は何を考えたのか、いったん帰りかけた乞食を呼び戻して、カマドの「火焚き」として使うことにしたのです。さて、その家には年頃の一人娘がおりましたが、長年の患いでずっと床についていました。神の願をかけても、腕ききの医者にみてもらっても、いっこうに良くならず困り果てておりました。ところが、乞食が雇われてから娘の病気が少しずつ良くなってきたのです。親達は年頃のことでもあり春にでもなったら婚礼をと、婿さがし始めました。しかし娘はどんな縁談にも耳を傾けようとはしません。何回見合いをしてもけっしてウンとは言いません。そしておしまいには「そんなに婿を取りたいのなら、あの火焚き男が….」と言い出しました。親達はびっくりしました。強く反対しましたが、いったん言い出した娘は何としても聞き入れません。それで親類一同を集め相談することになりました。その家の主人は、始めは半信半疑でおりましたが、火焚き男がはじめてこの家に来たとき土間に倒れていた箒を立てかけてから中に入ったことや、火焚きが上手で「シンショウ持ち」の良いことなどを親類一同に話し、決してカマドをつぶすような男でないと、終わりには娘に賛成するようになりました。親類一同も「娘が気にいったものなら仕方あるまい」ということになりました。こうして火焚き男がめでたくその家の婿におさまりましたが、娘の病気はたちまち快方に向かい、やがてりっぱな「あとつぎ息子」も生まれました。その家はますます繁盛したことは言うまでもありません。後代その家では先祖の火焚き男を家の守り神として、カマドのそばに祭る様になりましたが、これが「カマガミサマ」の由来だと言う事です。

【カマド神】:家の中の火所(ひどころ)である炉やカマドの神を、気仙地方では「カマオトコ」「カマガミサマ」「カマジン」等と呼ぶ。火は人間生活にとって最も大切なものであり、何んと言っても食料の加工には欠かせぬものである。したがって、火所であるカマドという語は、家そのものを意味する場合も多いのである。「カマドを建てた」「カマドを持った」「カマドを分けた」等の語は、今でもしばしば使われるが、これは家の象徴でもある「火」を建てた、分けた、という意でもあるわけである。気仙地方に見られるカマド神は炉やカマドの近くに神棚を設け、これに神札、幣束が奉られていたり、近くの柱に貼られたりするものであるが、旧家などには、木製の面や絵を柱に飾ったものも見られる。この木製の面は、たいへん醜い顔をしているもので、俗に、醜い顔や恐ろしい顔を形容するのに、「カマオトコのようだ」などという。また「カマジン」と言って、目は金物、毛は馬の毛で作られた、すさまじいと言ってよいほどの形相の面のものもあるが、たいてい、その上にカマシメ(竈注連)を張っているようである。

【火の神】:火の神の中央神的神格としては、京都の愛宕神社、静岡県周智郡の秋葉神社があり、これの勧請神社として各地に村社や末社、あるいは石碑等が祭られている。そして各家では、これらの神札を神棚に納めたり、戸口に貼ったりして「火伏せの神」として信仰しているのである。しかし通常民家で、火の神として祭られているものは、家で煮炊きをする火所、すなわち、「カマド」と「イロリ」の神であり、これがいろいろな伝承を保持しながら、今に伝えられているのである。火の神は荒神であるため、粗末にすると、さまざまの罰をくだすということは、どこでもよく聞かれる話であり、作物を始め、一家一身の安全を守る神だとされている。正月に、炉やカマドに〆縄を飾る家が多いが、これは明らかに神の存在を意味するものであって、カマド神も火男(ひょっとこ)も、火の神の一種であるものと思われる。大船渡の漁村には、「炉にいる神はお不動サマで、炉の中のどこかにすまかい(住んで)しているのだから、炉の内外は常に清めておかなければならない…」としている家が多い。そのために、子供などが間違って炉に小便でもすると、その小便を、無理やり指で額にこすりつけ、「お不動サマ、かんにんしてけらっせん…」と、わび言を言わせられるという。 お不動サマを火の神とする信仰は、仏教や修験道の然らしむるところと思われるが、これが一般に普及したのは、かなり後代になってからの事と思われる。カマド神は、火の神としてはもっと古い形をとどめているのである。 一家の一員たることは、以前は火の神の承認によって決まったようで、これがために他家の火の神は拝むものではないとされていた。婚礼の当日、新嫁が婚家先に入るとき、台所から入って、カマドを拝するという習わしは、最近まで行われていた。これは新家族の一員として、火の神の承認を得るということを意味したものである。また分家する場合、「カマドを分けた」というのは、本家の火の神の灰を分けてもらい、新しく火の神を祭るという習わしがあった事を思えば、「分家」はとりもなおさず、「分火」であることがうなずけるというものである。したがって家移りのときも、まず火の神を先頭にして移ったものだという。このように家という観念も火の神が中心的存在であり、また、火の神が家の貧富をつかさどるという考え方も、広く分布していた。隣家から火種をもらったり、また反対に、くれたりする事は、それがそのまま、貧 富のやりとりをするように思われ、決して歓迎されることではなかったのである。一家の主婦が火種を絶やしてしまい、他家からこれをもらう事は、最大の恥辱とされた風などは、これをよく裏書しているものと思われるのである。

【カマド神の性格】:カマド神は、祖先崇拝ともかかわりが深く、例えば家族、ことにも家長が亡くなると、新たにこの神を祭り直すという風があった。死人が出ると、炉の灰を新しく代えるという習わしなどは、その名残りと思われるのである。また、その家に子供が生まれると、カマド神の前に座って、無事安穏な成長を祈るという風もあり、子供が水泳ぎに出かける前に、カマドの「スス」を顔に塗ってやると、カッパにさらわれず、水難も免れるという言い伝えもあった。更にカマド神には、農事の初期と終期に、里と山との間を往来するという伝承もある──田植のころ、山から降りて来て里を守り、秋の収穫が終ったころ、山へ帰るという「農神」とも関連してくる事になる。以前は、山伏や修験者が毎月、晦日(みそか)に各戸を訪れ、カマドの前で「荒神はらい」を行なったものであるが、このことは、カマド神の性格の一面を表しているものと思われる。
荒神というのは、その信仰形態からみて、(1)火の神、火伏せの神としての三宝荒神の信仰 (2)屋敷神、同族神といった性格の「地荒神」 (3)牛馬の守護神としての荒神の三つの性格を持つという。
(1)の三宝荒神は、如来荒神、鹿乱荒神、念怒荒神の三身を言うものと説かれているが、これがカマド神に結びついて、火の神としての荒神が、特にも東日本に広く普及したものと思われるのである。この神は、もとは炉の神であったが、カマドが火所の中心になるにしたがい、カマドを守る神になったともいう。祭日は家によって一定していないが、正月のほか、月の一日と十五日としている家が多い。祭る方法としては、年越しの夜に幣束をあげ申し、〆縄を張り、餅などを供える。この神の特色として、「あげ申した」幣束や張った〆縄は、これをはずさず、年中そのままに飾っておく。それは、この神が常住して、家を護っているからだという。こうしてみるとこの神は、火の神であると同時に、「作神」でもあり、お家繁昌の「守り神」でもあるということになる。なお、面を刻んでいるカマド神には、土製、木製、素焼製の三種類があり、その面相には鬼面、醜男面、福神相、天狗相、明神相等があげられる。

【カマド神の由来】:台所やカマド付近の柱に祭られているカマド神のうち、面を神体としているものは、火の神としても古い形態を保持しているものと考えられるが、この形は東北地方でも太平洋側に多い。気仙地方にも、この形のものが各地に見られる。それは概して旧家の農家に多いようであるが、伝説・昔話の「カマド神」の由来譚は、当地方だけでなく県南地方の各地で聞かれる。そしてこの種の話はきまってその地の草分けのような旧家に伝えられているのである。また、気仙地方にはカマド神について次のような話もある。
──昔、ある旧家で、一人の乞食を泊めたことがあった。その乞食は、何日たってもいっこうに他所へは行こうとはせず、いつまでも泊っていた。そのうえ一つも働かず、腹いっぱい食べては、所かまわず排便をして歩くのである。家人一同、一日も早く追い出すよう主人に頼んだが、主人は、「そのうちに気が向けば、出て行くだろう」と、少しも取り合わなかった。数日後、乞食は人知れず、どこへともなく旅立って行った。その家の下女は、乞食がいなくなったと聞いて、ハッと思い出したことがあった。それは前日の夕方、乞食が例のように、あたり構わず排便をしていたが、この日は事もあろうに、カマドの裏側にノッソリと大便をした。下女はあきれ果てて、そのままかたずけもせず、プリプリ怒っていたのであった。そこで大急ぎで、箒と灰を持ち、カマドの所へ行ってみると、なんとその大便は、それこそほんとの「黄金」に変わっていたのであった。主人は、カマドのそばに乞食の顔をかたどった面を作って、神として祭ることとした。それからというもの、その家はいよいよ繁昌して大金持ちになったという──。カマド神は、このようないわれを持つもので、家の守り神であり、繁昌の神だというのである。



胆沢町 (胆沢町史[ 民俗篇1より)
カマカミは「火難よけ」であり、魔除けであったが、どこから伝えられ、どんな呪法(まじない)が行われ、またどのような民家で信仰されたものか明らかではないが、「カマメンコ」と呼んでいる。この竈神を飾らない民家でもカマドのうしろにご幣が一本煤けて飾られていることもある。



一関市 (一関市史第3巻より)
土間は餅搗き、粉作り、藁細工等いろいろ作業を行う所で、また「水がめ」をおき、「かまど」を設け、その付近か「うし柱」などに「かまど神」をまつってあるのが一般の風である。「かまど神」は「荒神さま」とも云われ、普通はいかめしい面相を土又は木で作ったもの(稀には柔和で火を吹いている面相もある)を祭ってあり、特にかまどで蒸したものなどをしたときは釜掃除をして最後に釜の湯を「かまど神」に三度杓でかけるしぐさをして拝むのが作法とされた。



一関市 (一関市史第4巻より)
舞川地区での民間信仰は大別して、講中と家神がある。家についている神には御明神、御水神、かま神、おしら様がある。



一関市 (一関市文化財調査報告書F 一関市文化財調査委員会1969)

【カマド神】
戦後生活の合理化、利学化が進展し衣・食・住の改善がすすめられた。中でも台所改善の普及は大きく、今までの暗い不便な台所は、大きく変容していった。こうしたことから、台所の中心であった「うすもち柱」の上に祭られていた「かまど神」もいつしかすむ場所がなくなり、改善された台所の片すみに追いやられていった。
 又最近新燃料の進出に伴い、今まで長い間主燃料であった薪は姿を消し、石油、プロパンガスが主体になり併せて台所の近代化が急速に進んでいる。このことは、生活の向上であり喜しいことではあるが一方民間信仰の「かまど神」や年中行事の数々が生活の中から忘れ去られることは、少しく淋しい限りである。
 こうした現状から、一関市文化財調査委員会では「かまど神」の記録保存を図るため調査を実施するとともに、一般への啓蒙を図るため一関市文化展の一室に市内の「かまど神」展の開催を実施した。
 「かまど神」の調査に当り、所在地の把握は、オシラ神の調査と同様市内の各公民館、老人クラブ、婦人団体等の協力を得て実施したが充分とは言い得ない、調査もれもあると考えられる。又調査のなかで近年まであったが家の改築等のさい破損し川に流した。お明神様に納めたと言うことを聞いたのは、数ケ所にとどまらず非常に残念であった。
 一応調査の結果、一番多い地区は、舞川地区の十六(うち土製九)厳美地区八、萩荘地区二、真滝地区二、彌栄地区二、計三十であった。
○名称について
 通称かまど神様と言っているが調査の結果では、かまど神様十二、かま別当六、かま神様十一、かま男一であった。厳美地区では、大半がかま別当と呼び、舞川地区ではかま神と呼んでいるのを見ると名称も地域的な呼び方があるのかもしれない。又呼び名によって内容が変ると言うことは見られなくほどんと同じである。
○材質について
 調査の結果木製十九、土製十一で木製のものが多い。現存する土製のものは、舞川地区、彌栄地区にのみ見られたが他地区でも前には土製であったが改築するときこわれたので木にしたとか、又昔土製のものがあったがこれたので捨てて今はないと言うことも聞いているので舞川地区の特性ではないようである。木製のうち木の種類別に見ると、欅四、松三、杉二、桐二、栗一、みづ木一、まだの木二、桑一、木質不明三、以上から見ると木の種類も多くこの地方の山野に育っている木を利用していることがわかるが「みづ木」のところでは、かまど神様は火難除けの神様だから「みづ木」を使ったと言い伝えられているとの答があったが他は、かまど神と水の種類について関係は見られなかった。
○いつ頃の物ですか(言い伝えられている年)
 このかまど神信仰はいったいいつ頃からこの地方に伝わったものかを知るためにその年代を聞いて見るに新しいのは三十三年前古いのは三百年前であるが全体を見ると百年から二百年の間のものが八例、二百年から三百年までのが五例で多い。この年代もはっきりした裏付けのあるものは少くほとんどが口伝えの年数であるので確実とは言いがたい。かまど神は、家を建てたとき大工さんが「だなどの」の顔に似せてつくった。土のかまどを造ったときその残り土で「だなどの」の顔に似せて造った。或いは分家するときに貰って来た。と言う言い伝えも多いので現在の家は何代目かの問でそのうら付けをして見た。古くは三十代目と言うのもあったが一番多いのは五代目から十代目と言うのが十例、十代から十五代目と言うのが四例である。平均一代を三十年として見た場合百五十年から三百年と言うのがおおいということになろうか。
○供えをする日はいつか(祭日)
 山形県の一部では、十一月二十三日は竈神の日と言っているところもあるように聞くが、この地方の祭日を見るため「かまど神」にお供えをする日を調べて見た。一番多いのは、正月の三ケ日と言うのが十四例、毎月一日、十五日と言うのが七例、舞川地区の紙すきのときと言うのが四例あった。正月にはお酒にお餅及び重ね餅(かがみ餅の小さいもの)をお供えする。毎月のお供え物は、ほとんどが小豆ご飯をあげている。紙すきのところでは「こうぞ」を煮るときかまどを掃き清め塩をまき、お酒やごち走を上げている。お供えものは拝(おがむ)んだ後で家族みんなで分け合って喰べる。又お供えをする特別の容器のあるところもあり、昔からのしきたりが今なお残っているところも散見された。
○かまど神のある場所
 かまど神のある場所は、ほとんどが母屋の土間、台所のうすもち柱の上に架けられている。うすもち柱は柱のうちでも一番太く大きくその根元で餅をつく臼を造るところからうすもち柱とか、又うすもち柱のそばに、うすを置くところから、うすもち柱と言う等言われておるが他地方では、大黒柱とも言われている。しかしこの地方では、土間(にわ)の台所にあるのがうすもち柱で、この柱の正面「だなどの」の坐る横座のところにあるのが大黒柱と言われている。このうすもち柱の根元には大きなかまどがありその附近には農具等が置いてあるのが多い。戸口の突き当りのところにあるのが三例あるが、これは、悪い病気や悪魔が入ってこないように、にらめているのだと言われている。現在は台所の改善、住居の改造等により数多くのかまど神様は昔しのうすもち柱の座から新しい台所の片すみや二階の物置等に追いやられている。
○何の神様か
 民間信仰のかまど神様とは一体何の神様なのだろうか、火の神様、火難除けの神様、魔除け、災難、厄除けの神様、家内安全の神様等と言い伝えられてきてはいるが、家を造るとき「だなどの」の顔に似せて造るとも言うが、かまど神そのものの面相は非常にみにくい顔をしている、土製のものなぞは、目に貝などをはめこみいっそう恐ろしく造られている。子どもたちが泣いたたり言うことを聞かなかったりすると「かまど神様」に喰べられるぞと言いこわいものにしている。いろりを中心に生活している家族をうすもち柱の上から見守り「火がたたくり」(なまけものは)いないか、火種をたやしてはいないかとにらみをきかしている神様外から悪病や悪魔が入ってこないように見張りをしている神様こうして見ると火難除けや悪病魔除けの神であると同時に家内の安全繁栄をもたらす(家の神)なのかも知れない。みにくく、そして恐しいお顔をしてはいるが家族にとっては、やさしい心の支えになる福の神であろう。

【個別調査記録】
・所有者 一関市厳美町 阿部某氏
・名 称 かまど神様
・材 質 木製、松木
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒現代九代目、今から三百年ほど前に赤荻(一関市赤荻)の奥之丞と言う大工が今の家を造ったが、かまど神はその前からあったと聞いている。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒暮の二十八日に大掃除をし、正月の三ケ日「ごへい」ごはん、お酒等を供える。
・その他 かまど神は、台所のうすもち柱の上に西向きよこ座の正面にある。
・火難除けの神様、大きさは、高さ二十九糎、横二十二糎、・厚さ七糎

・所有者 一関市厳芙町 千葉某氏
・名 称 かま別当
・材 質 木製、桐
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒この地方では古い家だと言い伝えられているが、現在何代目かも不明
・かま別当を造った人は誰れか⇒家を建てた大工が火難除けに造ったと言い伝えられている。
・お供えをする日⇒正月の三ケ日かま別当の下のところに台を置きお酒や餅を供える。「ごへい」はかま別当の上のところに納める。
・その他 かま別当は、台所のうすもち柱の上に西向き、よこ座の正面にあったが現在は台所を改善し柱もなくなったのでかまどの上のところに飾っている。子供たちが泣いたりうるさくすると、かま別当に喰わせるぞと言われた。大きさは、高さ三十六糎、横二十七糎、厚さ十糎、平たい厚い板に目と口を彫り鼻の部分は別の木でこしらえて付けたものである。目には貝を張りつけて光るようになっていた。

・所有者 一関市厳芙町 菅原某氏
・名 称 かま別当
・材 質 木製、栗
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒現在の家を建替えてより五台目、その前についてははっきりしないが二百年位いと言われている。
・かま別当を造った人は誰れか⇒現在の家の前の家を建てたとき、厳美八幡次の已之と言う人が手斧一つで造ったと言い伝えられている。
・お供えをする日⇒二月九日かま別当の下の板の間に「五升ます」を伏せて置き、その上に小豆だんごを十個の小さい「かさこ」に一つづつのせてお供えするこのとき桃の木の箸を添える。だなどの(主人)が羽織はかまをつけて参拝し、後、家族皆んなで分けて喰べる。
・その他 かま別当は、戸口を入った正面に台所が仕切られており、この台所の上の棚の中に南向きに置かれている。火難除けと家内安全の神様、大きさは、高さ三十四糎、横三十四糎、厚さ二十糎で、厳美地区では大きい方、後ろはお面のようにくりぬき、ひもを通すところを残しており、手斧の跡がそのまま見える。どうどうたるもので見ごたえのある風ぼうをしているが後代で塗料を塗ってしまったのは残念である。

・所有者 一関市厳美町 佐藤某氏
・名 称 かま別当
・材 質 木製 松
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒二百五十年前のものと言われている。現在十代目元縁年間(一六八八)に一度火災にあい建て直した。現在の家は宝暦年代(一七五一)に建てたものと言われている。
・かま別当を造った人は誰か⇒かま別当は、火災の後で家を造った大工が火難除けとして当時の「だなどの」(主人)の顔に似せて造ったと言われる。
・お供えをする日⇒正月三ケ日「ごへい」お酒、餅等をまるい盆にのせて供える。正月十一日の農始めの日には、大きなお供え餅を供え作業が終ってから家内中で分けて喰べる。
・その他 かま別当は、台所のうすもち柱の上に西向きにかけてあったが戦後台所改善したので、今は台所の上に飾ってある。正月十五日には、かま別当の顔に「オシロイ」を塗る。大きさは高さ二十一糎、横十七糎、厚さ七糎、後ろは、お面のようにくりぬいてある。

・所有者 一関市厳美町 阿部某氏
・名 称 かま別当
・材 質 木製 欅
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒今の家は、明治初年に建てたものだが、その前からあったと聞いているが、年代はわからない。現在十一代目
・かま別当を造った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒正月に「ごへい」餅、お神酒等家の人たちが食べるものと同じものをお供えする。
・その他 かま別当は、台所のうすもち柱の上に西向きに架けてあった。横座と真向いであったが、戦後台所改善をしたので現在は台所の上に架けて いる。火難除けの神と言われ、正月の十五日には顔に「オシロイ」をぬる。大きさは、高さ三十糎、横三十糎、厚さ十三糎

・所有者 一関市厳美町 佐々木某氏
・名 称 かまど神
・材 質 木製 水木
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒現在六代目、今から一三〇年程前、初代の「だなどの」(主人)が家を建る時造った。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒家を建てた大工が彫りものが大変上手で火難除けとして「みづ木」で「だなどの」(主人)の顔に似せて造ったと言われている。
・お供えをする日⇒正月に「ごへい」丸こ餅二重ねを丸い盆にのせてお供えする。
・その他 かまど神は、台所のうすもち柱の上に西向きにかけてあったが台所を改善したので現在は台所の入口の戸の上に架けている。大きさは、高さ二十七糎、横二十一糎、厚さ十五糎、後はお面のようにくりぬいてある。彫りものが上手な大工と言われるだけに写実的な作である。

・所有者 一関市厳美町 千葉某氏
・名 称 かま男
・材 質 木製 欅
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒現在六代目、明治後期火災が多かったので、おじいさんの代に火の神様として造った。
・かま男を造った人は誰れか⇒氏神様であ八雲神社の宮司茂庭義見氏が造ったと言われている。この方は、神楽面も良く彫り各地に残されている。
・お供えをする日⇒正月の三ケ日「ごへい」丸こ餅二重ねをお盆にのせてお 供えする。
・その他 昔しは土で造ったかま神様があったが家を建て直しするときこわれたのでお明神様に納めた。かま男は、台所の入口の上に西向にかけている。大きさは高さ二十六糎、横二十四糎、厚さ九糎、後はお面のようにくりぬいてある。

・所有者 一関市厳美町 小岩某氏
・名 称 かま別当
・材 質 杉
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒今の家は昭和三十九年に新築したのであるが、元の家には、元文年間の札があった。おじいさんの代に造ったとも言われるがはっきりしたことは不明、現在五代目
・かま別当を作った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒正月に「ごへい」と丸こ餅二た重ねをお供えする。
・その他 かま別当は、戸口を入って突当りの正面、台所の上に架けてある。魔除け、危病除けの神として戸口から入ってこないように、にらんでいる。子供たちが泣くとかま別当に喰われるぞと言う。大きさは高さ五十糎、横六十糎、厚さ十五糎、耳と鼻は釘でうちつけたもので口には紅をはき、目の廻りは白くぬり鼻の下には黒で「ヒゲ」らしきものがぬってある。

・所有者 一関市萩荘 阿部某氏
・名 称 かまど神様
・材 質 木製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒大正の初期同じ部落の藤走りのじいさんが、父の面相が大変良いからと言うことで貰ったと言われている。現在七代目
・かまど神様を造った人は誰れか⇒同じ部落の面師である藤走りのおじいさんの作
・お供えをする日⇒正月の三ケ日「ごへい」お酒、餅、ご馳走を供える。
・その他 かまど神様は、戸口を入り突当りの正面、台所の上に架けてある。火難除け悪病除けの神様として戸口から入ってこないように、にらめている。大きさは、高さ二十六糎、横十八糎、厚さ八糎

・所有者 一関市萩荘 阿部某氏
・名 称 かまど神
・材 質 木製 不明
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒明治初年頃造ったと伝えられている。安倍貞任の末孫で分家になってから私の代で六代目である。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒正月にはもちろん変りごと(餅のとき、赤飯のとき、おんごのとき等々)をしたときは必ずお供えをする。
・その他 かまど神は、火難除けはもちろん、諸々の魔除けの神家内安全の神として代々祭って来た。大きさは、高さ四十六糎、横五十一糎、厚さ十六糎、まゆ毛やひげも植込み市内では一番大きなかまど神である。

・所有者 一関市狐禅寺 小野寺某氏
・名 称 かまど神
・材 質 木製 松
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒安政(一八五七)の頃と言われ年月等は不明現在は十四代目
・かまど神様を造った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒十二月十二日お赤飯をたいて「ヒシヤゲ」(片口の大椀)にご飯、お酒も添えてお供えする。後家内中皆んなで分けて喰べる。
・その他 かまど神様は災難危除けの神として、大きな「かまど」の後の柱の上に西向きにある。大きさは、高さ二十五糎、横二十二糎、厚さ十糎

・所有者 一関市滝沢 蜂谷某氏
・名 称 かま別当
・材 質 木製 桐
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒現在六代目 二百年前に造ったと言い伝えられている。
・かま別当を造った人は誰れか⇒別家になったとき、家を建てた大工が初代の「だなどの」の顔に似せて造ったものと言い伝えられている。
・お供えをする日⇒正月の三ケ日 お餅やお酒を供える。又紙すきの際かまどに火入れする前にお酒を供える。
・その他 かま別当は、火難除の神として台所のうすもち柱に東向きにあったが、今は台所を改善したので座敷の中に飾っている。大きさは、高さ十七糎、横十二糎、厚さ五糎、木製では一番小さい。

・所有者 一関市舞川 日下某氏
・名 称 かまど神
・材 質 木製 まだの木
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒二百五十年前と言い伝えられている。現在十五代目
・かまど神様を造った人は誰れか⇒七代目のとき東磐井の薄彦と言うひとにかまど神様を彫って上げると言われて頼んで造って貰ったものである。
・お供えをする日⇒毎月一日、十五日、二十八日に変わりご飯をつくり「カサコ」「ケヤシキ」に入れてお供えする。
・その他 かまど神は、大きな「かまど」の後ろの柱の上に東向きにあり。大きさは、高さ三十五糎、横二十四糎、厚さ十糎

・所有者 一関市舞川 千葉某氏
・名 称 かま神様
・材 質 木製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒約一〇五年位い前 現在四代目
・かま神様を造った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒「こうぞ」紙すきのとき、平釜を使用する。その火入れのときお神酒をお供えして参拝する。
・その他 かま神は、かまどの後の柱の上、特に天井を上げているので、その天井の上に西向にある。下からは見えない。大きさは、高さ三十糎、横十八糎、厚さ五糎

・所有者 一関市舞川 千田某氏
・名 称 かまど神
・材 質 木製 杉
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒三百年位い前に造ったと言い伝えられている。現在の家は、六代目なるも先祖は、十代目でその頃より伝わって来たと言う。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒十二月二十八日に大掃除をし、正月に「ごへい」ご飯やお酒を供える。毎月一日、十五日には赤飯を供える。
・その他 かまど神は、火難除けや魔除けとして台所のうすもち柱の上に東向きにある。大きさは、高さ五十糎、横三十五糎、厚さ十六糎、裏はお面のようにくりぬいてある。

・所有者 一関市舞川 鈴木某氏
・名 称 かまど神様
・材 質 木製 欅
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒六十年位い前に造った。現在は十五代目、初代の人が造ったのは土であり怒った形相であったが、落ちてこわれてしまったのでおじいさんの代に新しく造った。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒萩荘の仏師 蘇武先生
・お供えをする日⇒正月はもちろん、毎月一日と十五日に赤飯を供える。 ・その他 かまど神は、昔から火の神様として祭り、月々のお供怠ると火災になると言い伝えられている。台所の上に西向きにあり、大きさは高さ三十三糎、横二十二糎、厚さ十五糎、後はお面のようにくりぬいてある。

・所有者 一関市舞川 小野寺某氏
・名 称 かまど神様
・材 質 木製 欅
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒百年位い前と言う。現在は三代目、初代の人が造った。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒萩荘の仏師 蘇武先生
・お供えをする日⇒正月はもちろん、毎月一日、十五日に赤飯を供える。 ・その他 かまど神様は、火難除けの神とし、かまどの上に西向きにある。大きさは、高さ三十三糎、横三十糎、厚さ十四糎

・所有者 一関市舞川 佐藤某氏
・名 称 かまど神
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒明治元年に火災に逢ったので、その後今の家を建てたその時作った。現在十三代目である。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒家を建てた大工が造った。
・供えをする日⇒正月に「ごへい」餅やお酒を供える。初庚申のとき、「左縄」をなって上げる。
・その他 かまど神は、台所の大きな「かまど」の後のうすもち柱の上に東向きにある。口には朱をはき、歯には金色の塗料が見られる。かっこうの悪い鼻のことをかまど神様の鼻のようだと言う。大きさは、高さ三十五糎、横二十七糎、厚さ七糎

・所有者 一関市舞川 石川某氏
・名 称 かまど神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒約百年位前、現在三代目、初代の人が木戸の本家から分家するとき貰って来た。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒正月の三ケ日、毎月一日、十五日、二十八日及び「かまど」を造った時にそれぞれ赤飯を供える。
・その他 かまど神様は、昔は台所の柱に吊していたが、今は二階に置く。土製のため頭部はかけているが、目には、「あわび貝」をはめこみ光っている。大きさは、高さ二十一糎、横は十九糎、厚さ八糎

・所有者 一関市舞川 佐藤某氏
・名 称 かまど神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒百六十年前、現在は五代目、初代の人が家を建てたとき造った。
・かまど神様を造った人は誰れか⇒家を建てた大工が「かまど」を造った残りの土で造ったと言われている。
・お供えをする日⇒正月三ケ日と紙すきの「こうぞ」を煮るとき「かまど」をきれいに掃除をし塩で清め、丸こ餅二重と「ごへい」を供えて参拝する。
・その他 かまど神は、厚い板に竹の釘でおさえて造って居り、「かまど」の後ろの柱に東向きに吊していたが、今は二階に置いた。大きさは、高さ二十八糎、横二十糎、厚さ十糎である。

・所有者 一関市舞川 千葉某氏
・名 称 かま神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒二百年位前、現在七代目、初代の人が家を建てたとき造った。
・かま神様を造った人は誰れか⇒初代の頃家を建てた「かべ」屋さんが「かまど」の残り土で「だなどの」の顔に似せて造ったと言う。
・お供えをする日⇒毎月一日、十五日および紙すきの「こうぞ」を煮るとき赤飯やご馳走を供える。
・その他 かま神は、火の神様といい柱に縄を巻き土でこね乍ら造った。神様の下には大きな釜を置き「こうぞ」を煮たと言うが現在は釜も無くこの室は味噌倉になっていた。子供が泣くとかま神様にとって喰われるぞと言った。大きさは、高さ三十五糎、横二十八糎、厚さ二十糎

・所有者 一関市舞川 小岩某氏
・名 称 かま神様
・材 質 木製 まだの木
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒百二十年位い前、この地方でも古いと言われる家で現在十二代目昔は土でつくったものであったが落ちてこわれてしまったので、川に流した。おじいさん時代に新しく木で造ったと言われている。
・かま神を造った人はだれか⇒地方の大工さんに頼み、「だなどの」の顔に似せて造った。
・お供えをする日⇒毎月一日、十五日および二十八日に小豆ご飯を「カサコ」に入れ丸い黒塗りのお盆にのせて供える。お盆には花弁の模様が見られた。 ・その他 かま神は、戸口よりつき当り、台所の上の厨子の中に安置されている南向、火難除け、魔除け、家内安全の神様、大きさは、高さ三十三糎、横二十四糎、厚さ十糎

・所有者 一関市舞川 吉田某氏
・名 称 かま神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒弘化二年(一八四五)の頃造られたと言い伝えられている。現在六代目、初代が家を建てたとき造った。
・かま神様を造った人は誰れか。⇒家を建てた大工が、「かまど」を造った残り土で造った。
・お供えをする日⇒正月と紙すきのとき「楮」を煮る(皮をはぐため)始めの日(日はきまっていないが大体いつも二月頃)に「かまど」を掃き清めお神酒やご馳走を供える。
・その他 かま神様は、火難除けの神様で、うすもち柱の上に横座の方を向けて架けられている。最近はずして見たが四角に竹釘をさしこれを力に四方に繩を巻き割れないように工夫されていた。大きさは、高さ三十糎、横二十四糎、厚さ九糎

・所有者 一関市舞川 千田某氏
・名 称 かま神様
・材 質 木製 桑
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒明治十一年(一八七八)頃造られた。同じ部落で家を捨てた人があったので当主が買いもとめた。現代七代目
・かま神様を造った人は誰れか⇒萩荘の仏師、蘇武先生の作と聞いている。
・お供えをする日⇒正月三日および毎月二十八日、小豆ご飯を供える。
・その他 かま神様は、戸口を入ると突き当りは台所であるが、台所の手前を仕切り土間の東側に餅をつく「うす」や農具等を置く上の方に架けられている。大きさは、高さ三十二糎、横二十九糎、厚さ九糎

・所有者 一関市舞川 千葉某氏
・名 称 かま神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒
・かま神様を造った人は誰れか⇒かべやさんが「かまど」を造ったときの残り土で造った。
・お供えをする日⇒正月および毎月一日、十五日小豆ご飯を供える。
・その他 かま神様は、火難除けの神様として祭られ、台所の「かまど」の後ろの柱に架けられている。目には貝(はまぐり)がはめこまれている。大きさは、高さ三十三糎、横二十五糎、厚さ十糎

・所有者 一関市舞川 千葉某氏
・名 称 かま神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒一五〇年ほど前、初代利兵衛治と言う人は、大変きかない人で家を造ったとき「かべや」に頼んで自分の顔に似せて造らせたと言い伝えられている。現在は、五代目
・かま神様を造った人は誰れか⇒かべやに頼んで造らせた。
・お供えをする日⇒正月三ケ日と十五日におそなえ餅を上げる。昔は、お供えする特別の器物があったが、古くなってこわれてしまったので、今は普通のお盆を利用している。正月の十五日の朝は、小豆がゆを喰べるが、その時の箸は「かつの木」で造る。親指大の太さで中頃が太く両はしは、ほそくした箸(もちの箸という)で喰べる。夕食後は、この箸を杭つきと称して十文字に結び「かま神様」の上の屋根うらに刺しておく。
・その他 かま神様は、火難除け、悪病除け、ほねやすみ(なまけもの)が出ないよう家中を守る神様で、戸口の土間の台所の後の柱に横座に向い合ってどっしりと柱を背負っている。大きさは、高さ五十六糎、横三十糎、厚さ二十糎

・所有者 一関市彌栄 小野寺某氏
・名 称 かま神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒今の家は、日清戦争のとき建て替えたのだが「かま神様」はその前からあったと言い伝えられている。現在七代目。
・かま神を造った人は誰れか⇒ご先祖様は、非常に信心深い人で、氏神様、お明神様ご不動様をも祭り般若経五百巻も奉納している。家を建てたとき大工さんに頼み、自分の顔に似せて作ったと言われている。
・お供えをする日⇒正月三ケ日の他に毎月一日、十五日、二十八日「おはんねり」を上げて参拝する。
・その他 元は、入口の所に大きな「かまど」がありその後の柱に架けてあったが、四年前屋根を改造するときはづして現在は二階に置く。このかま神様は板のうえに張りつけて造ってあるので取りはづしが出来る。火難除     け、悪病除けの神として祭り、子供たちが言うことを聞かぬと「かま神様」に喰われるぞと言う。大きさは、高さ四十四糎、横三十七糎、厚さ十七糎

・所有者 一関市彌栄 佐藤某氏
・名 称 かま神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒昔から有ったと言うが、いつ頃かわからない。現在五代目。
・かま神様を造った人は誰れか⇒不明
・お供えをする日⇒正月、その他おふかしをつくるときとか、餅をつくために「せいろう」をかけたとき、終った後で釜の湯を三回かける。
・その他 台所の土間にかまどがあり、その後の柱のわきに横座に向い合って架けている。このかま神様は板に張りつけて作っているので取りはづしが出来る。目や歯にあわび貝をはめこんでいる。火の神様として祭り、子供たちが泣くと「かま神様」に喰わせると言う。大きさは、高さ三十五糎、横三十糎、厚さ十糎。

・所有者 一関市舞川 千葉某氏
・名 称 かま神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒不明 三代目まではわかるが、何台目かについてもはっきりしない。
・かま神様を造った人は誰れか⇒年代もわからぬので、作者は不明。
・お供えをする日⇒正月に「ゴヘイ」ご馳走を供える。又紙すきの始めの日に「かまど」を清めてお酒とご馳走を上げる。
・その他 かま神様は、台所の上、西北のすみの柱に両側の壁に張りつくようにはめこまれている。台所を作ったとき造られたもようである。大きさは、高さ三十二糎、横二十八糎、厚さ十二糎

・所有者 一関市舞川 氏家某氏
・名 称 かま神様
・材 質 土製
・いつ頃のものか(言い伝えられている年代)⇒
・かま神様を造った人は誰れか⇒現在九代目であるが、文化五年(一八〇八)頃家を新築した。そのときの壁やさんが造ったと言われている。
・供えをする日⇒正月の三日間「ゴヘイ」とご馳走をあげる。毎月一日十五日、二十八日に小豆ごはんをつくって上げる。又紙すきの始まるまえに、かまどを清めてお酒とご馳走を上げる。
・その他 かま神様は、火難除け、悪病除けの神様で「かまど」の脇の柱の上に架けている。土で造ったにしては非常によく出来てかべ土を良く練りかため、彫刻したものか、市内の土製のもののなかでも一番整っている。大きさは、高さ三十五糎、横二十四糎、厚さ十糎



千厩町 (千厩町史より)
【かま神】:旧家には、「大黒柱」に「かま神」と称する土製か木製の面を掛けている。「かま神」は「釜男」とか「火男(ひおとこ)」とも呼ばれ、あるいは「竈神」ともされていて、防火防災を祈念する「火の神」である。地域によっては「荒神様」「土公神」というところもある。町内の「かま神様」は72体(昭和54年調査)確認されているが、土製が55体、木製17体になっている。面相は、人面相で、柔和なもの(大黒天が多い。)忿怒相、鬼面相等いろいろである。面相には大黒天や不動明王等を模している。家内安全、五穀豊穣、防火招福のために、大黒柱に掲げて祈ったものである。作者は、家屋の新築や造作に当った大工、壁塗等の職人が作ったものであろう。「ひょっとこ」は火男が火をおこそうとして口先をとがし、頬をふくらましている面相といわれている。本来の釜神は、奥津彦大神、奥津比売大神の二神を指し、大歳神の子として祀られ、それに土祖、即ち埴安神を加えた三座を、大和国の三笠山に祀り、これを荒神と称したといわれ、「三方荒神」または「三宝荒神」といわれてきた。全国的には、それぞれの地域の伝承によって異り、さまざまで、神仏習合のうえに成り立った「家神」「屋敷神」である。祈念祭は、正、五、九の三ヶ月とされているが、正月中や朔日には「餅菓子」や「おはねあり(白米)」を捧げて礼拝する。その米は「饌米」といい、神前に捧げる洗い清めた米をいうのである。
町内のカマ神所在 昭和54年調査 72ケ所(土製55、木製17) 



千厩町 (千厩町のかま神様・オシラサマ 千厩町教育委員会編より)
【町内のかま様について】
かま神様は、名の通り一般的に家の火所に祭ってある例が大多数を占める。この火所としては炉・釜を掛ける為に築いたかまどがあるが、これらに関連する神を意味するものであろう。かまどを考えてみれば、自分たちの生活を維持する為の食物を煮たきする所として、かまどが重要な意味を持っていたことは事は察しのつくところである。かま神の意味するものは何かを今回の調査から拾い上げれば、火難除けを含め家を守る神であるという。又、この他に農神として祭られている例もある。いわゆる、全体を総合すれば生活を守る神としての性格が強いと思われる。
では、このかま神信仰の性格を時代的に考察すれば、『我国における火食の風習は石器時代に始まったといわれている。だとするとこの時代には火を作ることがすでに行われ、火が神秘・霊妙な性質をもっていて、生活にかくことのできない重要な意味と役割をもっていたことであり、われわれの祖先が火に対して畏怖の念を絶えずもっていたことと考えても誤りではない。
一般にいい伝えられているのは「かま神」は家を建てた時点で大工若しくは左官が残材を用いて、その家の主人の顔に似せて作ったといわれているから、古代住民が共同体から分散して各自が家を作るようになったころ、すなわち民家の発生と共に作られたのではないかと考えられる。国の重要文化財となっている北上市の菅野家は享保十三年(一七二八)正月建築と明らかに記されている。
又江刺市の国指定文化財の民家・後藤家はそれより古く元禄八年(一六九五)建築である。いずれも「かま神」が台所の壁にはりつけられている。北上市更木町菅シゲ氏の家(約二百五十年以前の建物)を取壊した時、壁に固着せられた「かま神」が北上市立博物館に保存されている。これによってそれ以前の家屋にも「かま神」があったことが推測される。』(『』内細川魚絞子著東北かま神図説より)
千厩町内の例では、最も古いもので今から約三百三十七年〜三百五十六年前(言い伝えによる)から昭和初期に製作されたものまで幅広くのこっている。現在では前に祭ってあった場所そのままのものは少なく、たいてい新築や改築などにより、同一場所での上下移動や方向を変更し、さらに場所を替えるという様な状態である。しかしここで共通して言える事は、家を新築・改築してもそれを継承し祭っているということが言える。今回の調査では以前に調査したものがすでに他の土地へ譲られたり、壊れたり、さらにはお宮へ納めかろうじて形を保っているもの、全く形を失ったものなどが出ている。しかしこの数は少なく、やはり代々伝わった「かま神」はその家では意識しないまでも、定着したものとなっている事がうかがわれる。
「かま神」の呼称は「かま神」・「かま神様」・「かま別当」・「かま別当様」・「かま大黒」・「かま大黒様」等と呼ばれている。「かま神」と「かま神様」のように”様”がついても同一の呼び名と解釈しても良いであろう。
形態は、大きく分けて土製と木製の二つに分けられる。さらに土製のものは壁土、粘土、その壁土の中でもつたら(壁土の結びつきを強くする為に、壁土の中に藁を細かく切って混ぜてあるもの)の入ったものと、入らないものがある。又、壁土の上に粘土を塗ったものまで様々である。木製のものは、杉・欅・朴などで作られている。大きさは三十センチ〜四十センチのものが多い。表情は笑った顔とにらんだ顔の二つに分類出来るが、ただ中には表情をつかみきれない抽象的なものもある。
最後に、「かま神様」に対する関心度を行事と結びつけて考えれば、大多数の家では格式張った行事は行っていない。他の神様に行う祭と変わりない。ただ、行事が略式化されていったにせよ、これらの家では「かま神様」に対する畏怖や、「かま神様」の威厳というものは昔と変わらず今でも心の奥底に残っているのではないかと感じられる。

【かま神様の説明】
○かま神、カマド神
本州中部にはかま神様がある。信州諏訪湖北では、正月三日をお恵比寿様の年取、かま神様の年取としている。そして鍋、釜のフタの上に、三個の握飯を供えたという。今も北安雲郡や高井郡などには残っている所があって、菜飯、栗飯、赤飯または普通の飯で三個の握飯をつくり、炊事場の目笊、蒸籠の上などにそなえ、一尺位の茅の先端を二寸程折曲げたいわゆるべロベロを刺すか、または白木の箸、オガラ、豆ガラなどでべロべロをつくることもある。握飯は翌朝下げて食べ、夏痩せしないとか風邪をひかぬとか、赤腹(赤痢)にかからぬマジナイになるなど称し、また七草まで置いて粥に入れて食べる所もある。かま神の神体は、長さ七、八寸、径一寸位のトチの木二本を以てそれに充て、注連縄でしかと結び、それにトチの木の細枝で作った鍬柄と鋤とをさすとか、またはタニウツギの枝で削り花を作って添えるとか、或は茅のべロベロ四、五木をさす。昔はお姿を刻んだ所もあった。そして勝手の平釜の上方に小木祠に入れて安置する。神格については多く伝わっていない。しかし器量の悪い女神で、三人、七人、或は多数の子女をもち、気むずかしく、滅多に顔を見せず、平常忙しく貧乏暮しで粟を常食とし、人並に年取ができないでこの日まで延ばした。これをベロベロ神とも称するが、ベロベロ神とも称するが、ベロベロを立てる理由はわからぬ。或は娘の数とも解せられる。お姿を木でつくる代りに文字または絵にかいて貼ることがある。かま神、かま神大明神、竃大神に家内安全、金銀沢山、五穀成就、蚕大当利などの種類をその左右に書いてあるが、往年木をもって作った御姿の代りに、文字で間に合せたものであるらしい(武田久吉、農村の年中行事による)。その神体が二本、対をなす点から、やはり原型は夫婦神ではなかったかと思われる。奥羽のオシラサマを連想せしむるものがあるけれど、これは明らかに釜、カマドの神で、特定の祠にまつる。
竃神も早く天平三年正月、神祇官の手で庭火御竃四時の祭が行われているが、延喜式によれば、肴、菓、膳部を掌る大膳寮に竃神、御膳、進食を先ず嘗める内膳司に平野竃神があり、文徳実録(斉衡二・十二・丙子)、三代実録(貞観元・正・廿七)などによれば、春米、雑穀、諸司食料を掌る大炊事寮にも大八島竃神というものがある。そして御井の祭、御竃の祭というものが行われ、延喜式には竃鳴を鎮める祭の用度も定められている。内膳司では平野竃神の外に、忌火神、庭火神というものを祭るが、これも増鏡で見ると、やはり竃そのものを指すように思われる。百錬抄には、宝洽二年十月廿二日、内膳司が焼亡して、御竃神が焼損したので、これを改鋳することを伝えているがこれも神像ではなしに、中納言以下が供奉する霊物で、女房これを忌まず、男は主上の外沐浴せず、四つ五つに破るるも掛合い用うることが見え、従って宮殿が新営せられたりするときは、この神が祭られたり移されたりする。例えば長暦元年四月二十三日、中宮竃神屋を建てて、これを祭り給い(行親記)、長治二年二月三日、東宮、竃神を高陽院から、高松殿四隣に移している(中右記、為房卿記)。嘉承二年七月、鳥羽天皇が践祚せられ、十二月、即位の式を挙げられて新造の六条内裏に遷られると、内膳屋を六条内裏につくり、竃神を移されて居り(殿暦、中右記)、また康治元年、近衛天皇が土御門殿に受禅せられ十月十四日、三条第から竃神を土御門殿にうつし、更に内膳御竃神は、新院(三条西洞院殿)にうつされた如き、その例である(台記、本朝世紀)。一般民間でも、正月元旦に四方を拝して後に竃神を拝するに至り(江家次第)、そうした点からやはり宅神らしい性質を帯びたので、破産し身代をほろぼすことを、カマド返しと称するのも、この宅神を台なしにするという意である。今でこそ巧みに利権などをあさる人が多くなったけれど、初期に議員立候補などした人々は、概ねカマドを返して、井戸と塀のみが残ったため、井戸へイという斜陽族に陥ったこと、時世の変を思わせる語り草である。
かく家宅、厨の神としての竃神は、当然神社の神饌調進所にも祭られ、たとえば承久元年十二月、大原野社の竃神殿が焼けたので軒廊御卜が行われたことがあり(百錬抄)、貞応元年五月、松尾社の竃神殿も焼けたことがある(承久三年四年日次記)。そして施福神たる厨の神大黒天とはちがって、むしろ恐ろしい神となっている。もともと竃の上から家人の一切の行動を監視し、十二月二十三日(或は月の晦日ともいう)に、天にのぼってその善悪をすべて玉皇大帝に奉告し、善行のものには福と栄えを、悪行のものには災厄を下されるというのがシナの信仰で、(抱朴子、西陽雑俎)、清代には庚申と混じた。
本来わが国の竃神は奥津日子、奥津比売の二神で、大歳神の子とせられる(古事記)。そしてこの二神に土祖即ち埴安姫神を加えた三座を大和の三笠山に祀り、これを荒神と称した(神社啓蒙)。それが三方荒神と称せらるることもあり(和爾雅)、いわゆる三宝荒神と結合して、竃神即ち荒神とせられた。三宝荒神というのは、如来荒神、麁乱荒神、忿怒荒神を指すとも(無障礙経)、或は歓喜天の本身たる障礙神(一に荒神)とも称せられ(瑜義経)、むしろ一切法の障りをなし三宝を荒らす神であるから、修法にさき立ちまずこれを鎮めることが真言密教の大事で、これを荒神供と言っている。従って仏教本来のものではないが、我が国では暦日の上に八王子という大歳、大将軍、大陰、歳刑、歳破、歳殺、黄旛、豹尾などの神のうち、豹尾神の本地を三宝荒神とし春夏秋冬の土用の行疫神として、年により、月によってそれぞれの方位に配し、これを忌みその方位を犯さざるを吉とした。或はスサノヲノ尊に神スサノヲ、速スサノヲという属性的方面を附加して、これを三宝荒神となすこともあるが(諸神記)、古事記に荒神即ちスサブル神からの附会と考えられる。我が国で始めて示現し、金剛山で役行者に感得せられた荒神は、むしろ三宝衛護の神で、浄信修善の者を扶けて、不信進悪の者を罰する故に荒乱神とも呼ばれ、また若干の使者を用いて、帰敬三宝の者を守護し、仏法不信の者を罰する神であった(真俗仏事編)。故に勧善懲悪というか、信賞必罰というべき神で、月の晦日に天に昇って人の善悪を告げると言われる竃神と似た所はあるが、決して同じ神ではなかった。それで荒神は不浄を忌むので、家に於ては竃を浄所とし、火は清浄で不浄をはらうものであるから、竃を住家として荒神を祭るに至ったと説かれるが(真俗仏事編)、或は三つの石を組合わせて竃をつくった習俗が、三宝荒神と結びついたとも説かれる。特に日蓮宗に於ては、竃神を祭っている家の人々に対して、悉く十羅刹女の化身である荒神を拝せしめんがために、便宜厨を選んで荒神を祭ったものと説かれている。
陸中胆沢郡下河原村の竃神社は、後冷泉天皇天喜年間、源頼義・義家父子が安倍貞任を征する時、この地に宿衛して厨を構えた所に、後世小祠を建てて、竃神を祭ったものと称せられる(封内風土記)。また岩代国信夫郡御山村の信夫山の信夫山には、日蝕の日に誕生せられた欽明天皇の皇女を不吉とし、奥州に遷されて身まかりしを羽黒権現として祭るとも、或は皇子停中太命が太子を廃せられてこの地に下向、死後羽黒権現といつき祭るともいう羽黒社があるが、下向の折の従者が、八幡、山王、牛頭大王、天満宮、稲荷明神、三宝荒神の六社を守り羽黒権現に奉仕したと伝えるが、笹木野村、大谷地村の竃神社は、鼎神とも三宝荒神や、在小綱木村の荒神宮をカグツチの神(火神)を祭ると称するなど(信達一統志)、竃神、三宝神が、奥州地方までもち運ばれたことが跡付けられる。我が国ではカマドをクドとも呼ぶが、京都平野神社の祭神である久度神は、むしろ蕃神とせられ、竃神は別に三宝荒神に習合せられ、家神として正、五、九の三長月に祷祭せられたのであった。

【千厩地区】
呼称:かま神様
所在地:千厩町千厩字北方
規格:縦305mm 横245mm 厚さ135mm
白石某氏所有のかま神様は、杉を彫って作られたものであり、特に耳の部分は寄木の方法を採っている。すなわち、耳だけがはめ込みになっており、手でさわると少し動く。又、後部が柱の形に合わせて彫られている。これは以前、台所のウスモチ柱(以後、この柱の名が出てくるが、呼び方はウシモチ柱とも呼ばれているようである)に祭った際に、その柱に固定するために堀られたものであろう。最も、現在ではアトリエ(画室)に、ケースに入れ祭ってありますが。このかま神様の作者は、以前の家を建てた棟梁であると伝えられているが、その年代については不明である。以前には、毎朝かま神様を拝んだというのであるが、現在では、年越に御幣束を立てて正月を迎えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町千厩字東中沢
規格:縦340mm 横370mm 厚さ180mm
小岩某氏所有のかま神は、壁土で作られている。この壁土を固定する為に、柱に竹串を差し、その上に壁土を塗っている。柱にしっかりと固定してある。このような形で柱に固定されているという事は、年代を知る上で大きな手がかりとなる。なぜならば、大抵の場合はその家を建てた時に、同時にそこに祭るという方法をとるから、固定されているということは、家を建てた当時から動かしていない、ということなのであり、その年代は棟札に記されている。残念ながら、この家を建てた年代はわからない。設置場所は台所で、表の方(南東)を向いている。行事としては、旧一月一日・十五日に御飯を炊いて供え、又年越には御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町千厩字西中沢
規格:縦320mm 横310mm 厚さ175mm
小岩某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目にはアワビ貝が入っている。祭っている場所は、台所への出入口向って左に祭ってある。その向いている方向は囲炉裏のある南西を向いているが、以前は現在の位置よりも右側へ祭っていたとのことで、その下にはかまどがあったそうである。行事としては、田植の時、苗七把を昆布で結び、小豆御飯で作ったおにぎり五個位を皿に乗せ、五穀豊穣を祈願するということである。この行事の内容等からみれば、生産とカマド(一家の生活を支える食物を煮炊きするところとしての意味)の関係から導き出されるものは、生産の神様=かまど神ということで、すなわち、生活を守る、生活に密着した神様であるということが言えるのではないだろうか。

呼称:かま神
所在地:千厩町千厩字西中沢
規格:縦325mm 横270mm 厚さ200mm
小岩某氏所有のかま神は、壁土で作られており(中にはつたらが入っている)目にはアワビ貝が埋め込んである。耳はかま神を作る段階で別に耳を作りつけたものである。右耳はとれていてないが、左耳はそれが確認出来る程度にやや残っている。顎の部分も湿気を多分に含んでおり今にも崩れそうであった。今後の保存状態を良くしないと現状維持は危いのではないかと思われる。このかま神、以前は台所に祭ってあったそうで、その斜め前方にはウスモチ柱とかまどがあったそうである。現在はどこにもかけていない。行事は特に行っていないということである。

呼称:かま神
所在地:千厩町干厩字上駒場
規格:縦410mm 横320mm 厚さ150mm
佐藤某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目と口にはアサリ貝が埋め込まれている。大きさはかなり大きいものである。かま神がついたまま柱が切ってある。これは、明治初年に建築した家の台所の柱に祭っていたということで、今とはちょうど反対向き(南西)になって炉の方を向いていたそうである。現在ではウスモチ柱に前の柱と一緒に祭られその前方にはやはり炉がある。前述したように、柱についたまま移動させたという事は、その柱を立てた時の年代がこのかま神の製作年代であることがわかる。すなわち、この家を建てたのは明治初期、今からおよそ百年前以前に作られたものであることがわかる。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるのだそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町干厩字北ノ沢
規格:縦410mm 横320mm 厚さ150mm
伊藤某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目にはアワビ貝、又アワビ貝の小片を歯として用いている。設置場所は、玄関より入って正面、戸棚の上に祭られてある。かなり黒ぴかりしており、しかも目と歯にアワビ貝を使用していることから、かま神が何かをにらみつけている感じを強く受ける。目や歯にアワビ貝等を入れて、その神の表面的(表面的なものは、内面の精神にもこの場合通じると思う)な威厳を増させる事に成功している一つの例であろう。貝を埋め込むことによってこわさを増す場合と、その逆の場合があるようである。当該某家では、かま神を火の守護神として祀っているそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町千厩字鳥羽
規格:縦320mm 横310mm 厚さ160mm
小野寺某氏所有のかま神は、壁土で作られているが、他と異なるところは、表面を粘土で薄く塗ってあるところである。白っぽく見えるところは表面の粘土がはがれ落ち、中が見えているのである。このかま神は、地内にある大黒天の石像の顔と似ており、その石像を真似て作ったと伝えられている。形態的に同一なのは、小梨地区の佐藤某氏所有のかま神、奥玉地区の菊池某氏所有のかま別当である。このかま神、以前は玄関より入って奥のところへ玄関に向けて(南東)祭っていたが、現在では台所に祭り北東を向いている。行事としては正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町千厩字上木六
規格:縦500mm(原形をとどめていない状態なので推定の大きさを記載)
村上某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目にはアワビ貝が入っている。又歯にもアワビ貝の小片が入っていたそうであるが、調査に行った時点では確認できなかった。原型をわずかにとどめているにすぎない。これは、昭和二十七年住宅改築時に氏神の社に納めたので、雨などにより形がくずれたのである。かま神全体には植物の細い根が広がってしまっている。このかま神から確認できたのは、鼻・目・口の一部である。当時の住居は三百年以上たったものだと伝えられ、家にかま神があった当時は、正月に御幣束を立て、餅を供えたそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町千厩字上木六
規格;縦295mm 横225mm 厚さ100mm
村上某氏所有のかま神は、壁土で作られている。このかま神も大黒天に似せて作った感じがする。大黒天を真似て作っても作者によってその顔が様々で、何かとイメージが混じって一つの形として表われるのかもしれない。どの様な形になったにせよ、頭部等から導き出されるものは大黒天である。このかま神の設置場所は、台所の裏出入口向って左側の柱に祭ってある。そのかま神の前にはかまどが置いてある。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神様
所在地:千厩町千厩字上木六
規格:縦260mm 横284mm 厚さ117mm(頭部127mm)
村上某氏所有のかま神様は、きめの細かい壁土、又は塩を加えた粘土のいずれかで作られている。このかま神の鼻の頭と帽子のところが少し欠けたが、その上に墨を塗ったという。顔の形は、後述する藤原某氏所有のかま神と酷似している。詳細については後述するとして製作年代の手がかりである家の建築年代は少なくても一九二年前(天明の時期)にさかのぼるようである。ただ、家の建築年代が古いからこれも古いとは断言できない。なぜなら、柱に固定されたもので無いからである。建物の柱に固定されていれば確実にそう言えるのだが、この例はそうではない。後述する藤原氏のかま神に近い年代と考えてよいであろう。設置場所は台所で、その正面(北北東)にはかまどがあったそうである。 行事としては、正月にしめ縄を飾るくらいである。祖母の代には、かまどに餅を供えたそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町千厩字中木六
規格:縦250mm 横245mm 厚さ120mm
藤原某氏所有のかま神は、壁土で作られており、中にはつたらが入っている。このかま神は、三代前の某氏が豆腐製造の際に火の神として祭ったものなそうである。設置場所は台所で、居間の方(南南西)を向いている。以前は斜め前にかまどがあったそうである。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

【小梨・清田地区】
呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字館前
規格:縦216mm 横220mm 厚さ140mm
小野某氏所有のかま神は、全体が壁土で作られている。口の中に白っぽく見えるものがあるが、これは貝の小片である。これが何貝であるかはわからない。千厩地区のかま神をみていただいたろうから、よく使われる貝がアワビ貝であると第一番目に想像されるだろうが、どうもそれ以外のものらしい。以後、でてくる貝では沼貝、アサリ貝などである。残念なことに右耳前部が損壊している。以前はウスモチ柱に祭ってあったそうであるが、現在では台所の出入口に祭ってあり、かま神は北西を向いている。その向いている方向にはたきぎ置場がある。頭の上からカギが出ている。これで柱のくぎに掛けておくようである。行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字舘前
規格:縦250mm 横220mm 厚さ100mm
小野某氏所有のかま神は、粘土で作られたものである。目にはアワビ貝、口にはアサリ貝の小片がはめ込まれている。このかま神は台所正面戸棚の上に祭られており、南南西を向き、縄で柱に掛けてある。正面から見ると、いかにも薄い面のようであるが、実際は100ミリと結構厚みもある。頭上部から右こめかみにかけて損壊している。この場所から、このかま神の一製作過程を探ることが可能になってくる。むしろ、ここが損壊してこの製作方法が少しわかりかけた一要因になったことは確かである。というのは、縄は単にかま神自体に埋め込んで掛けるだけのものではなく、その埋め込み方法が顔全体に縄を回して固定する方法をとっているということで、ここが他のかま神の製作方法とは異なるところである。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字新田
規格:縦345mm 横375mm 厚さ180mm
西城某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目にはアサリ貝がはめ込んである。眼が白く見えるところと黒く見えるところがある。これは、白い部分が木タールがあまりしみ込まず比較的きれいに見える部分、黒く見えるところが木タール分の厚いところである。照明の関係もあり白く見えるが、実際は全体的に琥珀色をしている。他に特徴としてあげられるのは口である。他のかま神とは異なる形を呈している。この形と酷似しているかま神としては後述する村上某氏所有のかま神と佐藤某氏所有のかま神である。このかま神は台所正面の柱に祭られており、その斜め下にはかまどがあったそうである。かま神の作者は西城八重治郎氏で、約120年前位のものなそうである。行事としては、正月に御幣束を立て、しめ縄を張り、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字宇南
規格:縦300mm 横255mm 厚さ190mm(頭部200mm)
佐藤某氏所有のかま神は、良質の壁土か粘土で作られたものであり、表面には仕上げのためにさらに薄く塗ってある。これには塩を混ぜてひび割れを防いでいるようである。一見して塩が混入されているか否かは判断しかねるが、昔から伝わっている方法では、表面をきれいに仕上げるために、又ひび割させないために塩を混ぜることが行われている。この事に直接結びつくかどうかはわからないが、昔土間を平らめるために土に塩を混ぜ、それを土間に塗り固めたということで、かなり堅く、しかもあまりヒビ割れはしなかったそうである。この家ではかま神を住宅の裏出入口に向って左側の柱に祭っており、やはりその下にはかまどが置いてある。行事としては、正月に御幣束を立て、供物を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字小山
規格:縦430mm 横290mm 厚さ160mm
佐藤某氏所有のかま神は、朴の木で作られており、後述する清田地区の千田某氏所有のかま神と同一の材質である。このかま神はきれいに彩色されており、その色は朱で、その上に黒で髭などが書かれている。これと同一の彩色方法を採っているかま神は、後述する千葉某氏所有のかま大黒である。祭ってある場所は、台所の正面戸棚の上に祭られており、木製の箱に納められている。このかま神は不動明王を形どっており、すなわち火の神として祭ったと思われる。行事としては、年越に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字宇南
規格:縦250mm 横240mm 厚さ100mm
佐藤某氏所有のかま神は、粘土で作られており、目には粘土を丸め入れてあり、歯には貝の小片が入れてある。設置場所は、以前(台所改善前)は戸棚の上の柱に祭っていたが、現在はそこには祭っておらず、箱に入れてある。以前祭っていたという場所の正面にはかまどがある。このかま神は、後述する佐藤某氏所有のかま神と酷似しているのがわかる。

呼称:かま神
所在地:千厩町小柴字宇南
規格:縦260mm 横247mm 厚さ95mm
佐藤某氏所有のかま神は、前述した佐藤某氏所有のかま神と同一の粘土で作られており、目はやはり粘土を丸めて入れてある。こちらのかま神は両眼とも欠けずに入っている。歯はアワビ貝を使用している。設置場所は、ウスモチ柱に北北東に向け、その下にはかまどがあったということである。行事として、御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町小梨字上荒井
規格:縦210mm 横185mm 厚さ80mm
千葉某氏所有のかま大黒は、名のとおり大黒天に似せて作ったものだと見うけられる。木を彫ったものであるが、材質はわからない。裏がみえれば何の木か判断出来るであろうが。このかま大黒は、次の様な事があってから製作されたものだということである。大正十三、四年頃、家族の中に病人が出たので祈祷したところ、「昔、土で作ったかま神がこわれたのをそのまま捨てたので、そのおとがめである」といわれ、その後木で作り祭ったのだそうで、製作年代は昭和初期で作者は、室根村矢越宇曲谷の小松安之丞氏だという。以前は台所に祭っていたが、現在は正反対の場所へ祭ってある。行事として、旧正月十五日・旧八月十五日に精進料理を供え、年越には御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字不動
規格:縦365mm 横320mm 厚さ85mm
小野寺某氏所有のかま神は、壁土で作られており、その壁土の中にはつたらが入っており、目は瞳を白く塗りつぶした土にガラスをはりつけてある。この目は昭和四十年に復原したものなそうである。俗に嫁かくし柱と呼ばれる柱に祭ってあり、南西の方向を向いている。行事として、正月に御幣束を立て、年越祭をするそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字浦ノ沢
規格:縦340mm 横300mm 厚さ170mm
佐藤某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目にはアワビ貝がはめ込まれている。このかま神は、後述する佐藤某氏所有のかま神と作りが似かよった部分があるが、全体から受ける表情の感じは異質である。このかま神を見る時に、他のかま神とは違った異様な感じを受ける。この家では、台所と囲炉裏がある部屋のちょうど中間に位置するところに祭ってあり、玄関の方を凝視しているようである。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字浦ノ沢
規格:縦280mm 横275mm 厚さ180mm
佐藤某氏所有のかま神は、壁土で作られているが、その表面を粘土、またはきめの細かい壁土で薄く塗り仕上げをしている。このかま神は顎が少し欠けている。頭に巻いてあるヒモは、かま神を固定するためのもので深い意味はない。以前は、台所のウスモチ柱に祭っており、その柱の下にはかまどがあったようである。現在は、居間にあり、囲炉裏の方を向いている。このかま神は、宝暦年間(今から二百十年前〜二百二十年前)に、住宅建築の際作ったと伝えられているが、作者はわからない。行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるという。又旧一日・十五日・二十八日には御飯を供えているということであった。

呼称:かま神
所在地:千厩町小柴字浦ノ沢
規格:縦(記載無) 横290mm 厚さ180mm
千田某氏所有のかま神は、粘土とも思えるほど細い壁土で作られており、しっかりと柱に固定されていた様子もうかがわれる。すなわち、壊れた頭部のところに四本の竹串が確認できるからである。この竹串は柱にしっかりと突き刺さり、しかも手前に来るほど広がっているということは、その固定の程度がよくわかるだろうと思います。歯には貝の小片が使用されている。この貝が何貝だかはわからない。このかま神は、裏出入口に向って左側の柱に祭ってあるが、以前は現在の位置より左側に奇っていたという。やはりこの斜め下にはかまどがある。行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるという。付け加えておくが、縦の寸法は頭部損壊のため、正確な数値が出ず、記載しなかった。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字浦ノ沢
規格:縦380mm 横335mm 厚さ180mm
村上某氏所有のかま神は、粘土で作られており、そのかま神の後には板がつけてある。その板によってかま神を柱に固定するという方法を採っている。目には、アサリ貝がはめ込んである。顔の形態は、後述する佐藤某氏所有のかま神と、前述した、口の形が似ている西城某氏所有のかま神が近い。佐藤某氏所有のかま神との比較は後にすることにして、頭部(右上)が欠けていることがわかる。なぜ欠けたのかは不明である。行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるという。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字不動
規格:縦460mm 横440mm 厚さ330mm
村上某氏所有のかま神は、壁土で作られている。柱に縄を巻き、その上につたらが入った壁土を塗りつけて作る。この塗りつけた壁土は厚く、三三〇ミリ(千厩町内に三〇〇ミリ台の厚さはない)である。全体的に小さい感じは受けるが、規格に書いてあるように、顔の縦四六〇ミリ横四四〇ミリと大きいものである。この大きさは、町内では千厩地区の佐藤某氏所有のかま神である。厚さは一一〇ミリも違うが、面の大きさは同じ位である。又、小梨地区の西城某氏(後述)、磐清水地区の菅原某氏(後述)所有のかま神も大きいものである(縦・横四〇〇ミリを超すもの)。このかま神は、裏出入口に向って左側の柱に祭られており、向いている方向には囲炉裏がある。行事としては、正月に御幣束を立てるという。

呼称:かま神
所在地:千厩町小梨字新地
規格:縦330mm 横350mm 厚さ155mm
佐藤某氏所有のかま神は、粘土、またはきめの細かい壁土で作られていると思われ、目にはアサリ貝がはめ込まれている。このアサリ貝に木タールがついているために、目が光って見える。このかま神は、以前ウスモチ柱にかけられていたが、後に裏出入口向って左側に祭り、その正面にはかまどが置いてある。行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるという。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町小梨字尖ノ森
規格:縦275mm 横300mm 厚さ150mm
岩淵某氏所有のかま大黒は、つたらが入った壁土で作られており、裏板とかま大黒が縄で固定されている。このかま大黒は、岩淵某氏より四代前、千厩字鳥羽村上某氏宅より養子を迎えたその当時の作らしく、北ノ沢地内にある大黒天の作者と同一だと伝えられている。以前はウスモチ柱にかけ、祭っていた。向いている方向には囲炉裏があった。現在は台所に祭っており、以前とは反対方向を向いている。

呼称:かま別当
所在地:千厩町小梨字堂ケ崎
規格:縦500mm 横400mm 厚さ230mm
西城某氏所有のかま別当は、壁土で作られており、目にはアワビ貝が使用されている。右目に使用していたアワビ貝は取れてしまっている。規格をみていただければ、このかま別当がいかに大きいものかがおわかりいただけると思う。前述した千厩地区・佐藤某氏所有のかま神、小梨地区・村上某氏所有のかま神、後述する磐清水地区・菅原某氏所有のかま神も大きいものであるが、西城某氏所有のかま別当は縦五〇〇ミリ、横四〇〇ミリと群を抜いている。このかま別当は、ウスモチ柱に祭ってある。製作年代は、今から約二百五十年(享保年間)に作られたものらしいとの事である。行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるという。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町小柴字時ノ沢
規格:縦285mm 横255mm(頭部265m) 厚さ45mm(頭部60mm)
西城某氏所有のかま大黒は、壁土で作られており、他には例を見ない非常に珍らしい形をしている。耳が正面を向き、目じりは顎のところまで来ている。又、頭は四角い。これらが合わさって異様な雰囲気をかもし出しているのであろう。さらに、右耳が欠けていなければ現在でも顔の左右は対称的であったろう。このかま大黒は、ウスモチ柱に祭られている。作者は千厩宇西中沢の金野安治氏(現在の代より三代前)であり、明治の中頃に作られたものではないかといわれている。行事として、旧十二月十八日「かま大黒の年越」として御幣束を立て、餅を供えるという。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町小梨字尖ノ森
規格:縦260mm 横190mm 厚さ135mm
佐藤某氏所有のかま大黒は、つたらの入った壁土で作られており、はぼ円形の形体をしている。顔全体の割合からすれば目は大きく、耳も大きい。口を引き締めいかにも何かを凝視しているようであるこのかま大黒の作者は、小梨の佐藤初吉氏で、今から約六十年前というから、大正時代に作られたものにほぼ間違いはないと思われる。その他の詳しい事はわからないそうである。設置場所は、居間であり、玄関の方(南)を向いている。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町清田字大金山
規格:縦440mm 横280mm 厚さ110mm
伊藤某氏所有のかま大黒は、杉を彫ったもので、頭部に彫られている二股の形は宝冠を表わしているのであろう。この頭の形に似せているのが後述する伊藤某氏所有のかま大黒である。大きさなどは違うが、両方とも同一のものに似せて作った感がする。祭っている場所は、台所にある大黒柱である。かま大黒は炉の方(南東)を向いている。このかま大黒は、明治十年に住宅を新築する際に作ったものなそうである。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町清田字北沢
規格:縦450mm 横320mm(頭部360mm) 厚さ100mm
伊藤某氏所有のかま大黒は、前述の伊藤某氏所有のかま大黒と同様、杉を彫ったものであり、頭に彫られているものはやはり宝冠を表わしているのであろう伊藤某氏所有のかま大黒とは受ける感じは違う。どちらかというとこちらは面長の感じを受ける。規格を見てもらえばわかるように、伊藤某氏所有のかま大黒は縦四四〇ミリ、横二八〇ミリと実際は細いのであるが、彫り方によってこの様に受ける感じは全く違ってくる。もう一つ違うところを上げれば、こちらの目にはアワビ貝が入れてある。これは復元したものなそうで、これも違った雰囲気をかもしだしているのかもしれない。祭っている場所として以前は台所の出入口向って左側の柱に祭ってあったが、現在では柱からはずして二階のすみに置いている。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町清田字扇ノ洞
規格:縦280mm 横210mm 厚さ105mm
藤原某氏所有のかま大黒は、壁土で作られており、人の顔に近い顔形をしている。「かま神」については、その家の主人に似せて作ったものであるという説も出ている。その説は一部の「かま神」にあてはまるのではないかと思う。このかま大黒もそのような気がしてならないのである。「かま神」はその他に大黒天に似せて作ったというものもあり様々である。かま大黒は、二階に祭ってある。この家では行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。又、餅などをふかした時は、そのふかし湯少量を三回かま大黒にかけるという事である。さらに餅をついた時はなべのふたに小さく切った餅三つを供へ、これを「大天馬(加真土大神)様に差し上げる」といっている。

呼称:かま神
所在地:千厩町清田字赤坂
規格:縦335mm 横325mm 厚さ145mm
伊藤某氏所有のかま神は、粘土か、きめ細かい壁土で作られており、目にはガラスが埋め込んである。このかま神も人の顔に近い形をしている。頭は大黒天の帽子をかぶった形に彫られている。このかま神は、台所にある裏出入口の上に祭られており、囲炉裏の方を向いている。かま神はお宮の中にきっちりと納められている。行事としては、年越に御幣束を立て、餅を供えるのだそうである。その他に旧九月八日、大日如来の縁日として行っている氏神の祭りの時、これと一緒にかま神の祭りを行ない神饌をささげて家族だけで参拝するそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町清田字境
規格:縦310mm 横245mm 厚さ80mm
千田某氏所有のかま神は、朴の木を彫って作られたものであり、眉毛には馬の尾が使用されている。眉や髭に馬の尾が使用されている例は、奥玉地区の畠山某氏所有のかま大黒がその例である。かま神の表面には漆が塗ってある。祭っている場所は、以前使用していた台所の大黒柱(嫁かくし柱)に祭ってあり、東向きになっておりこの下にはかまどがあったそうである。このかま神の製作年代は寛永年間(今から約三百三十七年〜三百五十六年前)以前、住宅を建てる際にこのかま神も作ったと伝えられている。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町清田字融実
規格:縦310mm 横240mm(頭部300mm) 厚さ135mm
芳賀某氏所有のかま大黒は、壁土で作られており、その壁土の中にはつたら等は入っていない。写真を見ると、以前柱と壁に固定されていたもので、最初に柱に縄を巻き(縄が見えるが、それが巻いてあった)その土に壁土を塗りつける方法をとっていることがおわかりいただけると思う。柱に巻きついていたという事は、かま大黒の後に柱の跡がはっきり残っていることからもわかるであろう。このかま大黒は、今から七代位前に作られたものらしいとの事で、約二百十年位前のものであろうと思われる。設置場所は、現在では台所と土間の境に祭られており、柱に直接結び付けてはいけない。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

【奥玉地区】
呼称:かま別当様
所在地:千厩町奥玉字払川
規格:縦425mm 横255mm 厚さ200mm
及川某氏所有のかま別当様は、壁土で作られており、その中にはつたらが入っている。このかま別当様についての話は江戸時代にさかのぼる。千葉大膳なるもの中日向より根山に移り住居をかまえた時に、壁塗(左官)が作ったと伝え られている。この千葉家ではその後、小野寺家にその建物を譲ったのだという。このかま別当が及川某氏のところにあるのは、小野寺氏の父が及川家にこのかま別当を譲ったからだという。作られた年代は、はっきりわからないそうである。設置場所は、居間で玄関の方を向いている。行事としては、正月に御幣束を立てるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町奥玉字天梅
規格:縦260mm 横240mm 厚さ90mm
千葉某氏所有のかま神は、壁土で作られている。顔の中央部を除いてはほとんどこわれている。右ほおの部分は欠けてしまっている。頭部はただ上に置いているという状態である。この様に、こわれてしまってからは棚の上に祭っているが、こわれる前は大黒柱に掛け祭っていたそうである。方角的には、現在は東北東を向いており、その方向には大黒柱がある。以前は南南西を向いており、向いていた方向には玄関がある。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字鶴ケ段
規格:縦400mm 横300mm 厚さ160mm
千葉某氏所有のかま別当は、杉を彫ったものである。正面から見た感じは、かなり厚そうなかま別当であるが、実際は、あまり厚くはない。木彫りでこの様に落ち着きを持たせてあるものは少ない。他のかま神が“動”であるとすれば、このかま別当は“静”である。柱に壁土でも塗りつけて作ったように見える程彫り方がなめらかである。このかま別当の製作年代については次の通りである。先祖は松川より移り住居を構え(年代不詳)、その後文政年間かそれ以前に改築(文政五年の護摩供養の棟札より見て、文政五年前後)したといい、その当時作ったものらしいとのことであった。設置場所として、以前は大黒柱に祭っていたが、改築後炊き場に移したそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字大平
規格:縦450mm 横350mm 厚さ200mm
畠山某氏所有のかま別当は、杉を彫ったものである。口を引き締め、目は何かを凝視している。独特な顔をしたかま別当の一つである。木製としては、かなり大きく、重さも大部ある。同じ木彫りでも千厩地区・白石某氏所有のかま神と比較してみると、畠山某氏所有のかま別当はかなり彫りが深い。これを祭る為に、耳の位置に穴があいている。この穴に縄などを通して掛けたのである。 このかま別当は、明治十一年(今から百二年前)に住宅を再建する際に大工が作ったものであると伝えられている。設置場所は、大黒柱に掛け、玄関の方(南西)に向けている。行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるという。

呼称:かま大黒
所在地:千厩町奥玉字大平
規格:縦270mm 横270mm 厚さ250mm
畠山某氏所有のかま大黒は杉を彫ったもので、耳は寄木目と歯にはアワビ貝がはめ込んである。まゆとひげには馬の尾が使用されている。これと同じ例で、清田地区・千田某氏所有のかま神がある。二つだけの例で疑問を投げかけるのは無理かと思うが、何故馬の尾が使用されるのか、何かそこに意味があるのか考えさせられる。名前のとおり、大黒天を真似て作ったものであろうこのかま大黒は、天保年間(今から一三七年〜一五〇年前)に火災にあった際に住宅を再建、その当時作ったものであると伝えられており、火の神として祭っているそうだ。設置場所は、以前は家の北側に祭っており、その前にはかまどがあったそうである。現在は台所の西側に祭られており、東南東を向いている。行事として、御幣束を立て、餅を供えるという。

呼称:かま神
所在地:千厩町奥玉字此手
規格:縦340mm 横335mm 厚さ90mm
干葉某氏所有のかま神は、土を焼いて作ったものであり、眉などの表わし方は独特である。このかま神の厚さはあまりない。形は達うが土を焼いて作ったかま神は後述する菊池某氏所有のかま別当、熊谷某氏所有のかま別当などがある。土で作り、年代が古いものは焼いて作ったものかどうか判断しにくい。唯一の手掛りとなるものはたたいた時の音と、その外側及び内側に焼けた縄等の跡があるかどうかで決めるしかない。設置場所として、以前はウスモチ柱に祭っていたが、住宅改造後、以前祭っていた場所に向って左寄りに祭られている。今後は、ウスモチ柱があった反対側に祭るそうである。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町奥玉字宝築
規格:縦360mm 横320mm 厚さ120mm
藤野某氏所有のかま神は、杉を彫ったもので、輪郭及び舌が朱に彩色してある。このかま神と同一の作者が作ったとされているものが、後述する千葉某氏所有のかま別当様である。似ているとはいえない。このかま神は、以前奥玉字立石沢に居住していた及川亀寿作のものであると伝えられている。実在していた人である事は千葉某氏所有のかま別当様の裏に名が書いてある事が証明してくれ る。製作年代は、どちらも同一時期(明治三十五年前後、今から約七十五〜八十年前である)のものだと思われる。設置場所は、居間であり北寄りに祭られており、玄関の方を向いている。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字松森
規格:縦300mm 横300mm 厚さ160mm(頭部170mm)
藤野某氏所有のかま別当は、壁土で作られており、目にはアワビ貝が使用されている。設置場所は、台所戸口真上の柱に祭っており柱に直接塗りつけてある。これは、前述したように、この家の建築年代と深いかかわりを持つ。当家は今から七代前の時に建てられたものなそうで、少なくても今から二百十年前(宝暦・明和・安永年間)頃に建てられたものではないかと思われる。すなわち、この家の建築年代とかま別当の製作年代は同一である可能性が高いとすれば、このかま別当は二百十年は経っていると考えられる。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町奥玉字松森
規格;縦155mm 横170mm 厚さ(記載無)
藤野某氏所有のかま神は、きのこ(サルノコシカケ科のきのこであるか)をそのまま祭っている。自然のものであるから、写真のように凹凸を目や鼻の形に見たてているのである。このきのこで表わしたかま神以前のかま神は壁土で作られていたそうで、それがこわれてしまい、当時猟師をしていた彦作なる者が、野山において見つけたきのこがかま神に似ていたので、それを採り帰宅、その後当家ではこれをかま神として祭っているという。このきのこがかま神として祭られるようになったのは、今から約百年前(明治)の事なそうである。この家のように、きのこ自体をかま神として祭っている家は、千厩町ではこの家だけである。設置場所は、下屋の炊事場中央の柱に祭られてある。行事として、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうで、一月十五日まで参拝するそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町奥玉字吉立
規格:縦210mm 横200mm(頭部210mm) 厚さ60mm
吉田某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目には貝が埋め込んである。右耳・鼻の先端・下くちびる等所々こわれていることがわかる。又、右耳上部からあごに欠けてひびが入っていることもわかる。鼻の先端がかけているので、その欠けたところから測った長さを厚さとし規格に記した。設置場所は、現在改築した住居なので祭っていた場所は確認できなかったが、現在は箱に納めし まってある。行事としては、毎年正月に御幣束を立て、小さい門松を供えたそうである。又、餅をついた時には、必ず水を入れた皿に小さく切った餅をひたし、供えるそうである。

呼称:かま大黒様
所在地:千厩町奥玉字吉立
規格:縦320mm 横285mm 厚さ90mm(頭部100mm)
吉田某氏所有のかま大黒様は、壁土で作られており、裏板にしっかりと取り付けてある。この裏板を利用して柱に固定する方法をとっている。以前設置されていた時の写真をみると、角くぎで上下が留められている。参考までに、角くぎが使用されていた時期は明治期頃である。厚さは、正面から見た感じ程、厚くはない。設置場所として、以前は台所の柱に祭っていたが、今後は以前の場所より半間左手前の柱に祭るという事であった。行事として、正月には供物をあげたり、毎月線香をあげていたそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉宇吉立
規格:縦400mm 横350mm 厚さ85mm
吉田某氏所有のかま別当は、桜の木を彫って作ったもので、十五年前に作り替えたものなそうである。以前のかま別当は、壁土(つたらが入っていたそうである)で作られてあったそうで、そのかま別当は現在お明神様に納められている。このかま別当は、かまどを作った時の残土で作ったといい、又現在のかま別当は吉田某氏の父(八十八才位の頃)が作られたものなそうである。現在奥玉字上川原千葉某氏の所有しているかま別当様二例のうち一例は、当家(吉田氏)から大原の菊地某氏へ譲られ、さらに干葉氏のところへ譲られて行ったものなそうである。かま別当が設置されている場所は、台所付近である。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字中日向
規格:縦195mm 横180mm(頭部215mm) 厚さ120mm
菊池某氏所有のかま別当は、土を焼いて作ってあり、菊池某氏(現在仙台在住)の先代(氏名不詳)がかまを作り焼物を製作した当時のものらしいということであった。このかま別当と似ているのは、千厩地区・小野寺某氏、小梨地区・佐藤某氏の所有しているかま神である。設置場所は台所である。行事として、年越に御幣束を立て、供物を供えるという。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字中日向
規格:縦195mm 横155mm 厚さ90mm
熊谷某氏所有のかま別当は、土を焼いて作ったものである。このかま別当は、金兵衛氏(昭和二十年八月五日死亡、六十九才)が病弱なので祈祷してもらったところ、「かま別当を奉斉すると健康になる」と言われ、鉄ふき(鋳物を作る) の所へ行って作ってもらったものなそうである。初めて見る時に、他のかま神とはかなり違ったものに見えるこのかま別当は、よく見ると普通の面相であり、この様に見えるのは額と目の表現によるものである。裏に左から「悪疫退散」「火の用心」「家内安全」とほられていることがわかる。これは、かま別当へ祈願しほられたものであろう。設置場所は台所である。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字入山沢
規格:縦365mm 横270mm 厚さ220mm
小野寺某氏所有のかま別当は、壁土で作られており、その作り方は巻いた縄を土台にしてその上に壁土を塗りつける方法をとっている。それを土台に置いている。後ろに見える柱は手斧(ちょうな)削りの柱である事から古いものであることは間違いないであろう。目にはアワビ貝が入っており、下から見ると光って見える。このかま別当は、この家では火防神として祭っている。みると臼持柱に表向きに祭っている事がわかる。向いているその方向には玄関がある。 行事としては、正月(小正月)に御幣束を立て、供物を供えるそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字竹ノ下
規格:縦325mm 横393mm 厚さ160mm(頭部165mm)
小野寺某氏所有のかま別当は、杉を彫って作ったものである。耳と舌は寄木である。このかま別当は後述する及川某氏所有のかま別当と似た形をしている。特に口およびその回りの処理はかなり似ている。ただ、頭の彫り方に注目していただくとわかるように彫り方にやや違いがみられる。当家のかま別当の製作年代はわからないが、大正十二年頃火災にあい、その翌年建てた住宅が現在のものだといい、このかま別当はそれ以前のものだということである。設置場所は、台所と土間の境(土間寄り)の柱で、囲炉裏の方を向いている。行事としては、年越および正月十五日には御幣束を立て、供物を供へ、参拝するそうである。

呼称:かま別当様
所在地:千厩町奥玉字上川原
規格A:縦360mm 横260mm 厚さ130mm
規格B:縦385mm 横285mm 厚さ170mm
干葉某氏所有のかま別当様は、二例あり、Aは欅、Bは杉を彫ったものである。Aについては、この裏に書かれた文字から作者は折壁の和尚であり、当時奥玉に住んでいた及川亀寿氏である。明治三十五年旧正月十五日に作成したもので、千葉某氏に頼まれて彫ったものらしい。前述した藤野某氏も同一作者のかま神を祭っている。設置場所は、土間のウスモチ柱に祭っており、その下には以前ひらがまがあったそうである。行事としては、正月にしめなわを飾り、御幣束を立て、餅を二つ供えるということであった。Bについては、前述したように古田某氏のところから大原の菊地某氏のところへ譲られ、さらにそれが当家へ譲られてきたものである。これについては、座敷に置いているそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字立石沢
規格:縦416mm 横380mm 厚さ110mm(頭部125mm)
及川某氏所有のかま別当は、杉を彫ったものである。前述したように、このかま別当は、小野寺某氏所有のかま別当とよく似ている。大きさ等違うが、口の回りの処理が大変よく似ている。旧屋敷は現在の住居下にあり、屋号は立石屋敷と呼ばれていたという。当時かま別当が二つあったのだそうだが現在は一つだけということである。設置場所は、台所の柱に祭ってある。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えたという。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字町下
規格:縦421mm 横372mm 厚さ150mm
小野寺某氏所有のかま別当は、欅の木を彫ったものである。小野寺家としてこのかま別当を祭った始まりは、近隣の宍戸某氏の祖父から譲りうけたものなそうで、譲りうける以前は、宍戸家が住宅建築の際にウスモチ柱の下で作ったと伝えられるものである。このかま別当が祭ってある場所は台所で、その下にはかまどが置いてある。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字越田沢
規格:縦336mm 横260mm 厚さ210mm
佐藤某氏所有のかま別当は、壁土で作られたもので、目にはアワビ貝が使用されている。又、歯にも貝の小片(アワビ貝)九枚が使用されている。このかま別当は、縄で形を作った上に壁土を塗りつける方法をとっており、中に竹串を差し込み、これによって本体を柱に固定したのである。柱から取りはずした跡が見える。この家は先代(三代前)佐藤某氏宅より弟某氏が分家、それ以前の、もとの家は佐藤某氏の所有宅であり、その先代からあったかま別当であるという。旧墓地から推定すれば、約二百八十年位前のものと思われる。設置場所として、以前は裏出入口わきの水がめの所の柱に祭っていたが、現在は茶の間の神棚に祭っている。行事としては、正月に御幣束を立て、しめなわを張り、餅を供えたそうである

呼称:かま神様
所在地:千厩町奥玉字刈屋野
規格:縦375mm 横338mm(頭部348mm) 厚さ170mm(頭部185mm)
菊地某氏所有のかま神様は、壁土の上に粘土を薄く塗りつけたもので、その中に塩が混じっているために焼いたように固く引き締まっていると思われる。この事は又、表面の粘土が少しはがれかかっているところから、上に薄く塗ってあることがわかるのである。後側にはムシロの跡が残っており、しかも中にもムシロの切れ端のようなものが入っている。このことからムシロを土台にして形を作ったものだと思われる。形としては、前にもよく出て来たように大黒天を真似て作ったものだと思われる。このかま神様を祭っている場所は、以前には裏出入口の左側より北東に三尺程離れた柱に祭っていたが、現在では台所で、家の左側に寄り表を向いて祭られてある。以前祭られていた場所の下にはかまどがあったという。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるという。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字梨木洞
規格:縦390mm 横360mm 厚さ170mm
千葉某氏所有のかま別当は、壁土で作られており、目には沼貝をペイントしたものを使用している。このかま別当の目には以前アワビ貝が使用されていたのだそうだが、それが取れたので、現在使用している沼貝にかえたのだそうである。このかま別当は台所に祭っており、その斜め下にはかまどが置いてある。行事としては、現在年越に御幣束を立て、餅を供え参拝しているが、昭和三十五年頃までは、田植の時に苗三把と小豆御飯のおにぎり三個を供へ、五穀豊穣を祈願したそうで、この家と同じ例が前述した千厩地区の小岩某氏所有のかま神についての行事である。そこで書いた文を読んでいただければ、この行事とかま神との関係から、かま別当が何を意味するのかがわかっていただけると思う。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字深芦沢
規格:縦400mm 横350mm 厚さ160mm
金野某氏所有のかま別当は、壁土で作られており、柱に塗り付けられてある。 横から見ると途中から切り取られた柱だという事がわかる。この柱は、以前台所の柱の一部として用いられていたものなそうで、柱を取り替える際に柱を切って、このかま別当を保持したのである。何度か記述したであろうが、この様に柱にしっかりと塗りつけてあるかま別当は、この柱を建てた年代に一致する可能性が強いと言える。しかし、当家での建築年代が定かではない為に、このかま別当の正確な製作年代をとらえる事は出来ないが、柱の削り方が手斧削りであるため古いものと考えられる。現在の設置場所は台所で、その下にはかまどがある。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供え、参拝したそうである。

呼称:かま別当
所在地:千厩町奥玉字金取沢
規格:縦265mm 横280mm 厚さ110mm
全野某氏所有のかま別当は、粘土か、またはそれに近い土で作られており、やはり前述した例の様に、土を固めヒビが入るのを防ぐ為に塩を混ぜているのであろう。目には瀬戸物の一片が使用されている。薄目をあけて、やや笑いかげんの顔の表情からは、同じ笑い顔とはいっても異様な感じを与えるようである。それは、この目の奥に白く見える瀬戸物のせいであろう。このかま別当は、裏出入口の真上の柱に祭られており、居間の方を向いている。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:不明
所在地:干厩町奥玉字中日向
規格:不明
一度川崎村の方へ譲り渡されたが、近日中に千葉氏のところへ返還にな る予定である

【磐清水地区】
呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字下向
規格:縦390mm 横385mm 厚さ93mm
菅原某氏所有のかま神は、壁土で作られており、壁土の中にはつたらが含まれている。あごの右下が少々欠けているがその他はこわれていない。頭には大黒天のずきんをかぶせた様に形作っている。実際は大黒天を真似て作ったのかもしれないが。このかま神は柱に直接塗りつけている事がわかる。その塗り付ける際に柱になわを巻き、その上に塗りつけてある。やはり、この例も以前の家の建築年代がわかればこのかま神の製作年代もわかるのだが、当家では、建築年代はわからないという。設置場所として、以前は台所裏出入口に向って右側に祭っていたが、現在では居間の神棚へ祭っている。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供え参拝するそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字二本松
規格:縦290mm 横370mm 厚さ220mm
小岩某氏所有のかま神は、壁土で作られており、壁土の中にはつたらが含まれている。目と歯にはアワビ貝が使用されている。柱にはなわが巻きつけてあり、その上に壁土を塗りつけてある。前述した菅原某氏所有のかま神と作り方の基本は同じである。写真をみると柱に横板がついている事がわかる。この横板も壁土が落ちるのを防いでいるのであろう。前にも述べた様に、この様な形で柱についているのは、おおよその製作年代がわかるのだが、当家の建築年代がわからない為製作年代もわからない。設置場所として、以前は台所と居間の間に祭られてあったそうであるが、現在では別棟に保存しているそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字新山
規格:縦415mm 横427mm(頭部371mm) 厚さ120mm
菅原某氏所有のかま神は、檜を彫ったものである。まゆ・目・口・ひげにはそれぞれ彩色されてある。このかま神は大黒に似せて作ったものだと思われる。以前には、土で作ったかま神があったそうであるが、こわれてしまったので大正六年三月に作り替えたのだそうで、室根村折壁の及川慶龍作であるという。 現在は、箱に入れて祭っているそうで、以前には祭っている下にかまどがあったのだそうである。行事としては、旧十月一日を祭日として、家族で供物を供えて参拝しているそうで、又正月には御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字寺田
規格:縦400mm 横320mm 厚さ195mm
小野寺某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目には以前何かがはめ込まれていたと思われる形跡がある。このかま神の作り方は変わっており、なわの上に壁土、その上になわ、又その上に壁土という様にして作られている。割れ難くしてあるのだろうが、改築の際目から下の白い部分がこわれてしまったそうで、復原され今の形を保っている。白っぽく見える部分が復原された部分である。このかま神は、寛政三年(一七九一年・今から百八十八年前)に住宅を 建てる際に作られたものなそうで、この時の棟梁は仏坂の伊之助という人と伝えられているそうである。設置場所は、土間から台所への戸口に向って右側に祭られてあり、居間の方を向いている。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供え参拝するのだそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字大沢田
規格:縦430mm 横326mm 厚さ110mm
小野寺某氏所有のかま神は、壁土で作られており、壁土の中にはつたらが入っている。目と歯にはアワビ貝が使用されており、かま神を固定する為に竹串が使用されている。耳の下にひびが入っているが、かま神がくずれ落ちる程のものではない。完全にひびが入ったとしても、それ以上動かなければ落ちない。それ位柱に固定されている。この例も柱に固定したものであるから建築年代がわかれば、製作年代もわかるが、当家でも建築年代はわからないそうである。 設置場所は台所である。行事としては、別に何も行なっていないということである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字下川原
規格:縦400mm 横335mm 厚さ260mm
小野寺某氏所有のかま神は、壁土で作られており、中につたらが入っている。壁土を柱に塗り付ける際に、この柱にはなわは巻いていなかったので、固定する為中に竹串が入っているのではないかと思われる。この例も、建築年代がわかれば製作年代もわかるのであるが、やはり建築年代がわからないという。設置場所として、以前は土間と附屋の境に祭っていたそうで、その下にはかまどがあったそうである。現在では、かまど専用の部屋を作り、その部屋のかまどの後に祭られてある。行事としては、年神に奉供するのと同じ様に、御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字下川原
規格:縦400mm 横300mm 厚さ100mm
小野寺某氏所有のかま神は、壁土で作られており、中にはつたらが入っている。又、目にはアワビ貝がはめ込まれている。このかま神は、回りが白壁なだけに浮き出て見える。他のかま神の様に表面を仕上塗りしておらず、つたらが入っている様子がわかる。設置場所は台所で、以前は柱と壁に直接塗り付けてあったが、現在ではその壁の上に白壁を約ニセンチ程塗ったので、柱及び壁は見えない。ここの例も前例と同様に建築年代がわかれば製作年代がわかるのであるが、建築年代はわからないという。行事としては、正月に御幣束を立て、餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字北山
規格:縦300mm 横270mm 厚さ140mm
小野寺某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目と歯にはアワビ貝が使用されている。このかま神も前例のごとく柱に直接塗り付けてある事から、この家の建築年代が唯一の手懸であったが、残念ながら建築年代はわからないそうである。設置場所は土間で、斜左下にはかまどがあり、かま神の向いている方向には囲炉裏がある。行事としては、以前味噌炊きをした際に、火の無事を祈り赤飯を供えたそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字胡桃舘
規格:縦400mm 横315mm 厚さ185mm
菅原某氏所有のかま神は、壁土で作られており、その中にはつたらが入っている。目にはアワビ貝が使用され、歯として木を削ったものが埋めてあった。このかま神の作られた年代は少なくても今から約百二十年以前(万延及び安政以前)と思われる。なぜなら当家自体が今から六代前の吉右エ門の時に建てた家だからである。このかま神に関して次の様な事が起ったと言われている。旧の十二月二十七日(この日をかま神の煤払いの日としている)でない日に祖母の叔母であるきく氏がかま神の目を掃除したそうである。そうしたらその後眼病にかかったというので、それ以後は、その日以外には煤仏いはしなくなったそうである。祭りはこの日の他に正月三ケ日は御幣束を立て、餅を供へ参拝するという。設置場所として、二階に祭っている。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字流川
規格:縦415mm 横400mm 厚さ155mm
千葉某氏所有のかま神は、壁土で作られており、目と歯にはアワビ貝が使用してある。やはりこれも前例のごとく、柱と壁にかま神が塗り付けてあるところから、今から五代前の時に建てられたこの家と同一年代であろうと思われる。すなわち、少なくても今から約百五十年前頃(天保年間かその前後の年間)に作られたものであると思われる。設置場所は台所で、玄関の方を向いている。 当家では、かま神を火の神として祭り、御幣束を立て餅を供えるそうである。

呼称:かま神
所在地:千厩町磐清水字沼田
規格:縦306mm 横245mm 厚さ128mm
渡辺某氏所有のかま神は、桐を彫って作ってある。目には小さな穴をあけて瞳か目玉を表わしたのであろう。木を彫って作ったかま神は他にもあったが、この様な形に彫ったかま神は千厩町ではこれだけである。設置する為の方法として、裏側が丸く削られているのは住の形に合わせて固定するためだったのだろうか。又、面上部裏側に穴があけられており、その穴を使って釘等に掛け、下の穴で完全に固定する様にしている。上部の穴は表からは見えない。昭和三十九年以前は厩舎と住宅の間にあった飼料を煮る釜の近くの柱に祭っていたが、現在は住宅の方へ移し、祭っている。当家では、かま神を火の神として祭っているようである。



花巻市(花巻市史第3巻より)S56
炉の神について
かまどの柱に面(めん)をうちつけておく所もある。又小さなへらを無数に火だなにつるしておくところもある。庚申様だともいっている。

迦具土神(竈神)火防の神が祀られている。木のお面、男や女の顔。別けても女顔が多い。但し、その家の人が彫った素人細工でお粗末なもの、また、或は家を建てた時に壁と一緒に塗り付けた泥のお面もある。



江刺市【江刺市のかまど神(著者:畠山喜一)より】
かまど神の呼び名
江刺市のかまど神の呼び名
@カマシンゾー カマは竈(かま、かまど)、シンゾーは子供のこと。
Aヒョットコ 佐々木喜善の江刺郡昔話(大正十一年)の中にある。または、火男から訛ったと云う説。
Bかま地蔵 江刺市米里宇野里、佐藤某氏の場合(筆者採集)

ひょっとこの始まり
ある所に爺と婆とがあった。爺は山に柴刈りに行って、大きな穴を一つ見つけた。こんな穴には悪いものが住むものだ。塞いでしまったほうがよいと思って、一束の柴をその穴の中に押し込んだ。そうすると柴は穴の栓にはならずに、するすると穴の中に入っていった。また一束押し込んだがそれもその通りで、それからもう一束と、もう一束と思ううちに三月が程の間に刈り進めた柴を悉く穴へ入れてしまった。
  その時、穴の中から美しい女が出て来て、沢山柴を貰った礼を云い、一度竈の中に来てくれという。あまり勧められるので爺がついて入ってみると、中には目のさめるような立派な家があり、その側には爺が三月程もかかって刈った柴がちゃんと積重ねてあった。美しい女に此方に入れといわれて、爺は家の中について入ってみると立派な座敷があり、そこには立派な白髪の翁が居て此所でも柴の礼をいわれた。そして種々と御馳走になって帰る時、これをしるしにやるから連れて行けといわれたのが一人の童(ワラシ)であった。それは何んともいえぬ見っともない顔の、臍(ヘソ)ばかりいぢくっている子で、爺も呆れたが是非呉れるといわれるので、とうとう連れて帰って家に置いた。 その童(ワラシ)は、爺の家に来ても、あまり臍ばかりいぢくっているので、爺は或る日火箸で突いてみると、その臍からぷつりと金の小粒が出た。それからは一日に三度ずつ出て、爺の家は忽ち富貴長者となっ允。ところが妻が欲張りの女で、もっと多く金を出したいと思って、爺の留守に、火箸をもって童の臍をぐんと突いた。すると金は出ないで童は死んでしまった。
爺は外から戻って、これを悲しんでいると、夢に童が出てきて、泣くな爺様、俺の顔に似た面を作って毎日よく眼にかかる其所のカマド前の柱にかけて置け、そうすれば家が富み栄えると教えて呉れた。その童の名をヒョウトクといった。それ故にこの土地の村々では今日まで、みにくいヒョウトクの面を木や粘土で造って竈前の釜男(カマオトコ)という柱にかけて置く。所によってはまたこれを火男(ヒオトコ)とも竈仏(カマホトケ)とも呼んでいる。

地城のかまど神の呼び名
ふつうは、かま神とかかまど神と呼ばれているが、地方によって色々な呼び名がある。そのわけは、祀り方が異なるからである。ここでは、地域の一般的な呼び方を紹介する。この呼び方によって、そら土地の特色や時代の特色を知る貴重な手懸りになる。
   @かま神・・・・全地域の一般的な呼び方。
   Aかまど神・・・ 一関市萩荘、、真柴、厳美地区に多い。
   Bかま別当・・・大東町興田、曽慶、千厩町奥玉など。
   Cかま男・・・栗原郡花山村、桃生郡河南町など。
   Dくど神・・・大東町内など
   Eカマジンゾー・・・(かまじんぞう)、カマジゾウ(かま地蔵)、ヒョットコ(ひょっとこ)など・・・江刺市
   Fその他・・・かま仏、かま神(じん).かま面子(めんこ)なとがある。江刺市では、かまど神様を火男(ひおとこ)から訛って後にヒョットコと呼んだり、カマジンゾーとかカマジゾウと呼んでいる家がある。最近は、かま神さまと呼び方が変化しているところもある。また、下閉伊郡岩泉町では、ヒョットコの面をカッコウ鳥と呼んでいる。

かまど神の意味
かまど神とかかま神と呼ばれるこの地方に祀られる土製および木製の面は、屋敷を守る屋敷神であると同時にあらいる罪や汚れを払う御利益の神様として崇拝されてきている。火は、人類発生から今日まで生活の中で一番大切なものは火であり、昔は、神様と同時に火は「暖をとる御馳走」であったり、家の単位の「烟、けむり」であったり、本家および分家の関係などに多く活用されている。かまど神は火の神と同様に多くの関係の中に生かされている。例えば、瘡(かさ)とか目の予防や子供の駄駄(だだ)封じなどがその一例である。

かまどの語源
かまどは竈と書きますが、竃と書いてかまとも読む。かまを「釜」と書くがこれも竈も釜も表裏一体であるが竃の方が釜よりも古いと思われる。竈神の語源の初見は論語の八いつ編の十三「王孫賈問いて曰く、その奥に媚びるよりは、寧ろ竃に媚びよとは、・・・」とある。竈神は竈や囲炉裏などの家の火所(ひどころ)に祀られている神様。その第一義的性格は火の神様である。一方、家の古語の「イエ」や「ヘヤ」・「ヘッツイ」の「ヘ」などと同様の炉や竈を指す言葉である。竈神には家を象徴すると共に、家人の生死や幸福、作物の豊饒を司るなどの生活全般に関わる性格が付随している。以下竈の語源説として次の事が挙げられる。
@竈処(かま+ところ)の義(俚諺集覧、嗚呼矣草、名言通、言葉の根しらべ―鈴木潔子、大言海)
Aカマドノ(竈殿)を誤って言った所(東雅)
B火の燃やす間と言う意のカマ(玄関)にト(処)を添えたもの(日本古語大辞典―松岡静雄)
C梵語から(続日本紀)
D朝鮮語のKAMA等かある。

かまど神の特色
面の大きさ
現存するかま神様では、花泉町の千葉某宅に祀られているかま神様で、土製である。大きさは、縦一四〇p、横八六p、厚さ四一pであり、明治二八年の製作である。また、最小のものは、大東町猿沢の千葉某宅に祀られているかま神様で、土製である。大きさは、縦四cm、横三cm、厚さ1pである。かま神様は、一般的には、三〇p〜五〇cmの大きさである。

面相と時代
面相
面相を大別すると、神仏に由来するもの、人の顔に由来するものとがある。例えば、福の神は、悪魔を払う守護神であるし、鬼神も同じ役割を持つ神様である。また、人の顔は、家(屋敷)を建設した初代の主人の功績を称えた顔に似せて作られている。

時代
一般に材質から見た場合は、土製のかま神様が古く、木製、素焼き製の順である。石製は不明であるが、モルタルや茸のかま神様は時代が新しい。面相は、土製が一番古いと考えられる。次に、鬼神相(忿怒相)である。明王相、天狗相、虎面相の時代は不明であるが、荒神相や神楽相は明治以降のものと思われる。

材質
かま神様は、火防神の外に家運長久を願う屋敷神である。従って、永久に保存できて且つ信仰がされる様に作らなくてはならない。そのために、主材料として、土、木、粘土、石、モルタル等がある。また補助材料として、藁、茅(萱)、葦(芦)、竹、塩塗料、漆喰などを利用した技巧的なものがたくさん見受けられる。次に材料の特色を述べる。
ア、土製―竃や土壁を作った土を捨て去ることを忌み嫌い、面を作って祀っている。その証拠には、竃を作る土や補強材の藁屑および壁材として粘土や芯になる竹や藁屑などが見られる。また、面相に凄みをもたせるために、アワビ貝やアサリ貝を目や□の中の歯に利用しているものもある。
イ、木製―材料は、杉材が最も多いが、他には桧、松、朴、桐、栗、欅、水木、桑などを利用している。また、面を化粧するために漆や金箔を施している例がある。
ウ、素焼製―ほとんどは粘土を利用している。焼成温度は、六〇〇度位である。また、塩を混ぜて焼いたものもある。
エ、石製―花崗岩を材料としている。本当に見事な彫刻である。石製としては、唯一のかま神様と思われる。
オ、モルタル―郡内では、二例が確認されている。
カ、茸―サルノコシカケを材料としている。

祀り方
祀る場所
ア、丑持ち柱―丑持ち柱は土間(内庭)の所にある一番大い柱である。この柱は、座敷の入りロにある大黒柱と連係して梁を支えている柱である。この柱にかま神様が祀られている例もある。柱は、鍼削りやちょうな(手斧、折)打ちの削り方が残されている。柱の脇に大竃があって、大釜を掛けて牛馬の飼料や味噌玉を作る大豆を煮ている。
イ、かま柱(かま神柱)―囲炉裏の横座に正対するところが勝手口である。そこにある柱がかま柱である。
ウ、嫁柱(脇柱)―大きい家では、丑持ち柱の外に桁を支えるやや太い柱がある。これを嫁柱とか脇柱という。この柱にはあまり煤や煙が来ないため、柱の中間にかま神様の供え物を置く祭壇を造っている。
エ、土間の北東隅(艮)の壁柱―艮は鬼門の方角である。面は、鬼面相が多い。玄関から入る人達を威嚇する面相と思われる。この場所に祀られているかま神様は古い時代のものである。
オ、神棚―家の改築による役目を終えたかま神様の多くは、その場所にケースにいれて祀られたり、神棚に祀られている。中には、神官さんから御神(霊)抜きをして貰い、裏の氏神様の社や神社に奉納される例がある。
カ、作業所(場)―酒屋や紙漉場などの火を多く使用する作業場に祀られている。
キ、その他―新築により、旧宅にそのまま祀られている。

祭日と祀り方(お供え物)
ア、一般的には、正月三ケ日に御幣(幣束)やお神酒を供える。
イ、一月十五日は、小正月である。この日は、水木を丑持ち柱に結わえる。水木は、「水に通じ」、火防を意味する。水木に餅や飾り菓子や穴開き五十円を吊るすことによって農産物の豊饒や金銭の蓄財に夢を託した。
ウ、各月の一日や晦日及び大晦日には赤飯やお餅を供える。
エ、年中行事などの祭日には、お餅や赤飯を供える。
オ、毎月の十五日や二十八日の二回、神棚にお餅を二つ供えて「かま神様、どうぞ召し上がりください」とお題目を唱える。
※調査の段階では、お供え物の中にはお神酒が無かったことが不思議である。酒は、「火の用心」の上から憚られた事と考えられる。なお、かま神様は、昔は毎日拝まれたと思われる。かま神様の祀る場所は、家の中で一番神聖な場所と思われる。

かま神様の作り方
@土製の場合は、最初に柱に竹串を打ち込む。次に、その回りを縄で巻く。それに粘土や壁土の残りの材料を残さず活用する。かま神様は、家屋の完成を祝う大切な儀式であり、土製の場合は、家屋の壁を塗った左官(壁工)が作った物である。
A木製の場合は、大工の棟梁や仏師が家屋の完成を祝って奉納した。
B石製の場合、石の竃を作った石工たちが技量を誇示するために彫刻したと思われる。
Cモルタルの場合は、左官がモルタルの残りを利用したものである。
D茸は、戸主が山中でサルノコシカケを発見し、人面に似ていたことからかま神様に活用したものである。

江刺市における竈神(面)の分布(東北学院大学文学部史学科 昭和56年度卒業論文 佐藤智子、指導教授岩崎敏夫)
梁川 3体
広瀬 1体
米里 5体
伊手 2体

かまど紳に纏わる民話(岩手県東山町の場合、畠山喜一採集)
○怠け婿の話
ある草深い田舎に大変な怠け者の婿殿がいた。この婿殿は、どんな仕事を頼まれても、すぐ飽きてしまう質であった。毎日毎日何もしないでぶらぶらと遊んでばかりいた。そこで家族は、婿殿に竃の火焚きをさせたが、この婿殿は、この仕事さえ飽きてしまう。そこで、家族は、大変に怒って婿殿を家から追い出してしまった。しかし、この婿殿は、生来の怠け者なので、何の仕事も出来ず、とうとう乞食になったが、どこへも行く当てがないので、再びもといた、この家に戻ってきた。曾ての嫁がその姿を見て、大変哀れんで再び竃の火焚きをさせた。婿殿は、この竃の火焚きとして一生を終えた。婿殿が死んだ後、家族は、婿殿の顔形を面に刻み、火の守り神として祀ったということである。

○貧しい父親と息子
ある海浜に貧しい親と息子が住んでおった。親と息子は来年こそ、立派な門松を立てて、お正月を祝おうと山に松の木を切りに出掛けた。親と息子は、「これなら」と思う枝振りの良い松の木を切って持ち帰った。ところが、どちらも立派で選別の付かぬ程見事なものであった。父は息子に「お前の門松は、俺の門松より立派である。そこで、お前の門松を立てることにしよう。」と言った。すると、息子は、「いや、お父さんの方が立派だ。」と言い、父親の松の木を立てた。しかし、息子の立てた門松が余りにも立派だったので、父親は、ただ捨てるのがもったいないので、海の神様に収めた。すると翌日、竜宮城から使いの者が来て、「昨日は、大変珍しい門松を送っていただきありがとうございました。お礼を差し上げたいのでご案内します」と迎えにきた。父親と息子は、竜宮城で乙姫様から大変御馳走になった。帰る時、「何かお札に差し上げたいのですが、何か欲しいですか?」と聞かれた。父親と息子が相談してかま神様が欲しいとお願いした。それを家に持ち帰って台所の柱に飾って祀ったところ、家が末永く栄えたという。

○馬子とその妻
ある村に心の優しい正直者の馬子がいた。夕方、家路へ向かう途中、道端で苫しんでいる乞食に出会った。心の優しい正直者の馬子は、その乞食を馬に乗せ、我が家に連れて帰り、食事や暖を与えて看病してやった。翌日、むさ苦しい姿の乞食をみた馬子の妻は、馬子の留守を見計らって乞食を家の外に追い出そうと、箒をふり回した。すると、乞食の体から小判が「チャラン、チャラン」と落ちてきた。欲に目の眩んだ馬子の妻は、もっと小判を出させようと、乞食を追い回した。乞食は、竃の縁に縋って「竃の火焚きでもしますから、どうぞもう一晩だけ泊めてください」と頼んだ。しかし、乞食は馬子の妻に、追い出されたので、仕方なく外へ逃げ去った。夕方に馬子が帰ってきて、妻が乞食を追い出したことを知り、捜しに出掛けた。川辺に来ると、昨日の乞食が川の中から首だけ出して、「馬子さん、ありがとう。さようなら」と言って流れ去った。馬子は、乞食に済まないと思い、竃の近くの柱に乞食の顔と同じ面相を刻んで竈神様として祀った。それから、その家は末永く繁栄したそうである。

○実話その1
東山町松川の人から聞いた話である。その家のお母さんの病気がなかなか治らないので、心配した家族が、大東町猿沢のオカミン(盲巫女)さんに祈祷してもらった。すると竃神様が「お前たちは、台所の増築の時、俺の喉を切った」と話しておると言われた。早速調べてみるとその通りであった。そこで、ガラスケースに入れて大切に祀った。すると、たちまち、お母さんの病気が治ったので驚いたと話してくれた。

○実話その二
かま神様を調査し始めた昭和三十六年(一九六一)この頃は、所謂骨董ブームの波の中で、各地の旧家に骨萱屋が出入りして多くの貴重な文化財が持ち去られた。その祈、私は、竈神様だけは屋敷神であり、先祖から祀られた霊験のある尊い神様だから絶対に売ったり、譲ったりしないように話して歩いた。しかし、後で聞くと骨萱屋に一万円で売ったとか、騙されて譲ってしまったということがあった。今訪ねて行くとあの時のかま神様に会えずとても寂しい気持ちがする。また、改築の時に不要になったかま神様を売ったらその家のお祖母さんが突然に亡くなったとか、騙されて譲った後に大変な不幸な目に会ったなどという話も聞いた。これらのことから、先祖の祈りを込めて祀った竈神様をこれからも大切にして欲しいと痛感している。

○実話その三
駄々を捏ねたり、嘘を付く子供たちに対して、かま神様に謝らせて善導教育に役立ている。

東山和紙とかま神
現在、東山町山谷地区において、昔ながらの手漉き和紙が製造されている。原料は楮である。楮は山野にも自生しているが、現在は宅地周辺で栽培されている。東山和紙の生産は、奥州藤原氏の滅亡後、当地に土着した人びとが始めたといわれている。山谷の近くに田河津(東山町)の紙生里という地名があり、ここが発祥の地ともいわれてきた。当地が紙漉業の非常に盛んな土地柄であったことは、天明六年(一七八六)に当地を旅行した江戸後期の紀行家、菅江真澄(一七五四〜一八二九)が記した紀行文「はしわの若葉」の次の一節に明らかである。
「このあたりは東山田河津という紙漉業がさかんで、みなこれに従事する家々である。俳聖の祖、芭蕉翁の『おくの細道』という紀行文は、この東山から漉き出された紙を四つ折りにして書かれたもので、今はこれを印行(刊行)しているが、それは昔のような型の版本に作っている。翁もみちのく紙という名にひかれて書かれたものであろう」(口語訳)。
しかし、芭蕉の『おくの細道』の自筆本は鳥の子系統の手漉き和紙で、当地の和紙とは異なる。今後の研究課題である。
みちのく紙は、檀紙あるいは真弓紙ともいい、平安時代には朝廷の紙屋院の和紙を凌ぐ良質のものであり、紫式部や清少納言など王朝文学者のなかで大変な評判になった和紙である。鎌倉時代以降は、武士社会の通信や恩賞などの書き付けに和紙が必要とされた。この和紙は、みちのく紙から発達した奉書紙である。
江戸時代に入ると、和紙の技術が民間に普及して全国的に良質の和紙の製造が図られた。なかでも東山和紙の場合は、原料も道具も水も地元で調達でき、農閑期の副業としても最適であった。東山町の紙漉業者の初見は正保二年(一六四五)の二人である。正徳五年(一七一五)の紙漉業者は、田河津村四四人、長坂村九一人、松川村二七人であり、喜永四年(一八五一)には、田河津村九六人、長坂村七四人とある。この場合の人数は、個人ではなく世帯数を表わしている。明治・大正・昭和になると、ほとんどの家で紙漉きを行なっており、「東山紙(東山)」の名で、県境を越えて販売された。
紙漉業者のところでは、楮木を蒸す大釜が土間(主屋の一角)に据えられ、多くの薪を燃やした。このため、竈の近くに火の用心のため火の神として、かま神が祀られた。かま神の祀られている範囲は旧仙台藩のみであり、世界の奇祭というべき貴重な文化財である。火の管理はその家の主人の仕事であり、かま神の面相も家を作った初代の主人の面相を似せて作られているものもある。家の主人を大黒柱という。大黒天はインドでは厨(台所)の火の神として祀られているものである。日本では、火を管理する主人を尊敬して呼んだものと考えられる。〈畠山喜一〉
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河南町 (河南町史より)
カマドは粘土を固めて作ったものから、レンガ造りのもの、また北和渕から取れる岩は(和渕岩とよばれた)火に強く、この岩を使って作られたものである。たいていはお湯釜とご飯釜をかけ、2つのタキグチがあった。クドなどが普及し籾殻を燃料に使う「ヌカクド」などが使われた。カマドの近くの柱には「カマガミサマ」がかけられ「火神様」として出羽三山神社、講社の牛の神札や神社庁の「奥津彦神 奥津姫神」の札が貼られる。
町内の昭和61年(1986)時点のカマ神所在 14ケ所(土製12、陶製1、木彫1) 

菅江真澄は…途中で見聞したことを記した「真澄遊覧記」は多くの民俗の事例を載せている。石巻に着いて逗留し、鹿又の有隣の家を訪れる途中、曽波神では「カマガミ」(竈神)のことを書いている。天明6年(1786)9月16日の条には「木槌土手」と「かまおとこ」のことを記している。16曰くもりたり、けふここ[石巻の義質の家】をいでたつに、またかんな月[神無月・10月」のころ、かへ(帰)さには、かならずなどいひつつ(略)、暉道、義質送り来けるに別たり、堤のうへをつたひくれば、行人「是は音に聞へたる処にて侍るいかにといふに、むさし坊べんけい、衣川にながれたりしとき、さいづちのここにととくまりたるを、こはいかなるたくみか、ながしてんとあやしみてければ、べんけひのもち給ひしうつは也とて、ここらの人もてはやしぬそれよりここの名を、木槌土手といふ」とゑまひしてかたる。曽波の神の御山のかたちは、蕎麦のかたちに似たれば、しかいふとか。此のあたりの家の、かまどのはしらに、土をつかねて眼には貝(鮑)をこみて、いかる人のつらを作りたり。是を「かまおとこ」といひて、「耳のみこのふるごとありと」いひつとふ。(略)有隣のやにとまる。「木槌土手とあるのは石井閘門から曽波神に至る土手のことであろう。ただ弁慶の七つ道具の一つ木槌が流れ着いたことが堤の呼称となったと語られているが、河道変更に伴い築かれた土手であったために付会された伝説であったと考えられる。「かまおとこ」のはなしは誰に聞いて記したものかはわからないが、この条は面を掲げて「カマガミ」(竈神)としている風習を最初に記した文献である。また「耳のみこのふるごとありと」は、12月10日の「ダイコクノメムケエ」(大黒の嫁迎え)の習俗のことである。カマガミの面を掲げるのは「ダイコクバシラ」(大黒柱)などが用いられていたためカマガミの祭祀習俗とされているが、異なる行事であった。現在、鹿叉辺ではカマガミの面は数点しか残っていないが、真澄が鹿叉を訪れた天明年間(1781−89)には多かったはずである。

【かまおとこ】:竈神のことであるが、台所や炉端に火の守りとして、土製や木彫の面を掲げているのは全国でも宮城県仙台市以北、岩手県水沢、大船渡以南の地帯に限られ、外では竈神を祀るものの面を掲げる風習はない。ただ真澄は「かまおとこ」と記しているが、寛政10年(1798)の岡田提之の「秉穂禄(かすいろく)」には「奥州の民家には竃のほとりに土偶人の長さ6尺ばかりなるを置く、釜男という」とあるので面の外に土偶を祀ったとも考えられる



河南町 (わがまち河南の文化財 河南町教育委員会より)
【カマ神】:カマ神を祀る謂れとして、県内に語られている伝承には次のような話がある。昔、ある農家に乞食がやって来る。火焚き男に雇われたがこの乞食は仕事をせず、その上処構わず大便をしたので主人は持て余した。ところが、ある日忽然と姿を消してしまった。数日過ぎてクド(カマド)の周りを見ると乞食の大便が全部黄金になっていたので主人は長者になることが出来た。この為主人は火焚き男をカマ神として祀ったのだという。この伝承は、カマ神の性格と、面を祀る理由を示唆しているが、町内のカマ神は火の神として祀られている場合が多い、横山家では留守番をしていた男の為に大火にならず、この男はクドの前で亡くなったと伝えられており注目される。又、同家は天保4年(1833)に建てられた記録があり、カマ神が作られた年代が確認出来る貴重な事例である。



豊里町の竈神さま(豊里地区地域文化振興協議会)
1)竃神信仰:竃神信仰は、旧中国全土及び朝鮮半島でも福徳の神、家内安全の神として祀る民間信仰の一つである。我が国においても、同様であり、火伏の神、魔除の神、福徳の神として全国で信仰の対象となっている。しかし、宮城県から岩手県南部(旧仙台藩領内)にかけて信仰されている竃神は「火」を象徴化し、偶像として祀られる独特の民間信仰であり、全国的にも異質な民俗風習となっている。一般にはカマガミサマと呼ぱれているが、地域によってはカマドガミ、カマベットウ、カマズンツアン、カマダイコク、カマメン、荒神、土公神など異なった名称でよばれている。

2)種類分け:家々に祀られている竈神の素材には土製と木製の二様がある。面相はいろいろあり、大別して次の四つの形態が分けられる。
@怒りの表情をした忿怒面:家の出入り口に向かって祀られる神で、魔除けの神とされますが家内安全・繁栄の神として祀られている。
A平頭布を被り柔和な表情の大黒面
B烏帽子上のものを被り柔和な表情の夷面:七福神の筆頭にうたわれる神で、福徳の来訪をあらわすめでたい神の代表とされている。
C人間的な表情の面:家の戸主に似せて作られるもので、家に福を招く福徳の神とされている。

3)分布:現在祀られている地域は、白石市から岩手県石鳥谷にかけてであり、分布地域はほぼ旧仙台藩領内に相当する。分布数の多いのは仙台市以北から一関付近にかけてで、とりわけ宮城県の北東部から岩手県の東磐井郡にかけてと、宮城県北西部の古川以西と奥羽山脈沿いの地帯にかけて分布密度がたかい。

4)祭祀の場所と祀り方:(場所)竈神の祀られている場所が土間の竈近くである点は何処の地域も共通している。その位置は竈より高いのが普通だが、面を取り付けている所は一定していない。多いのは土間の柱である、柱の位置や呼び方は地域によって異なる。よく聞かれるのはウシモチ柱、カマ柱、ヨメゴカクシ柱などと呼ばれている。このほかに、梁や長押に取り付けている例もある。 (祀り方):竈神は古い農家や漁家で祀られている例が多い。祀る日や方法は地域によって多様である。大体は歳の暮れに煤を払って注連縄や幣束を飾る例が多く、この時以外は特に掃除をしないのが普通である。正月には殆どの家で餅や御神酒を供えて拝んでおり、小正月にもマユダマを飾ったりする。その他にはあまり祀る事をしない例が多い、中には節分などの特別の日には赤飯やお膳をあげる家もみられる。

5)作り方:竈神は家を新築した時に、大工や左官によって作られたと伝える事が多い。土製の竈神の作り方は柱や壁に初めから取り付けるものと別に作ってから取り付けるものがある、直接取り付ける場合は柱や壁に竹串や木串を差込み串に縄を絡めて面の芯とし、その上に藁を細かく刻んで混ぜた粘土を張りつけ造形したものとみられる。別に作って張りつける場合の多くは板に竹串や木串を打ち込み縄をからめて面の芯とするのが普通である、出来上がったら面のついた板を柱や壁に釘打ちする。象嵌はキラキラ光る貝殻(アワビ)や白い瀬戸物などを目や口にはめ込み、目や口を強調し表情を豊かにしている。眉やヒゲなどに綿や麻で作ることもある。豊里町には頭に藁や縄の鉢巻きをするものが見られる。木製のものは、別に製作して、柱や壁に掛けるのが普通である。

6)年代と製作者:(年代)竈神を面という具象的なものに造形し、これを祀るこの地方の風習は何時頃から始まったのだろうか。木製のものと土製のものとのどちらが早いのか、又、作った人は誰だったのだろうか。こうした問題にはまだまだ分からない事が多い。竈神についての最も古い記録は菅江真澄(1754〜1829)の紀行文「続・かしわの若葉」である、天明6年(1786)9月に今の宮城県河南町の曽波の神地区で「このあたりの家のカマドの柱に土をつかねて眼に・・・略」とある、これによって今から200年前には明らかに竈神を祀る風習があったことがわかる。木製のものでは鳴子町に文化11年(1814)の年号を持ったものがある。
(製作者):竈神は家を新築した時に大工や左官によって作られたものと伝えられている事が多い。また、家の主人が作ったという話もある。しかし、実際に竈神の製作者を明確に伝える資料は以外と少ない。最も古い資料に宮城県金成町の明治3年の土製の竈神で裏板に『磐井郡流海老嶋邑・住(現在の花泉町)佐藤東三郎とある。木製では明治から大正時代になると鳴子町高橋久助(明治17年の墨書銘)がある、渡り大工の糸賀彦、千厩町の及川亀寿などの名が知られている。土製の竈神では桃生町のハダカカベが有名である。

豊里町に於ける竃神事情
1)豊里町の竈神さま:竈神の面には木製と土製の二様があり、豊里町の竈神は土製のものが殆どを占めている。このような土製の竈神は旧仙台藩領内においても宮城県北東部の地域(特に豊里町周辺市町村)に限られる、極めて特異な存在として注目をあつめている。豊里町の竈神は作者、年代は不明のものが多く、ハダカカベの作品だけが僅かに特定出来るに過ぎない。大部分はアワビの目をつけた古い年代のものが多い。また藁や縄の鉢巻をつけた竈神は本町でのみ確認される特徴の一つとして挙げることができる。
2)戦後の竈神事情:藩政時代から昭和初期までに建てられた旧家屋には人々の生活に密着し各戸毎に竈神が祀られ家族の心の支えとなっていた。しかし、戦後の近代化、生活改善運動の機運が盛り上がり、老朽化した旧家屋は取り壊され建て替えられる宿命にあった、同時に竈神も住む場所を失う事となった。昭和40年代になり建て替えも加速されていった。そんな事情の中にあってこの時期において土製であるため毀れやすく、また近代的家屋に不似合いな事などから竈神も消失、散逸、減少を見るに至った。
3)懐邑館(民俗資料館)の創設:当時失われいく町の文化財にたいし、町当局及び町民の方々に竈神の保護、保存を熱心に呼びかけた方に香林寺住職の武山正道氏が居られた。このことを機に竈神保存への認識も高まり、積極的な寄贈と協力の申し出があって、香林寺付属の懐邑館が創設される事となった。同時に古民具の寄贈もあり、竈神22体を中心に1600点を超える民俗資料を陳列する程の資料館として発足した。 NHKテレビ、各種新聞による紹介もあって県内外からの見学者も多く訪れるようになった。
4)竈神保護の実情:平成12年に至り、懐邑館の老朽化が進み十分な保存が不可能となった。同時に寺院境内の改造工事が計画されていた。このような事情があって寺院側と町当局との話し合いが持たれた。これによって県指定有形民俗文化財の竈神20体と他2体の竈神を含めすべての民俗資料が町教育委員会に移譲される事になった。平成17年度、平筒沼農村文化学習館の開設までは公民館敷地内の仮説プレハブに整理、陳列し保護と見学来町者に対応して来た。平成16年平筒沼農村文化学習館の完成により、竈神21体は平成17年度より学習館資料展示室に移転、公開展示をし保護と見学来館者に対応している。なお、1600点余に及ぶ古民具他民俗資料は元「白鳥農業倉庫」に保管されており、その1部が学習館資料室に展示されている。
5)町内神社・民家所蔵の保護事情:県指定の竈神とは別に平成15年の再調査によって町内には個人(各民家)所蔵34体、神社所蔵3体、他に町所蔵3体、総数で60体であることが確認されている。民家所蔵及び神社所蔵の37体については平成15年豊里町有形民俗文化財の指定を受け各所蔵者によって手厚く保護されている。これら民家にある竈神も又旧家屋の解体に伴い居場所を失う事例もあったが、しかし、その大部分は各家々にあって木枠に納められ新家屋の適宜の場所に配置され、昔のままの風習を受け継ぎ信仰の対象として祀られている。個人所有の竈神の中には旧家屋と一体となって建築時の姿そのままの形が現存されているものが数体程ある、これらは破損もなく貴重な民俗資料となっている。
7)カマ神の作品を多く遺した左官「ハダカカベ」の紹介:ハダカカベの作品には芸術的にも優れた作品が数多く残されている。彼の作品には次の様な特徴がある。
@目に盃を伏せてはめ込み、糸尻の部分を瞳に擬し、黒く墨を入れる
A粘上級を膨らんだ頬の周囲や耳、アゴや額の部分に多用する。
Bヒゲや眉などに真綿を用いる事が多い。
C板に縄を巻き付け、そこに竹串や木串を差込、縄を絡めて芯にしている。釘などで柱や壁に打ち付け、掛ける事が出来るようになっている。この手法はハダカカベによって創案された可能性が高い。ただし、初期の作品と思われる物に盃を用いない物や粘上級の張りつけが少ない物があり、後の作品ほど装飾が複雑になる可能性が高い。彼は慶応元年(1865)気仙郡竹駒邑(現在の陸前高田市)に生まれ、桃生町脇谷に住み、左官屋として働き、昭和8年に亡くなっている。彼の作品は志津川町、中田町、豊里町、河北町、津山町、米山町などに特に多い、さらに他の周辺地域に迄も分布がみられる。腕の良い職人として高い評価を受けていたが、一方では大の酒好き、変人等々、数多くの逸話が残されているが、すでに伝説の帳に包まれ、ハダカカベのニックネームの由来さえ不明である。
遊水地帯に集落を形成し貧しかった農村村落での先人達の生活は水害や天災との闘いの連続であった 悲惨だった先人達の生活の中で竈神様はいつも身近にあって|居」を共にし家族を見守り、励まし人々の心の支えとなっていた、今も人々は畏敬の念をもって『カマガミさまJと呼んでいる。先人達の心に深く根ざしていた「竈神信仰」は生活の闘いの歴史であり、天災や圧政に立ち向かう不僥不屈の精神をあの忿怒の面相に代えて象徴化しているようにも思われる。私たちは先人達の歩んだ歴史を大切に受け継ぎ郷土の文化財として永遠に伝えてけきたいと思う。



鶯沢町 (鴬沢町史より)
 【火の神】:家内に祀られる火の神様は、カマド神であり、この神様の姿を具現したのが、カマ男、カマ神といわれている。新築の際に、壁に使った土で造ったカマ男、或は残材に刻んだ木彫りのカマ男、など様々であるが、東北の農家独特の火の神ともいわれ、永い我々の祖先の素朴さがこめられた神である。

鶯沢町 (鴬沢の伝説より)
 「かま男」と家の繁栄という気持、あるいは、後世からのものでそれが明治時代まで残っていた。それは、火に対する尊敬心という形であり、家の嫁は炉の火とカマドの火を消してはいけないという風習に見られる。うっかりして、炉の火を消してしまった若い嫁は、朝早く隣の家に火種をもらいに行かねばならなかった。それは大変恥ずかしい事であり、泣くほど辛い事であった。これはまた、原始人の火に対するおののきにも似たものであり、家の伝統をかたくなに守ろうとする心である。こうした封建制の家の堅さが、火に対する形となって現れているものと見られる。現在でもつめや髪の毛を火にくべてはいけないとか、産婦を別カマドにするという事も、火に対する禁止の思想からきたものと考えられる。それだから、「かま男」は火の神であり、家の権威のシンボルとも言える。ヒョットコは、火男のなまりであることは周知のとおりであり、そのジェスチュアたっぷりなところから面として使われていたのだと思われる。家の繁栄を祈る気持は、誰しも同じであり、それが、火の重要さと神秘さとが併合し、「かま男」として祀られたものである。うす暗い大柱に訪問客を睨む「かま男」は、なにかしら日本の社会の奥底に、重いうめき声を出して、のたうちまわっている姿を思わずにはいられない。そして、それは新生日本の目指しているものを拒否している姿とも見えるのである。しかし、その当時は、そうしなければならなかったし、それが日本の農民の歴史でもあったのである。

 【伝説1、かま男】:むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでおった。なにせ老人のことなので、働くこともできず、ささやかに暮しておった。ある日の事。おじいさんは、山へ柴刈りに行った。さて夕方、おじいさんが柴を背負って山坂を下ってきた。ところが、ある崖の前に来ると、そこに真っ暗い穴がぽっかりと開いていた。おじいさんは思った。「うん、この気味の悪い穴に何か妖気が漂っている。もしかすると、悪魔が棲んでいるかも知れない。よし、この柴で穴を塞いでやろう。」一本気のこのおじいさんは、穴の中に柴を押し込み、長居無用とばかり急いで家に帰った。ところが、次の日にはその柴が無くなっていた。おじいさんは、又柴を押し込んで帰った。その次の日も、柴が無くなっていた。おじいさんは三月も柴を押し込み続けた。そして、ある日の夕方の事。おじいさんが穴の前に立ち寄ると、不思議な事に、目もさめるばかりの美しい女が立っており、「三月もの間、毎日柴を刈っておいてくれた親切、大変ありがとうございました。どうぞ、この穴の中に入って下さい。お礼を致します。」とのこと。老人はしばらく考えていたが、意を決して穴の中に入った。ぐんぐん中に入るにしたがって広く、明るく、美しく、やがて立派な宮殿に着いた。老人はそこで、何日もの間、生涯に忘れることの出来ない歓待を受け、一人のみにくい子供を授かって家に帰った。ところが、この子供は何もせず、朝昼晩臍をいじくってばかりいた。そうしたら、子供の手が臍に触れる度にころころと黄金の粒がこぼれ落ちた。それで、この老人夫婦は、近所の人達もうらやむほどの金持ちになったという。ところが、そこのおばあさんは、大変欲の深い人だった。もっと黄金が欲しくなり、おじいさんのいない間に、火ばしで臍をつっついた。臍をつつかれた子供は死んでしまい、この金持ちの夫婦は、たちまちのうちにもとの貧乏な暮らしになってしまった。おじいさんは、この子供の死を悲しみ、子供の顔に似た面を作って柱に飾り、毎日拝んで暮した。
これは「かま男」にまつわる伝説である。本町にも、日向部落馬場の高橋氏、その他の家に「かま男」は残っており、「魔よけ」「火よけ」として祀られている。「かま男」を祀っている地域は、岩手県の全体と宮城県の北部に限定されている。一つの家に神として、または氏神としての位置の相当に強かった時代の名残であり、とじこめられた中世日本の村落の構造に、いいしれぬ郷愁を覚えるのである。

【伝説2、かま男の話】:むかし、むかしのこと。ある家に、それはそれは、大きな男が訪れた。「しばらく、泊めてくれ。」と大男が言ったので、「どうぞ、こんな家でよかったら、泊まらっしゃい。」と言って泊めることにした。しかし、大男は大変な大飯ぐらいだったが、少しも働くことをしなかった。そればかりではなく、食後は、かならずカマドの後ろへ行って用を足して来るので、家の者たちは、大変に困り果てていた。その内、何日か過ぎて、大男はどこへとなく帰って行った。家の者が大男の糞を片付けようとすると、何と不思議なことに、糞が黄金の塊になっていた。おかげで、その家は大金持ちになり、大男の顔を作ってカマドの上に飾り、「かま男」として大事に祀ったそうだ。



涌谷町 (涌谷の文化財より)
カヤ葺き屋根の農家の勝手口から入り、土間に立つと、広い“板の間”の台所が目に入る。その片隅に土を固めたり、煉瓦造りのカマドが据え付けてある。周囲の壁や柱、屋根裏は炉やカマドの煙で黒く煤けているが、板の間や台所の戸棚の戸などは永い年月をかけて拭き抜かれて黒く輝いている。そのカマドの側の太い柱に掛けられた、目玉だけがうす暗い闇の中で光っているのが【竈神サマ】である。【竈神】、【竈男】、または【竈の神】ともよんでいる。【カマド】を守護する神で、三宝荒神ともいい、火が不浄を掃うという事から【カマドの神】として祀ったといわれている。【竈神サマ】は粘土でつくった人面で、まれに木材を彫ってつくったものもある。大きさは面長が30p〜50p、幅が20p〜40p、厚さ10p〜20pである。眼や口に皿の破片やアワビの貝殻を埋め込んでその形をつくり、その他に、藁や麻を用いて口ヒゲや眉毛としたり、頭部には鉢巻をしたものもある。【竈神】を祀る時期は、正月である。12月20日を過ぎた頃、正月を迎える準備に取り掛かり、屋内の煤払いをする。その時に【竈神】も装いを新たにして新年を迎える。1年間ふり積もったほこりや煤を払い落し、大晦日には【竈神】の下の柱や壁に注連縄を張ったり、護符を貼り付けるのである。また、皿の破片やアワビの貝殻の目はきれいに拭かれ、改めて墨を塗って新しい目玉を書き入れるのである。涌谷町内の【竈神】の分布は小里地区に集中的に保存されている。他地区には以前、二三遺存していた様であるが、近年10数年ほどの間に破損や家屋の新築などで消滅してしまった様である。  



松島町 (松島町誌より)
竈神さまは煤払いにだけ顔を払ってやる。昔、ある女の人が、嫁に行った先の亭主の顔が、あまり醜いので逃げ帰った、しかし思い直して戻った、竈神さまはこの醜い亭主を祀ったものである。カマガミ(竈神)さまに供える年縄(注連縄ともいう)は、正月がすぎてもおろさず、毎年供え加えて、毎年の分が重ねてある。あまり多くなると氏神へ納める。または屋根替えのときおろす。

松島町 (松島町史より)
【竈神】:在方の旧家には竈神が祀られている。眼には貝をはめ込むなどした土製の恐ろしい人面で台所の竈に近い柱の上に掲げられている。煤で真黒になっており、北小泉では煤掃きにだけこの煤を払い、眼を拭って目玉に墨を塗るという。この神には正月に垂れを飾った注連縄を供えるが、正月の神に飾られた注連縄は正月が終わるとはずされ送り出されるが、この神のものはそのままにされ、毎年のものが重ねられている。このことはこの神が家に常住して守護に当たるという性格が表わされている。竈神の由来として福分のある女性を追い出したために家が傾き、その家の主人がその女性の家に雇われやがてこの神に祀られるという類型的な伝承があるが、当町にもその残片と思われるものが根廻に語られている。



中田町 (中田町史より)
【竈神】:かまどを守護する神、奥津日子(おきつひこのみこと)奥津比売命(おきつひめのみこと)を祭る。後、仏説を混じて三宝荒神ともいう。かまどの神。



一迫町 (一迫町史より)
イロリには自在鈎をつるす。上方に大きな火棚があっていろいろな物をのせて干したりした。今は殆どフンゴミ炉もなくなりコタツに変わった。大黒柱は横座の後にあるものを言う所と、土間のウチニワにある大きな柱を呼ぶ所とある。大きな釜男が黒光りしているが如何にも農家の勝手らしい。

【釜男・釜神様】:炉のことを、別にクドともいった。クドは火の神様が常にいる所といわれている。クドの神は、一年の中に、季節によって屋敷の中を廻り歩くといわれ、春は釜に、夏は門に、秋は井戸に、冬は庭にいるといわれる。この火の神様が、釜神様といわれ、この神様が姿を現したのが、釜男だといわれ、釜男が火の守護神として祀られるわけである。古い農家の、台所のかまどの近くか、水がめの近くに、この釜男が祀られていた。土製のもの、木製のものとあるが。いずれも家の新築の時、壁を塗り終わったらその土で左官(壁屋)に造らせたのが土製、家を建て終わった時、大工さんに造らせたのが木製である。だからその家と同じ年数を経ているものということになる。上手下手はともかく、黒光りするあの釜男には、こうして家と盛衰をともにした歴史があるのである。



鳴瀬町 (鳴瀬町史より)
古い家がらの農家に勝手の土間の柱に怪奇な面がかけてある、これを釜神という。釜神発生の話については佐々木喜善氏のヒョウトクという昔話に出てくる。正直で貧しい爺さんが、山へ柴刈りに行っての戻り道に洞穴を見つけ、キツネやタヌキが人にわるさをしないようにと、背中の柴をおろして穴につめたが、いくらつめてもふさがらず柴をなくしてしまう。爺さんは首をかしげて中をのぞくと、奥の方はひろびろとしていて、若い女が手まねきをするのでついて行くと、りっぱなご殿に美しいお姫さまがいて、柴をもらったお礼いに大したごちそうになり、帰る時、おみやげに、眼のキョトンとした、口をすぼめて横にひんまがったヒョウトクという名前の、みっともない子供をもらった。爺は当惑したが、お姫さんのせっかくの心ざしを無にするわけにもいかず、つれて帰ったところ、ヒョウトクは炉ばたにあぐらをかいて、だまってヘソばかりいじっているので、爺さんもたまりかねて「やめろ」といって火ばしでヘソを小突いたら中から黄金の粒がころがり落ちた。それから毎日一度ヘソをつついて黄金の粒を出し、だんだん福しくなった。ある日、爺さんが町へ出かけた留守に欲たかりの婆さんは、火バシでヒョウトクのヘソをつついたら一度だけ黄金の粒が出たが、何度も何度もつついたのでヒョウトクは死んでしまった。爺さんが帰って来て泣き悲しんでいると、その夜ヒョウトクが夢まくらに立って、「爺さん爺さん泣くな、あしたになったらわたしの顔をお面に彫って釜柱に掛けて置けば、いつまでも福しく、しあわせになる」と告げた。爺さんはヒョウトクのいう通りにして一生しあわせに暮らした。



志波姫町 (志波姫町史より)
【竈神様(くど神様、竈男)】:古い家で囲炉裏や竈を使っていた時分には、台所の竈場の柱或は大黒柱の上の方に「竈男」「竈の神」と称する恐ろしい容貌の面が掲げられていた。いずれもいかめしい面相をしたものが多く、竈をうった時の余り土で面を造りアワビ(鮑)貝の目をつけたりした土製のものや木製の立派なものもあった。爾来人間が火に対しての畏怖から信仰にまで発展して火を祀ることになったのであろう。火は照明に採暖に炊事に必要欠くことの出来ないものであるからカマド又はクド等のそばにこの神の面を飾って拝み火の用心を鑑ともしたものと思われる。



鳴子町 (鳴子町史より)
釜柱は水屋と内庭の境のかまどのある付近の柱で、釜神様をまつり、釜男の面がかざられている。焚き火でまっ黒になっているものが多い。祀られる場所が火を使う場所なので、火の神と信じられ、其の家の繁栄を願って、家を建てた棟梁が、そこの家の主人の顔を木彫りにして、お祝いしたのだといい伝え、火の用心、泥棒よけ、悪病予防、豊作等を願い、よくないものが家の中に侵入しないように、入口のにらみのきく場所にかざっているのであるといわれている。木製でうるしぬりの立派なものもあり、7、80pに達する大きなものも見受けられる。釜男については、次の様な話が伝えられている。
釜男の話―鬼首の古老の話。昔子供のない老夫婦がいました。爺さんは若い頃から、木挽稼業として毎日山仕事に出かけて居ったが、小雨の降る或る日仕事を早目に切り上げ、小柴を背負って家路を急ぐ途中、雨が大降りになったので、何時も雨宿りする樫の木の大ごらによると、背の小さい物すごく頭の大きな、見にくいいかめしい顔の小僧が休んでいた。びっくりして聞いてみると、かすかな声で一人児であるという。頭からずぶぬれになり、身にはボロ衣裳をまとい、腹をへらして虫の息である。爺さんは可愛そうに思い、自分の着物を脱いで着せ、火をたいて食事を与えているうちに、雨がやんだので、この小僧を背負い自分の家に戻った。婆さんはこのみにくい小僧が大きらいで、つらく当たったけれども、爺さんは大変親切で、山から帰る時は、必ず何かをお土産にもち帰って来て、小僧に与えておった。ところが小僧は何一つするでなく、毎日横座に座り、でっかい出べそを火あぶりしているので、爺さんも愛想をつかし、或日のこと、「出べそはみっともないからしまっておけ」と手を触れたら、ザクザクと音がして、へその下から黄金が飛び出し、灰の中に散乱した。爺さんはびっくりして小判をひろい集め、小僧にただしたが、何も言わずニヤニヤして、出べその火あぶりを続けているので、改めて着物の前をあわせてやったら、又黄金がザクザクと出て来た。これは不思議な事だ、神様のおさづけかもしれないと、小僧を大切に育てた。そして金が必要な時は、出べそを静かになでて黄金を出し、生活は大変楽になった。ところが婆さんはこの事を知って、爺さんの留守のある日、たんまりと黄金を得ようと、火箸で小僧の出べそをつつき、殺してしまった。爺さんは大変悲しみ、この小僧の顔を木彫りとして、朝夕火を焚く竈 の上にかかげ、生前の出べそあぶりをしのんでとむらったという。この事から釜男の顔は大変無愛想な、いかめしい彫刻として残され、家運が開け、家の興隆を祈念してまつられるようになった。



鳴子町(鳴子の文化財 鳴子町教育委員会編より s59)
【竈神】
1.竈神の性格
 家の炉やカマドは、火を扱う場所として、人間生活に欠かせないものであり、湯をわかし、食糧を加工し、暖をとったりしていますが、このような火を司る神として、カマ神を祀る信仰は、日本の各地に見られるところです。普通は、正月に神社からうけた、奥淳彦命・奥津姫命の神名とカマドを書いた、御札を、火を使う近くにはって、あげものをして祀る程度です。
 カマガミは火の神としてだけでなく、家の神としての性格をもっています。「カマドを起す」(独立する)、「カマドを分ける」(分家する)などといわれているのが、その一つです。
  又十月には神無月といって、神々が出雲に集まるといわれ、その時に留守神として、カマ神・荒神・エビス・大黒・山の神・雷神・道祖神・歳徳神が、残るといわれています。
  このような性格をもったカマ神を、面として祀っている家が、町内にも数多く見られます。
  この面のカマ神は、家を新築した時に、火難よけ・魔除けとして、更に家を守り、家運隆昌を願って、壁土や木で、左官や大工がつくって、残してくれたのがはじまりだといわれています。

2.竈神の分布
  北は岩手県和賀郡から、南は宮城県刈田郡にかけて、主として旧伊達藩領内の、ふるい農家などに祀られ、各地に土製のものと、木製のものが入りまじって、存在しますが、土製のものは海岸地帯に多く、木製のものは山間地帯に多く見られます。
  現在では、一般の新しい家でも、求めて祀っている家が見うけられます。なぜこの地域にのみ、この面のカマ神が祀られたのかは、まだ解明されていません。

3.竈神のよび名
  塩釜神社博物館その他の資料によると、次のようなよび名があるようです。カマガミ・カマガミサマ・カマノカミサマ・カマジン・カマオニ・カマオトコ・カマオヤジ・カマヅンツアン・カマボトケ・オカマサマ・オカミサマ・ハッショウコウジン・カマベットウ・カマメンコ・カマダイコク・ドックサン・ロックサン・フゲンサマ・ヒョトク・オコウジンサマ・ヒオトコ・カマオンツアン
  鳴子町内では、カマガミ・カマガミサマとよぶのが大部分で、鳴子地区内では、カマオトコ、鬼首地区内では、カマジン・カマオトコ・カマオンツアンとよんでいる家があります。

4.竈神の祭祀場所と供物
   カマ神の性格から、土間の釜柱か、カマドの上のはりに、入口を向いて、祀られています。ただ増改築した家では、ここから移して、神棚や、茶の間・台所・炊場・玄関等の、壁面に祀っているのが多いようです。
   カマ神の祭りの日というのは特になく、正月にあげものをするだけの家が大部分で、中には正月の外、毎月の1日・15日・28日と、年中行事の行われる日に、あげる家があり、毎日水とごはんをあげる家もあります。鬼首では、馬市などに馬を引いて行く時、あげものをしたという家があり、これを行うと馬はあばれなかったといわれ、又正月には、カマ神さまにあげものをして、家族全員で拝むという家もありました。更に、しめ縄をはっている家もあり、へいそくをあげている家もあります。

5.竈神の材質と形相
  カマ神は、土製のものが先につくられたといわれ、約300年前と推定されています。町内には土製のものは11体(川渡7、鳴子2、鬼首2)祀られ、目にアワビ貝の入ったのもあります。他は全部木製です。
   土製のものは、柱に荒縄をまいて、その上に土をはりつけて作ったものが、古いものと思われ、板の上に土をはりつけて作ったものは、その後ではないかと思われます。
   木製のものの素材は、古いのは煙で真黒くなっていて、一部のみしか判明しませんが、それでも新旧あわせて、次のように多種にわたっています。ヒノキ・ケヤキ・マツ・スギ・クリ・カツラ・トチ・ホウ・イタヤ・キリ・サワクルミ
   形相は作る人と、時代の移り変りによって、変化があったものと思われ、左官や、大工は、その家の主人の顔に似せて、きつい顔につくったといわれ、殆んど無愛想で、怒りをふくんだようなつくりが多く、中には土でつくったものに、大黒面に似たものが1体、木でつくったものに、神楽面に似たものが1体みられました。
   更に鳴子に1体、鬼首に1体、髪・眉・ひげを、馬の毛をうめこんで、 作ったのがあります。

6.製作者と製作年
  古いのは殆んど不明で、文化11年(1814)・明治16年(1883)・明治17年(1884)の各1体が判明しただけですが、作者の判明するのは、ごく最近のものが大部分で、作者数は20人近くに及んでいます。作者名はわからないものの、形相や彫り方から、同一人の作と思われるものが、幾組か見られます。鬼首には以前に、勘七という人が住んでいてこの人の彫ったものが、何体かある筈と伝えられていますが、この人は最上町法田の人ではないかと思われます。

7.竃神についての町内の伝説
 (1)昔子供のない老夫婦がいまして、爺さんは若い頃から、木挽稼業とし毎日山仕事に出かけて居ったが、小雨の降る或る日、仕事を早目に切上げ、小柴を背負って家路を急ぐ途中、雨が大降りとなり、何時も雨宿りする樫の大ごらに立寄ると、背の小さい物凄く頭の大きな、見にくいいかめしい顔の小僧が、休んでいるのをみて、びっくりした。聞いてみると、孤児との事……頭からずぶ濡れになり、身にはボロ衣裳をまとい、腹をへらして虫の息……爺さんは可愛想に思い、自分の着物を脱いで着せ、火を焚いて食事を与え、疲労を介抱に雨がやんだので、この小僧を背負い、わが家に戻ったのですが、婆さんは、このみにくい小僧を大変きらい、つらく当ったのですが、爺さんは大変親切で、山から帰るときには、必らず何かをお土産に持ち帰って来ては、小僧に与えておった。ところがこの小僧何一つするでなく、毎日よこ座に坐り、でっかい出臍を火あぶりしているので、爺さんも愛想をつかし、或る日の事、出臍はみっともないからしまっておけと、手をふれたら、ザクザク音がして、臍の下から黄金がとび出し、灰の中に散乱した。爺さんはびっくりして、小判をひろい集め小僧にただしたが、何もいわずニヤニヤして出臍の火あぶりを続けているので改めて着物の前を合せてやったら、又黄金がザクザク出て来た。これは不思議なことだ、神のおさずけかも知れないと、小僧を大切に育てた。そして金が必要になると、この出臍を静かになでて、生活は大変楽になった。
ところが婆さんこの事を知って、爺さんの留守のある日、たんまり黄金を得ようとして、火箸で小僧の出臍をつゝき殺してしまった。爺さんは大変悲しみ、この小僧の顔を木彫として、朝夕火を焚くカマドの上にかヽげ生前の出臍あぶりをしのんで、とむらったとの事です。
この事からカマオトコの顔は、大変無愛想ないかめしい彫刻として残されるようになり……家運が開け、家の興隆を祈念して祀られるようになったものです。(鳴子町史編纂室編 昭和40年11月13日 鬼首原台公会堂における部落懇談会記録より)

(2)山形県尾花沢の人から開いたという話
  昔から由緒ある家に、ある時醜い顔をした、若いもらい人が来た。庭にころがっていた箒をみつけて、それをじやまにならないように、ニワの側にたてかけてから入ってきて、雇ってもらいたいとたのんだ。しかし、その家では数人の雇い人もいたし、またちょうどその頃、一人娘が病気で長い間床についており、何処に願をかけても、腕のたつ医者にみてもらっても、丈夫にならないので、皆困りはてていた時だったので、一度は彼の頼みを断ったが、考えなおして、釜の火たきでもよいならということで、火たき男に雇った。娘の病気は一向によくなかったが、年頃になったので、多くの縁談がもちこまれた。しかし、娘は火たき男がよいと言った。家の人は困りはてたが、庭にころんでいる箒をたててから、家の中に入って来たことを思い出し、見込みのある奴だといって、娘の婿としてむかえた。すると娘の病気は、日一日と快復にむかい、男は一躍若様となり、その家は繁昌した。この火たき男を祀ったのが、カマガミである。(昭和43年 東北学院大学生 黄川田啓子採集 話者 中鉢ハルヒ 東北民俗資料集(1)より)
(3)カマガミサマは、さむらいを祀ったもので、ひげがない。
(4)手間取が、一生懸命カマドの火を焚いて、その家の身上をあげたので、これをまつったものだという。
(5)悪いことをすると、カマガミサマにおこられる。
(6)釜おとこの由来(作者の説明文)
 カマドガミは県内では、カマガミサマ・オカマサマ・カマオトコ・カマジン・ヒオトコとも呼ばれ、海岸地方では土製で目に鮑貝や瀬戸物をはめこんであり、新築の際に左官が納める場合が多く、山間部では大工が、欅や松・杉材を用いて彫った。木製のものが広く分布している。旧家の土間のカマドに祭られる場合がほとんどですが、あの憤怒の相をした異形の面を祭るのは、旧仙台藩領内だけとも言われ、少くとも県内特有の神と言える。
 中世(南北朝時代)に書かれた説話集に、「神道集」というのがあり、東国を舞台とした民間説話も多く、カマガミについては、第四十六話に「釜神事」として、その由来が次のように語られている。
 同じ夜に生まれた福運のある女性と貧運の男性とが結婚して一時は栄華を極めたが、男の方が自分の貧運に気づかず、女を離別したために、落ちぶれてしまい、たまたま再会した時は、女は自らの福運によって裕福な家庭を築いていた。自分の哀れな姿を恥じて、男は自殺してしまうが、可愛想に思った女は、その男の遺骸を秘かにカマドの後ろに埋葬し、カマドの神(火の神)に供えると称して、死んだ男の後世を弔ってやった。その功徳により、男はその後、本当にカマドの守り神となった。
 この話と似た伝承が県内の真坂に近い、真山や鬼首にも言い伝えられている。カマガミは、悪魔退散・悪疫退散のために祭るのだから、カマガミは家の、戸口をにらんでいるのだという伝承もある。直接的には火の神であり、その火を管理する主婦の関与する神として祭られている。(釜おとこ作者,号 栄正 佐藤正夫 栗原郡一迫町川口高田72の2)



迫町 (迫町史より)
【竈神(釜男)】:かまど神を祀る風習は全国的なものであるが、釜男もこの祭祀の中から生れたものである。かまど神は火の神の象徴と考えられ、また屋内で囲炉裏、かまどと火を使う場所が分化する前は囲炉裏の神も同じ性質の神であったであろう。とくに大釜をかけるかまどを神聖視して直接供物を上げることもあり、すぐ後の壁に注連をはったり、かまど男などという火男(ひょっとこの原形)や勇ましく目玉の大きく光る釜男など沢山の種類があるが、ぶさいくで素朴なものである。台所・土間の奥の柱に高く掲げられていることが多い。町内でも現存するが、近年家屋の改築、新築にともなって、年々消滅する傾向がある。町の民俗資料館には数種を保存している。



築館町 (築館町史より)
建物は250年以前と伝えられ8間半と4間半、5間、間のび、石づき(石場建て)、柱もほとんどちょうな削り、内雨戸、屋根は両入母屋の萱葺き、台所は昔の作業場の面影をとどめて広々とし、かまどの上には土製の釜神があって入口をにらんでいる。

【火の神さま】:火は神聖なものとして、「ろ」に不浄なことがあれば塩と水をもって清められた。古い家では竈(くど・へっつい)の近くの柱の上部にかまど神(かま男・かみがみさま)を祀っているところもある。これは家庭新築の折、余った木材あるいはかまどの土で作ったもので、目玉には貝やせとものを用いたものである。真黒な顔で目を大きく開き、出入り口をにらんでいるような場所にまつってあるので、火難・盗難・魔よけの神とされている。



田尻町 (田尻町史より)
大嶺三区渡辺家はおそらく明治初期の建築と思われるが、藩政時代の面影を良く外観に残しているばかりでなく、内部はすっかり改装しているが間取りは典型的なヒロマ型を素型としている。オカミと土間中央の柱には例の釜神様を飾るのがならわしで、カマガミ柱と呼ぶ家もある。裏側に回ると柱が直接土台石にのっかっており、これは補修してこうなったと思われるが石場建ての面影を残している。石場建でしかも柱がチョウナで削られた住まいは古く、250年以上もさかのぼるとされる。



川崎町 (川崎町史より)
竈の上に火の用心の札を貼ってあるのを多く見かけるが、もともとは火男の面をかけたもので、川崎町にもその面をのこしている家があった。火男は煙のかかるところにかけてあるので、いつも顔をしかめていた。その火男から派生したものがヒョットコ面であろうという。火男は釜神様とよばれている



津山町 (津山町史より)
【カマ神】:カマ神は、文字通りカマや炉など家の火所に祀る火防の神である。この民俗信仰の歴史は古く、約1300年も前の8世紀初頭(奈良時代)に既に成立していた。カマ神は全国各地で伝承されていて、津山町内でも古い民家を訪ねると、憤怒の形相をした大きなカマ神を丁重に祀っているところが多く、66戸という数にのぼる。木や土で造形されたカマ神を祀る風習は、全国でも宮城県と岩手県の一部、つまり旧仙台藩領内に限られているらしい。昔から火防の神であると同時に一家の安全を守る神とされ、目上の人を敬い、先祖を尊ぶ家族の精神的結合の象徴でもあった。「悪戯をするとカマ神様に叱られる」など、子供の躾に一役買うこともしばしばだった。カマ神は、家を建てたときに大工や左官によって作られたもので、木彫と土製がある。土製の場合は、鮑貝や盃の糸尻を目に用いたり、ミゴを使ってヒゲとしている。津山・桃生・豊里各町のものは、桃生町脇谷「スギカベさん」の先代、阿部清治左官が明治から大正にかけ、家柄に合わせながら作ったものが多いとされている。面がカマドや炉の近くにある柱に戸口の方に向けて飾られているのは、家の中に悪魔が入らないよう防ぐためだという。この神の祭りは決まっておらず、正月や村祭りのときに供物が上げられるだけである。供物は、未婚の男女がいただいて食べると縁遠くなる、といわれているところもある。また、12月8日に諸々の神様が出雲に出かけるのに、カマ神だけは家に残っているという伝承もある。正月にかま神に飾られた注連縄は、カマジメと呼んで毎年つけ加えておき、屋根替えのときにまとめて下ろし、氏神に納める風習もある。古い民家にあったカマ神も、住宅の新改築によって次第に姿を消しつつある。先人がカマ神様に託した心を受け継ぎ、更に次代の人々に伝承したいものである。「安永風土記」には、横山南沢村に「釜神社」の記録がある。これは、カマガミと何らかの関係があるものと思われる。



村田町 (村田町史より)
三宝荒神は江戸時代に民家の台所にかまどの神としてまつられた。現在でもあちこちの旧家の土間のかまどのそばの太柱に土製の面がかけてあり、土間に入ると真先に目につくのである。その面は、すすけて黒く、目が大きく怪奇な顔をしている。

注:東北地方に伝わる話では、かまど神は、火男(ひょっとこ)のことであるという。昔、じいさんが山に柴刈にいって、拾った子供が、家に連れて帰ると、へそばかりいじっているので、じいさんが、へそをつついたら、黄金が出て来た。そして、へそをつついては金をとっているうちに、よくばりばあさんが、じいさんのるすに、子どものへそをひばしで、つよくつつくと、その子は死んだ。じいさんがなげいていると、夢に子どもがあらわれて、「悲しむことはない、私ににた顔の面をつくってかまどの上の柱にかけておくとけっして貧乏はしない」と教え、「私の名はひょうとく」だといった。それでその通りにしてまつったのが、かまど神であるという。それがいつのまにか三宝荒神と一体になってしまったのだという。
足立、桜内の佐藤氏宅、土間のかまどの柱に、土製のかまど神の面がかかっている。これは江戸時代中期の作といわれている。また、足立、三本楢の真壁氏宅にも土製のかまど神の面が残っている。
注:この面について終戦の頃、88歳で死去した祖父の生れる前から、かまどの柱にかけてあったといい、その祖父がこの面の作られた年代を知らなかったというから、この面も江戸時代の中期あたりに作られたものと推定される。
村田町には、この外にも、かまど神の棚をつくり幣束を立てている家がある。その他大部分の家では毎年の暮れに神社から配布されるかまど神のお札を台所にはりつけている。



花山村 (花山村史より)
旧家の土間のかまど柱にかけている「カマガミ」「カマオトコ」という土製(古い型)、木製の面にはこんな伝説がある。
ある男が福を授った女房を追い出したために落ちぶれ、その後女房のかたずいた家が福しくなり、先の夫はその家のかまたき男になり下って死んだという。あわれになり、その男を祀ったのがそもそもの始りだという。ヒョットコ(火男)であり、火の神として正月や節日に供物をして祀る。
大黒柱に釜神が安置され、古いのは土製で(三浦家)、木彫りが普通である。釜神を釜男とも言う。水屋柱に納める家もあるが、柱にくくりつけの珍しいものもある。(千葉家)

花山村 (目で見る花山村史より)
古い家には炊事場の柱に釜神である釜男を祀る。古く土でねり固めたが、のちには木製となり大きなものは2尺5寸もある。



大衡村 (大衡村誌より)
【カマヤ・カマドヤ】:母屋の座敷に接して設けられており、ツルミヤでは母屋の屋根と段違いになった屋根がついている。南側に板戸があって出入口となし、土間にはクド(竈)が置かれ、板の間には炉が切られている。クドの上やカマヤのなかには、カマガミ(竈神)を祀っている。カマヤには、北側か東側に流し台が設けられダイドコロ(台所)、座敷とは土間と板敷の二ヶ所から通じている。土間の隅には、藁打ち石や木割台を置いている。

【注連縄】:年取りの日に、ダナドノ(主人)が風呂に入るか、あるいは塩と水で身を清めてからナカマで注連縄をなう。青々とした美しい藁を選んでおき、門松、神棚、戸口などに飾る注連縄を作る。オトシナ、オシメなどと呼び、竈神に飾るものをカマジメという。注連縄の装飾は、七・五・三のフサをつけたり、一〇・六・三にしたり、一本の注連縄に藁を三ケ所に挟むなどさまざまに作られている。注連縄は、正月の神を送る時に下げてウジガミサマに納めるが、カマジメだけは下げずに、毎年付け加えていき、屋根葺きの時に下げて納める家もある。

【カマガミ】:台所の炉や竈の近くの柱にカマガミさまを祀り、憤怒の形相をした大きな面を掲げている。この面には土製と木彫がある。カマガミさまの特定の祭日はなく、ウジガミの祭りや村鎮守の祭りの時に、一緒に供物をしている。カマガミに供えたものを未婚の者が食べると縁遠くなるとか、カマガミだけは12月に神々が出雲へ行く時も家に残っているといわれている。カマガミに飾った注連縄をカマジメと呼び、屋根葺の時まで下げない家もある。



南方町 (南方町史より)
「かぎ」とは釜神、火の神様、釜男として家を新築すると昔は大黒柱に釘付ける。恐ろしき顔の面である。分家をすることを釜(火)を分けると云う。火を大切にした古い民俗信仰である。



泉市 (泉市誌より)
【火の神】:太古から噴火とか雷火その他自然の山火事等で、原始人は火を怖れたが、やがて火をつくることを知って、火食によって生命を保つことを覚えたという。また、火の発見で動物を支配したともいう。この火という不思議な力を神として祀り神聖視した。火が社会集団を精神的に結合する上に大きな役割を果たしてきたことは、世界諸民族に共通していると民俗学者はいうが、火が生活の中心となり、火を絶やすことなく受け継いで祖霊崇拝とも結びついた。火が簡単に作り出されるようになると、不自由は解消されたが、水同様ひとたび猛威をふるうと怖ろしいことから神と崇めた。世に怖ろしいものに地震、雷、火事、親父とよくいったものだ。誰もが火を使うが昔から特に火をつかう鍛冶職は特に信仰が篤かった。火の神として三宝荒神が祀られた。また防火の神として下野日光の古峯原神社や駿河の秋葉山神社などが有名である。いずれも本山が遠いため講中一同の参詣は難しいので、積立をして一人か二人くらい代参を遣わして信仰した。
このような講中代参の信仰とは別に、家々では火を守るために釜神を祀った。常に火を使う台所の太い柱や桁などに、物凄い形相の面をとりつけて祀った。釜の神・火男・釜男などといって、粘土で面をつくった。まれに木の面もあった。今わずかの古い家に残っているが、おおよそ200年以前あたりからの古い家である。市内の今10数戸に残っている。多くは壁土で、野村二重袋若生家、実沢赤間家、上谷刈寺島家などに木の釜男がある。昔の人はよく考えたもので、眼をつくるのに、谷川や沼などにいる貝(ゴミ貝・ヒ貝などという)の殻の内側を出してはめこみ、口や耳にまでつけたものもある。貝殻の内側は煤煙を容易によせつけずいつもピカピカと光る、拭うとすぐ光るから、いつも爛々と異様に光り、長い年月の煤煙で面は真黒だが、光る目玉に子供たちは怖しがった。古老にきくと、当時の建主の顔に似せて作ったものだというが、心なしか当主にも似ているように見える。正月には注連縄を張り餅を供えた。仙台藩では中部から仙北地方に多いというし、仙北地方には釜男にまつわる伝説もあるというが、この土地にはない。最近の新築ブームで古い家は次々と解体されて失われているが、中には先祖から火を守ってくれたとして、ケースに納めて大切に祀っている人もいる。



歌津町 (歌津町史より)
【竈神信仰:火の神】:魔よけの神として、竈神信仰が行われていた。台所の竈近くの柱に「面」のような形をした竈神を掛けて火魔を避ける風習があったが、戦後住宅改造がおこなわれ、構造も変わり、竈(へっつい)に焚火して煮焼きするところも無くなったので、竈神も無くなった。現存しているものは、払川(酒屋)、樋の口(大家・向)、中在(打越)などで高区方面に多い。竈神を造るのは、その家を新築したときで、建築残材や、壁土などを用い素人が手造りすることが多いので、格好も粗野で、異様な面構えをしているものが多い。これは竈神は荒神と言われていることにもよると言われている。また、竈神の別名を「くどの神」とも言っているが、土をこねて造ったことから、そう言ったものであろう。「斉」の神とは、くどの神のことだともいわれている。



本吉町 (本吉町史より)
【火の神】:旧家を訪ねると、台所のかまどの近くの柱の上部に、よくかまど神さまが祀られているのを見ることがある。これは家屋新築の折、余ったカマドの土でつくり、目玉や口に貝などをはめこんだ大入道の面で、真黒な顔に目や口が光っているのは異様である。火難・盗難・魔よけの神として信仰されてきたが、今は珍しいほど少なくなった。なお、当地方には昔、どう屋があり、製鉄が盛んだったので、馬籠・山田を中心に三宝荒神の信仰があった。


本吉町(小泉の民俗 東洋大学民俗研究会S57)
【屋敷神】
陸前地方の屋敷神としてはカマ神・便所神が著名である。旧小泉村に付いても、以前はほとんどの家に祀られてあったらしい。しかし現在ではごく限られた旧家に保存されているのみで、家屋の新築が進む当村では、祭祀様式や伝承を知る者さえ極めてわずかなのが現状である。
〔カマ神〕
○今朝磯の及川宅では、昭和二三年に家が火事で焼けるまで、かまどの上に土で作った黒い面を掛けて祀っており、カマガミと呼んでいた。元旦から五日まで、御神酒と赤い御幣を供えた。
○上二十一の斉藤宅では、昭和三四年までかまどの上に黒い土の面を掛けて祀り、カマガミサマと呼んでいた。元旦には赤い御幣を供えた。
○上在の中村宅では、以前かまどのあったところの柱の上部に黒い土で作った面を掛け、カマガミサマと呼んで祀っている。
○中在の及川宅では、以前かまどのあったところの側にある柱の上部に、大工が土で作った黒い面を掛け、カマガミと呼び祀っている。正月には煮しめ、赤い御幣を供える。
○同じく中在の今野宅では、家を建てかえるまでかまどのある所の柱に土で作った黒い面を掛け、これをカマガミと呼んで祀っていた。正月にはアズキ入りの丸餅と赤い御幣を供えた。
○芝の森谷宅では、家を建てる際使った壁土と仕上げ用の壁土を使って、左官屋がその家の主人の顔に似せて作った面を、家を新築する際柱ごと切り取って持ってきた。これをカマガミと呼んで、現在床の間に祀っている。正月には赤い御幣を供える。これを拝むと火災にあわないという。
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東和町 (登米地方の民話より)
【かま神】:昔、某家で一人の乞食を雇ったが、一向に働きもせず、ところかまわずクソをする。かまどの側にまでした。しかし、この男はしばらくすると何処へともなく旅立って行った。男がいなくなってからかまどの側を見ると、かの男のしたクソが黄金になっていた、そこでこの男をかま男に祀った。それからこの家はますます繁盛した。
※旧家の土間の柱の上に土または木製の恐ろしい顔の面が掲げられ、カマガミ、カマオトコと呼ばれ、岩手県南半分と宮城県一円に分布している。この神も本来は家の守護神であったろう。



東和町(相川の民俗 編小野寺正人より)
竈神を祀る風習はあるが、面を掲げている家はない。しかし、以前には、カマガミさまの面を祀っていた家があった。




米山町 (登米地方の民話より)
【竜宮童士】:むかしむかし、善王寺に気立てのいいおじんつぁんとおばんつぁんがいたんだと。おじんつぁんは山に行って木を切り、しばを刈って薪を作り町に持って行ってこれを売ったり、それから、年越しが近づくと夜なべなどして、せっせと門松を作り、これも町に行って売ったりして、細々ながら二人で仲良く暮していたんだど。町に行って門松を売った帰りには必ず川に行って、一つだけ残して来た門松を「竜宮様さ捧げ申す今年もお蔭様で無事に過ごすした。」と言いながら川に流してやったんだど。そうしている中に、或る年越の晩に、大男がやって来て「今晩は、竜宮からお使いに参りすた。」とのこのこ家の中さ入って来たんだと。顔を見ると、おっかねい様な顔なのでおじんつぁんとおばんつぁんが、たまげてしまったんだと。その大男はなにも言わねぇで、釜どのそばに行って座りこんでしまったんだと。おばんつぁんが、その大男に「釜どのうしろは寒いから炉ばたに来て、あだりながらご飯食べらえん。」と言っても大男は立つべともしねぇがったんだと。しかたがないので、おばんつぁんはご飯を大男のそばまで持って行って食べさせたんだと。次の日も次の日も男は何の用で来たとも言わねぇで、少しも釜どのそばをはなれようともしねぇでじっと座っていたんだと。気持ちのいいおじんつぁんとおばんつぁんは、悪い顔一つしねいで毎日ご飯を食べさせていたんだと。だが、だんだん米びつの底も見えて来たので、ある晩、おばんつぁんが「じんつぁん米がなくなって心細くなって来たよ。」と言ったんだと、おじんつぁんは「そうか困ったなぁ、明日どこさが行って借りで来っから心配すんな。」と言ったんだと。ところが次の朝おばんつぁんが起きて見たら、大男の姿が見えねぇので「じんつぁん、じんつぁんあの人が居なぐなったよ、どこさ行ったんだべ、夕べなの話し聞こえだんだべが、気にかけて出はっていったんだべが毎日食べでばかりいて便所さも行ったような様子もねがったし、釜どのうしろの方さでもどっさりお仕事してだべがら起きて見てけらいん。」と言うので、おじんつぁんが暗がりの釜どのうしろに行って見たれば、やっぱり山盛りにどっさりとお仕事してたんだと。「ばんつぁん大したお仕事だ、そっからしゃぼろ取ってけろや。」と言ってそっとさらおうとしたんだと、すると「カチン」と音がしたんだと、「ばんつぁんあの人のウンチ石のように重くてかでぇウンチだ、あかりを持って来てけろ。」と言ったんだと。そしてあかりでよく見たら大男のウンチはピカピカ光る金の塊りだったんだと。これを見たおじんつぁんと、おばんつぁんは大変喜んで大男の似顔を粘土で作り釜どのそばの柱に掛けて毎日拝んだんだと。それからおじんつぁんとおばんつぁんは、何不自由なく幸に暮したんだと。今でも釜柱にかかっている釜男の面は福を呼ぶ面だという、いわれなんだとしゃ。



宮城県 (東北歴史博物館「東北地方の仮面」より)
竈神は旧仙台藩領にあたる、宮城県から岩手県南部の地域で竈の神としてまつられている。木製や土製で、家を建てた時に大工や左官が作ったという例が多い。表情も多様で、中には家の主人がモデルとなっているものもある。江戸時代には作られているが、起源は不明である。



気仙沼市 (気仙沼市史Zより)
【カマガミ様】:市内の旧家にはカマガミ様と呼ばれる土製や木製の恐ろしい顔の面を祀る風習がある。分布状況は岩手県南部から宮城県南部にかけて仙台領内に特に多いようである。市内のカマガミの数は、ほかの市町村と比較して決して多いとはいえないが、形や材質、その言い伝えなどが様々であることが一つの特色となっている。菅江真澄は、その紀行文によると天明六年(1786)に現在の宮城県河南町で「かまおとこ」を確認している。すでに200年前からカマガミが祀られていたことが分かる。カマガミを祀った理由には昔話が付いていることが多い。
たとえば、市内の菅野家では次のように伝えている。昔、薪を背負った男が穴の前を通ったときに、穴から人が出てきたその薪を欲した。男は薪を全部穴に入れたところ、そのお礼にショウトクという名のおかしな子供をもらった。ショウトクはお客さんの前でもヘソをいじるくせがあったので男がとがめると、ヘソからコトンと小判を出した。男は欲を起こしてショウトクのヘソを強くこづいたところ、死んでしまった。そのショウトクを祀ったのがカマガミ様だという。
ほかには、使用人につらく当たり、あとになって、それを後悔してカマガミを祀ったというところや、手間取りを祀ったというところもある。いずれにせよ、家を盛り立てた者を祀ることで、その後の繁栄をも約束させようとした民間信仰の一種であったと思われる。
また、カマガミの製作者とはどのような人たちであっただろうか。これも、古いカマガミほど伝承でしか知ることができない。たとえば、その家を完成させた大工や左官などが製作したという言い伝えも多い。木製のものは大黒柱の残り木で大工が作り、土製のものは壁土やカマドに用いた残りの土で左官などが作ったと伝えられている。特に、木製のカマガミは神楽面の製作者によって作られることも多い。市内の新しいカマガミのほとんどは、細尾の尾形文治郎・文吾親子による製作が明らかである。故文治郎は、神楽面も作った彫刻師である。神楽面の中には荒々しい面だけでなく、福々しい面もあるが、岩手県東磐井郡の大東町や室根村にかけては福相のカマガミを祀る家が分布している。市内では、小芦の吉田宅のカマガミ様は大黒様によく似た笑顔をしている。恐ろしい顔のカマガミは魔よけのために入口正面を向き、福相のカマガミはヨコザと向き合うという例が多いが、吉田家では入口ともイロリともつかない中間の方向を向いていたそうである。魔よけであると同時に福をも招来するカマガミの二面的な性格を暗示していて興味深い。



小野田町 (小野田町史より)
【 竈神】:台所庭の奥の竈のそばの大きな竈柱の中ほどに竈神を祀り注連を飾る。御神体は木彫か又は粘土を練り合わせて作った厳しい面で竈男ともいわれている。この面は永い年月竈から立ち上がる煙で真黒に煤けて、女子供も恐れるような一種異様ないめしさを見せている。東北農民の火に対する崇敬の念と、火勢に対する恐怖を素朴に竈男に表し、更に神聖な火を魔除の神として邪悪や悪魔を排除するに応わしい様相の鬼神面を選んだことは想像に難くない。当町の民家には大部分竈神が祀られてある



中新田町 (中新田町史より)
【竈神】:建築と直接の関係は無いが、田舎の少し古い家には台所の竈場の上、若しくはその近くの柱又は大黒柱の上の方にいかめしい面相をした黒く煤けた竈神と称する面が掲げられ注連を張り神符や幣が捧げられている。抑この竈神の由来は何かということを考えると、人間が火に対する畏敬から信仰に発展して火を崇め火を祀る型式となったものと考えられる。即ち火は炊事に・照明に・採暖に人間生活上必要欠くべかざるもので、マッチや附木の無かった昔は、堅い木と木との摩擦により、或は燧石とフクチによって火を求めた。従って火種を非情に大切にし、寝る前には必ず燃え残りを炉の火床(ほど)に深く埋めて翌朝まで消えないように用心したものである。どこの家でも煮炊きをする為に台所にはカマド又はクドと称して竈を備え、居間や茶の間には囲炉裏即ち炉があって薪を燃やして湯を沸かしたり、煮焼きをするばかりでなく、家族や来客がこれを囲んで暖を採り団欒の場所ともしたことは今も昔も変わりない。ローソクやランプなどの無い時代には夜間の照明にもなったのである。炉に火が無いと、何となく徒然であり淋しさを感ずるものである。しかしながら一旦その取扱いを失すると大厦高楼も一瞬にして灰じんに帰するという有様なので火そのものの持つ神秘的な威力に対して昔の人をして畏怖と尊信の念を抱かしめるのに十分力を持っていたと同時に、社会集団をして精神的に結合させ、家族生活の宗教的中心となり、祖先崇拝とも結びついて火への信仰が著しくミまり、火の神に対する信仰はやがて炉や竈に対する信仰に発展し所謂身上もち即一家を経営することを「カマド持ち」と称するに至り、戸数を数えるのに幾カマドと呼び、分家することを「かまどを分ける」、下男や小作人を「家竈」と呼ぶようになり、家の繁栄は即ち竈の威力にあると考え、其処に神の存在を認め信仰を持ち、家の神、家族繁栄の神として竈神を祀り専ら竈や炉の清浄を旨とした。
竈の神の呼称にも地方によって異たる。当地方の「かまがみ」、岩手県では「かまじん」、東京都西多摩地方では自在鉤のことを「おかまさま」と称し、京都附近では炉の鉄輪(かなわ)即ち当地でいう五徳のことを荒神様と呼んで居り、近畿や中国地方の農村では竈のことを「ロクダイ」(土公台(どこうだい))又は「どっくさん」と呼ぶそうだが、土公台とは土公神(どこうじん)を祀るときの祭壇の意味で「どこう」が「どっく」と訛り「どっく台」として祀る風習があるとのことである。伊豆の新島では炉のことを普賢様と呼ぶそうだが、これを普賢菩薩は土公神の本地と信ずるから事であろうと思う。(註:陰陽家が土公神は土をつかさどる神とし、春は家に、夏は門に、秋は井に、冬は庭にあって、その時節のその場所の土を動かせば祟りがあると称している。)
次に竈神の御神体について考えて見ると、東北地方の太平洋に面した処では何れも厳しい鬼神面を神体とし、火勢に対する恐怖と崇敬の意を持ち、又魔除の神として邪悪を持ち来らす悪魔を排除するに応わしい様相を表したことは、東北人特有の純朴さを示したものと思われる。処によっては竈男又はヒョットコ(火男)と称して醜い面相や片目が小さく口の尖った火吹格好をして滑稽な男の仮面を用いたりする。竈神の祀り方にも色々あって、家の神としての竈神は祖先神ともかかわりが深く、毎年の正月には神符(多くは奥津日子命(おきつひこ)・奥津比売命(おきつひめ)又は秋葉神など)を掲げ注連縄を張り幣を捧げ神酒を献え、家長の死に際してはその祭りを新たにするために炉の灰を新しく取り替えることもあり、子供が生れると竈の神に無事成長を祈願し、泳ぎに行く時は竈の煤を顔に塗って出掛けると河童にさらわれないとか、田植えが終われば苗を、稲刈りが終わると稲束を供え、又田の神と同じく農事始めに里に降り、終われば山に登り日頃の家族の罪過を神に知らせるとし、悪口を言われない様にとオハギなどを供えて祭るところもあり、嫁婿の輿入りの際には、先ず竈神に礼拝をさせる風習もあったというが、これらの習わしも次第次第に薄れて来ていることは時代の然らしめるところか。(註:秋葉神は迦具土神又は火産神(ほむすびのかみ)と称し、防火の神徳を有し、奥津日子神・奥津比売命は何れも燃え盛る火のように御威勢がまく、もし火の神聖を汚すときは、荒さび給うので荒神とも申し上げる)



大和町(南川の民俗 東北歴史資料館編)
“カマドの神”が祀られている。ほかに、“カマガミ”(カマオトコ)の面が祀られている家もある。これは火の守り神で、火伏せの神の意味も含んでいる。
カマガミの面は、初めて炭焼きした人が死後まつられたとする伝承がある。この男は、生前人と会うのが嫌いだったため、カマガミの面の前には注連縄を飾り、面が直接見えないようにするという。
カマドのそばの柱には、新田八幡の境内にある釜神社から請ける、奥津彦神・奥津姫命の御札を下げることも多い。
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大和町【升沢にくらす(集団移転に伴う民俗調査報告書 宮城県大和町教育委員会編)】
火伏せの御札として、御正月様の御神像のうち、奥津彦神・奥津姫神の御神像を台所の壁に貼っている家は多い。また、下原集落には、木製のカマガミサマ(釜神様)を風呂場の近くで祀っている家が認められる。
この釜神様は60年ほど前に、先々代の当主がケヤキを削って作成したもので、クドを壊すまでは、そのクドの所で祀っていたのだという。特に祭日はないが、正月には、釜神様の下に奥津彦神・奥津姫神の御神像を貼り、餅を供えている。
ちなみに、かつて馬を飼っていた家の中には、馬屋にウマガミサマ(馬神様)を祀っていたと伝える家もあるが、今日では、その詳細は明らかでない。また井戸や洗い場の神、あるいは便所神に対する信仰などは、今回の調査では確認されなかった。
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北上町 (北上町史より)
【カマ神:竃の神とカマ神】:生活する上で,火は調理に用いられるだけでなく,灯りとして,また暖をとるために人々にとって欠かせないものである。住居には囲炉裏や竈が据え付けられ,日常生活の中で火は大切にされてきた。囲炉裏が家の灯りとして一家団らんの象徴であるのに対して,竈は主食である米を調理したり,祭りや祝い事にたくさんの食事を作る施設であり,地域社会にとって豊かさの象徴ともいえるものである。このため,家を出て分家するのを「竈を分ける」と言ったり,破産することを「竈を破る」として,竈はしばしば家や家の財産と同じ意味で使われる。そのため,大切にされており,祖先神として扱われ,竈のそばに神棚を設けてお札や幣束を置いて祀るのは全国的なことである。竈神や火の神は日本各地で家の神として見られるが,祀ってきた歴史が古いため,信仰の形態は一様でなく,むしろ複雑を極めている。関西の近畿地方その他ではこれらを荒神様とし,竃の神と農作神としている。中国地方では土公神という陰陽道にちなんだ神を竃の神・農作神として祀っている。東日本ではオカマサマを竃の神とともに田の神と極めて近い農作の神として祀り,それとは別に荒神を火の神として信仰している。
宮城県から岩手県南部にかけての地域では竃近くの柱や壁に土や木でできた面を祀る風習がある。一般にはカマガミサマと呼んでいるが,地域によっては「カマオトコ」,「カマズンツァン」,「カマダイコク」,「カマベットウ」などとも言っている。全国でも極めて特異な竃の神であり,早くから研究者に注目されてきた。

【起源伝承とカマ神の性格】:竈神を祀る由来は,南北朝時代に成立した『神道集』に述べられている。それは「福分ある女と貧運を持つ男が結婚して栄えたが,女を離別してから男は零落し、後再会したとき女は長者に嫁していた。男は恥じて死に釜の後に埋められて釜神になった」という話である。この話では面を祀るわけではない。しかしこれに似た内容がカマ神の起源譚にもある。次の話は『神道集』の竈神に近い。
「ある女が嫁に行ったが,働きが悪いといって出されてしまった。その家では後に働き者の嫁をもらうけれど,まもなく潰れてしまった。その家の男は乞食になり,方々歩く内に前に出した女の家に行った。女は握り飯や銭を与え,男をその家の竈の火焚きに雇う。しかし,男は竈の前で死んだ。そこでこの男を竈神様として祭った」
「ある所に盲目の婆と息子夫婦がいた。婆が夜虱がたかるので虫の子をかじっていたら,嫁が息子に糯米を盗んでかじっているから山に捨ててきた方がいいと告げ口した。そこで息子は柴の上に婆を乗せて山へ行き,マッチを忘れたといって家に戻ってしまう。一晩待った婆が虫の子をかじっていると,風鈴を鳴らしながら来た人が,婆の姿を見て驚いて風鈴を投げて逃げ出した。婆が風鈴を捨って鳴らしていると,突然目が開き,さらにすっかり若返った。山を下りて足の向くまま歩いていると立派な家の前に出た。そこで使われている内に娘にもらわれ,婿をとってもらった。ある日留守をしていると箕売りがやって来た。よく見たら落ちぶれた息子なので驚き,一つ買ってやろうとして,裏の畑の旦那殿を迎えに行き戻ってみたら息子は炉に入って黒焦げになっていた。そこで母親は息子を持ち上げて臼持柱にべったりぶつけた。これが今の釜神様の起こりだという。」
 この他に貧運の者を祀った例に「怠け者の婿」(岩手県東山町松川)や「体が弱く仕事のできない嫁」(岩手県東山町松川)がある。貧運の者を竈神とする起源譚は受け入れた家の人,特に竈を扱う女性とかつての家で婿や息子として生活していた者が外から内に入ってきたのを祀っている。これとは反対に福運の者を祀る例がある。こちらは全くの他人を無心なく受け入れたところ,その家に福をもたらしてくれたので,竈神として祀った。福をもたらす神には恵比須・大黒天がよく知られているが,竃の神は人を神としていることが重要なのであろう。数はこちらが多く,内容によって類型化できる。

【A@.竜宮童子型】:「昔,大変信心深い爺と婆がいた。爺は毎年山から門松を迎えるとき竜宮様に上げ申すと言って途中の川に流していた。ある年取りの晩,口の曲がった醜い男の子がやって来 て,ショウトクという者だが置いてくれと言った。貧乏だからと断るが,飲み食いしないし庭の隅に寝るだけでいいからと言うので仕方なく置くことにした。翌朝目覚めると,家が立派になっていたので驚いた。そこに見知らぬ娘と男がやってきて,それぞれ今からこの家の嫁と婿になるという。それから爺と婆はなに不自由なく暮らすようになった。そのうち孫が生まれ,兄弟喧嘩ばかりするので婆が「なぜ喧嘩ばかりするのか。しようとく悪い」と口癖のように言っていた。ある日,以前に置いた男の子がいつも「しようとく悪い」と言うから出て行くと言い出したので爺は驚いてお前のことではないと言ったが,男の子は出て行ってしまった。次の朝目覚めたら元の荒れた小屋になっていた。それでもショウトクのお陰で楽しい暮らしができたので,その顔を彫って毎日拝んだ。それが今の火男だという。」

【AA.山の神童子型】:「山に柴刈りに行った爺が大きな穴を見つけた。悪いものが住むから塞いだ方がいいと思い刈った柴を全部穴に入れてしまった。すると中から美しい女が出てきて,柴の礼を言い爺を穴の中に招いた。中の家には,白髪の翁がいて柴の礼を言った。種々御馳走になって帰るときに,醜い顔で臍ばかりいじっている童をもらって来た。その童は爺の家に来ても臍ばかりいじっていたので,爺がある日火箸で突いてみると臍から金の小判が出た。それからは1日に3度ずつ出て家は忽ち富貴になったが,欲張りの婆がもっと多く金を出そうと爺の留守に火箸で童の臍を突くと童は死んでしまった。帰った爺が悲しんでいると,夢に童が出て,俺の顔に似た面を作って竃の前の柱に掛ければ家が富むと教えた。童の名はヒョウトクといい,この土地では醜い面を木や粘土で作って竃前の柱に掛けておく。」この話をした人は後に童の名「ヒョウトク」はこのときに「ショウトク」と語ったと後で改めており、竜宮童子型と同じ名前である。

【B.犬歳の客型】:「ある堅い百姓屋で,嫁をもらって初めての年越しの晩,舅が火打ち石とふくじを揃えておいたから,明朝火をたきつけろと嫁にいった。嫁が休んだ後に始がそれを隠してしまったので,翌朝嫁は途方にくれた。雪が降っていて隣から火種をもらうこともできず泣きべそをかいていると,むこうにボーッと火が見えたのでそちらに走って行った。近寄ってみると恐ろしい顔をした大男が菰包みに腰を掛けて豆殼を焚いていた。恐る恐る火種を分けて下さいと頼むと,男は菰包みを7日間預かってくれるならということで,承知して家に案内して納屋の片隅に筵を掛けておいた。しかし,7日間過ぎても取りに来ず正月も15日になってしまった。家の人が納屋を掃除して仕事を始めようと言い出したので,嫁は心配になり隠し直そうと思って行ってみたところ死人の菰包みなので驚く。移そうとしたが重いので開けてみたら金の延べ棒であった。大男がとうとう現れなかったのでその家は金持ちになった。それから正月には豆殼で火を焚きつけるようになった。恐ろしい顔の男が福を招いたので,火の用心と宝授けの神として釜神様に祭るようになった。」

【C.乞食型】:「昔,ある由緒ある家へ醜い顔をした若い乞食男が訪ねてきた。乞食は家に入ると庭に倒れている箒を見つけ邪魔にならぬ所に立てかけてから中に入り,主人に雇ってくれと頼んだ。この家では娘が長患いで床についており,雇い人もいるのでその頼みを断ったが,考え直して竃の火焚きとして雇うことにした。娘の病気は良くならなかったけれども,年頃になったので婿を探した。娘は火焚き男がいいという。この男が婿になると娘は快復に向かった。火焚き男は一躍わこ様になり,その家は繁昌した。この男を祭ったのがカマガミである。」
 「ある所の旦那殿が一人の乞食を家に泊めたところ,その乞食は働かないでところかまわず排便した。しばらくすると便が黄金になっていた。そこでこの乞食を神として祭った。これがカマガミサマであり繁昌の守り神である。」
 Aは海神・山神につながる童子によって福がもたらされる話である。Cは見知らぬ乞食が縁により家にきて寝食を共にし,福をもたらす詣である。この場合,乞食は男であり,女の場合は嫁になる。Bは大晦日に見知らぬ人物から授かった火によって福がおとずれる話である。これらには昔話にカマ神の起源譚を接続したものが見られる。A@は竜宮童子の話,Bは大歳の客,Bの嫁は炭焼長者という昔話をもとにしている。その点では独創的というわけではない。だが,これらに共通する事項がある。@神は子どもの姿をしている。名前は「ショウトク」という。A人として来るのは成人である。B姿は醜い。C当初,もたらすのは価値のないものである。D価値のないものは竃や火によって福をもたらすものに変わる。カマ神起源譚といっても,必ずしも,なぜ面なのかを語っているわけでない。上記の共通項からは竃に対する信仰の基礎ということかも知れない。それは竃は外部から家に入ってきた人がもたらす価値のないものを価値あるものに変換させる装置であるという考えである。竃は外部の人が持つ,あるいはもたらす,マイナスのものをプラスに変えるのである。醜い姿は立派に,便や臍のゴミ,死体は金(きん,かね)にである。そう考えると,貧運の元家族などがなぜ起源譚と結びついているかも推定できる。家に福をもたらす見知らぬ者に変換したので,神として竃に祀られたのである。

【カマ神の概要1 起源の問題】:人の顔に似た表情を土や木で作ったカマ神を祀る風習がいつから始まったかは大変興味を引く問題である。祀っている家の人によれば天正年間(1573 − 1592)ということも言われているが,これははっきりしない.伝世しているカマ神は岩手県江刺市旧後藤家(1695年建築),北上市旧菅野家1728年建築)などで台所の土壁に貼り付けられているものがある。木製カマ神では,一関市舞川に伝わる東磐井郡の「薄彦」作が1700年代前半と言われている。 1700年ごろに絞られるので,伝世しているのは古いもので17世紀末と考えられる。
カマ神を記した最も古い記録は江戸時代の天明6年1786)の史料である。菅江真澄が東北地方のことを記した紀行文,「はしわのわかば(続)」で現在の桃生郡河南町鹿又で見た土製のカマ神である。
「此あたりの家の,竃の柱に土をつかねて目には貝をこみて,いかる人のつらを作りたり。是を『かまおとこ』といひて,『耳のみこのふるごとありと』いひつとふ」18世紀の後半はすでに土製で,目に貝を使ったカマ神を祀り,「カマオトコ」と呼んでいたことがわかる。「耳のみこ」は豊聡耳皇子とも称された聖徳太子を指しているのであろうか。すなわち「耳のみこのふるごと」とは「聖徳太子の故事」であろうか。そうであるならば,起源譚に出てくる「ショウトク」の話があるかどうかを聞いていた可能性もある。
伝世しているカマ神で製作年代が確実な例は鳴子町川渡の木製カマ神で,文化11年(1814)の製作である。「文化十一甲戌年/正月十七日/願生/太瀧山明助/鬼首従出」このカマ神は上辺も水平に近く四角形の形で,「V」字形の眉,丸くて飛び出した目,「へ」字に結んだ口,やや張り出した下顎,垂れた頬が特徴である。「太瀧山」は現所蔵者宅が江戸時代に修験院をしていたときの山号である。同形のカマ神は鳴子町内に10点近くある。中でも鬼首地区に多く,「鬼首より出ず」とあるように鬼首地区在往者が製作したものである。
木製と土製ではどちらが早く作られたのかはっきりしない。一軒の家で複数祀っている場合は土製が壊れたので木製のカマ神を作ったという話を聞く。しかし,カマ神のうち,最初に作られたのはどっちとなると,一方に断定するだけの根拠はない。面はふつう,目に穴を開け,両脇に紐を通す穴があり,芸能や神事の際に人が顔につけるものである。カマ神も木製でこの構造をしている例もある。しかし,木製でも人がつけるのを前提としていないで,掛けるだけの面もある。土製の場合はもちろん掛ける面である。最近,面の研究では中世にこうした掛面のあったことが注目されている。古い例では南北朝時代に京都伏見稲荷大社で祀っていたことが史料に残っている。
或記云。古老傳云。龍頭太ハ。和銅年中ヨリ以来夕既ニ百年ニ及ブマデ。当山麓ニイホリヲ結テ。昼ハ田ヲ耕シ。夜ハ薪ヲコルヲ業トス。其ノ面龍ノ如シ。顔ノ上ニ光アリテ。夜ヲ照ス事昼二似リ。人是ヲ龍頭太ト名ク。其ノ姓ヲ荷田氏ト云フ。稲ヲ荷ケル故ナリ。而二弘仁ノ比ニ哉。弘法大師此山ヲトメテ。難行苦行シ給ケルニ。彼翁来テ申テ日ク。我ハ是当所ノ山神也。仏法ヲ護持スベキ誓願アリ。願ハ大徳常二真密ノ口味ヲ受ケ給フベシ。然者愚老忽二応化ノ威光ヲ耀テ。長ク垂述ノ霊地ヲカザリテ。鎮二弘法ノ練宇ヲ守ルベシト。大師服膺セシメ給テ。深ク敬ヲ致シ給フ。是以其面顔ヲ写テ。彼ノ神体トス。種々ノ利物連々二断絶スル事ナシ。彼ノ大師御作ノ面ハ当社ノ竃戸殿二案置セラル。」
京都の伏見稲荷大社境内の竃戸殿に弘法大師が製作した面を安置していたと記す。その面は,龍頭太という稲荷山の山神で,その神が仏教を護持する行為を深く敬い,その所業を忘れないように,弘法大師が製作したという。竃戸殿に安置している理由はふれていない。夜に薪を樵り,顔の光によって夜を照らす神にちなんだのであろうか。山の神が田を耕すのは,作神でもあるというこの神の性格を示している。カマ神にも山の神の童子を祀ったという起源譚があり,作神として祀っている例も多く見受けられ,よく似ている。しかし,時代・地域が離れており,直接的なつながりは見つけられない。むしろ,中世には面を山の神として祀る風習があり,カマ神信仰の底流にはこの思想があるとすべきものである。
  ところで,カマ神信仰の底流としてもう一つ押さえておくべき信仰が中世にはある。面に関わる信仰で、顔につけるための面ではなく,屋根や柱・神輿・桙・榊などに掛ける面である.先の伏見稲荷大社の面も竃戸殿に掛けられ,さらに祭礼では神輿に掛けられたとの伝承がある。このような面は南九州に多く伝わっており,一対で,火王面と水王面とするのが目立つ。東日本地域ではこの掛面は少ないものの,「東北地方のカマド神の仮面と相通ずるところがあるように思われ,カマド神と南九州に多い民俗面とは相貌・表情に相違があるように思えるのだが,形式の基本部分に共通したところがあり,その共通したところに民俗面の古い形があるように思われる」と指摘されている。カマ神信仰の根底には,中世の信仰と強く結びついた,いわゆる掛面があると考えられる。伏見稲荷の作神としての山の神,竃の神もこの類である。当地方のカマ神も作神として祀られており,共通した信仰と考えられる。しかし,カマ神は伝世資料では17世紀末までしかさかのぼることができず,直接の関連は今のところたどれない。

【2 分布】:現在祀っているのは北は岩手県石鳥谷町,南は角田市・白石市で,江戸時代の仙台領の範囲である。このうち,分布の密度が濃いのは宮城県北部から岩手県の南の地域である。とりわけ古川市周辺と北上川中流域,岩手県東磐井郡が核になっている。カマ神の素材は土製と木製が大部分を占めている。土製は海岸部,木製は内陸部に多いとの指摘がある。

【3 祀り方】:土間にある竃近くの柱上部に掛けている例が多い。この他に梁や長押,あるいは壁に塗り込んでいる場合もある。向きは土間の入り口を見守っていることが多い。また,囲炉裏を向いていることもある。岩手県東磐井郡の笑顔をしたカマ神では囲炉裏を向いていることが多い。栗原郡花山村では大黒柱の天井裏部分の高い場所に掲げてあったり,家を新築したときに以前は屋根裏にカマ神を掲げたとの伝承がある。これらは南九州に多い掛面とのつながりが感じられる例かも知れない。
どんな性格があるか。これはもちろん,火の守り神として火難除けという意識が最も多い。次いで,家の守り神として魔除け・悪病除け・盗難除けが見られる。農業の作神としての側面もある。年の暮れに煤払いをして注連縄や幣束を飾る例が多い。注連縄は「カマジメ」と呼び,正月が過ぎてもそのままで,屋根のふき替えや不幸があって正月をしない年まで毎年加えていくことが多い。田植えのときに稲,稲刈りや麦刈りの後に稲や麦の株を供えることも多い。

【4 作り方】:大きく分けて木製と土製がある。家を新築したときに大工や左官屋に作ってもらったというのが多い。しかし,家の建築年代に比べてカマ神が新しいことが少なくなく,言い伝えとして考えておくべきかもしれない。木製の場合,樹種には松・栗・ケヤキが多いが,他に杉・桐・桑・ミズノキなどもある。耳や鼻の頂部は別に作り,接合したものもある。道具は製作跡の観察によって仏像や面を専門に作る職人が持つ細工用ノミが多用されている例もある。裏もお面のように深く抉っている。この場合,地域ごとに類型化が可能な特徴があるので後述する。一方,表情が平板でノミ跡も単調なカマ神は類型化が難しい。
土製は,まず,柱などへの取り付け法によって分かれる。多いのは柱に縄を巻き付けて,その上に粘土を盛り上げて成形するものである。粘土が落ちないように竹串や木串を柱に打ち付けることもある。また,板を用意してその上に粘土を盛り上げていくものもある。落ちないように竹釘などで粘土を固定している。縄を巻くこともある。完成したら板のついた面を柱などに掛ける。前者は目にアワビを用いたものに多く,焼き物を使っている例は少ない。後者は焼き物が用いられている例が目立つ。技法的には板を使うのは新しい方法であろう。

【5 特徴的な表情のカマ神】:木製では加美郡に分布している,目にランプの火屋を用いているカマ神が特徴的なものとしてまず挙げられる。顔を着色し、頭部は渦巻きを4つ連ねて表現している。眉はもとに渦がある。口は歯をくいしばっている。目は顔のほぼ中央で大きい。また、ランプの火屋は使用しないが,これと似た感じのカマ神が鳴子町と田尻町にある。着色され,歯をくいしばった表情が似ており,髪と眉が波線で表現されているのが異なる。鳴子例は額に螺髪状の微がある。田尻町例は額の微か波で表現した髪で包まれており,宝球状になっている。鳴子町ではこのタイプは昭和10年ごろに大工が製作したものである。
土製は豊里町に太い縄で鉢巻きを表現した一群がある。目は「へ」字形で,歯にアワビ貝をはめ込んだ,50cmを越える大形である。アワビ貝は目にも使われている。柱に直接取り付けている。また,目に焼き物をはめ込み,鉢巻きを粘土紐で表現した一群が桃生郡海岸部にある。北上町に多いカマ神もこのグループである。桃生町や津山町など北上川下流域を中心にその周辺の町には,土製ながらメリハリの効いた特徴的なカマ神が約150点も確認されている。桃生町に住んで左官屋をしていた,通称「ハダカカベ」が製作したカマ神である。このカマ神は目に完形の茶碗を使い,底の高台を瞳として表現している。頬や顎,額に粘土紐を巧みに貼付して怒った顔ながらどこか僧めない造形になっている。ひげに真綿などを使っている点や板の上に成形していることが多いのも特徴である。明治中期から昭和初期までの作品があり,カマ神では最も特徴のある造形かも知れない。
  特徴のある表情という点では,大黒天に似た笑顔のカマ神も同様である。土製と木製があり,岩手県東磐井郡に分布している。頭に大黒天と同じ頭巾を乗せ,目尻が下がっている。土製は目に貝や焼き物をはめ込んでいる例は少数で,ふつう多くははめ込みがない。木製の笑み面は裏にある銘によって作者がわかる例がある。例えば同郡室根村の僧侶で,仏師・彫刻師で神楽面なども製作した人物で,明治後半ごろのものである。ここに取り上げたカマ神は少なくとも10点以上は確認できる表情を取り上げた。5点前後を含めると,まだまだたくさんの特徴的なカマ神がある。

【6 北上のカマ神とその特徴】:町内で祀っているカマ神は総数42点である。このうち土製が36点,木製は6点と土製が86%と圧倒的に多い。土製のカマ神は大部分が目に陶器を用いている。ほとんどが柱に直接つけて祀っており,板を台にしているのは2点(691,692)だけである。表情は特徴によっていくつかに区分できるので,以下に個別説明をするにあたって土製は特徴をとらえるためにA1型・A2型とB型,C型に分けていく。A型はこのうち,粘土紐による鉢巻きが額の中央にあるもので,前項でふれた桃生郡の海岸部に多いグループに含まれる。ただし,町内のカマ神はこれに加えて,吊り上がった眉を断面四角形の粘土板を作り出している。その眉から「へ」字に結んだ口,目尻から頬の皺を「く」の字形に表現したもので,顔面が猿に似ているカマ神である。 A1型はさらに「く」字を粘土紐や段で作り出して表現したものとした。A2型はA1型に近いが,形がA1型ほど斉一的でなく,1点1点が独特の表情を醸し出しているものとした。これらは「ハダカカベ」のカマ神ほどの共通性がないので,複数の作者が類似したカマ神を製作したと思われる。町内ではこのA型が23点と多く,また他の市町村には少ないことから北上町を代表するカマ神と言える。B型は額に鉢巻きを締めているカマ神でA型に含まれないものとした。C型は鉢巻きのないカマ神である。製作されたのは,目に用いている焼き物が江戸時代の終わりに普及した陶器なので,多くは明治以降と思われる。
 今回の町史編さんによる調査で、A1型は100年以上前から祀っているという家が3軒あった(701 ・ 718 ・ 721)。明治30年前後である。これに対してA2型には明治初期という家が2軒ある(710 ・ 712)。A2型にはA1型よりも古いカマ神があり、その中からやがて北上町に特徴的な表情となるA1型が生まれたのであろう。成立したのは明治中ごろと考えられる。作者は、いずれも気仙郡の職人であり、いわゆる気仙大工・左官との言い伝えである。

【689】 本地地区の岡本家では木製のカマ神を祀っている。太い眉,盛り上がった頬が特徴的である。目はやや吊り上がり,口を少し開けて,歯を見せている。鬼の表情であろう。目には金属板をはめ,顎は長いひげがたくさんある。大きさは縦33cm,横26cm,高さ11cmである。火の神様として祀っている。昔は正月に膳を上げて拝んだが,今は特別なことはしていないという。
【690】 本地地区の山内A家で所有している土製のカマ神はB型である。黒目を墨で大きく丸く表し,結び目のない左ねじりの鉢巻きを締め,「へ」宇に閉じた口とひげがローマ宇の「X」に見えるのが独特の表情を生んでいる。大きさは縦52cm,横51p,高さ28cmである。山内さんの家では火の神様として祀っており,正月にお供えをし,元旦から三日間は餅と雑煮などを上げ,それ以後はご飯や魚を上げて拝んでいる
【691】 本地地区の山内B家で所有している土製のカマ神はA1型である。町内では珍しく,板を台にしている。吊り上がった縦長の目に沿って黒目を墨で長円形に入れている。鉢巻きのねじりは左右で違っている。大きさは縦39cm,横38cm,高さ6cmである。山内さんの家では悪病退散や厄除けとして祀っている。正月に餅や御神酒を上げて拝んでいる。目は薄くなると墨で入れた。
【692】 本地地区の今野家で祀っていた土製のカマ神はA1型である。 1992年(平成4)に宮城県に寄贈され,現在は多賀城市の東北歴史博物館で保管されている。板を台にしている。鉢巻きのねじりが左右で違っている。大きさは縦38cm,横37.5cmである。板を含めると,縦52cm,横37.5cm,高さ12.5cmである。
【693】 長尾地区の武山家で所有している土製のカマ神はA1型である。「へ」字形の口の線はそれほど明瞭でなく,顎との境目は段になっている。鉢巻きのねじりは左右で違っている。大きさは縦48cm,横46cm,高さ14cmである。火の神として祀っている。正月だけ餅や御神酒を上げて拝んでいる。目は汚れたら2,3年ごとに墨人れをしている。
【694】 行人前地区の今野家では木製のカマ神を祀っている。顔は朱色に彩色してある。目は金色に塗ってあったというが,今は剥げてしまっている。目は見開き,口は力を入れて「へ」字に結んでいる表情で,四角い形状と怒った姿は神楽の鬼面に似ている。大きさは縦30.5cm,横26.5cm,高さ13cmである。火の神様として祀っている。正月に注連縄を張り,膳を上げて拝んでいる。
【695】 行人前地区の佐々木家では木製のカマ神を祀っている。岩手県陸前高田の「たがさん」という気仙大工が作ったと言い伝えられている。目を見開き,上の歯をむき出しにした怖い表情であるが,どこか親しみやすい顔である。大きさは縦33cm、横24.5cm,高さ11cmである。神棚に祀っている神様と同じように正月や祭りの際には餅や膳を上げて拝んでいる。
【696】 峯地区の藤原家で祀っている土製のカマ神はC型である。額に3本の皺がある。口は閉じている。目には磁器染付の焼き物をはめ込んでいる。縦の線が何本も描かれた部位を使っており,これがまつげのようにも見える。鉢巻きがなく,町内では少ないタイプであり,おじいさんをカマ神にした感じがする。大きさは縦42.5cm,横42cm,高さ22cmである。火の神として祀っている。正月に注連縄・幣束・松などを飾り,膳を上げて拝んでいる。祝いごとのときにも拝んでいる。
【697】 泉沢地区の今野A家で祀っていたカマ神は土製でB型である。 2002年(平成14)に多賀城市の東北歴史博物館に寄贈され,保管されている。額に鉢巻きがあり,結び目は大きく表現され,頭頂部まで延びている。やや吊り上がった目には磁器染付が用いられている。大きさは縦50cm,横41cm,高さ21cmである。
【698】 泉沢地区の今野D家で祀っていたカマ神は土製でB型である。 2002年(平成14)に多賀城市の東北歴史博物館に寄贈され,保管されている。頭頂部に蝶結びの形に似た鉢巻きがある。額や側面の髪の生え際は板状の粘土を貼り付けて表している。口は幅1 cmほどのくぼみで,富士山の形をしている。町内に類例がなく,牡鹿町寄りに少し似たカマ神が祀られている。大きさは縦50cm,横45cm,高さ13cmである。
【699】 泉沢地区の今野C家で祀っているカマ神は土製でB型である。額に鉢巻きがある。板を台にしている。長円形の外形で,真ん中に大きな鼻がある.5本の歯が貝で表現されている.眉と口の回りに植毛の穴が残っている.大きさは縦43cm,横31cm,高さ12cmである。正月だけ膳を上げている。黒目は昔から入れていない。
【700】 舘地区の佐々木家では木製のカマ神を祀っている。目は見開き,口は「へ」字に結び,回りに力強い皺があり,力が入っている様子をよく描いている。四角い形状と怒った姿は神楽の鬼面に似ている。行人前地区の今野家のカマ神と同じ系統である。大きさは縦34cm,横24cm,高さ12.5cmである。火の神様として祀っている。正月に餅・御神酒を上げている。正月のカマ神を送る際には塩・昆布・焼いた餅を上げて拝む。
【701】 中原地区の佐々木家で所有している土製の力マ神はA1型である。 100年以上前に左官屋が作ったという伝えがある。表情はA型に共通している。しかし,耳が眉の高さから,鼻の下端の位置まであり,大きく長いのが特徴である。鉢巻きのねじりは左右で違っている。大きさは縦40cm,横43cm,高さ15cmである。正月だけ餅や御神酒,膳を上げて拝んでいる。目は昔から年末の煤払いで拭いた。そのときも黒目は入れない。
【702】 要害地区の上野家のカマ神はB型である。鉢巻きは幅の太い刻みのような表現である。目は大きく吊り上がっている。口は少し開いている。目の下の頬を盛り上げている。大きさは縦39cm,横30cm,高さ12cmである。火の神として祀っている。正月に餅と幣束,膳を上げて拝んでいる。黒目は昔から入れない。
【703】 大上地区の武山A家で所有している土製のカマ神はB型である。中央が下がって「V」字状の鉢巻きと吊り上がった眉が平行になっており,すっきりした印象を受ける。全体の表現も穏やかで頬に盛り上がりがあるのが目立つ程度である。要害地区の上野家のカマ神(702)と似ている。大きさは縦40cm,横31.5cm,高さ15.5cmである。火の神として祀っている。正月に餅や御神酒を上げて拝んでいる。以前は注連縄もしたが,今は飾っていない。
【704】 大上地区の武山B家のカマ神はA1型である。鉢巻きのねじり具合は他よりも明瞭でなく,ベレー帽をかぶっているようでもある。黒目が上を見ているので,表情が締まって見える。大きさは縦41cm,横40cm,高さ15cmである。火の神として祀っている。正月に餅と幣束,膳を上げて拝んでいる。昔から目入れはしない。
【705】 追波地区の佐々本A家で祀っている土製のカマ神はB型である。長塩谷の親戚の先々代が作ったという。鉢巻きは左ねじりで,右巻が多い中では珍しい。鼻から目にかけて皺がややあるがA型ほどはっきりしていない。口を締めて引き締まった表情をしている。大きさは縦37.5cm,横39cm,高さ11cmである。火の神として祀っている。正月に注連縄を張り,ローソク・餅・御神酒を上げて拝んでいる。今はしないが,昔は年末に墨で黒目入れをしていた。
【706】 追波地区の佐々木B家で祀っている土製のカマ神はA2型である。鉢巻きはねじりがなく,結び目を大きくしている。口の周りに特徴があり,鼻の下から両側の頬が段になっていて,口周りの皺を表している。口の端は上がっている。大きさは縦36cm,横32cm,高さ16.5cmである。火の神として祀っている。正月に餅・御神酒・膳を上げて拝んでいる。目は毎年墨入れをしている。
【707】 追波地区の千葉家で祀っている土製のカマ神はC型である。頭は三角形で,鉢巻きでなく,恵比須様などがつける烏帽子をかぶっている。結んでいる口はややとがっており,カッパの口に近い。北上町内では少ないが,河北町で見かける表情である。大きさは縦55cm,横40.5cm,高さ30cmである。火の神として祀っている。正月に塩・水・米・餅・幣束・御神酒を上げる。目入れはしない。
【708】 迫波地区の佐々木C家で祀っている土製のカマ神はC型である。額に3本の皺がある。口は閉じている。目には染付の焼き物をはめ込んでいる。鉢巻きがなく,町内では少ないタイプである。大きさは縦42.5cm,横42cm,高さ22cmである。火の神として祀っている。正月に注連縄・幣束・松などを飾り,膳を上げて拝んでいる。祝いごとのときにも拝んでいる。
【709】 追波地区の佐藤家では木製のカマ神を祀っている。目は笑っているようにも見える。口を開けて,舌を見せている。眉と顎に植毛の跡がある。大きさは縦26cm,横21cm,高さ14pである。3代前に家屋を譲ってもらったときにはあったという.以前の祀り方は不明だが,佐藤家では正月に餅・御神酒・ミカンを上げ,膳を供えて拝んでいる。
【710】 古浜地区の立身家で祀っている土製のカマ神はA2型である。1875年(明治8年)に気仙郡出身の松岡豊吉という左官が製作したとされている。細い眉と鼻から口の下まで丸く表現された皺が印象的である。この皺は,こめかみから頬にかけてみられる粘土紐による顔の表現とともにA1・2型とも共通する特徴である。大きさは縦58cm,横52. 5cm, 高さ20cmである.火の神として祀っている。現在は正月に餅を上げる。昔は節日にも拝んだ。かつては目に毎年墨入れをしていた。
【711】 月浜地区の千葉家で祀っていた土製のカマ神はA1型である。 2002年(平成14)に多賀城市の東北歴史博物館に寄贈され,保管されている。他の例に比べると耳が大きいのが特徴である。大きさは縦45cm,横42p,高さ15cmである。
【712】 月浜地区の佐々木A家で祀っている土製のカマ神はA2型である。明治初期に「トヨゾウ」という左官が製作したと伝えられている。鼻から口の下まで丸く表現された皺が印象的である。これは古浜地区の立身家のカマ神と同系の表現である。大きさは縦47.5cm,横42.5cm,高さ13.5cmである。火の神として祀っている。正月に餅と御神酒を上げる。かつては目に毎年墨入れをしていた。
【713】 月浜地区の佐々木B家で祀っている土製のカマ神はA1型である。口があまり強調されておらず,鼻の位置が他の例よりも下にあるため,鼻の下端が口のようにも見える。猿の顔形に配した粘土紐は断面が角形で,典型的なA1型である。大きさは縦48cm,横45cm,高さ18.5cmである。火の神として祀っている。正月をはじめ,年2回のお祭り・祝い事に膳を上げて拝んでいる。掃除のみで目の入れ直しはしていない。
【714】 月浜地区の藤原家で祀っている土製のカマ神もA2型である。鉢巻きにねじりはない。目や鼻は他の例よりも下に位置している。烏天狗に似た表情をしている。大きさは縦37cm,横30cm,高さ19cmである。火の神として祀っている。正月やお祭りに膳を上げて拝む。昔は汚れたら目を拭いて墨で入れた。
【715】 月浜地区の佐々木C家で祀っている土製のカマ神はA2型である。鉢巻きにねじりがなく,上端に巻いているので,ベレー帽をかぶっているような感じである。顔は猿顔にしているが穏やかな表情になっている。大きさは縦41cm,横46cm,高さ13cmである。正月に注連縄を張り,餅・御神酒を上げて拝む。
【716】 月浜地区の千葉家では土製のカマ神を2点祀っている。左はA1型である。右は頭部の形など全体の印象はA2型である。しかし、顎の形は追波地区の千葉家(707)に似ている。1点は仙台に出た家のカマ神を預かっているという。左のカマ神はA型でも厚みがあり重厚なカマ神である。大きさは縦38cm,横33cm,高さ26cmである。右のカマ神は大きな一文字形の口で,磁器の焼き物をはめ込んで歯を表現している。口と肉感的な頬が印象的である。大きさは縦41.5cm,横29cm,高さ27cmである。火の神として祀っている。正月に餅・幣束を上げる。目に毎年墨入れをしていたが,今は掃除だけで目入れはしない。
【717】 立神地区の高橋家では木製のカマ神を祀っている。口を開けて,舌を見せている。目には穴があいており,面としても使用できるようになっている。大きさは縦27.5cm,横18cm,高さ11cmである。
【718】 長塩谷地区の佐々木A家で祀っている土製のカマ神はA1型である。 100年以上前に気仙大工が作ったとされている。猿の顔形に配した粘土紐の断面が三角形に近い。猿形の下部は逆「V」字形の段になっており,口はその上方にあり,A1型としては他例と様子が少し異なる。大きさは縦42cm,横39.5cm,高さ12cmである。火の神や魔除けの神として祀っている。今は正月とお祭りの際に御神酒や膳を上げて拝んでいる。以前は12月23日の「オデシサン」(お大師様)に「キシャズ」(おから)をぶつけた。また,12月の良い日を選んで目に墨を入れていた。
【719】 長塩谷地区の佐々木B家で祀っている土製の力マ神はA1型である。段を設けて,猿の顔形を表現した典型的なA2型である。大きさは縦35cm,横36. 5cm,高さ17cmである。火の神というわけでなく,家内安全の神として祀っている。正月に松と注連縄で飾り,膳を上げて拝んでいる。
【720】 白浜地区の小笠原家で祀っている土製のカマ神はB型である。鉢巻きにねじりの表現はない。また,皺を特に強調してもおらず,穏やかなカマ神である。大きさは縦26cm,横23cm,高さ12cmである。火の神としてではなく,一般的な家の神として祀っている。正月に餅と幣束を上げて拝んでいる。
【721】 白浜地区の武山A家で祀っている土製のカマ神はA1型である。100年から113年ほど前に以前の自宅を新築したときに気仙大工が作ったとされている。耳を内部まで表現している。大きさは縦47cm,横47cm,高さ15cmである。火の神として祀っている。かつてトキ・セツ・正月など毎月のように拝んでいた。今は正月と祝い事・お祭りに膳を上げて拝んでいる。昔は墨で目を入れていたが今はそのままにしている。
【722】 白浜地区の佐藤A家で祀っている土製のカマ神はA1型である。眉や猿の顔型の粘土紐,鼻から口への皺の盛り上がり,ふくよかな顎の感じはA1型の特徴をよく表している。大きさは縦44.5cm,横45.5cm,高さ15cmである。火の神として祀っている。正月に餅やミカンを上げる。また,毎朝拝んでいる。
【723】 白浜地区の佐藤B家で祀っている土製のカマ神はB型である。全体の形が四角形で,縦位置のほぼ真ん中の高さに目があり,他の例よりも目の位置が低い。口にも特徴があり,下の唇が左右に分かれている。大きさは縦36cm,横27, 5cm, 高さ24cmである。火の神として祀っている。正月に餅・御神酒・菓子・ミカンを上げて拝んでいる。
【724】 白浜地区の武山B家で祀っている土製のカマ神はA1型である。鉢巻きと眉の間隔が他に比べると狭く、顔の輪郭がやや細長く見えるのが特徴である。大きさは縦41. 5cm, 横45.5cm,高さ16cmである。火の神として祀っている。正月にローソク・御神酒・塩・膳などをあげて拝んでいる。昔は煤払いのみで目入れはしなかった。
【725】 大室地区の佐藤宅で祀っている土製のカマ神はA2型である。鉢巻きが左ねじりで,太くて大きいのが特徴である。目には磁器の染付を使い,焼き物の絵をうまく用いて,上目がちにしている。大きさは縦43cm,横41p,高さ22cmである。火の神としてだけではなく,神棚の神と同じように祀っている。正月に小さく丸い「タガッコ」(注連縄)に幣束をつけて,膳を上げる。また,お祭りや祝い事にもお供えをしている。目は掃除するだけで墨は入れない。
【726】 大室地区の佐藤A家で祀っている土製のカマ神はA2型である。鉢巻きはねじりがない。頬にあるエクボのような印が愛らしい。大きさは縦44cm,横35cm,高さ15.5cmである。火の神として祀っている。今はケースに入れているが,以前は柱に竹釘で固定していた。年末の31日にタガッコをかける。ケースに入れる前は顔を拭いたが,そのときにも目の入れ直しはしていない。
【727】 大室地区の佐藤B家で祀っている土製のカマ神はC型である。眉間の縦皺,丸くて飛び出た目も印象的だが,丸くて大きい頬がもっとも特徴的である。ちょっと鬼瓦に似ている。大きさは縦29cm,横24.5cm,高さ9.5cmである。家内安全などの家の守り神として祀っている。正月に餅・御神酒・タガッコを供える。
【728】 大室地区の佐藤C家で祀っている土製のカマ神もA2型である。鉢巻きはねじりがない。眉や目の位置が上方に寄っている。頬の作り出しが印象的である。大きさは縦38cm,横35.5cm,高さ13cmである。火の神として祀っている。元は柱に取り付けていたが,30数年前に自宅を新築した際に,氏神と共に外に安置した。正月に御神酒と「オハネ」(饌米)を上げる。 【729】 小指地区の遠藤家で祀っている土製のカマ神はA1型である。鉢巻きのねじりは左右で異なる。大きさは縦38cm,横35.5cm,高さ13cmである。火の神として祀っている。かつては年末に「キシャズ」(おから)をぶつけた。現在は餅・御神酒を供える。膳も上げるがすぐに下げていただく。





金成町【金成町の文化財 カマ神(金成町教育委員会よりH3)】
人間の日常生活において、火あるいはそれにともなう燈りは家族・人々の寄り集うところであり、ある意味では生活の拠点であるともいえる。そうした火や燈りを取り扱う場所としての竃(かまど)を大切にし、信仰の対象とする例は古くからまた全国的にみられることであるが、宮城県から岩手県南部にかけての地域では、特に、土間の竃近くの柱や壁に土や木の面をまつる風習がある。これらの面は一般にカマガミサマと呼ばれるが、地域によってカマオトコ・カマズンツァン・カマノカミサマ(宮城県)、カマダイコク・カマベットウ・カマメンコ(岩手県)、などと呼ばれている。
明るい戸外から薄暗い土間に入り、突然目だけが異様に光るカマ神に接した時の驚きは、「カマ神さまが見ているから悪いことはするな」と注意されたり、「家の守り神さまだから決して恐ろしいものではない」と論された子供たちの気持と共通するものであろう。また大多数のいかめしい顔つきのカマ神の中で、大黒(だいこく)風の笑顔のカマ神に接した時には妙な安堵感さえおぼえることもある。
このように、まさしくカマ神は人々の生活に密着し、生活の一部として存在していたが、竃の消失という環境の変化によっ劣化の度合を深め、人々の心からもしだいに離れつつある。加えて近年の文化住宅によるカマ神そのものの破損、移動、消失によって、それらの正しい意味付・年代付は困難な状況にあり 体系的な研究という点ではなお不十分な状態にあると言わざるを得ない。
多くの民俗事例がそうであるように、カマ神についての調査も遅すぎた感があるが、この冊子がそうしたカマ神の実態解明また保存のための一つの契機となり得るとすれば、今回の企画の意図の大半は達せられたと思う。

○分布
現在まつられている地域は、白石市から岩手県石鳥谷(いしどりや)町にかけてであり、一部藩境地帯も含まれるが、分布地域はほぼ旧仙台藩領に相当する。分布数が多いのは仙台市以北から一関市付近にかけてで、とりわけ宮城県の北東部から岩手県の東磐井郡にかけてと、宮城県北西部の古川市以西と奥羽山脈沿いの地帯にかけて分布密度が高い。
さらに詳しくみると、南の白石市のものと、先祖が仙台市秋保(あきう)から移住したものであり、最も北の石鳥谷町のものは、先祖がかつて仙台藩に接する和賀郡に居住していた足軽であったと伝わっている。
こうしたことから、カマ神は一般に旧仙台領の特有の信仰といわれているが、藩南部の伊具郡や亘理郡では所在が確認されていない。また北部の気仙郡の場合も、陸前高田市ではまつられているものの、それ以北に見当たらない。このように、藩域に属する地帯でも南と北の一部には分布しない地域がみられる。
栗原郡では、栗駒町が101体と多く花山・一迫町と続く。町内では十六点と少ないが、調査漏れなどでこれ以上に増える事が予想される。

○まつり方
カマ神がまつられている場所が、土間の竃の近くである点はどの地域も共通している。その位置は竃より高いのが普通だが面を取り付けている所は一定していない。多いのは土間の柱である。ただし、柱の位置や呼び方は地域によって異なる。よく聞かれるのは、ウシモチ柱・カマ柱・ヨメゴカクシ柱などと呼ばれる柱である。このほかに梁(はり)や長押(なげし)に取り付けているものや壁に直接面を塗り込む方式も見られる。なお、カマ神の多くは土間の入り口を向くように取り付けられているが、笑顔の面相のものはイロリの方向を向くものが多い。カマ神をまつる日や方法は地域によって多様である。大体は年の暮れに煤(すす)を払って注連縄(しめなわ)や幣束(へいそく)を飾る例が多く、この時以外は特に掃除をしないのが普通である。正月にはほとんどの家で餅や御神酒(おみき)を供えて拝んでおり、小正月にもマユダマを飾ったりする。そのほかあまりまつることもしない例が多いが、中には節句(せっく)などの特別の日には赤飯やお膳をあげる家もみられるし、宮城県東和(とうわ)町では、炭焼窯(すみやきがま)のカマブチが終った夜に餅や酒をあげており、火を使う仕事において特に信仰された地域もある。また、田植えの時に苗や苗を束ねる藁(わら)を供える家もあり、この神が田の神としての性格も合わせ持つことをうかがわせる。このほか、小迫某氏が二月に馬のワラグツをカマ神の頭上に振り分けに垂らして供えた例がある。栗駒町ではワラグツのほかに馬の姿を切ったキリコを年末に飾る例があり、これには馬の健康や農作業での働 きを期待する気持がこめられている。
カマ神をまもっている人々の信仰でもっともよく聞かれるのは、火の守り神として火難よけとする意識である。ついで、魔よけ・盗難よけなどもしている。いかめしい顔つきや入り口正面を向いてまつられる例が多いことから、悪いものの進入を防ぐ効果を期待するのは自然の発想と思われる。また台所近くにまつられているためか、一部には炊事をする女の人を守る神と伝える家もあった。なお、桃生(ものう)郡や登米(とめ)郡などには、煤払いの際に、土製のカマ神の眼をみがき、墨で黒眼を描き入れる家がある。こうした家では、カマ神の眼をきれいにしておくと眼病にかからないという。

○作り方
カマ神は家を新築した時に、大工や左官屋によって作られたと伝えることが多い。これが事実かどうかはまだ研究の余地があるが、カマ神の素材は粘土(土製)と木(木製)に大別されるのは事実である。
土製のカマ神の作り方は柱や壁にはじめから取り付けるものと別に作ってから張り付けるものとがある。直接取り付ける場合は柱や壁に竹串や木串を差込み、串に縄を絡めて面の芯とし、その上に藁を細かく刻んで混ぜた粘土を張り付け、造形したとみられる。この場合、あらかじめ柱に縄を巻きつけておくのもある。柱よりカマ神のほうが大きい場合は柱の脇のほうまで粘土を巻きつけることもある。可塑性のある粘土は乾くまでに時間がかかり、形がくずれることもあったとみられ、職人の腕のみせどころであったにちがいない。別に作ってから張りつける場合、多くは板を用意し、竹串や木串を打ち込み、縄を絡めて面の芯とするのが普通であった。あらかじめ板に細い縄を巻く場合もある。できあがったら面の付いた板を柱や壁に釘打ちする。
土製の場合、仕上げは鏝を用いたとはっきりとわかるものもあるが、指や掌でなでつけたとみられるものも多い。象嵌が簡単なので、キラキラ光る貝殻や白い瀬戸物などを目や口にはめこみ、目や口もとを強調し、表情を豊かにするものが比較的多い。貝殻はアワビ貝が多いが、シウリ貝やホタテ貝をもちいる こともある。瀬戸物を利用した場合、墨で黒く瞳をいれたり、歯並びを現したりする場合もある。また、眉や髭などを綿や麻で作ることもある。岩崎某氏には頭に縄で鉢巻をするものがみられる。
木製の場合は、別に製作して、のち壁や柱に掛けるのが普通である。材料はマツ・クリ・ケヤキなどが多いが、調査の段階では判断つかないものが多かった。作りが平板なものと彫りの深いものとに分かれるが、区別が難しいものもかなりある。平板なものは器用な素人が作ったという感じのものが多いが、作 風が素朴で親しみある表情をしめす。平板な作りとなるため、鼻には別の木をたして高く表現することもある。またクリの古木などに宿り木がついて瘤ができた部分を利用してつくられたものもある。裏側に抉りがあっても浅いものが多い。彫りの深いものは木彫にたけていた人が作ったと思われるものが多い。 仏像や神楽面を製作する専門家あるいは器用な人が副業に製作したのであろう。製作は上手であるが、地域ごとに類型化したものが多い。軽くするために裏面を大きく抉っているものも多い。また、耳を別につくり接合しているものもみられる。なお、大崎地方では、やや新しい時期のものであるが、目の部分を裏 から抉り、目玉を書き入れたランプのガラスをはめこみ、後から和紙をまるめたもので抑えているものがある。木製のものには彩色されたものもある。
その他、コンクリート製のもの、やきもの、鋳物(銅製)などがあるが、年代的に新しいものや、他の部品を転用して利用されたものが多い。

○年代と製作者
カマ神を面という具象的なものに造形し、これをまつるこの地方独特の風習はいつ頃から始まったのだろうか。土製のものと木製のもののどちらが早いのか、また、同じく始まったのだろうか。作った人々は誰だったのだろうか。こうした問題についてはまだまだ分からないことが多い。
カマ神についての最も古い記録は、菅江真澄(一七五四〜一八二九)の紀行文「続・はしわの若葉」である。天明六年一七八六)九月に今の宮城県河南町の曽波神で「此のあたりのいえの、かまどの柱に、土をつかねて眼には貝をこみて、いかる人のつらを作りたり。これを『かまおとこ』といひて、『耳のみこのふるごとありと』いひつとう」とある。我々が問題にしている面として具象化されたカマ神を的確に表現している。これによって今から二百年前にはあきらかにカマ神をまつる風習があったことがわかるが、どこまで遡るかは謎である。
土製のものと木製のもののどちらが古いのであろうか。土製のカマ神が二百年前まで遡ることは真澄の紀行文で明らかになった。一方、一軒の家に土製と木製のカマ神がある場合、木製の方が新しく作ったといわれることが多い。また、土製のものがこわれたので、木製のものにかえたというのもよく聞く話で ある。しかし、木製のもので鳴子町に文化十一年(一八一四)の年号をもつものもあり、土製のものが木製のものに先行したとはいえない。土製も木製も古くから存在した可能性もある。すでに述べたように、カマ神は家を新築した時に、大工や左官屋によって作られたと伝えることが多い。また、家の主人が作ったという話もある。しかし、実際にカマ神の製作者を明確につたえる資料は意外と少ない。たとえば、「左官屋が作ってくれた」という家でも、「どこの左官屋かはわからない」という場合が多い。このようにカマ神の作者はほとんど知られておらず、これもカマ神の大きな特色となっている。だが、作者を知り、その生没年を通じてカマ神の年代を知ることはカマ神自体の歴史的変遷を明らかにするために重要である。しかし、伝承はあっても記憶に混乱があるものが多く確実なものは少ない。そこで、カマ神自体に銘をもつものや作者名が伝えられ複数で確認できるものに限って製作者を紹介してみよう。
最も古い資料は小迫某氏の明治三年の土製のカマ神で、裏板に「磐井郡流海老嶋邑(現、岩手県花泉町)住 佐藤東三郎」とある。この東三郎の作品と思われるものが宮城県石越町に一面あるがこちらは銘がない。

○カマガミの民話
むかし、ある村にたいへん正直で働き者の爺さんと婆さんがいた。ある秋の雨の日一日の仕事を終えて薪を背負って家路を急ぐ途中、山神堂の前にかかると、子どもの泣く声を耳にした。不思議に思い、参道筋に入って見ると、御堂裏の神木の洞の中で見なれぬ子どもがずぶ濡れで泣いていた。お爺さんは可哀想にと、薪の上にのせて我が家に連れて帰った。婆さんは早速濡れた着物を取り替え、焚火をもやして暖めてやった。ところが火明りで子どもをよくみると、頭 は大きく顔は山おやじそっくりで醜いこと餓鬼のようであった。これでも爺さん婆さんは大事に面倒をみて世話したが、子どもは何時になってもデンと炉端に座り大きなヘソを出して毎日腹あぶりばかりしていた。さすがの爺さんもあきれて、ヘソを出していないで少しは家の仕事を手伝ったらどうかと言い聞かせて、着物の前を合せてやろうとヘソをさわったところ、ジャラジャラと音がして小判が炉端に散った。爺さんはおどろいて子どもに問いただしたところこれは親切にしてくれたお礼で、明日から夕飯時にヘソをさすって下されば小判一枚ずつめぐむと答え、その後二人のくらしむきも良くなり家も栄えた。ところが、このことを知って隣の悪たれ爺さんが留守番をしていた子どもを訪ね、いきなり囲炉裏の火箸で大事なヘソをつつき、小判をどっさりとろうとしたが、子どもは小判を出さずに死んでしまった。仕事から帰った爺さん婆さんは嘆き悲しみ、この亡骸をていねいに葬り、子どもの厳めしい面相を永遠に伝えるお面をつくり、家神としてこれを祀り、火の守り神として、家人の無病息災、災難駆除、家運隆盛の神として祀ったのがカマガミ様である。
以上が玉造郡鳴子町に伝っているものだが、黒川郡富谷町、海岸部の気仙沼市、更に岩手県志田郡にも、まったく同じような内容の話が伝っている。また、次のような話も伝わっている。
昔、爺さまと婆さまがいた。ある日爺さまは山に柴刈りに行って大きな穴を見つけた。こんな穴にはきっと悪い物が住みつくだろうから塞いでしまった方がよいと思い、柴の束を穴の口に押し込むと、そのままするすると中に入ってしまった。さらに一束押し込むとまたするすると入っていくので、もう一束もう一束と押し込んでいるうちに三か日もかかって刈り集めた柴を、みな押し込んでしまった。すると穴の中から美しい女が出て来て、柴のお礼を述べ「どうか穴の中へ来てたもれ」と言って爺さまを誘った。爺さまは辞退したけれど、あまり熱心に勧められるので、女のあとについて行くことにした。穴の中には立派な館があって、その所にさっき押し込んだ柴がきちんと積まれていた。爺さまは館の中に案内されて、大へんご馳走になった。そこで楽しく二、三日をすごしたが、家のことが心配になってきたので帰ることにした。「これをけるから(あげるから)持って行け」と、帰りぎわにそう言われて、爺さまはしぶしぶヒョウトクという1人のわらし(童)をもらって来た。すこぶる醜い顔をしたわらしでずっと炉にあたりどうしで、腹あぶりをしながらひっきりなしにヘソばかりいじくりまわしていた。そこで爺さまは火箸をもってそのヘソをちょいと突いてみた。するとそこから金の小粒がこぼれ落ちたという。それから日に三度ずつヘソから金を突き出して、たちまちのうちに豊かになった。だが婆さまは欲深者であったからもっと沢山の金を出したいと思って、爺さまの留守にヒョウトクのヘソを火箸でぐいぐいと突いた。そのためヒョウトクは死んでしまった。これを知って爺さまが悲しんでいると、夢にそのヒョウトクが現れた。「爺さま泣かねでけろ。おらの顔に似た面を土で作って竃の柱さかけておいてけろ。そうすればこの家は富み栄えるようにしてやるから。」爺さまは粘土をこねてわらしの面を作ると竃の柱にかけた。おかげでこの家は栄えた。このヒョウトクこそ「火男」つまりヒョットコであるといわれる。
このように前の話と後の話の共通するところは、醜い子どもが火あぶりしてヘソから金を出し、欲ばりの人がいて子どもを殺し、死後その子どもの面をつくって祀ったのがカマ神の始まりと言われている点である。しかし、カマガミの性格上、火の用心、いわゆる『水神様』的性格は持たなかったのであろうか。 また医学の発達しない時代に火の神から家の神となり、更に偶像に発展し病疫を払う魔除けとして家の守護神となり今日まで伝わったものであろうか。近年は売買専門の収集家に買いあらされ商店のコマーシャルまで使われるようになったカマガミ……先代の残した文化遺産を素朴な姿で後々まで残したいものである。

○カマガミは炭焼藤太か
ルーツがまったく謎とされている旧仙台領の農漁家の台所に祀(まつ)られていた「カマ神」が、実は奥州藤原三代の栄華を築いた金売り吉次の父親、炭焼き藤太ではないかという新説を宮城県塩釜市花立町の土地家屋調査士、郷右近忠男さんが仙台市で発行されている小冊子「日曜随筆」十月号に発表した。
天平産金以来、わがみちのくは黄ほる山であり、掘れば黄の出る山であった。そこには、「……いのちも知らぬ恋もするかな」と歌われ、金掘りと呼ばれた山の民、山に憑かれた男の世界があった。往時を語るこれらの産金遺跡は、今に語り継がれて各地にある。京の都に往来したと伝えられる奥州金売商人金売吉次や、その父炭焼藤太にまつわる話など、黄金花咲くと謳われたみちのくならではの所産ではないだろうか。戦中、ある仙北の分教場の菜園から、藤太ゆかりか、金銅佛が出土したという話も聞く。
ところで旧仙台領一円に釜神の信仰があり、いかめしい形相の火気に煤けた釜神(面神)、木製、土製面が旧家に伝来する。私はこの釜神の親神こそ、彼の炭焼藤太に擬したいと思うのである。いや藤太こそその人ズバリの原像ではないだろうか。釜神、釜面そのものは火を焚く釜男とされ、竃を守る男とも語られてきた。然し、謎は依然として謎であり、宗教民俗としての説得ある解明は未だなされていない。旧仙台頭は偶然にも、そこは有数な産金地帯であることに注目したい。
最近のこと戦友会が倉敷市であり、瀬戸大橋、屋島の観光があって解散、ついでをもって中国山脈の山ふところ、美作三湯の一つ大山に近い湯原温泉に行ってみた。ここは旭川の上流だが、この地方吉井川からは砂鉄がとれ、昔備前刀工の町で知られる長船町があると知った。鉄鉱山はあるが、金鉱山は無いとも。この時わがみちのくの山有難きかなの思いを一層深くした。このたび第十九回「大伴家持」特集に寄せて、みちのくに眠る黄全讀をとりあげてみた。                                  (昭和六三・七・一四記)
かま神信仰は、全国的に流布するが、わが宮城県の場合、いささか趣きを異にし竃面を祀る。このことは特筆に値する。その範囲は本県一円にみられるが、その濃密地帯は、仙台以北〜水澤(岩手県)以南に限られるようである(旧仙 台領)。こうした限られた地帯だけに、かま神信仰いや、かま面信仰ともいうべきものが、なぜ起ったのであろうか。
面には、木彫面、土製面の二様式があり、土製の面には、アワビ(飽)貝などが眼玉に使われている。また茶碗のかけなども眼に使われた。このかま神は竃神と書き、台所の柱などにかけ祀られた。総じていかめしい形相で、人の出入を見守るかのようににらんでいる。台所は煮焼をするところ、ここでは火を焚き薪を使った。だからかま神様はいつも煤で真黒くなっていた。土製然り、木製然り、アワビ眼の土製神は自ずと沿海地帯に多く、反対に山間寄りには木製が多い。これらのかま神は、その家の新築の時、大工棟梁や壁塗り職人により作られ、その家の主人にお祝いとして贈られたもののようである。この台所に鎮まるかま神、こんなわけで、勿論火伏せの神、火の神、魔除け神として、人々の暮らしを支え、見守ってきた。がっしりとした働き男をおもわせるこの神、そして怖しいまでのいかめしさ、顔の煤けはほとんど共通して見られるところ、そこで思うには、このかま神の祖神、祖霊神こそなんであったろうかと。 きっと祖神があったに相違ない。私はかま神、別の名、かま男を見るたびに、無性にそんな思いにかられるのである。それはどう考えても、真黒になって、黙々働く男の姿である。附言すれば火気にまみれて、年から年中、煤け働く男の原像であらねばならぬと考え、かくしぼっはとき、そこに思い当るもの、登場してくるものがあった。その働く男の姿こそ、薪と煙りと、火を使う男、火焚する竃場に到達する。そこに因縁するのが、かま神こと、竃神であり、かま男である。その分布をみれば、岩手県南より本県一円ということになる。この辺に問題がなくもない。とすれば勢い、この圏内に、祖神像を模索することになるのではないだろうか。薪と煙りとそれは山に生計を求める山の男でもある。といえばそれは山中に竃を築き、木を伐り、薪を集め炭を焼く、竃焚きをする男姿ということになる。私はこの祖神像こそ、火にとり憑かれ、煙りの色に心を砕く、炭を焼く男の姿とみるのである。試みに、炭を焼く男と仮定すれば、そこに浮上しきたるもの、本県では自ずと、栗原郡地方に数々の遺跡と伝承を残す、かの炭焼藤太に擬定すべきではなかろうか。炭焼竃の煙にすすけ、木焼の炭にすすけた藤太の面貌を、あの旧家に伝わる竃神の神性に見出すことは無理であろうか。私は、敢えてこのことを取上げてみたい。そして、もしかしてそうであるとするならば、藤太同様、かま神にも、黄金にまつわる伝説や民話などあってしかるべきと考えた。かま神に関する伝承は、コマキレ話が数々あることは知っていた。これらのなかに実は予想に違わず、有ったのである。一話ならず二つも三つも。取りあえずは三話を得た。但し狙いが的中したからといって未だしだが、ともに黄金という共通の話題を持つ、その連鎖性は否定できないであろう。
話は遠い、平安の昔に遡る。みちのくは栗原郡金成に、炭焼を生計とする若者、その名を炭焼藤太というのが居た。近衛院の御宇という、ここ京都、三條右大臣の娘に於幸屋彌の前と呼ぶ姫が居た。姫は良縁の授からんことを願い、清水の観音に祈ったところ、夢枕にご託宣あり、汝の夫たるべき人は奥州金成に住むと告げられた。姫はひとりみちのくさしてやって来た。そして藤太、その人をし見れば、髪はおどろに乱れ、炭焼より出でたるままにて、顔は燻ぶり、手足は真黒、ボロ着の上には炭を背負ってやって来た。娘には路銀にと大事に渡されてきた砂金包があった。姫はこれを藤太に渡し、これで買物をしてくるようにと言った。藤太は途中雁鴨にであい、とろうと砂金を投げつけたから、買物はせずに引返してきた。おさまらないのは姫である。ところが藤太は、こんなものならわが炭焼竃のところにいくらでもあるといって、小屋の中に案内した。そこには金色にきらめく、熱に溶けた砂金、いわゆる金のナマコが一杯あった。それよりは藤太夫婦は金をとり続け、都に上って金をうり、富裕な暮らしをしたといわれる。(長者)(詳細栗原郡誌)
かく観ずればかま神はまた、金運、財宝の神ともいえる。藤太はまた男子の出生を、紀伊熊野三社に祈願したところ、一夜熊野に詣で三個の橘を賜ると夢見て、姫は橘次、橘内、橘六の三児を産む。世にいう金売吉次は、橘次その人であり、金成町鎮座熊野神社、北野神社は実に橘次の勧請なりと伝わる。
源頼朝と不仲の、かの義経を平泉に案内したのも吉次といわれ、文治五年頼朝二十八万の大軍を以って泰衡を攻めたとき、橘次は堀弥太郎と名を改め、義経の家臣として主従五十余人蝦夷千島に逃るともある。
金成町畑の部落には、藤太夫婦の墓が山中に現存し、筆者もかつて訪ねたことがある。その時しかとは忘れたが、墓作りに使用されたものか、大形の石斧だったか、石鍬らしきものを見だのを憶えている。碑面はくずれて読みとれなかった。同じく畑には、その子金売吉次が親藤太夫婦の冥福を祈って建立したと伝えられる常福寺があり、位牌には次のようにあるという。
 常福寺殿安叟長楽居士
   仁安二年(一一六七)三月十七日卒
 徳雄院知眠貞慧大師
   仁安二年      八月七日卒
尚、藤太が山の神を祀って山上に埋めたという金鶏伝説があり、これは文政十五年(一八ー七)四月鶏坂の道路普請の時、土中から炭の粉とともに雌雄一対の金鶏が発掘されたといい、金成町史にはその寸法まで記載があり、オス鶏は約七・五糎、高さ六糎、メス鶏は約六・五糎としてある。
 小褄川渉る流れは浅くとも
 行く末深き契りなりけり
の小褄川など、藤太や於幸禰姫にまつわる旧跡はすこぶる多い。極言すればここ金成あたりが、かま神発祥の本地なのかも知れない。金鉱の採掘に伴い、金掘り達によって形を替え信仰されたものではなかろうか。だから平泉文化を支えたあの黄金の産地、宮城県の海浜地帯(本吉金、気仙金と称された)また山村鉱山部へと、次第にかま神信仰は流布されていったとは考えられないだろうか。
それではかま神に附話される黄金話に移ってみよう。
その一話 鳴子町史より釜男の話、鬼首の古老の話。
昔、子供のない老夫婦がいた。爺さんは若い頃から、木挽稼業として毎日山仕事に出かけて居ったが、小雨の降る或日仕事を早目に切り上げ、小柴を背負って家路を急ぐ途中、雨が大降りになったので、何時も雨宿りする大ごらによる と、背の小さい物すごく頭の大きな、見にくいいかめしい顔の小僧が休んでいた。びっくりして聞いてみると、かすかな声で一人児であるという。頭からずぶぬれになり、身にはポロ衣裳をまとい、腹をへらして虫の息である。爺さんは可哀想に思い、自分の着物を脱いで着せ、火をたいて食事を与えているうち、雨がやんだので、この小僧を背負い自分の家に戻った。婆さんはこのみにくい小僧が大きらいで、つらく当ったけれども、爺さんは大変親切で山から帰る時は、必ず何かをお土産に持ち帰って来て、小僧に与えておった。ところが小僧は何一つするでなく、毎日横座にすわり、でっかい出べそを火あぶりしているので、爺さんも愛想をつかし、或日のこと、「出べそはみっともないからしまっておけ」と手をふれたら、ザクザクと音がして、へその下から黄金がとび出し、灰の中に散乱した。爺さんはびっくりして小判をひろい集め、小僧にただしたが、何も言わずニヤニヤして、出べその火あぶりを続けているので、改めて着物の前をあわせてやったら、又黄金がザクザクと出て来た。これは不思議なことだ。神様のおさづけかもしれないと、小僧を大切に育てた。そして金が必要な時は、出べその静かになでて黄金を出し、生活は大変らくになった。ところが婆さんはこの事を知って、爺さんの留守のある日、たんまり黄金を得ようと、火箸で小僧の出べそをつつき、殺してしまった。爺さんは大変悲しみ、この小僧の顔を木彫として、朝夕火を焚く竃の上にかかげ、生前の出べそあぶりをしのんでとむらったという。この事から釜男の顔は大変無愛想な、いかめしい彫刻として残され、家運が開け、家の興隆を祈念してまつられるようになった。
その二話 東北民俗資料集(一)より
登米郡東和町楼台、小出庄之進氏(七六歳)の話によれば、ある所の旦那殿が一人のもらい人を家に泊めた。男は一向に動こうとせず、食べては所かまわず排便をし、カマドの側などにもした。旦那殿は困り果ててしまったが、もらい人はしばらく泊ってからどこへともなく旅立って行った。もらい人が旅立った後、旦那殿がカマドの側をみたら、大便が黄金に変っていた。旦那殿はさっそくもらい人を神様として祀ったが、それからというものその家は繁昌した。このもらい人を祀ったのがカマガミサマでお家繁昌のまもり神である。
三崎一夫氏の協力による。(採集者 黄川田啓子)
その三話 塩竃神社博物館秋季特別展「かま神さま」パンフレットより
「かま神とくらし」
みたくなしの童子がいて、へそばいじっては金の小粒をポロリポロリと出していた。よくの深い人が童子の腹さ金がいっぱいつまっているべと、腹さして殺してしまったど。かわいそうだと、その童子の顔をまつったのが、かま神さん だと。(大郷町小船越)
このように、かま神と黄金とは、全く無縁ではない。
今の物は別として、古来より伝承され今日に及んでいるもの、現在県内外に於て、その数ザット三百もあるであろうか。いずれも同じものとてない、名のある彫刻家の作でもない。かつて私が管見したものに、木彫面で鼻だけ取りはずしのできるように作られたのがあった(三角形)。この変種なにかというと、藩政時代キリシタン徒の弾圧された時代があった。そのときこのかま神の鼻のなかに、十字を形どった紙を入れ、秘かに礼拝したというのである。取はずしは、藩庁役人の改めのときに備え、キリシタン象形をぬきとるためと聞いた。これまたかま神珍聞、隠れキリシタンとの出会である。
マタギ集団の信仰神に祖神としての磐司万三郎があるように、木地師、こけし師には、その祖神として惟喬親王(文徳天皇第一皇子)が祀られ、祖神はつきもの。
面に象徴されるかま神とは別に、一般の家庭では「おかまさま」と称し、竃を守護する神としての竃神、奥津彦、奥津姫の二神を祀る。かま神そのものは旧家に祀られた。私は炭焼藤太こそ原神像とみるのである。



金成町(普賢堂の民俗 東京女子大学史学科民俗調査団編)
◎カマガミ
「カマオトコ」、「カマガミサマ」とも言い、直径約30センチの木製、または土製の醜い顔をした面が炊事場の柱にかけてある。魔よけ。火難・盗難・悪病を追い払う神。佐藤某氏宅、千田某氏宅のものは、戦後、瓦工場で働いていた両家の人が、いっしょに作ったということである。佐藤某氏宅にも見られる。横に幣束が立ててあり、かまどの神のお札もはってある。家を新築するときに、こわしたり、処分したりしたという家が二軒ある。特に珍しいものを作った特など、カマガミに供える。
◎丑柱
ダイドコロとニワの接点にある。カマド(火)を大事にするところからこの柱に「かま神」をかけたといわれる。現在でもかま神の残存している家は、千田某氏宅、千田某氏宅、佐藤某氏宅、の三戸であった。
写真




志津川町(志津川町誌 生活の歓A 志津川町誌編さん室1989)
【カマ神】
 家屋の内に祀られている神のなかで特異な存在はカマ神である。粘土製や木彫の面を掲げて竈神として祀る風習は、旧仙台藩領内にのみ見られるもので、面貌の多くは憤怒の相をしている。土製面の場合は目、歯などに鮑貝や盃の糸尻などを用いたりしている。面を作るのは、母屋を新築した際に左官や大工がご祝儀として作るのだといわれている。
家屋の中で火を使う炉や竈の傍に竈神を祀ることは全国にわたっているものであるが、面を掲げてカマ神とすることが何時頃より始まったものかは明らかではない。県下のカマ神について記録している文献は、菅江真澄の記した日記「はしわのわかば」(仮題)〔『菅江真澄全集』第十二巻所収、来来社〕で、天明六年(一七八六)九月十六日の条に「曾波の神の御山のかたちは、蕎麦のかたちに似たれば、しかいふとか。このあたりの家の、かまどのはしらに、土をつかねて眼には貝をこみて、いかる人のつらを作りたり。是をかまおとこといひて、耳のみこのふるごとありといひつとふ。」とある。
 この日記にみえる「かまおとこ」(カマ神)は桃生郡河南町鹿又辺の民家で祀られていた事例を述べたものであるが、天明六年(一七八六)という年代にカマ神が祀られていたことを証明する史料としてこの日記は貴重である。また、カマ神が母屋を建てたときに作って祀られるものだとすると、棟札や「建前御祝儀申受帳」などが残されている旧家の場合は、間接的ながらカマ神の祀られた時期を推定することが出来る。
 カマ神を祀る理由については明確ではないが、よくいわれているのは次のような伝承のタイプである。
 「昔、あるところの且那殿が一人の乞食を家に泊めた。その乞食は一向に働こうともせず、食べては処かまわず排便をした。竈の側にまでもした。旦那殿は困り果ててしまったが、しばらくしてその乞食は何処へともなく旅立って行った。乞食が出ていった後、竈の側を見ると大便が黄金になっていた。旦那殿は早速その乞食を神さまとして祀ったが、それからというもの家が繁盛した。これがカマ神さまであり、繁盛の守り神である(黄川田啓子「竈神信仰の研究」〔『東北民俗』第5輯所収〕)。
 この由来譚はいわゆる「炭焼長者伝説」のタイプであるが、乞食やヒョットコの屍、あるいは大便などというおよそ火にとって不浄とされることがらが、反対に観念されて神として祀られたり、黄金と化したりしていることは死を穢れとしないタタラ師の信仰と結びつくものであるとされている。また、カマ神は屋内に悪病などが侵入するのを防ぐために、戸口に向けて祀るものだともいわれている。 写真




南三陸町(旧志津川町) (波伝谷の民俗(2008)東北歴史館編)
 波伝谷には、神棚の近くなどにカマガミサマと呼ばれる泥製の面を祀る家がある。カマガミサマは、かつては多くの家で祀られており、江戸時代に建てられた家や、明治29年(1896)の津波以前の家にはあったという話が聞かれた。これは左宿屋が新築祝いに作るもので、土壁の泥を材料として作られていた。また、カマガミサマを祀る場所には、ミダマサマという先祖のための供え物をしたという。
 しかし、現在ではカマガミサマが残されている家は少なく、以前は祀っていたが、チリ地震津波の際に流されてしまったという例もある。そのほとんどが津波や火災、家の建て替えなどによって失われているようで、泥製の面に替わって鬼の面などをカマガミサマとしている家もあり、今でも泥製のカマガミサマを祀っているのは、波伝谷では前山崎のみであるといわれている。
 前山崎にあるカマガミサマは、もと昭和55年(1980)以前に住んでいた家にあったものを、そのまま持ってきて祀っているという。土製の面で、目の部分は猪口の底を用いている。以前住んでいた家では、恵比寿の神棚とともにチヤノマに祀っており、炉の上であったため、煤けて黒くなっていたという。現在の家に祀るようになってからは、徐々に色が落ちてきたといい、塗料で塗り直されている。カマガミサマは火の神であるといわれ、前山崎では御幣を立てて祀っているが、御幣を立てるようになったのは近年のことであるという。カマガミサマに対する祭りなどはとくに行われていない。



塩竈市(塩竈市史W別編Aより)1986
かま神面(十面) 宮城県指定有形民俗文化財
江戸時代
昭和60年5月24日宮城県有形民俗文化財指定
鹽竈神社蔵
竈神(かまどがみ)は家の火所である炉や釜の火を司る重要な神として古くから大切に祀られ、信仰されてきた。宮城県(岩手県南地域を含む) では、カマガミサマ、カマオトコ、カマオニなどと呼称されて竈(かまど)の上や近くの柱の上に土製或は木製のみにくい憤怒の形相の面として祀られている。面として祀るのは全国的にも例をみない当地方特有の風習であり、しかも祀られる面は、大きさ、材質、面相、性質等、家々によって異なり、いずれも庶民の暮らしの中のごく身近な神として信仰されてきた。かま神さまはそれぞれの家の歴史を物語る資料でもある。
鹽竈神社所蔵のかま神十体は、県内各地域(登米郡、桃生郡、宮城郡、栗原郡)から広く収集した資料であり、地域の特徴をもつ優品で、江戸時代の民俗資料として貴重な文化財である。



岩手県【岩手県史第11巻民俗編(著者:岩手県1965)】
カマド神
小倉強氏によれば、秉穂録二(岡田挺之著、寛政十一年)に「奥州の民家には、カマドのほとりに土偶人の長さ六尺ばかりなるを置く、釜男といふ」とあるそうであるが、今は土偶人は見当らない。カマド神様なら残っている。東磐 井郡東山町松川地方のカマド神様についての調査があるので、次に紹介しておく。
松川地方は古くから東山和紙の産地として著名であるが、カマド神様は松川地方全域にわたって残存し、大部分は傾斜地の山手に面した旧家に多く、昔紙漉きをやったという家である。カマド神様には土製、木製、素焼製の三種類があるが、木彫が最も多く、次に土製、素焼のものは特異な存在である。土製の面相には、鬼面相、醜男相、人面相、福神相等があり、歯や眼に鮑貝を挾み入れた異様な凄味を出したものや、歯に葦茎を植込んでいるものもある。木彫の面相には明王相、鬼面相、福神相、天狗相、虎面相等があり、明王相のものは一つの手本があってそれにならって作ったのかと考えられるほど風貌は似ている。他の面相はそれぞれ個性をもった様相である。鬼面相は神楽面に近い感覚で彫られた本格的な手法である。虎面相は珍奇な存在で材質は桐木で、耳や頭髪、髭などは失われている。福神相は小形な点が珍らしいし、明治中期に水沢の某が製作したものだという点で、製作時期がわかる珍らしい資料である。
カマド神様は普通中特柱にかけられたというが、近年台所改善などの関係から便宜的に位置を変えてかけられている。
カマド神様のお祭は家々で別々におこなわれる。したがって家々によりお祭の日も異っているが、昔は旧正月の十五日農蚕豊穣をいのり「マユならし」とか「雛ノ節句」に神酒やオソナイをあげたという。
松川地方では、カマド神様をまつる由来を紙漉と関連させて次のように説明している。真偽のほどは未詳であるが紹介してみると、和紙の製造には楮を楮釜に入れて煮る必要があり、そのとき多くの薪を焚く。そうした場合に不慮の火災をまねくことがあってはならぬというので、楮釜を作った残り土とか木を材料にしてカマド神様の面を刻み、防火の神様として祭ったというのである。それが後には火の神様のほかに家内円満、お家繁昌の守神としても祭られるようになったと伝えられている。
また松川地方には次のようなカマド神様に関する由来伝説が残っている。
(その1)ある草深い田舎に大変な怠け者の婿があった。その婿はどんな仕事をしてもすぐに倦きてしまう怠け者であった。ある時、家の人たちは婿にカマドの火たきをさせた。例によって婿は怠けた。家人は怒って婿を家から追い出してしまった。婿は生来の怠け者なので困窮し再びもとの家に戻って来た。婿の嫁が深く哀れんで再びカマドの火たきをさせ一生を終らせた。婿が死んだのちは、家の人が火守り神として面に刻んでカマドの上にかけて祀った。
(その二)ある草深い田舎に体の弱い嫁があった。力仕事ができないのでカマドの火たきを手伝っていたが、ある時、自分の着物にカマドの火がついてしまっているのに気付かず焼け死んだ。家の人たちはいたく悲しみ、イロリの側に面に刻んで神として祀った。
(その三)ある海辺に貧しい親子があった。せめて立派な門松を立てて正月を迎えたいというので、父と子が各自別々に山へ松の木を切りに行った。両人の切って来た松の木は、どちらも立派であったが、結局、父が切って来た松を門松に立てることになった。子の切って来た松の木は不用になったが、ただ棄てるのにはあまりにも立派なので父は海に流してやった。すると翌朝、見知らぬ人がきて「昨日は、立派な門松を送っていただいて有難かった。お礼に御馳走したいので一緒に来てくれ」といった。御馳走になり、いざ帰るというとき「何かお礼に差上げたい。欲しいものがあったら申していただきい」といわれた。そこで「カマド神をいただきたい」といってカマド神をもらって帰った。それから父子の家が繁昌するようになった。
以上は東磐井郡松川地方におけるカマド神様に関する由来伝説であるが、佐々木喜善氏の江刺郡昔話(大正十一年)にはカマド神としてヒョットコ民話が収録され学界に紹介されている。この方が話の筋に民話要素が加味されているが、カマド神と民家生活との親近性がうかがわれるという意味で掲げることにする。
【ひょっとこの始まり】
或る所に爺と婆とがあった。爺は山に柴刈りに行って、大きな穴を一つ見つけた。こんな穴には悪い者が住むものだ。塞いでしまった方が良いと思って、一束の柴をその穴の口に押し込んだ。そうすると柴は穴の栓にはならずに、するすると穴の中に入って行った。また一束押し込んだがそれもその通りで、それからもう一束、もう一束と思ううちに、三月が程の間に刈り進めた柴を悉く穴へ入れてしまった。その時、穴の中から美しい女が出て来て、沢山柴を貰った礼を云い、一度竈の中に来てくれという。あまり勧められるので爺がついて入ってみると、中には目のさめるような立派な家があり、その側には爺が三月程もかかって刈った柴がちゃんと積重ねてあった。美しい女に此方に入れといわれて、爺は家の中について入ってみると立派な座敷があり、そこには立派な白髪の翁が居て此所でも柴の礼をいわれた。そして種々と御馳走になって帰る時、これをしるしにやるから連れて行けといわれたのが一人の童(ヮラシ)であった。それは何んともいえぬ見っともない顔の、臍(ヘソ)ばかりいぢくっている子で、爺も呆れたが是非呉れるといわれるので、とうとう連れて帰って家に置いた。
その童(ワラシ)は、爺の家に来ても、あまり臍ばかりいぢくっているので、爺は或る日火箸で突いてみると、その臍からぷつりと金の小粒が出た。それからは一日に三度ずつ出て、爺の家は忽ち富貴長者となった。ところが妻が欲張りの女で、もっと多く金を出したいと思って、爺の留守に、火箸をもって童の臍をぐんと突いた。すると金は出ないで童は死んでしまった。
爺は外から戻って、これを悲しんでいると、夢に童が出てきて、泣くな爺様、俺の顔に似た面を作って毎日よく眼にかかる其所のカマド前の柱にかけて置け、そうすれば家が富み栄えると教えて呉れた。その童の名をヒョウトクといった。それ故にこの土地の村々では今日まで、みにくいヒョウトクの面を木や粘土で造って竈前の釜男(カマオトコ)という柱にかけて置く。所によってはまたこれを火男(ヒオトコ)とも竈仏(カマホトケ)とも呼んでいる。
【淵から上った福神童ウントクの話】
 或る所に一人の爺があった。毎日山へ行き、ある淵のほとりで柴を刈っていると、その淵の水が常にくるくると渦巻をしているので、面白いと思って、柴を一束其所に投げ込んでみた。するとその柴がくるくると廻って水の底に沈んだ。これは面白いと思って、また一束、また一束と投げ込んでいるうちに、爺が三月が程刈り置いた柴を皆其所に投げ込んでしまった。ところが淵の中から美しい女が出て来て、柴の礼をいい、是非わたしの家に来て呉れという。
どうして俺は水の底などに行かれるかと爺はいうと、何、わけがない、わたしにおぶさってただ目を瞑って居てくれればいいという。爺は女のいう通りにしているとやがて何の苦もなく二人は淵の底に行った。そこには真に立派な構えの館があって、爺が投げ入れた柴は、その脇にちゃんと積み重ねられてあった。女のすすめるままに、家の中に入ると座敷には一人の気高い老人がいて、柴の礼を呉々もいい、それから種々酒肴を出して爺をもてなした。そして爺が帰るとき爺があまりすすまぬのに、一人のみにくい童を呉れる呉れるといって、むりやりに押し付けた。爺も仕方ないから、その変な童を貰って家に連れ帰った。 家に帰ると其の童は爺、爺、俺はウントクという者だ。俺はどっか座敷の奥のような、誰もそう気の付かぬ所に置け。そうしたなら俺は爺によい運を授けるという。爺はそうしておくと、さあその童の働くこと、働くこと、忽ちのうちにほんとうに運がむいて来て、爺が財布の中に常に銭がぢゃぐめき、穀物櫃(ケセネギツ)の蓋は合わさらないような工合いになった。爺はそのことを誰にも明かさず、ひとり楽しんでいた。そして毎日毎日、山から帰ってくればひそかに奥へ行ってウントクの頭を撫でて、にこっと笑って出て来るので、婆はひどく気を悪くした。これには何か訳が無くてはならぬと思って、爺が留守の間に、奥へ行ってみると、何んともかんとも見悪い童が物蔭からちょこちょこと出て来た。一目でいやらしく堪らず、いきなり童の頭を箒でうんと撲って泣かせた。そして童を泣かせ、とうとうどこかへ追い出してしまった。爺は山から帰ってそれを知って、ひどく悲しんだ。それからは又だんだんと元通りのただの爺婆となったということである。
ヒョットコの面を下閉伊郡岩泉地方ではカッコドリと呼んでいる。胆沢郡下河原村(水沢市)にはカマド神社があった。伊達藩の儒者田辺希文は「伝云ヽ後冷泉帝、天喜中、源頼義父子、征伐安部貞任時、宿陳於比地、其構厨処、後建小祠祭竈」と説明しているが、村落全体でまつるカマド神はまことに珍らしい。
カマド神全般については藤田元春氏の研究に詳述されてあるので、ここでは省略する。
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瀬峰町【瀬峰町の文化財第4集 (瀬峰町教育委員会編 著者:山田忠重S60/3)】

瀬峰町に所在するカマガミサマ(1)
家の単位を表わす言葉としても用いられる竈は、古くから家産の象徴として考えられ、これに基づく竈神信仰は全国各地に広く認められている。竈の置かれた場所に松や榊を常時立て飾ったり、荒神や水神、絵像やカマガミの面を祀る風習が各地に見られるのはこの信仰の現われである。東北地方の一部、とりわけ宮城県、及び岩手県南部には俗にカマガミサマと呼ばれる土製、または木製の憤怒の顔をした面が竈柱など火所の附近に祀られている。大形の木面は奥羽山脈沿いの地域、土面は牡鹿半島を中心とする地域に分布するとの指摘もなされている(竹内利美:1974.7)が、未だに調査が及んでいない地域も多く、その分布や実数、各家における祀られ方など不明な点が多い。
筆者の知るところでは、瀬峰町内においても幾つかカマガミサマを祀る家、或いは保管している家がある。ここでは、昔から私たちの日常生活に深く関わってきたカマガミサマについてせめて町内に所在する資料だけでも記録に留めて置きたいと考え、極く新しい製作年代のもので恐縮であるが、先ず自家にあるカマガミサマを紹介し、その足がかりとしたい。
本資料は瀬峰町大里字富挑生田に所在し、縦37cm、横34 cm、顎部での肉厚は2.5 cm、重さは7.7kgで瓦質のものである。顔面は目と眉、口と鼻、それに左右の耳が大きく強調されている。また、目と鼻孔、口中には赤色を呈する塗料が塗られているが、現在はやや褪色している。製作された年代については昭和9年3月、中門と馬屋が火事で焼失した時、再建に当って屋根を瓦葺きに改めた。本資料はその瓦職人(瀬嶺地区居住の職人)が作ったものであるという。現住居は昭和48年に新築したものであるが、それまでの家屋(天保10年建築)では土間の柱にカマガミサマの棚を造り付け、正月には玄関や臼と同じ注連縄を張り、餅を供えて祀ったものである。



瀬峰町【瀬峰町の文化財第5集(瀬峰町教育委員会編 著者:山田忠重・白鳥伝S61/3)】

瀬峰町に所在するカマガミサマ(2)
1.はじめに
竈数、竈を分ける、竈を返すなど竈に関する言葉は数多く知られているが、これは竈が家の単位として重視されたためである。また、火が用いられることから家の中でも最も神聖な場所としても考えられ、各地に三宝荒神など、火の神を祀る風習が今に伝えられている。
宮城県から岩手県にかけては、このような信仰に基づきカマガミサマ、カマジン、カマオトコなどと呼ばれる面が竈柱や竈近くの棚に祀られている。これらは大工や壁職人がその家を建てる時家の守護を願って、材料の一部を用いて製作した場合が多く、土製、もしくは木製、忿怒相をしている。瀬峰町内においても10数例のカマガミサマの存在が知られており、昨年度からその調査を開始した。ここでは瀬峰町大里字中泉谷に所在する3例を紹介したい。

2.調査結果
大里字中泉谷、村上某宅のカマガミサマ
縦40cm、横25cmと面長のもので、裏面から鼻の頂部にかけての厚さは16cmである。重さは6.85kg、藁を混入した土製で、壁土材をもって製作したものであろう。眉は極く低く盛り上げられているだけであるが、両眼にはアワビ貝をはめ込んでいる。鼻は細長く、しかも高く盛り上げており、その下部には鼻孔が小さく付けられている。口は小さく一文字に閉じられており、また、両側辺には長大な耳が簡略に表現されている。以上、本例は全体的に優しく柔和な表情が観取され、他の例のように威圧惑を与えない資料である。なお、元来、竈柱に貼り付けられていたため、本例の裏面は柱表面の曲がりを写しとり、緩く内側に湾曲している。現在は竈柱直近、遡上の棚に祀られており、概ね江戸中期頃の作であろう。

大里字中泉谷、三田某宅のカマガミサマ
縦32cm、幅26cm、卵形を呈する顔で、裏面から鼻の頂部にかけての厚さは約15cmである。竈柱に貼り付けられているため、重さを計ることはできなかった。藁を含んだ土製のもので、壁土材を利用して製作したものと考えられる。眉は高く盛り上がり、額と明瞭に区別することができる。目は貝種不明の二枚貝を目尻をつり上げるようにはめ込んでおり、忿怒相を漂わせている。鼻は広く、大きく盛り上げられており、下部に鼻孔が付けられている。口には半截した篠竹を縦に3本取り付け、歯の表現をしている。両側縁の耳は僅かな盛り上げをもって簡略に表現されている。本例もまた、近年の改造により原位置を保っていないが、竈柱ごと切り取られ、台所の棚の上に他の神とともに祀られている。前例同様の年代が与えられよう。

大里字中泉谷、笹川某宅のカマガミサマ
縦29cm、横25cm、方形を呈する顔で、裏面から額部にかけての厚さは13cm、杉製の裏板を含めての重さは3.75kgである。材質不明の木材を馨で彫り上げたものである。額には宝珠が付され、眉は太く刻みが入れられている。白色で強く突出する目の中には、黒い目玉が彫り込まれている。極く幅広の鼻下部には鼻孔が付され、また、大きな口の中には白く塗られた歯が陰刻されている。両側縁には耳が丁寧に表現されている。本例も既に原位置から離れているが、意匠と保存が秀れた好資料である。幕末頃の年代と考えられる。



名取市(釜神様:名取市HPより)
宮城県の中・北部から岩手県南部(旧仙台藩領)にかけての地域には、民間信仰として伝わった土製や木製のカマガミサマ(釜男・カマドカミ)と呼ばれる恐ろしい表情をした面が多く見られましたが、近年家の新築によりこの風習も廃(すた)れ、カマガミサマを作ることもなくなってきています。
 (この)カマガミサマは、かつて館腰地区の民家で、土間にあったカマド近くの「よめかくし柱」に、出口へ正面を向けて祀っていたものを柱ごと切り取ったものです。材料は、柱にフナクギとわらを編んだ縄を巻き付け、その上に土壁を塗って顔を作り、目にはアワビの貝が入れられ、眉毛や髭は木の繊維を叩いて作ったものが使われています。
 このカマガミサマの由来や年代については記録がなくはっきりしませんが、祀られていた民家の建築年代から、約280年前(江戸時代の享保年間)に新しい家のカマドを作った際に、火の神様として祀られたものと考えられます。
(市指定)民俗文化財 有形民俗文化財




宮城県の不思議事典 (著者:佐々木光雄/吉岡一男)
【なぜ仙台藩北部にのみ竈神の面があるのか】:竃神を祀る風習は全国で見られるが、土製や木彫の大きな面を土間や竃、炉の近くに掲げて竃神としているのは仙台藩領内でも仙台以北から岩手県南の胆沢、江刺、東・西磐井郡、気仙郡までに限られている。分布地帯において面の呼称は「カマガミ」「カマオトコ」「ヒョットコ」などとさまざまで、土製の面は左官が壁土で作り、鮑貝、瀬戸物などを用いて目、鼻、口を象っている。木彫では欅、松などを使い、大工や神官が彫ったといわれ、面を掲げる理由は防火、鎮火のためとする家が多いが、いずれの場合でも母屋を新築した際に作って掲げたものである。面相は憤怒から福相まであり、必ずしも恐ろしい面相だけではない。
「カマガミ」の起源については諸説があるものの、不明な点が多い。起源の要因になったのは、この面が分布するのはかつての砂鉄精錬地帯で、ドウ屋が各地に建てられ、踏鞴による製鉄が盛んであったことと、修験が多く、民間信仰に大きな影響を与えていたことであろう。わが国の踏鞴製鉄の先進地は山陰・山陽地方であるが、同地の天平踏鞴では踏鞴を踏む二人の踏子の前に炉から立ち上る炎の高熱を避けるために壁の衝立を設けている。そして双方の衝立の上に二つの面(恵比須・大黒など)が塗り込められている。この風習が仙台藩の砂鉄精錬地帯に入ったと考えられるが、当地と中国地方はあまりにも遠隔で、人や物の交流になどはなかったと見られやすい。しかし、遠く離れた地方との仲立ち的な存在が鎌倉御家人の山内首藤氏であった。同氏の本質は相模の山内で、源頼朝の平泉征討に参戦した功により陸奥国桃生郡吉野村地頭職を与えられ、備後や伯耆にも所領があるなど一族が分かれて所領の経営にあたっていたので、桃生の山内首藤氏が先進地の製鉄技術を導入したことは十分考えられる。中世末期に千葉土佐が備中中山から千松大八郎・小八郎なる人物を呼び寄せて、桃生郡皿貝、馬鞍、橋浦村にドウ屋を設けて砂鉄精錬をしたということも、この間の状況を語るものであろう。ところが、中国地方ではタタラの守護神を金屋子神としているが、当地方では三宝荒神である。県境に接する岩手県東磐井郡藤沢町大籠のタタラを経営した千葉家では、鎮守の境内にお堂を設けて三宝荒神像を安置している。タタラの守護神である三宝荒神が民家で祀られるようになったのは修験の影響するところであり、かれらが説いた三宝荒神による防火、鎮火の功徳や絵姿から面を作り、家々が掲げ始めたのであろう



かま神信仰とその背景〜東磐井地方を中心に〜(著者:畠山喜一)【東磐史学第4号 東磐史学会/岩手史学会東磐支部偏より抜粋】
一、はじめに
 私とかま神との出合いは、実に、大学生時代に朔る。当時盛岡市郷土史料館主事吉田義昭氏(現在盛岡市教委文化財専門員)を訪問した際、郷里のかま神の調査の案内役を乞われた。実際、私は商家の出身の為、「かま神」の存在すら知らなかったが、吉田義昭氏の頼みならと承諾し、郷里に帰り、東山町地内のかま神の分布調査をはじめた。ところが、当地の民家には、驚くほどかま神が祀られており、それぞれが特色のある面相をしており、大変興味をもち、楽し く調査ができた。そして、その結果をもって、吉田義昭氏を当地に迎え、指導を乞った。その結果、吉田義昭氏の助言を受け、奥羽史談会の研究誌、更に岩手県史民俗編に掲載された。これが契機で民俗の研究の端緒が開かれた。あれから十数年、再び郷里に帰り、子弟に教鞭を取る幸運を得た。その際、家庭訪問の為、行く家は、かつての調査の家であり、そのたびに、有りし日の一頁が胸に込上げてくる。しかし、中には、改築の為、かま神が氏神に納められたり、 又破壊され消失したもの、更に骨董屋へ売却されたものも数多くあり、そのたびごとに胸が痛むのである。そして、大学生時代の未熟なかま神保存の急務を呼んだことが現実となって表われている時、文化財の研究の任務を強く実感として取らえるのである。反面、私の研究を覚えていて、かま神を大切に祀っている家に出合う時、心から感謝の気持ちで一杯になる。これから、益々生活様式の変化の中で先祖の霊を祀るかま神を守ることが大切と思い、不備であるが 小論を発表することになった。元来、当地のかま神は、東山和紙製造の中にのみ拘らえておった事を反省し、修験の加持祈祷の教化や特産物の製造の中からも生まれてきたという背景を考察し、体系的にかまど神信仰を究明して見る。

二、名称(呼称)
 普通はかま神様と呼ぱれているが、中には、かまど神様・かま仏様・かま別当様・かま男・かま大黒等と呼んでいる家もある。江刺地方では、竃前の釜男(かまおところ)という柱にかけ、火男(ひおとこ)・竃仏(かまほとけ)とも呼ぱれている。又下閉伊郡岩泉地方では、ひょっとこの面を「かっこどり」と呼んでいる。

三、かま(竈・釜・窯・罐)の意味
(1)竃とは土・石・煉瓦などでまわりをかこみ、上に鍋・釜などをかけて煮たきをする装置。かまど・へっつい・くどともいう。
竃の語源説@竃処の義(俚言集覧、嗚呼矣草、名言通、言葉の根しらべ=鈴木潔子・大言海)Aカナヘト(鼎所)の義(言元梯)、カナヘドコロの略(和語私臆鈔)Bカマドノ(竃殿)を誤り言ったところ(東雅)C火を燃やす間という意のカマ(R間)にト(処)を添えたもの(日本古語大辞典‐松岡静雄)D梵語から(釈日本紀)E朝鮮語Kama等がある。
(2)釜とは、飯をたいたり、湯をわかしたりする金属製の用具、鍋よりも深く造り、普通は腰につばがある。
(3)窯とは、窯業などで、無機質原料の高温処理に用いられる炉。熱することによって、物質の融解・焼成などを行う装置類を総称している。窯炉(ようろ) (4)罐とは、水などを加熱・蒸発させて高温・高圧の蒸気とする。密閉した鋼板製の容器。ボイラー。

四、起源
 源流は、奥津日子神(おきつひこのかみ)・奥津比売命(おきつひめのみこと)の二神で大歳神の子と古事記にある。それが、後世仏説と混合し三宝荒神(さんぽうこうじん)となり、かま神と称されたという。平安時代の文献によると、大膳職・大炊察・内膳司・造酒司などの諸官衛でも竃神を祀ったとある。しかるに、当地域のかま神の起源は、法印(山伏・修験)による加持祈祷の教化や、塩釜神社信仰の二つの系統が考えられる。具体例としては、@に、東山和紙製造にある。律令時代には「みちのく紙」と称され、藩政時代には、東山和紙として広い地域に販売された。中には、藩の御用紙としても使用されている。その為、猪煮の竃の火防神として、かま神仰が起っている。Aに、藩の許可を得て、紅花・藍・繭・酒・茶・醤酒・酢等を製造するため大釜を利用したことよりかま神信仰が起っている。Bに、修験の教化による法印神楽や明治以降の里神楽の隆盛の影響を受けて、神楽面を祀ることよりかま神信仰が起ってきている。Cに斯界の権威である司東真雄氏は、面相の中に「大黒天」とみられる面相.がある。大黒天を密教的にみれば「マカ(大)ギャラ(黒)デバア(天)」でインドでは釈迦出世(二千五百年前)以前から「火難を除く神」として信仰があった天部の神であるしたがって「かま神」が「大黒天面」であるかぎり、密教に根源をもとめることができよう。しかし、その面相の地帯がごく限られた一小地域であり、製作が新しいとすれば、逆に密教系僧が、本来の日本士俗の「かま神」を、密教的に解釈させるために指導して作らせたものとみられ「大黒天相」は、もっとも新しい形式の「かま神」ということになると論じている。以上四つのことがあげられる。ただ、このかま神は、偶像崇拝であり、仮面(マスク)だけを祀るのが特色である。このことから、神教に見られない、仏教の影響を強く感じる。ただ本来的には、前述の日本古来の士俗の神々に仏説がまじった、いわゆる神仏混合淆影響に依るとの考えは核論である。特に、旧葛西・大崎・伊達領、いわゆる現在の宮城県北から岩手県南へかけてだけ、面がのこっているのが大きい謎を究明することこそ、私にかせられた課題である。ただ、一つに考えられることは、名族葛西の遺臣が修験として士着し、加持祈祷などの教化の中から生まれたものと考えている。

六、信仰
 人間と火との関係は、人類発生時より始まる。一寸した不注意で住居が烏有に帰する。その為、古事記の中にもある通り、古来より、奥津日子神・奥津比売命、二神を祀って火防神としている。このことより、第一にかま神信仰は、火を守る神という事ができる。更に、司東真雄先生の考えによれば、かまど神の面相の「大黒天」は、釈迦以前のインドの天部の神で「火難を除く神」なそうである。又、小正月に飾る「まゆならし」の行事は、養蚕の神と同時に、瑞 木は「水木」でやはり「水で火を消す木」ということより、火防の意味をもっている。修験の加持祈祷の外に、神仏の祭祀・地鎮祭・荒神法楽・亡葬跡清などを職掌としている。この内「かま神」に関係あるものに亡葬跡清かあり、俗に火ばらいと呼ばれ、葬家の汚れた火を清浄な火にきりかえる行事があり、これを火注連(ヒジメ)と呼ばれ、修験が取扱いの権限を持っていた。又、和漢三歳図会に「修験者毎月晦日於竃前奉誦真言、以為荒神抜」とあり、火を守る ことをした。塩釜信仰を見た場合、祭神の塩土翁の宇と塩は火に焼けないという縁起から着想して「かま神」を案出し、塩釜神をシンボライズして火を守る神として、又台所にいて家を守る神として祀ったとも言われている。なお、火は、諸々の汚れを清浄にするところから、病魔退散や家内安全・五穀豊饒・養蚕神・商売繁昌等と多くの御利益のある神として信仰を集めた。又、藤沢町の某氏方では、幼児の守り神とされておる。更に、県南地域では、子供の駄々封じにも引合いに出されている。特に、平泉の大長寿院や千厩町奥玉の一部には「かま神」にさわると頭痛を病むとおそれられているし、桃生町の某家では、家訓として「かま神」の移動を禁止しておる。なお、「かま神」を移動したり、みだりに触ることを禁止しているところは、東山町田河津の某家等があげられる。

七、祭祀の場所
かま神は、宅神であり、元来三宝荒神ともいい、火の神である。そのため、土間(にわ)に備えてある竃の側の丑持柱(梁持柱・柱の三柱の一つ)やかま神を飾るためのかま柱や台所の北側の奥の角の壁や神棚に祀られている。

八、面相の種類と形態
 面相の種類と形態の分類は、あくまでも便宜的なものであり、かま神の起源追究の為に仮説したものである。
 1)土製@鬼面相(忿怒相)A醜男相B人面相C福神相(大黒天相)
 2)木製@鬼面相(忿怒相)A明王相B福神相(大黒天相)C天狗相D虎面相E神楽面相
 3)素焼製@人面相(その他発見例が少ない。)

九、材質
 かま神の製造のためとして、主に土と粘土と木であり、その他補強として、藁・萱・竹・塩・塗料等が施されている。次に分類して説明する。
 土(製)−竃や土壁をつくった残り土を捨てる事を忌嫌ってそれで面をつくり把っている。その証明には、竃をつくる土や補強材のわらくず、及び壁材としての粘土や芯になる竹や藁くずが見られる。又、すごみをだすためにアワビ貝、アサリ貝を目や口にはめこんである。又、塩もまぜこんでいる節がある。
 木(製)−材料は、杉が中心で、その他に桧・松・桐・栗・樺・みずの木・桑等を利用している。面を装飾するため、漆や金箔を施している例もある。
 素焼(製)−純然たる粘土であり、中に塩をまぜたという節がある。

十、時期と特色
 かま神が、面として登場するのは、文献上異説があり、確かでない。ただ現在の段階(時点)では、中世にさかのぼることは考えられない。早くても、幕藩体制の確立した寛永以降と思われる。かま神の製作年代を解明する鍵は、土製の場合は棟札であり、木製・素焼の場合は、銘文である。しかし、調査の段階では、棟札も銘文も発見されず、家屋の内構造や先祖の口碑からのみ判断するしか方法が無く残念であった。一日も早く棟札や銘文の発見から、かま神の 製作年代を断定したいものである。ただ、一般的に考察されることは、土製の方が、木製・素焼製より時代が古い事は、家屋の構造や口碑によっても明らかである。素焼製は不明な点が多い。特色については、項目九の材質でも触れたが、土製の場合は、竃や土壁(手塗)のつくった残り土を捨てることを忌嫌って而をつくり祀ったと思われる。特に、東山和紙の発祥地である東山町においては、昔の漉屋のある家のかま神は土製が多く分布している。又、商家や特産物を製造した家は、塩釜神仰の影響を受け、木製が多い。又、木製では、神楽の盛んだった土地は神楽面を祀っている場合が多く見られた。いずれ、かま神信仰は、修験の指導があったという歴史背景は強く感じ取ることができよう。東山町松川字音の某氏の場合は、藩政時代藩の許可を得て、醤油、酢、茶等を製造し、仙台大町において販売した文書や印鑑が現存している。又、それを煮た釜の上に祀るかま神は塩釜神社の分霊といっており、大正時には、塩釜神社の御神符をもって、塩釜・松島・利府の氏子が松川各地を回って神符を配ったそうである。更に、木製のかま神の中に、東磐井郡における近代神楽を創作し た佐藤金次郎翁の彫った作品がかなりかま神として祀られておることが調査で判明した。なお佐藤金次郎翁は、東山町田河津字高金の出身で、神楽に独特のせりふや踊りを創作、又神楽面も自ら彫刻し、多く弟子を育成した功績で、現在、生地に記念碑が建てられている。

十一、祭日と供物
 元旦(一月一日)には、御幣が飾られておるかま神の前に御神酒や小餅を供える。小正月(一月十五日)には、丑柱にはミズ木の中位の枝を取りつけて飾った。夕方には、襄の目に切った餅をミズ木の枝先につけて、花や繭になぞらえ、幼児の拳位の楕円形の平な米餅と粟餅といい、十本程の藁の回りに二十糎の長さの餅をぬりつけてサシと呼んで寛永通宝(今なら穴あき五十円)のサシになぞらえ農産物の豊穣と金銭への夢を託して、かま神にも差し上げた。それ は、ミズ木は水木に通じて火難除けに、また瑞木とすれば瑞兆を思わせる。更に、毎月一日や晦日や大晦日に供物を上げる風習が見られる。特に、現在も手渡和紙の伝統を守っている。東山町長坂宇山谷の某氏宅の奥様は、毎月の十五日と二十八日の二回、神棚に御餅を二つ上げ「かま神様に差し上げます」と御題目を唱えているそうである。

十二、かま神の民話
 かま神の民話は、古くは室町初期の書物「神道集」や謡曲「葦刈」の中にもあるそうだが、当地の民話は、江戸時代の勧善懲悪、いわゆる道学(儒教)の影響を多分に受けていると思われる。特に、小生は、東山町内の古老よりかま神の民話を四つ程採集している。又、かま神にまつわる実話を二つ採集しているので紹介する。
 (民話1・怠け婿の話)
 ある草深い田舎に大変怠け者の婿がいた。その婿は、どんな仕事をしても、直にあきる質で、なまけて毎日毎日過ごしていた。そこで、家の人達は、その婿をかまどの火たきにさせた。ところがその婿がそのかまどの火たきさえもあきてしまった。そこで家の人達は、大変怒って、その婿を家から追い出した。その婿は生来怠者であったので何も仕事が出来ず乞食になった。そしてどこにもゆくあてがないので再び元の家にやって来た。それを見て、その婿の嫁が大変哀れんで再びかまどの火たきにさせ、一生を終らせた。婿が死んだのちは、家の人が火守り神として面に刻んでかまどの上に掛けて祀った。※内容が異なるが神道集に載せられているかま神の民話と話の筋がよく似ている。
 (民話2・病弱の嫁の話)
 ある草深い田舎に体の弱い嫁があった。彼女はそのため何事も仕事が出来ずかまだきを手伝っていたが、毎日毎日、自分の体の弱いことを気にして色々憶いに沈んでいるうちに、自分の看物にかまどの火がついてしまっているのに気付かず焼け死んでしまった。それを家人がいたくかなしみ、いろりの側に面に刻んで神として祀った。(民話1・2・3は、昭和38年東山町で採集する。)
 (民話3・貧しい親子の話)
 ある海辺に貧しい親子があった。今年こそ立派な門松を立てて正月を祝おうと父と子がめいめいに山へ松の木を切りに行った。二人は、「これなら」とおもう枝ぶりのよい松の枝を持帰りました。ところが、どちらも立派で人別がつかぬ程でした。父は「お前のは、おれのよりもずっとよい。お前のを門松に立てよう。」と話した。すると息子は、いや、父のほうがよいと、遂に父親の方を立ててお祝いをした。そこで息子の門松が余りに立派だったので、父親は、只捨てるのがもったいないので海へ流してやった。すると翌朝、見知らぬ使の者が来て「昨日は、珍しい門松を送っていただいて有難かった。お礼に御馳走をしたいので私と一緒に来てくれ。」といった。そこで帰る時「何かお礼に差上げるから、何がほしい。」と聞かれた。そこで「カマド神を戴き度い。」と話して「カマド神さま」を貰って帰った。すると、その家は、永く栄えたそうです。以後このカマド神さまは、家内円満・御家繁昌の守り神として祀られるようになった。
 (民話4・馬子とその妻の話)
 ある村に馬子がおり、家路へ向かう途中、道端で苦しんでいる乞食に出合った。情深い馬子は、その乞食を馬に乗せ、家に連れ帰り、食事や暖を与え御世話をしてやった。ところが、あまりにもむさくるしい姿の乞食をみて、馬子の妻は、馬子の留守をねらって乞食を家の外へ追い出そうとした。ところが箒で追い出そうとすると乞食が動くたびにお金がその場に降るものだから、妻が欲に目がくらんで、どんどん追い回した。最後に、どこにもいられずかまどにすがってみたが、妻が箒で追うものだからしかたなく家の外へ逃げ去った。馬子が帰り、病気の乞食がいないことに気付いた馬子は妻にたずねると妻はわけを話した。そこで馬子は、さがしに出かけ、川近くまで来ると、さっきの乞食は、川の中から首だけ出して「ありがとう、さようなら。」といい流れ去った。そこで馬子は、乞食にすまないと思い、かまどの近くのかま柱に首だけ把った。これが、かま神の民話である。※この民話は、今年、東山町田河津高金の某氏の口碑になるもので、某氏は、祖父から聞いたと語ってくれた。
 (実話1・かま神の御怒り)
 東山町の某氏から聞いたことであるが、台所を増築した直後、某氏の奥様が病気になられたので、猿沢のおかみさんに祈祷してもらったところ「台所の増築の時、おれののどを切った。」とかま神が話しているということで、最早調べると、その通りであったので、それ以後、ガラスケースに入れて大切に祀っているそうです。
 (実話2・かま神の御怒り)
 私が調査をした昭和三十八年の頃は、いわゆる骨董品ブームで、各地の旧家に骨董品が入り、多くの文化財が持ち出された。私も、その節、神さまだけは売らないようにと、調査するたびお願いして歩いたものであるが、現在、かま神の無い家(売った家)になったとき、何か寂しく感じられる。某家では、おばあさんが、改築の時、かま神を売った直後亡くなったとか、だまされて売ったとかという話を聞くたびごとに、「さわらぬ神にたたりなし」という格言がう かぶ。先祖がっくり、先祖が祀った霊をいつまでも守るのが子孫の役目と痛感する。

十三、かま神に纏わる諺
かまどを建てる⇒岩手県の方言で、家を持つ、世帯をもつという意
かまどを覆(かえす)⇒岩手県・青森県・秋田県の方言で、財産を失う、破産するの意
かまどを起こす⇒家の財産をふやす、家名をあげる、お釜を起こす。
かまどを破る⇒身代をつぶす、破産する。
かまどを分ける⇒分家させる。
かまど賑(にぎわ)う⇒生活が豊かになる。暮らしが楽になる。
かまどに媚(こ)ぶ⇒権力者に直接ではなく、実務を握っている下級者に媚びへつらうこと。
かまどに跨(また)がる⇒子が親よりすぐれているのたとえ。
かまどに豆をくべる⇒(竈に豆をくべるとパチパチとせわしく燃えるところから)気ぜわしいこと、忙しいのたとえ。
かまの下ではいとどが角力取る⇒(「いとど」はおかまこうろぎ)貧しさのはなはだしいことのたとえ。
かまのふたの開く日⇒正月と盆の16日をいい、この日は薮入りで年季奉公の丁稚や小僧も休めた。

十四、おわりに
 孔子の唱えた儒教(道学)の中に、三楽・三道という言葉がある。三楽とは、一に郷里にあって父母に孝養を尽くすこと。二に郷里にあって子弟に教育を施すこと。三に生涯を通じて正しい役立趣味(ライフワーク)を持つことと説いでいる。三道とは、親が生きている時は、孝行を尽くす。死んだ時は喪し、喪終れば祀る。これを三道と言っており、孔子自身も、郷里において、孔門五千人といわれる門弟を世に出し、教育の道を究めた聖者である。最近、教育の荒廃道徳・倫理の退廃は、将に地域教育を無視した、中央教育の模倣と、地域出身の教師の少ない学校現場教育の実態に立脚すると思われる。教師を例にとると、昔は、郷里にあって、生涯子弟に崇められた。そのため教師も教育のため、一寸の油断も許されなかった。ところが、最近の広域人事は、地域出身の教師が少なく、人事を懸念して、じっくり教育にあたれない場合もでて来ているのではと感じられる。文化財の保護の場合も、ただ単に、他の文化財専門の学者に著作をまかせたり、中央の博物館・資料館に展示することなどは、反面、地域の子供に、地域の中に生まれた文化財の価値を理解させないで終ってしまう危険がある。小生は、不学の者であるが、地域教育の再現の為、高校・大学とも地元校を選び、地元の教育者として、子弟に教鞭をとっている。その中で、子供は、地元の事物・事象について、無関心・無知な傾向を感じ取った。そこで、地域に関心を持ち、地域で生活する喜び能力を育成するため、従来より、長期の休業日を利用し「一人一研究」のテーマを設定させ、そのテーマの研究発表会を休業日後に持って、成果を納めている。今回の調査も、今年の春休みを利用し、担任の児童に部落毎のかま神の調査を願った成果のまとめである。 春先の寒い中、白い息をはき走りくる子供の手には、調査をおえた調査カードがしっかり握られていた。私も感激で涙ぐみ「握手する手はかじかみて震える児童の調査せし研究嬉し」「守護神と家に祀りしかまど神、黒光りせる顔は尊とし」と歌に読んだほどである。



かま神信仰とその背景(2)〜東磐井地方を中心に〜(著者:畠山喜一)
1、はじめに
 人類のおこりは、今より、約300年以前(?)に遡ると謂われている。この間、99%以上は、自然界の植物、動物の狩猟採集で、自然崇拝(多神教)の濃い時代である。そして、わずか残りの時代こそ、自然界の克服、開拓時代で、必ず、神(一神教)が追随した時代である。これが、各地に残る神仏の姿であり、信仰である。従って、この歴史の究明が、人間の生活、文化の様子を知る鍵となる。当地には、かま神さまと呼ばれる屋敷神が、多くの家に祀られている。この面は、旧葛西領(胆沢、江刺、気仙、磐井の岩手県南諸郡と牡鹿、桃生、本吉、登米の宮城県北諸郡)を中心に見られるもので、世界史的にも、特異な民俗風習である。この風習は、何故おこり、どのような信仰の変遷を経てきたかが大変興味がある。元来、かま神は、火難けの神としての屋敷神である。火の神聖視は、発火法の発明以前の拝日信仰に起因する。火は、単に、暖をとったり、煮沸のみならず、昼の太陽に替わる夜は太陽として、月と共に光明の神として信仰されている。現在でも、老人は、朝日を拝み、夕日を惜むと言います。又、昔の月待ちの行事、寺院に残る不滅の火など、光明を神とし、暗黒を恐れた人間の知恵と技術が生んだ責重な文化である。このかま神の研究は、すでに多くの先学の研究があるが、地元の研究者になる研究は不十分である。そこで、今回、不敏を顧みず、調査研究の一端を発表し、諸賢兄の御示教を仰ぐ次第である。

2、かま神信仰の起源
  火の使用は、人類の発生とほぼ同時と思われる。それは、火の役割の一つの光明は、昼の太陽に替わる夜の太陽としての月と共に信仰されたと思われる。かつてのペルシアにおこった拝火教も、元々は拝日信仰に由来している。更には、オリンピアの火は、太陽から収取する儀式から始まることからも首肯できる。火を焚くところが炉なり、かまどである。現在、火を使用し、炊事をした遺跡として、約40万年以前の中国の周口店洞穴遺跡が残っている。しかし、炉およびかまどは、すでに、人類発生とほぼ同時と考えても大過がないと思われる。火は、人間にとって大切なことは、伊勢神宮に伝わる発火法の儀式からしても、その製法なり、保存の重要さがわかる。そこに、当然、炉あるいはかまどの神が起ってくる。これがかま神である。かま神の最初の書見は論語である。そこには、屋敷神として祀られている。我が国の場合は、その源流は、奥津日子神(おきつひこのかみ)、奥津比売命(おきつひめのみこと)の二神で、大歳神の子と古事記に記されている、それが、後世に、仏教、儒教と混淆し、三宝荒神(さんぽうこうじん)となり、かま神と称されたという。更に、平安時代の文献によると、大膳職、大炊察、内膳司、造酒司などの諸官庁でも、かま神を信仰したとある。当地方には、大和政権の東北開拓に伴って、色々な神仏が、守護神として神社、仏閣が建立された。古い記録によると、天喜5年(1057年)源義家が安倍貞任の誅伐のため、胆沢郡下河原村に宿陣し、同地に、御火所を作り、かま神を勧請したとある。いづれ、古い時代から、かま神の信仰は成立したことが、祭神等から理解できる。では、当地方の様な面(マスク)だけのかま神の信仰は、いつの時代、なぜおこったかが疑問である。これについては、早急な推察はさけるが、すでに、鎌倉期には、成立を見たと考える。なぜなら、今、面の残っている地域は、旧葛西領に集中している。否、他地域にあった場合、それは、一族の移動あるいは、売却によるものに外ならないと考察したいものである。特に、鎌倉時代以降は、山伏の活動が盛んになり、地域開発の先達は、彼らの功績になるところが大である。ここで、この山伏に特権を与えて領内支配を試みたのが名族葛西氏である。葛西氏は、下総国葛飾の豪族で、頼朝の信頼する武将の一人で、奥州征伐の大功により、奥州総奉行として、奥州に君臨した名族である。又、平泉藤原氏の居城および、奥州最大の肥沃の地 域を支配している。その為、政治、経済的にも恵まれている。これを維持するため、山伏を保護し、特権を与える結果になったと思われる。ここで、かま神信仰を導入した場合、神事を行なうことにより宗教統制ができる。このことは、各戸毎に宗数的統制に仮託した領内統治が完全にできる。実に、名案中の名案である。ここに、特異な偶像かま神が案出されたわけであり、当時の排他主義の領地支配では、葛西領のみがこの神事を継承していたと思われる。つぎに、そのおこりの背景を考察すると次の5つの点が上げられる。
@葛西領は、古代のみちのく紙の産地で、現在でも、東山和紙として、東山町山谷地区で、その伝統を継承している漉家がある。楷煮の場合、沢山の薪水が必要であり、その際、火災が頻繁に発生したに違いない、そのため、火難除けの神としておこった。
A藩政時代には、藩の政策による、和紙、紅花、藍、繭、酒、茶、醤油、酢等の製造の奨励がなされ、大釜に焚く火の災害から守るための火防の神としておこった。塩釜神社信仰の影響も濃く、東山町松川字台の小野寺氏宅のかま神は、塩釜神社の分霊といわれている。
※大正期には、塩釜神社の御神符をもって、塩釜、松島、利府の氏子が各戸を配って回ったそうである。
B藩政時代の文教の興隆により、学問の上から案出されたと思われる。
C法印神楽や里神楽の隆盛の影響をうけ、神楽面を祀る。
D密教系憎が、日本古来の土俗のかま神を宗教的に解釈させるために指導して作らせたことからおこっている。
※斯界の権威司東真雄氏は次の様に論じている『面の中、「大黒天」とみられる面相がある。大黒天を密数的に見れば、マカ(大)、ギヤラ(黒)、デバア(天)でインドでは、釈迦出世(25百年前)以前から「火難を除く神」として信仰があった天部の神である。したがって、「かま神」が「大黒天面」であるかぎり、密教に根源をもとめることができよう。』
以上、かま神のおこりの背景を考えられるが、このかま神は、偶像崇拝であり、仮面(マスク)だけを祀るのが特色である。このことは、神教に見られない、仏教色の影響を強く感ずる。ただ、本来的には、それを宗教統制に仮託した領内統治、あるいは、加持祈祷の教化に利用した葛西氏や山伏の知恵が生んだ、貴重な文化と仮説して見ることができる。

3、名称
通称「かま神さま」と呼ばれているが、その名称も地域によって違っている。このことは、かま神の信仰の対象なり、起源が異なっていることを意味すると思われる。よって、その名称によっても、その土地の特色なり、時代の特色を知る貴重な手懸を知る資料となると思い、紹介すると次の様である。
@かま神:全地域に通称されている。
Aかまど神:一関市萩荘、真柴、舞川、厳美地区に多い。
Bかま別当:一関市厳美、東磐井郡千厩町奥玉地区に多い。
Cかま男:栗原郡花山村地内に多い。
Dかま大黒:東磐井郡千厩町室根村に多い。
Eくど神:東磐井郡大東町地内
Fその他:かま仏、かまじん(神)、かまめんこ(面子)等があり、江刺地方では、竈前の釜男(かまおとこ)という柱にかけ、大男(ひおとこ、ヒットコ)と呼ばれる。下閉伊郡岩泉町ではヒットコの面を「かっこどり」と呼ばれている。

4、かま(竈、釜、窯、罐)の意味
かま神を竈神か釜神かどちらかに当てているか、竈も釜も火に関係あり、表裏一体のものであるのでどちらでもよいのであるが、かま神のおこりは、論語より竈神が古いと考えられる。
※論語巻2第38毎扁の13「王孫賈間日、與其媚於奥、寧媚於竈」とある。
以下かまの意味を分類する。
(1)竈とは、土、石、煉瓦などでまわりをかこみ、上に鍋、釜などをかけて煮たきをする装置。かまど、へっつい、くどともいう。
※竈の語源説
@竈処の義(俚言集覧、嗚呼矣草、名言通、言葉の根しらべ=鈴木潔子、大言海)
Aカナヘト(鼎所)の義(言元梯)、カナヘドコロの略(和語私臆鈔)
Bカマドノ(竈殿)を誤り言ったところ(東稚)
C火を燃やす間という意のカマ(絃間)にト(処)を添えたもの(日本古諸大辞典=松岡静雄)
D梵語から(続日本紀)
E朝鮮語KAMA等がある。
(2)釜とは、飯をたいたり、湯をわかしたりする金属製の用具。鍋よりも深く造り、普通は腰につばがある。
(3)窯とは、窯業などで、無機質原料の高温処理に用いられて炉。広義には物質を高温度に加熱することによって、物質の融解、焼成などを行う装置類を総称している。窯炉(ようろ)
(4)罐とは、水などを加熱、蒸発させて、高温、高圧の蒸気とする。密閉した鋼板製の容器。ボイラー。

5、信仰
人間と火との関係は、人類の発生より続いている。火を粗末にしたりすると罰があたり、家屋が火災にあって無くなってしまいます。その戒めのため、人は、色々と知恵をだし合い、火の用心に心がけてきました。しかし、一寸の油断によって、火災が起こる。そこに、鎮火の神が、要求される。それがかま神信仰として生まれてくる。その鎮火調伏の役割は寺院や神社、氏神に祀られている。それがかま神である。それが発展して、各家で祀られることになったり又火防祈祷札などである。特に、沢山の火を用いる当地方は、偶像である面を祀ることにより、一層防火につとめている。例えば、面相の中に、三宝荒神相や大黒天相がある。大黒天は、福の神といわれているが、もともとは火の神さまである。また、小正月に飾る「まゆならし」の行事は、養蚕の神を祀ると同時に、繭玉をならす木のみず木は「水木」に通じ「水で火を消す」ということより火防の意味をもっています。修験は、加持祈祷の外に、神仏の祭祀、地鎮祭、荒神法楽、亡葬跡清などを職掌していた。この内、かま神に関係あるものに、亡葬跡清がある。俗に、火ばらいと呼び、葬家の汚れた火を清浄な火にきりかえる行事があり、これを火注連(ひじめ)と言い、修験が取り扱いの権限を特っていた。又、和漢三才図会に「修験者毎日晦日於竃前奉誦真言、以為荒神抜」とあり、火に感謝し防火を祈願している事がわかる。塩釜信仰を見た場合、祭神の塩土翁の字から塩は火に焼けないという縁起から着想して「かま神」を案出し、塩釜神をシンボライズして火の守る神として、又台所にて家を守る神として祀ったともいわれている。なお、火は、諸々の汚れを清浄にするところから、病魔退散や家内安全、五設豊鏡、養蚕神、商売繁昌等と多くの御利益のある神さまと信仰を集めているのです。藤沢町の阿部氏方では、幼児の守り神としており、県南地方では、かま神の顔のおそろしさから、泣く子供の「ただ封じ」や勉強、仕事をなまける者への引き合いにだされています。特に、平泉町の大長寿院や干厩町奥玉の一部には「かま神」をみだりに、移動したり、さわったりすると「頭やみ」や災難に会うと戒めている家もあります。更に、桃生町の須田家、東山町の佐藤家では、家訓として、移動したり、さわったりすることを禁止しています。これは、かま神の面自体が柱や家を体にした顔や頭に当たるので、当然分離することをさけたのであると思われる。

6、祭祀の場所
かま神の面は、明らかに宅神であるが、祀る場所が、色々、信仰の対象によって違っている。一般に、雨天の時の作業場にしたり、家畜の餌や楮煮の時に使う大釜の竃場や炊事の時の炉などがある土間(どま、うちにわともいう)等の柱に掛けられる例が多く見られる。その外には、祭壇や別棟の作業場に祀られている場合もある。これらを具体的に列記してみる次の通りである。
@丑持柱(うしもちばしら)
Aかまど柱(嫁柱又は脇柱ともいう)
B土間(どま)の北端の壁柱
C神だな(祭だん)
D作業場(母屋とは別むね) 以上、大別すると5つの例となる。
昔の民家は、母屋の半分は、土間であり、冬期や雨、雪および夜間の作業場としての役目をもっております。この土間は、ニワ、ウチニワと呼ばれるところから、外の延長と言えます。そのため、土間は、作業場であるから、常に箒(ほうき)で掃くところから、床は、固くしまったものが必要であり、石灰や苦塩を入れて、よく練ったタタキとなっています。この土間の中央の端を支える丑持柱があり、これにかま神さまがまつられています。丑持柱は、大変太く、丈夫でマサカリ削りやチョウナ打ちの削り方が残っています。そして、この大釜のあるかまどやくど、へっつい等があります。これらは、物の煮焚きや暖房だけでなく、火そのものが、汚れを清浄にし、光明の神として、最も、崇高な神として祀られたものです。

7、面の種類
面の材料は、土、木、粘土、石、茸(きのこ)が使用されています。面相は、大きく分類すると、神仏にゆかりのあるものと、人の顔に由来いするものとがあります。たとえば、福の神は、悪魔を払う守護神でありますし、鬼面も同じ役目をもつ神様です。又、人の顔は、家を建築した初代の人の功績を称え、子孫の繁栄を願うようすが表現されています。なお、この面相によって、かま神のおこりや時代が証明づけられるので次の様に小分類する。
@土製−鬼面相(忿怒相) 醜男相 人面相 福神相
A木製−鬼面相(忿怒相) 荒神相 明王相 福神相 天狗相 虎面相 神楽面相
B素焼製−人面相
C石裂−荒神相
D茸(きのこ)製−人面相

8、材料
かま神は、家運長久を願うための面でありますから、永久的に保存でき、信仰される様に作らねばなりません。そのためには、主材料として、土、木、粘土、石、茸のほかに、補肋材として藁(わら)、萱(かや)、竹、塩、塗料などを利用して、技巧的なものがたくさんあります。次に材料の特色を上げてみる。
○土製―竈や土壁をつくった残り土を棄て去すことを忌嫌って面をつくり祀っている。その証拠には、竃をつくる土や補強材のわらくずおよび壁材としての粘土や芯になる竹や縄くず等が見られます。また、面相にすごみをもたすため、アワビ貝やアサリ貝を目や口にはめこんでいる面もあります。
○木製―材料は、杉材が最も多いが、ほかに、桧、松、桐、栗、欅、みずの木、桑等を利用している。また、面を装飾するために、漆や金箔をほどこしている例もあります。
○素焼製―ほとんどは粘土でできています。焼成温度600度位で、塩をまぜて焼いたふしがあります。
○石製―花園岩と思われる見事な彫刻であり、多分唯一のものである。
○茸製―サルノコシカケと思われるもので、これも珍しく、多分唯一のものである。

9、取りつけ方
屋敷神、守護神であるかま神は、地震においても、破損しないで残って祀られている。かま神は、柱や家屋を身体にした顔や頭にあたるので不離一体である。そのため、破損には、十分恐れている。これぐらい、かま神に対しての祖先の厚い信仰心が伺いえる。その中に、祖先の方々が考えた素晴しい知恵と技術が感じられる。そのため、面の種類や大きさ等においても相違点があります。これを詳細に調査することにより、当時の生活の様式や信仰の対象を知る貴重な手懸を得ることができます。

11、時期と特色
かま神の面として登場するのは、中世の初期と考えたい(以前は近世と仮説した)、それは、当地方の修験の活躍は鎌倉初期から始まることに由来する。さて、かま神の製作年代を解明する鍵は、土製の場合は、棟札であり、その他の場合は、銘文である。しかし、調査の段階で、錬札も銘文も発見されず、家屋の内部構造や先祖の口碑からのみ判断するしか方法が無く残念である。一日も早く、棟札や銘文の発見から、かま神の製作年代を断定したいものである。ただ、一般的に考察されることは、土製の方が、木製やその他より製作年代が古いことが、家屋の構造や口碑によって明らかである。特色に、面相や材質は、地域性によって特色がある。土製の場合は、竃や土壁(塗籠式)のつくった残り土を捨てることを忌嫌って面をつくり祀ったと思われる。特に、東山和紙の発祥地である東山町においては、昔の漉屋のある家のかま神は土製が多く分布している。商家や特産物を製造した家は、塩釜信仰の影響を受け木製が多くある。木製でも、神楽の盛んだった土地は、神楽面を祀っている場合が多く見られる。いづれ、かま神信仰は、修験の指導が濃いことを強く感ずる。東山町松川字台の小野寺豊穂氏の場合、藩政時代に、藩の許可を得て、醤油、酢、茶等を製造し、仙台大町において販売した文書や印鑑が現存している。又、それを煮た大釜の上に祀るかま神は、塩釜神社の分霊といっている。大正時代には、塩釜神社の御神符をもって、塩釜、松島、利府の氏子が、当地方を回って配ったそうである。時代的に面相にも変化がみられ、先に、人面相が多く現われ、次に神仏に関係のある面相が現われてくる傾向性を感ずる。木製のかま神の中に、東磐井郡における近代神楽を創作した佐藤金次郎翁の彫った作品がかなりかま神として祀られていることが判明した。尚、佐藤金次郎翁は、東山町田河津字高金の出身で、神楽に独得のセリフや踊を創作、又神楽面も自ら彫刻し、多くの弟子を育成した功績で、現在、生地に記念碑が建てられている。

12、祭日と供物
かま神は宅神であり、古くより、根強い信仰があった。そのため、色々行事が伝わっている。一般に、かま神は、大晦日の晩に煤払いをし、御幣を飾る。東山町松川の山崎氏宅では、毎年一枚の銀紙をはりつけておったそうである。そして、元旦には、御神酒や御餅を供える。小正月(1月15日)には、丑柱には、みず木の中位の枝を取りつけて飾った。夕方は、賽の目に切った餅をみず木の枝先につけて、花や繭になぞらえ、幼児の拳位の楕円形の平らな米餅と粟餅をみず木につけて稲穂、粟穂といい、10本程の回りに20糎の長さの餅をぬりつけてサシと呼んで、寛永通宝(今なら穴あき50円)のサシになぞらえ、農産物の豊穣と金銭への夢を託して、かま神にも差し上げた。それは、みず木は水木に通じて、火難除けに、また瑞兆を思わせる。更に、毎月1日や晦日、大晦日に供物を上げる風習が見られる。特に現在も手漉和紙の伝統を守っている、東山町長坂字山谷の鈴木氏の奥様は毎月の15日、28日の2回、神棚に御餅を2つ上げ「かま神様に差し上げます」と御題目を唱えているそうである。

14、かま神の民話
かま神の民話は、古くは、室町初期の書物「神道集」や謡曲「葦刈」の中にもあるそうだが、当地方の民話は、江戸時代の文教政策による官学である儒学(道学)の影響を多分に受けていると思われる。特に、小生は、東山町内の古老よりかま神の民話を四つ程採集した。又、かま神にまつわる実話を二つ採集しているので紹介する。
(民話1 怠け婿の話)―ある草深い田舎に、大変怠け者の婿がいた。その婿は、どんな仕事をしても、直にあきる質で、なまけて毎日々々を過ごしていた。そこで、家の人達は、その婿をかまどの火焚きにさせた。ところが、その婿が、そのかまどの火焚きさえもあきてしまった。そこで、家の人達は、大変怒って、その婿を家から追い出した。その婿は、生来怠者であったので、何も仕事ができす乞食になった。そして、どこへも行くあてがないので、再び、元の家にやって来た。それを見て、その婿の嫁が大変哀れんで、再び、かまどの火焚きにさせ一生終らせた。婿が死んだのち、家の人が火守りの神として面に刻んで、かまどの上の柱に掛けて祀った。※この民話は、内容が異なるが神道集に載っている話の筋によく似ている。
(民話2 病弱の嫁の話)―ある草深い田舎に体の弱い嫁がおった。そのため嫁は仕事がやれず、かまだきを手伝っていたが、毎日々々自分の体の弱いことを気にして、色々憶いに沈んでいるうちに、自分の着物にかまどの火がついてしまっているのに気付かず焼け死んでしまった。それを家人がいたく悲しみ、いろりの側の柱に面を刻んで神として祀った。
(民話3 貧しい親子の話)―ある海辺に、貧しい親子があった。今年こそ、立派な門松を立てて、正月を祝おうと父と子がめい々々に山へ松の木を切りに行った。二人は「これなら」と思う枝振りの良い松を持ち帰りました。ところが、どちらも、立派で、選別がつかぬ程でした。父は「お前のは、俺の物より、ずっと良い。お前のを門松にしよう」と話した。すると、息子は、否、父の方が良いと、逆に、父親の方を立ててお祝いをした。そこで、息子の門松が余りに立派だったので、父親は、ただ捨てるのが、もったいないので海へ流してやった。すると翌朝、見知らぬ使いの者が来て「昨日は、珍らしい門松を贈っていただき有難うございます。御礼いに、御馳走をしたいので、私と一緒に来てください。」と言った。そこで、帰る時「何か御礼に差上げるから、何が欲しいですか。」と聞かれた。そこで「カマド神さまをいただきたい」と言ったら「宜しい差し上げましょう」とカマド神さまを貰って帰った。すると、その家は、永く栄えたそうです。以後、このカマド神さまは、家内円満、御家繁昌の守り神として祀られるようになった。
(民話4 馬子とその妻の話)―ある村に心のやさしい、正直な馬子がいました。夕方、家路へ向こう途中、道端で苦しんでいる乞食に出会った。心のやさしい、正直な馬子は、その乞食を馬に乗せ、家に連れ帰えり、食事や暖を与え、介抱してやりました。ところが、あまりにも、むさくるしい姿の乞食をみて、馬子の妻は、馬子の留守を見計り乞食を家の外へ追い出そうとした。ところが、箒で追い出そうとすると驚くなかれ、その場に「チャラリー、チャラリー」と小判が降るので、欲に目の暗んだ馬子の妻は、力一杯、乞食を追い出そうとする。乞食は、かまどの縁にすがって「どうぞ、かまどの火たきでもしますので、あと一晩泊めてください」とたのんだが、馬子の妻はどんどん追い出したので、しかたなく、乞食は、外へ逃げ去った。夕方になり、馬子が帰えり、病気の乞食がいないことに気付いた馬子は、妻にたずねると、妻は、わけを話した。そこで、馬子は、さがしに出かけ、川近くまで来ると、さっきの乞食は、川の中から首だけ出して、「馬子さんありがとう、さようなら」といって流れ去った。そこで馬子は、乞食にすまないと思い、かまどの近くのかま柱に乞食の顔と同じ面相を刻んで祀った。これが、かま神である。
※以上四つの民話1、2、3は、昭和38年東山町で採集する。民話4は、昭和54年、東山町田河津高金の佐藤氏の口碑になるもので佐藤氏は、祖父から聞いたと語ってくれた。
(実話1 かま神の御怒り)―東山町松川字三室平の松岡氏から聞いた話だが、台所を増築した直後松岡氏の母親が病気になり、医者に看てもらったが、一向に快方しないので思いあまって、猿沢のオガミン(盲巫女)から御祈祷をしてもらったら、「お前たちは、台所の増築の時、俺の喉を切った」とかま神が話しておったということで、早速、調べてみると、その通りであったので、それ以後、ガラスケースに入れて大切に祀ったら、忽ち、母親の病気が治ったと話してくれた。※ここにも、かま神は、柱や家と不離一体ということが理解される。
(実話2 かま神の御怒り)―かま神を調査し始めた昭和38年の頃は、いわゆる骨董品ブームで、各地の旧家に骨董屋が入り多くの文化財が持ち去られた。その節、神さま(かま神にかぎらず)だけは売らないようにと、調査するたびにお願いして歩いたものであるが、今、かま神の無い家(売った家)になったとき、何か寂しく感じられる。某家では、おばあさんが、改築の時、かま神を売った直後亡くなったとか、だまされて売ったとかという話を聞くたびごとに、「さわらぬ神に祟りなし」という格言がうかぶ。先祖がっくり、先祖が祀った霊をいつまでも守るのが子孫の役目と痛感する。万一、かま神が破損した場合は、修理して祀るか、どうしても駄目な場合は魂抜きをして、氏神様に納めるか、川に納めるべきかと思われる。



北上川の民俗文化 (著者:小野寺正人)
【カマ神】:憤怒の形相をした大きな面をかかげてカマ(竈)神さまとして祀っているのは、旧仙台藩領内だけらしい。しかし、カマ神の面は必ずしも憤怒の形相ばかりしているものとは限らず、なかには温和な容貌をしている面もある。土製の場合は鮑貝や盃の糸尻を目に用いたり、ミゴを使って鬚としている。鉢巻をしめたり、鳥帽子を被っているカマ神さまもあり、さまざまな面が竈や炉の近くにある柱に戸口に向けて飾られているのは、家の中に悪魔が入ることを防ぐためだといわれている。カマ神の由来譚として登米郡東和町の楼台辺では次のように話されている。
昔ある大百姓のところに乞食がやって来て宿を乞うた。百姓の家では乞食を下男にでもしようと食べ物を与えて家に留めておいたが、乞食は少しも働こうとはせず、その上ところ構わず糞をしたので百姓の家では困り果ててしまった。そうしているうちにある日突然乞食が姿を消してしまった。家の人びとが乞食を捜したが何処に行ってしまったのか行方が知れなかった。ところが、乞食がいなくなった後で糞が黄金になっていた。その為百姓は長者になり、乞食を火男として祀るようになったのだと言う。
カマ神は全国で祀られている神であるが、カマ神の面を祀っているところは旧仙台領に限られているのはどうしてであろうか。カマ神の由来譚もその点については触れていない。カマ神はカマオトコ(男)、ヒョットコとも呼ばれているように火にかかわりを持つ神であるとともに、家の神として祭祀されて来た。この神の祭り日は特定の日は無く、正月や村祭りの時に供物が上げられるだけである。そして、この神の供物は未婚の男女が頂いて食べると縁遠くなると言われていたり、12月8日に諸々の神さまが出雲に出掛けるのにカマ神だけは家に残っているという伝えもある。又、正月にカマ神さまに飾られた注連縄はカマジメと呼んで毎年つけ加えて置き、屋根替えの時にまとめて下ろしてウジガミさまに納める風習もある。この様な点からカマ神の性格の一端が伺えそうである。流域の民家にあったカマ神さまも住宅の新改築によって次第に姿を消しつつある。豊里町の懐邑館には収集されたカマ神の面が多く収蔵されているが、やがてカマ神の面は博物館でしか見ることが出来なくなるかも知れない。



東北の民間信仰 (著者:三浦貞栄治外)
土製または木製の恐ろしい面相をし、カマガミサマあるいはカマオトコと呼ばれ、旧家の土間の竈の上に当たる柱に戸口を睨んだ位置に掲げられる風は岩手県南の旧仙台領と宮城県の一円それに福島県の一部に分布している。この神について岩出山町真山では次のような由来譚を伝えている。
ある女が嫁に行ったが働きが悪いといって出されてしまった。その家では後に働き者の嫁を貰ったが、まもなく潰れてしまった。その男は乞食になった。乞食をして歩いているうちに前に出した女の家に行った。女は男をその家の竈の火焚きに雇う。しかし男は竈の前で死んでしまったのでカマガミサマとして祀った。
というものであるが、この神には福分のある女を離婚することで不幸になった男の屍を祀るというモチーフの類型的な由来が語られている。面の神像は掲げずとも竈の上にはオカマサマが必ず祀ってあり、正月にはこの神に特別に注連縄を供え、それがオカマジメとかオヒツエと呼ぶ例もある。この注連縄は正月が過ぎてもおろされず、毎年供え加えたものが重ねられており、屋根替えのときにおろし、屋敷神に納めるか焼き捨てるが、これを数えると屋根替えしてから何年になるかが分かるといっている。正月に飾られた松や注連縄はおろされるのに対し、この神のものをそのままにしておくのは、正月の神が祭りの後送り出されるが、この神は常住して家を守護する神と考えられているためであろうと解されている。この神を特別に祭る風はないが、正月や節日の供え物の外に、田植えのとき苗を供えることはしばしば聞かれ、田の神ー祖霊といった感覚も見えている。



日本の民俗 宮城 (著者:竹内利美)
【カマガミ】:カマガミ、カマオトコという土製・木製の異形の面を土間のカマドバシラにかけているのが旧家にまま見受けられる。奥羽山脈ぞいは大形木面、土面は牡鹿半島を中心に分布する。ただし面形はなくてもカマガミの棚をつくり、幣束を立てる風はかなりひろくみられる。福分を授かった女房を追い出したため零落した男が、その後富裕になった女の家のかま焚き男になりさがり死んだのを祀ったという由来譚がいくつか知られている。いわゆるヒットコ(火男)本録伝承である。正月や節日には供物をして丁重に祀っている。



宮城のカマ神 〜「カマ神」の分布調査報告書(著者:宮城県文化財保護協会編)
宮城のカマ神について
普通カマ神と呼ばれている土製や木製の,多くは忿怒の形相をした面をかまどの上や柱に掛けて,出入り口をにらむようにして祀っておく風習は宮城県に多く,岩手県南にも少しおよんでいる。一般に火難よけ,魔よけ,招福,家内繁昌のためと言っている。 昔は各家には囲炉裏があり,一家の生活の中心は炉の火であった。火はもっとも神聖で不浄を忌みものであったから,神として祀られることも当然であった。忿怒の姿は火のはげしい性格を表現したものである。家を新築し,したがってかまどを新しくした際に,その材料の一部を用いて,大工や左宮につくってもらうことが多かったので,どれ一つとして同じものが無く,それぞれ特色のある面相をしている。稚拙ではあるがそれぞれに趣きがそなわっている。長い間家を守ってくれたという信仰が感ぜられて,家の歴史をものがたっているものが多い。土製の場合は,こねた粘土で顔面をこしらえ,目や歯に貝殻や陶器の破片を利用したものも多く,木製の場合は,材質はケヤキ,松,栗などが多く見られる。現在この風習はすたれ,家屋新築の際にもカマ神をつくって飾ることはほとんどなくなり,古い家に残存するのみである。炉やかまどの火が生活の中心であった頃の家の歴史を知る貴重な文化財であるだけに,家屋改築の際などには,心して保存の途を考えておきたいものであり,公共の博物館や資料館に寄贈・寄託したりするのもよい方法かと思われる。この宮城県の民間信仰の大きな特色ともいえるカマ神の所在確認調査を,県下の全市町村の教育委員会等を中心に依頼して実施したところ,報告のまだ無い町村をのぞき,1,598体のカマ神の存在を知ることができた。分布状況は別表の通りであり,協力して頂いた各市町村に.謝意を表したい。ただ,以上は一応悉皆調査として確認されただけであるので,さらにこれをふまえて,歴史的信仰的特色のあるものを選んで再調査し保存の途を考えたいと思う。それにはその家のカマ神製作年代のわかる何か手がかりになるものはあるまいか。たて・よこの寸法ももちろん知りたい。材料は土か木か,土なら目や歯はどうつくってあるか,木なら材質は何か,そのほか縄の鉢巻があったり,馬の毛のひげが付いていたり,いろいろの特色がある筈である。顔の表情も大切である。また祀られてある場所も大切である。かまどのそばの柱にかけておく所が多い。ことに大切なのは付随している信仰で,その家のカマ神の伝承がないか。あればその家にとっての歴史を知るよい資料となる筈である。あるいは大男の昔話やその家だけの火伏せの信仰や伝承が聞かれることがある。大体から言って,右のような何らかの伝承をもっているような特色のあるカマ神が各市町村で幾つかずつ選んで頂けるとすれば,次の段階として出向いて再調査をしたいと考えるので,その節はまた御援助を願いたい。いずれにしても他県などではほとんど見られない信仰が各位の協力のおかげて,県下に非常に.豊富に存在していることが確認されただけでも意義あることで喜ぱしい。一応まとめて将来の調査の基礎としたいと考えたゆえんである。

【宮城県指定有形民俗文化財カマ神】
東北歴史資料館所蔵
32×29cm 旧所蔵者 中田町 土製、目に卵の殻らしいものを利用
35×30cm 旧所蔵者 色麻町 土製であるが焼いたものらしい

塩竈神社所蔵
64×63cm 旧所蔵者 豊里町 土製、眼に鮑貝を利用、文化年間と伝える
1050×55cm 旧所蔵者 仙台市 もと栗原地方のもの、木製、材質スギ、耳、眉、鉢巻などは別材で作って付けてある

香林寺所蔵
42×37cm 旧所蔵者 山根 土製、眼に茶碗の糸底を利用、面は直接柱ではなく板にとりつけてある
47×39cm 旧所蔵者 本地 土製、眼は陶器片に墨を入れたもの、歯も陶器片、馬の尻毛を髭にした跡が残っている



宮城の民間信仰その他 (著者:三崎一夫)
【竈神】:土製または木製の恐ろしい大型の人面をカマガミサマあるいはカマオトコと呼んで旧家の土間の竈の上にある柱に戸口を睨む位置に掲げられる風は岩手県南の旧仙台領と宮城県の一円、それに福島県の一部に分布している。竈神は家を新築した際に左官や大工が作ったという例もあり、家人が作ったと伝えるものもある。目や歯には鮑貝や陶器が嵌め込まれ煤で真っ黒になっていて年に一度煤払いに目や歯が拭われ恐ろしさが強調されている。形式は一定でなくそれぞれ個性的に作られている。この神について岩出山町真山には次のような由来譚が伝えられている。
ある女が嫁に行ったが、働きが悪いといって出されてしまった。その家では後働き者の嫁を迎えたが、まもなく潰れてしまった。その家の男は乞食になり、歩き回るうち訪れた家が先に追い出した女の家であった。その女の家に竈の火焚きに雇われる。しかし男は竈の前で死んだので竈神として祀った。
という筋であるが、福分がある女を離婚することで不幸になった男が女の家を訪れてこの神になるという類型的なモチーフの由来譚はこの他にも各地に語られている。この地方ではこの面の神像を掲げなくてもほとんどの家で竈の上にオカマサマといって祀っており、正月にはこの神の特別な注連縄が飾られる。垂れを多くして長めのこの注連縄は正月が過ぎてもおろされず、毎年飾ったものが重ねられていて、古いものは煤で真っ黒になっている。屋根替えの時おろして屋敷神へ納めるが、この数で屋根替えしてからの年数を知ることができるといっている。正月に飾った松や注連縄は行事が終わるとおろされるが、この神のものはそのままにしておかれ、正月の神は祭りの後送り出されるのに対し、この神は家に常住する守護神と考えられている。この神はその呼称から火の神であるという伝承はあるが詳しくは不明であり、戸口を睨んで掲げられていることから家に襲い来る邪神を防塞する神であろうがその伝承もない。この神を特別に祭る風もないが、正月や節日には他の神と一緒に供物がされ、田植えのとき苗を供えることをしばしば聞かれる。



東北地方・「カマガミ」仮面について(日本民俗学197;著者 佐々木重洋)
1.起源
『カマガミ』が文献上に初めて確認されるのは、天明六年(一七八六)のことである。菅江真澄の紀行文『はしわのわかば続』において、明らかに土製の『カマガミ』と思われる造形物についての言及がみられる。「此あたりの家の、かまどの柱に、土をつかねて目には貝をこみて、いかる人のつらを作りたり。是をかまおとこといひて、耳のみこのふるごとありといひつとふ」という一節である。これから、この紀行文が書かれた頃には、既に『カマガミ』を家の中の竃近くの柱に取りつけるという習慣があったことが判る。一方、現存する仮面のうち、最古の例は元禄八年(一六九五)のものである。これも土製の仮面である。すなわち、文献資料からみても、現存する最古の例からみても、『カマガミ』は、江戸時代以前にまで遡ることはないようだ。筆者が観察したもののなかでも、最も古い作例は江戸中期のものであった。これらから推測すると、『カマガミ』の発生あるいは普及は江戸時代以降と考えるのが妥当であろう。
 また、東北地方の民家にへッツイ式竈が導入されたのは近世以降であり、それゆえこの形式の竈に付随する竈神信仰や『カマガミ』が発生・普及したのは近世に入ってから、具体的には藩政代以降であるとする説がある〔桜井 一九七六 七〕。確かに、竈そのものがなければ竈神信仰なども生じてくるはずがないので、民家の家屋構造という観点からみても、『カマガミ』が発生・普及したのは江戸時代以降であるという可能性が一層高い。さらに、次の項にみるように、仮面の分布の偏在性も仮面がつくられ始めたのが江戸時代、藩政代以降であることを裏づけている。
 これらの『カマガミ』がなぜ、どのようにしてつくられるに至ったのかについては、残念ながら明らかではない。ただ、これまでの研究においては、仮面の成立にあたって竈神信仰が背景に存在していたことが指摘されている。竈神とは、竈の守りであり、火伏せの神である。竈神がオキツヒコノカミあるいは三宝荒神ともいわれることや、東北地方には修験道が流布しており、竈に関する火伏せの儀式を主として山伏がおこなっていたことなどから、『カマガミ』の発生とその普及にこれらの宗教が関与していたというのである。しかし、それは竈神信仰の普及を説明することはできるかもしれないが、造形物としての『カマガミ』の発生と普及については必ずしも説明できていない。また、東北地方の『カマガミ』にまつわる由来話を分析して起源を考察しようとした研究もあるが、それらの由来話においては、仮面の起源と信仰の起源とが明確に区別できない。この他にも、竈神信仰を広めた者(密教系の僧)が、竈神を宗教的に解釈させるため、人々にとってわかりやすい偶像を考案したという説〔畠山 一九八○ 二六〕や、塩竃神社が考案したという説〔畠山 一九八〇 二七〕などもあるが、いずれも決定的な論拠を欠いている。
2.分布
 ......『カマガミ』は東北地方の中でも、とりわけ旧仙台藩領内に集中して分布する。このことは、これまでにもたびたび指摘されてきた。ただ、ここで強調しておかなければならないのは、先に触れた竈神信仰が全国的にみられるのにもかかわらず、この『カマガミ』仮面は当地域にしか存在しないということである。従って『カマガミ』の発生・普及を考える場合、なぜこの地域においてのみ仮面という造形物が信仰の対象となったのかを問題にしなければならない。この点は、これまでになされてきた信仰中心の分析では解決されないであろう。また、今日『カマガミ』を保持する家に関して特定の傾向は見あたらないので、少なくとも現在は、この仮面が持ち手を選ぶ類のものではないことも指摘しておかねばならない。
3.呼称
 本稿で用いている『カマガミ』は、この種の仮面を言及するのに筆者が便宜的に用いたものであり、実際には『カマガミ』は以下のようにさまざまな呼称で呼ばれている。「カマガミ」、「カマノカミ」、「カマノガミ」、「カマオトコ」、「カマドガミ」「カマ別当」、「カマ大黒」、「カマジン」、「カマジジイ」、「カマメンコ」、「カマ大仏」、「カマボトケ」、「カマオヤジ」、「カマガキ」、「カマオンナ」、「オカマサマ」、「ヒットコ」、「ウントク」、「オ荒神サマ」、「カマジン」、「カマジンゾウ」、「カマオニ」、「カマジンツァン」、「オカミサマ」、「ハッショウコウジン」、「フゲンサマ」、「ロックサン」、「ドックサン」など。これらを見ていてすぐ気がつくのは、「カマ」がつくものが多いことであろう。このことは、仮面がかつて何らかの形で竈との関連を持っていたことを示唆するものである。「ヒットコ」というのはヒョットコ(火男)と関連すると指摘されているが、これには呼称の採集方法に若干問題がある。「カマ大黒」という呼称も見られるが、大黒というのは元々は火の守りとか厨房の神・食糧を司る神であったとされる。「カマ大仏」及び「カマボトケ」という名称は、かなり後になってからの名称であろう。というのは、後に述べるように、時代が下がるにつれて仏師なども木を彫って仮面をつくるようになるので、その頃に生まれた名称と考えられる。「オ荒神サマ」というのは、竈神が三宝荒神であるとする陰陽道の影響かもしれない。
4.人びとの仮面に対する意味づけ
 現在の牡鹿町においては、『カマガミ』は必ずしも火伏せの神として認知されているとは限らない。実際にどのような解釈をしているのか、以下にみてみよう。
 《事例三》B集落のI家は一九九一年八月現在、『カマガミ』を玄関先に移動設置させていた。この仮面はかつて明治時代に家を建てたときにつくられたもので、壁土でつくられている。当初は台所に置いてあったといい、その証拠に仮面はすすで真っ黒になっている。九〇歳の当主によると、この仮面は恐ろしい真っ黒な容貌とギョロリとした目をもつことから、「悪魔除け」になるという。それならば台所に置くよりも入口に近い玄関に置いた方が「効果がある」ので移したという。(話者・男性(九〇歳)、一九九一年八月、牡鹿町)『カマガミ』の「悪魔除け」という解釈は、牡鹿町においてよく聞かれた言葉であるが、その意味するところは主として悪い病気が入ってくるのを防ぐということである。次にみる事例も、仮面が目の病気に関連して解釈されていることを示すものである。
 《事例四》C集落のJ家の家族は、一応『カマガミ』を火の守りと説明している。しかし、J家の女性(八六歳)にはこの仮面に対して特別の思い入れがある。まだ彼女が二〇代の頃、ふとしたことから目が悪くなりだした。原因がわからず、このまま盲目になるのではないかと不安に駆られた。その時、台所で仕事をしながら、すすで真っ黒になった『カマガミ』の目を頻繁に雑巾で拭いてきれいにし、「目を治して下さい」と祈り続けた。するとどういうわけか目は快方に向かった。彼女は「カマノカミサマは目の神様だ」と信じている。(話者・女性(86歳)、1991年11月、牡鹿町)この女性は今でも、『カマガミ』の目を拭いてきれいにしている。彼女によれば、「目という字を描いてカマノカミサマに供えると目がよくなる」という話を聞いたこともあるという。また、次の二つの事例にみるように、仮面が目だけでなく歯に関連して解釈されていることも多い。
 《事例五》D集落の隣の集落のQ家の当主(男性・81歳)は、神棚に飾ってある仮面をときどき取り外して下ろし、仮面の目(ガラス)と歯(貝殻)を拭いてきれいにする。その際、「自分や家族の目が良くなるように、歯が丈夫になるように」とお願いする。こうすると目や歯の調子が保てるのだという。(一九九一年八月、牡鹿町)
 《事例六》A集落のR家では、毎年大晦日の頃に大掃除をするが、その際仮面の目と歯(それぞれ貝殻)を掃除してきれいにする。もともと竈や炉を使用していた時代には、仮面がすすで真っ黒になり、その目と歯が見分けがつかなくなり、顔も判別できなくなることがよくあった。そこで仮面の目と歯を掃除していたという。たびたび目や歯を拭くうちに感情も入り、「目をよくして下さい、歯を丈夫にして下さい」と願をかけるようになった。(話者・女性(八二歳)、一九九一年八月、牡鹿町)仮面が家族の目や歯のみならず、健康一般に関与しているという家もあった。また、以下の二例は私自身の観察によるものであるが、『カマガミ』に対する異なった意味づけを示すものである。
 《事例七》E集落のK家の居間で、K家の家族と一緒に夕食をとっていたときのことである。K家の五歳になる男の子が、夕食のおかずの一品がきらいで、そのおかずを家族に悟られないようにそっと他人の皿に移した。それを見つけた母親は「好き嫌いはいけない」と男の子を叱った。男の子はいうことを聞かなかった。すると母親は、居間に掛けてあった『カマガミ』を指して「好き嫌いする子はカマノカミサマに食べられてしまうよ」とその子を論した。「カマノカミサマは、好き嫌いする子がいないか見張っているもの」だと説明した。(一九九二年五月、牡鹿町)
 《事例八》D集落のL家の女性(81歳)は『カマガミ』について「火の守りと聞いている」と答える。しかし別の日、孫がわがままをいって泣いていたとき、彼女は「いい加減に泣き止まないとカマノガミサマにいいつけるよ」といって神棚に置いてある仮面を指した。またある日、L家の親戚が尋ねてきた。一行の中には小学生の男の子がいたが、彼は「そういえばこれは一体何か」と『カマガミ』をさして先の女性に尋ねた。すると彼女は「カマノガミサマはみんながちゃんと勉強しているかどうかを見張っているもの」だと答え、「手を合わせれば効果がある」と話った。(一九九二年五月、牡鹿町)これらの事例においては、仮面はいずれも「火伏せの神」という意味づけを与えられているわけではなく、大人が子供を諭したり戒めたりする際に用いられており、一種の教育機能を与えられているといってよい。『カマガミ』を子供のしつけに用いたり、「子供の頃よく『カマガミ』で脅された」などの話はしばしば聞かれたし、また実際に観察もした。そうした教育の効果があるかないかは子供によっても異なるであろう。次の事例は効果があった例である。
 《事例九》子供の頃、嘘をついたことがあった。父親は「嘘ついているとカマノガミサンが夜おまえを食べてしまうぞ」と脅した。そんなことはあり得ないと心ではわかっていながら、仮面の顔(怒った顔だったという)が思い出されてどうにも寝つけず、夜中に泣きながら父親に謝りにいった。((話者・女性三九歳)、一九九一年八月、宮城県石巻市)ちなみに事例七の子供も、「カマノカミサマが見張っているから食べ残しはいけない」ということを信じてしまった。また事例九において、ひとりの人物が時と場合に応じて『カマガミ』の意味を使い分けていることも注目に値する。ここには、仮面とその意味が一義的に対応しているという関係はない。単に「『カマガミ』は火伏せの神である」とする固定観念にとらわれた従来の研究の考え方よりもはるかに柔軟性に富んだ解釈が展開されている。そうはいっても、あまり突拍子もない意味づけがされることはなく、だいたいにおいて、子供が親からみて好ましくないこと―例えば「宿題をしない」、「泣き止まない」、「我がままをいう」、「おやつを盗み喰いする」、「嘘をつく」、などの諸行為―をおこなった場合、それに対する脅しとして『カマガミ』が言及されることになる。あるいは親が、子供に好ましい状態―例えば「強い子になる」、「勉強が出来る」、「言いつけを守る」、など―になって欲しい場合に仮面に言及することもある。いずれにせよ、『カマガミ』は子供にとっては恐ろしいものにも、味方である心強いものにもなりうる両義的な存在なのである。また、次のように用いられることもある。
 《事例一〇》子供の頃、いつも「精神を統一する」練習をさせられたが、決って『カマガミ』の前に立たされ、手を合わせて「精神を統―した。(話者・男性(六九歳)、一九九一年一月、牡鹿町)『カマガミ』の形態は恐ろしいので、次にみるような人間の行動をもたらすこともある。
 《事例一一》自分が学校に上がる前の年齢の頃、火は炉にしかなく、夜は真っ暗であった。『カマガミ』の顔が恐いので夜トイレにいきにくく(部屋の構造上、必ず『カマガミ』の前を通らなければならなかった)必ず寝る前に用を足す習慣をつけた。(話者・男性(五〇代)、一九九一年一月、牡鹿町)『カマガミ』は次に数例みるように、なんらかの御利益に結びつけて解釈されていることもある。
 《事例一二》D集落のM家の男性(四三歳)は『カマガミ』の意味をよく知らないといっているが、朝出漁する前に『カマガミ』を拝むことがある。一度一二月に金華山の近くでサケがとれ、その腹の中には筋子が大量に入っていた。その時、「今朝はカマノガミサンに願かけたからなあ。」と語っていた。(一九九一年一月、牡鹿町)牡鹿町の主たる生業形態は養殖漁業であるが、近海での漁にも出かける。これは『カマガミ』が生業上の御利益に結びつけられた例だが、このような例は農業においても認められる。すなわち、田植えの際に苗を教本『カマガミ』に供えると豊作になるという。また、地域によっては馬を静める効果もあるといわれている。
 《事例一三》D集落のT家では、『カマガミ』の目(茶碗)にマジックの黒で、瞳を重ねて描いている。目をきっちり描いておくと「願い事がかなう」のだという。手順としては、願い事のある人が、マジックで『カマガミ』に目を描き込みながらお願いをする。その後に御神酒を『カマガミ』に供えれば一層よい。(一九九一年八月、牡鹿町)合格祈願のダルマのような用いられ方をされている例もあった。すなわち、片目をしっかりと描いておき、普段は手を合わせて願をかける。そして首尾よく願いがかなえば、もう一方の目を描き込んで「カマノガミサン、ありがとう」とお礼をいう。
5.日常生活に密着した『カマガミ』
 「いつも見ながら生活している」「すぐそこに顔がある」といわれるように、人びとにとって『カマガミ』は身近なものとして意識されている。例えば事例一三の男性は、本来牡鹿町を含む三陸沿岸地域の生業の神が恵比須であることを知りつつも「廊下にあっていつも見ているし拝みやすい」という理由で『カマガミ』を生業上の利益にも結びつけているのである。また『カマガミ』は、事例にみてきたように日常的に接触や移動、あるいは変形がなされる偶像である。『カマガミ』はもともと家の中、それも生活の中心であり、常に家族が集まる場所である炉の近くの柱に設置されており、入びとは常に『カマガミ』をみて過ごした。『カマガミ』はそれだけ人びとの日常生活に密着していたといえる。また、『カマガミ』に機能が類似する魔除け面やその他の民俗信仰面の多くは屋根など家の外側に設置されたり、行列の先頭に持って歩かれたりと、侵入してくる悪魔に対する一種の「盾」のようなものとして扱われるのに対し、『カマガミ』は家の内側に設置され、入びとと生活をともにする心強い味方としても意識される。『カマガミ』は炉の近くに設置されていたため、すぐにすすで真っ黒になった。その顔立ちをはっきりとさせるために、日常的に目や歯を掃除することによって、『カマガミ』に手をかけたり変形することに対する人びとの抵抗感も取り去られていったのではないだろうか。さらに、『カマガミ』に対しては、一旦これがつくられ取りつけられた後は、何らかの特定の祭祠法が絶対的なものとして強制されたわけではなかった。つまり、家の中に設置された『カマガミ』は、特定の儀礼に関連するわけではなく、特別に励行すべき義務ももたない偶像であった。これらのことが『カマガミ』に対する信仰のあり方の固定化を防ぎ、人びとが『カマガミ』の解釈を自由におこなう素地を提供したものと思われる。



カマ神;火をまもる神々の表情(東北歴史資料館)
【はじめに】:人間の日常生活において火あるいはそれにともなう灯りは、家族・人々の寄り集うところであり、ある意味では生活の拠点であるともいえる。そうした火や火を取り扱う場所としての竈を大切にし、信仰の対象とする例は古くから、また全国的にみられることであるが、宮城県から岩手県南部にかけての地域では、特に、土間の竈近くの柱や壁に土や木の面をまつる風習がある。これらの面は一般にカマガミサマと呼ばれるが、地域によってカマオトコ・カマズンツァン・カマノカミサマ(宮城県)、カマダイコク・カマベットウ・カマメンコ(岩手県)などの異なった呼称が与えられていることもある。その特異な風貌と限られた地域に分布することから、この地域のカマ神は民俗学的には早くから注目されていた。宮城県域では昭和60年度に所在確認調査も行われ約1600面が報告されている。
しかしながら、小地域ごとに多様な説話や祭祀儀礼をもち、加えて近年では家の新改築によるカマドの激減、カマ神そのものの破損・移動・消失によって、それらの正しい意味付・年代付は困難な状況にあり、体系的な研究という点ではなお不十分な状態にあると言わざるを得ない。今回の展示に際し、昭和60年度の調査結果を基礎としながら、宮城・岩手両県の関係市町村および各地の研究者の協力を得て再度の調査を試み、宮城県で約2000面、岩手県で約400面の存在を確認した。ただし、調査の行き届かない市町村もあるなど、調査精度の不均衡は否めず、その実数はなお未知数である。ただ、そうした調査を通じて人々のカマ神に対する畏怖の念の一端を追体験することもできた。明るい戸外から薄暗い土間に入り、突然目だけが異様に光るカマ神に接した時の驚きは「カマ神さまが見ているから悪いことはするな」と注意されたり、「家の守り神だから決して恐ろしいものではない」とさとされた子供たちの気持と共通するものであろう。また、大多数のいかめしい顔つきのカマ神の中で、大黒風の笑顔のカマ神(岩手県東磐井郡に多い)に接した時には妙な安堵感さえおぼえることもある。
このように、まさしくカマ神は人々の生活に密着し、生活の一部として存在していたとの実感を強くしたのも事実である。と同時に、かつては固く黒光りして土間を見下していたカマ神が、竈の消失という環境の変化によって劣化の度合を強めているばかりでなく、人々の心からもしだいに離れつつあるということも痛切に感じられた。多くの民俗事例がそうであるように、カマ神についての調査も遅きに過ぎたとの感はあるが、この展示がそうしたカマ神の実態解明、また保存のための一つの契機となり得るとすれば、今回の企画の意図の大半は達せられたと思う。

【分布】:現在まつられている地域は、白石市から岩手県の石鳥谷町にかけてであり、一部藩境地帯も含まれるが、分布地域はほぼ旧仙台藩領に相当する。分布数が多いのは仙台市以北から一関市付近にかけてで、とりわけ宮城県の北東部から岩手県の東磐井郡にかけてと、宮城県北西部の古川市以西と奥羽山脈沿いの地帯にかけて分布密度が高い。さらに詳しくみると、南の白石市のものは、福岡地区の土製面1体であるが、この家の先祖は5〜6代前に仙台市秋保(旧秋保町)から移住したという。一方、最も北の石鳥谷町のものは新堀地区の木製面1体であり、同家にも先祖はかつて仙台藩に接する和賀郡に居住していた足軽であったという話が伝わっている。岩手県では、藩境地帯である江釣子村や東和町などでも小数ながら分布が確認されている。なお、雫石町にも土製面が1体あったといわれているが、この家の由来等について詳細は不明である。 ところで、一般に旧仙台藩領に特有の信仰といわれているが、藩南部の伊具郡や亘理郡では所在が確認されていない。また、北部の気仙郡の場合も、陸前高田市ではまつられているものの、それ以北には見当たらない。このように、藩域に属する地帯でも南と北の一部には分布しない地域がみられる。
隣接の県についてみると、福島県では遠く離れたいわき市に2体報告例がある。ただ、写真が掲載されているのみで、その由来や他にもまつる家があるのかといった点について詳しいことはわかっていない。山形県でも尾花沢市内でかつて同じような面を見かけたことがあるという話も聞かれたが、これも製作年代など詳細は不明である。ただ、宮城県には山形方面の人が彫ったという木製のカマ神がいくつか伝わっていることは注目される。秋田県には今の所見当たらないようである。

【まつり方】:カマ神がまつられている場所が土間の竈の近くである点はどの地域も共通している。その位置は竈より高いのが普通だが、面を取り付けている所は一定していない。多いのは土間の柱である。ただし、柱の位置や呼び方は地域によって異なる。よく間かれるのは、ウシモチ柱・カマ柱・ヨメゴカクシ柱などと呼ばれる柱である。このほかに、梁や長押に取り付けている例もある。江刺市や北上市周辺では壁に直接面を塗り込む方式も見られる。なお、カマ神の多くは土間の入口を向くように取り付けられているが、岩手県の東磐井郡地方の笑顔の面相のものはイロリの方向をとる場合が多い。我々の調査経験では、カマ神は古い農家や漁家でまつられている例が多いように見受けられた。それをまつる日や方法は地域によって多様である。大体は年の暮れに煤を払って注連縄や幣束を飾る例が多く、この時以外に特に掃除はしないのが普通である。正月にはほとんどの家で餅や御神酒を供えて拝んでおり、小正月にもマユダマを飾ったりする。そのほかにはあまりまつることをしない例が多いが、中には節句などの特別な日には赤飯やお膳をあげる家もみられる。ただ、かつて紙漉が盛んだった岩手県東山町では、楮の煮釜を使用する時節に特におまつりしたといわれ、また、宮城県東和町では炭焼窯のカマブチが終わった夜に餅や酒をあげており、火を使う仕事において特に信仰された地域もある。また、田植えの時にカマ神に苗や苗を束ねる藁を供える家もあり、この神が田の神としての性格もあわせもつことをうかがわせる。なお、カマ神に張る注連縄は正月が過ぎてもおろさず、屋根の葺きかえや不幸がある年まで毎年かけ加えて行く風習もみられる。
このほか、水沢市では毎年2月に馬のワラグツをカマ神の頭上に振り分けに垂らして供えた家がある。宮城県では栗駒町に、ワラグツのほかに馬の姿を切ったキリコを年末に飾る例があり、また歌津町には馬の鈴を供える家もみられる。これには馬の健康や農作業での働きを期待する気持ちがこめられている。
カマ神をまつっている人々の信仰でもっともよく聞かれるのは、火の守り神として火難よけとする意識である。ついで、魔よけ・盗難よけなどともしている。いかめしい顔付や入口正面を向いてまつられる例が多いことから、悪いものの進入を防ぐ効果を期待するのは自然の発想と思われる。また、台所近くにまつられているためか、一部には炊事をする女の人を守る神と伝える家もあった。なお、桃生郡や登米郡などには、煤払いの際に、土製のカマ神の眼をみがき、墨で黒眼を描き入れる家がある。こうした家では、カマ神の眼をきれいにしておくと眼病にかからないという話も聞かれた。

【作り方】:カマ神は家を新築した時に、大工や左官屋によって作られたと伝えることが多い。これが事実かどうかはまだ研究の余地があるが、カマ神の素材は粘土(土製)と木(木製)に大別されるのは事実である。土製のカマ神の作り方は柱や壁にはじめから取り付けるものと別に作ってから張り付けるものとがある。直接取り付ける場合は柱や壁に竹串や木串を差込み、串に縄を絡めて面の芯とし、その上に藁を細かく刻んで混ぜた粘土を張り付け、造形したとみられる。この場合、あらかじめ柱に縄を巻きつけておくのもある。柱よりカマ神のほうが大きい場合は柱の脇のほうまで粘土を巻きつけることもある。可塑性のある粘土は乾くまでに時間がかかり、形がくずれることもあったとみられ、職人の腕のみせどころであったにちがいない。別に作ってから張りつける場合、多くは板を用意し、竹串や木串を打ち込み、縄を絡めて面の芯とするのが普通であった。あらかじめ板に細い縄を巻く場合もある。できあがったら面の付いた板を柱や壁に釘打ちする。
土製の場合、仕上げは鏝を用いたとはっきりわかるものもあるが、指や掌でなでつけたとみられるものも多い。象嵌が簡単なので、キラキラ光る貝殻や白い瀬戸物などを目や口にはめこみ、目や口もとを強調し、表情を豊かにするものが比較的多い。貝殻はアワビ貝が多いが、シウリ貝やホタテ貝をもちいることもある。瀬戸物を利用した場合、墨で黒く瞳をいれたり、歯並びを現したりする場合もある。また、眉や髭などを綿や麻で作ることもある。宮城県豊里町には頭に縄で鉢巻をするものがみられる。木製の場合は、別に製作して、のち壁や柱に掛けるのが普通である。材料はマツ・クリ・ケヤキなどが多いが、調査の段階では判断つかないものが多かった。作りが平板なものと彫りの深いものとに分かれるが、区別が難しいものもかなりある。平板なものは器用な素人が作ったという感じのものが多いが、作風が素朴で親しみある表情をしめす。平板な作りとなるため、鼻には別の木をたして高く表現するものもある。またクリの古木などに宿り木がついて瘤ができた部分を利用してつくられたものもある。裏側に抉りがあっても浅いものが多い。彫りの深いものは木彫にたけていた人が作ったと思われるものが多い。仏像や神楽面を製作する専門家あるいは器用な人が副業に製作したのであろう。製作は上手であるが、地域ごとに類型化したものが多い。軽くするために裏面を大きく抉っているものも多い。また、耳を別につくり接合しているものもみられる。なお、宮城県大崎地方では、やや新しい時期のものであるが、目の部分を裏から抉り、目玉を書き入れたランプのガラスをはめこみ、後ろから和紙をまるめたもので抑えているものがある。木製のものには彩色されたものもある。その他、コソクリート製のもの、やきもの、鋳物(銅製)などがあるが、年代的に新しいものや、他の部品を転用して利用されたものが多い。

【年代と製作者】カマ神を面という具象的なものに造形し、これをまつるこの地方独特の風習はいつ頃から始まったのだろうか。土製のものと木製のもののどちらが早いのか、また、同じく始まったのだろうか。作った人々は誰だったのだろうか。こうした問題についてはまだまだ分からないことが多い。カマ神についての最も古い記録は、菅江真澄(1754〜1829)の紀行文「続・はしわの若葉」である。天明6年(1786)9月に今の宮城県河南町の曽波神で「このあたりのいえの、かまどの柱に、土をつかねて眼には貝をこみて、いかる人のつらを作りたり。これを『かまおとこ』といひて、『耳のみこのふるごとありと』いひつとう」とある。我々が問題にしている面として具象化されたカマ神を的確に表現している。これによって今から200年前にはあきらかにカマ神をまつる風習があったことがわかるが、どこまで遡るかは謎である。土製のものと木製のもののどちらが古いのであろうか。土製のカマ神が200年前まで遡ることは真澄の紀行文で明らかになった。一方、一軒の家に土製と木製のカマ神がある場合、木製の方が新しく作ったといわれることが多い。また、土製のものがこわれたので、木製のものにかえたというのもよく聞く話である。しかし、木製のもので鳴子町に文化11年(1814)の年号をもつものもあり、土製のものが木製のものに先行したとはいえない。土製も木製も古くから存在した可能性もある。
すでに述べたように、カマ神は家を新築した時に大工や左官屋によって作られたと伝えることが多い。また、家の主人が作ったという話もある。しかし、実際にカマ神の製作者を明確につたえる資料は意外と少ない。たとえば、「左官屋が作ってくれた」という家でも、「どこの左官屋かはわからない」という場合が多い。このようにカマ神の作者はほとんど知られておらず、これもカマ神の大きな特色となっている。だが、作者を知り、その生没年を通じてカマ神の年代を知ることはカマ神自体の歴史的変遷を明らかにするために重要である。しかし、伝承はあっても記憶に混乱があるものが多く確実なものは少ない。そこで、カマ神自体に銘をもつものや作者名が伝えられ複数で確認できるものに限って製作者を紹介してみよう。最も古い資料は宮城県金成町の明治3年の土製のカマ神で、裏板に「磐井郡流海老嶋邑(現、岩手県花泉町)住 佐藤東三郎」とある。この東三郎の作品と思われるものが宮城県石越町に一面あるがこちらは銘がない。明治から大正時代になると、一関市の仏師蘇武、鳴子町の高橋久助(明治17年の墨書銘あり)、渡り大工である糸賀彦、千厩町の及川亀寿、東山町の佐藤金治郎などの名が知られている。しかし、この時代に作られたと思われる特徴ある―木(ケヤキ)製・巻き毛の頭髪・内刳の手法でランプのガラスを眼玉代わりに利用・特徴ある鼻と口の表現―作品群が古川市周辺に多数残されているが、作者は今のところ不明である。この作品の系列をひくと思われるものを鳴子町の木村恵次や木村乙治は昭和10年代まで作り続けている。土製のカマ神では後に述べるように、宮城県桃生町のハダカカベが有名である。

【ハダカカベの作品】:宮城県の桃生町を調査しているとき、盃を伏せて眼に擬した極めて特徴的なカマ神の面々にであった。「誰が作ったか知ってますか」と質問すると、おかしそうに笑いながら「ハダカカベが作った」という話が返ってくる。同じような特徴をもつカマ神は志津川町・中田町・登米町・豊里町・河北町・津山町・米山町など局辺の地域にまで分布するようである。
「ハダカカベ」の作品は@目に盃を伏せてはめこみ、糸尻の部分を瞳に擬し、黒く墨をいれる。A細い粘土紐を膨らんだ頬の周囲や耳の縁に張りつけたり、顎や眉・額の部分に多用する。B髭や眉などに真綿を用いることが多い。C板に細い縄を丁寧に巻きつけ、そこに竹串平木串などを差込み、縄を絡めて面の芯としているようである。掛けるときには釘などで柱に板を打ちつけるようになっている、などの特徴をもつ。全体的には目が目立ち糸尻の瞳が非常に効果的である。この手法はハダカカベによって創案された可能性が高い。粘土紐で強調された額・鼻・頬・顎は表情を豊かにし、真綿で表現した髭や眉は煤でよごれ真っ黒になり、風貌に威厳を添えている。ただし、初期の作品と思われるものに盃を用いないものや粘土紐の貼付が少ないものがあり、後の作品になるほど装飾が複雑になる可能性が高い。河北町の一例は彼の晩年の作であることがわかっている。
彼は慶応元年(1865)気仙郡竹駒村(現在の陸前高田市)に生れ、桃生町脇谷に住み、左官屋として働き、昭和8年にここで亡くなっている。桃生町にいつ頃から住んだ不明であるが、カマ神作りに精をだしたのは明治から昭和初期にかけてであろう。現在、70才以上の方々はハダカカベを子供の頃にみたことがあるといって話をしてきれるが、内容がまちまちですでに伝説の帳に包まれ、ハダカカベというニックネームの由来は不明である。河北町では「ハダカカベは腕の良い職人で隙間なく壁を塗ってくれた。でもお酒が大好きで自分の道具まで売って酒を飲んでいた。だからハダカカベといわれたのではないかと思う」と間いた。ハダカカベがカマ神をつくっているのを小さい頃にみていたというおばあさん(現在、74才)にも出会った。一方、桃生町では「髭をもじゃもじゃ生やし、裸で町を歩っていたので、こどもの頃はこわかった。ハダカカベがくるぞといわれると逃げたもんだ」、「酒ばっかし飲んでいた」、などいろいろな話がある。まとめると、彼は職人気質の人物で、酒が大好きで羽目を外すことが多かったようである。こども達には、家の土間でぎょろりと目の光るカマ神と彼の風貌が重なりあい、こわい人物と映った。しかし、桃生町では彼の作品を軒並にカマ神としてまつっている地域もあり、カマ神作りとしては定評があった。彼は地域の人々からこの世のしがらみに囚われない「自由人」として親しまれていたことは、今日でもいろいろな逸話が語りつがれていることからもうかがうことができる。



東北かま神図説(著者;細川魚紋子)
【序】:民俗資料、特に信仰に関連をもつ資料のほとんどが、その淵源も経過も明確につかむことのできない性格のものが多く、「かま神」もその一例である。細川氏がこんど採集した写真資料のうちにはっきり「大黒天」とみられる面相がある。大黒天を密教的にみれば、「マカ(大)ギヤラ(黒)デバァ(天)」で、インドでは釈迦出世(二千五百年前)以前から「火難を除く神」として信仰があった天部の神である。したがって「かま神」が「大黒天面」であるかぎり、密教に根源をもとめることができよう。しかし、その面相の地帯がごく限られた一小地域であり製作が新しいとすれば、逆に、密教系憎が本来の日本土俗の「かま神」を、密教的に解釈させるために指導して作らせたものとみられ、「大黒天相」はもっとも新しい形式の「かま神」ということになる。もし「かま神」が「かまど神」と同じであるとすれば、全国的にあった日本古来の土俗的なものともみられるが、しからばなぜ宮城県北から岩手県南へかけてだけ「面」でのこったかが問題になる。また「かま神」が「かまど神」と別であるとしても、なぜこの地方にだけ濃厚にのこったのであろうか。そして現在の面相は何を意味するものであろうか。地元の民俗会員の及ばないでいたことを、細川氏が先鞭をつけ、これらを解明する手がかりを与えてくれた。細川氏在住の京都から一千キロもはなれている「みちのく」へ足をのばし「かま神」をさがしもとめて数年。家の改築などで失なわれつつあるものを追いかけての調査、その採集にかけた意欲と執念がなかったならば、これだけの「図説」は世におくれなかったと思う。価値ずけられて永久にのこるものとなった。その功績には敬意を表したい。(岩手県文化財専門委員:東北民俗の会会員 司東真雄)

【かま神の語り伝え....岩手県東磐井郡松川町の民話】:ある草深い田舎に大変な怠け者の婿があった。その婿はどんな仕事をしてもすぐ倦きてしまう怠け者であった。ある時、家の人たちは婿にかまどの火たきをさせた。例によって婿は怠けた。家人はおこって婿を家から追い出してしまった。婿は生来の怠け者なので困窮し再びもとの家に戻ってきた。婿の嫁が深く哀れんでかまどの火たきをさせ一生を終らせた。婿が死んだのちは、家の人が火守り神として面に刻んでかまどの上にかけてしまった。これがかまど神のおこりである。という。

【東磐井郡松川町の民話】:ある海辺に貧しい親子があった。せめて立派な門松を立てて正月を迎えたいというので父と子が各自別々に山へ松の木を切りに行った。両人の切ってきた松の木は、どちらも立派であったが、結局、父が切って来た松を門松に立てることになって子の切って来た松の木は不用になったが、ただ棄てるのにはあまりにも立派なので父は海に流してやった。すると翌朝、見知らぬ人がきて「昨日は、立派な門松を送っていただいて有難かった。お礼にご馳走したいので一緒に来てくれ」といった。ご馳走になり、いざ帰るというとき「何かお礼に差上げたい。欲しいものがあったら申していただきたい」といわれた。そこで「かまど神をいただきたい」といって、かまど神をもらって家にかえった。それから父子の家が繁昌するようになった。

【佐々木喜善氏縞「江刺郡昔話」】:ある所に爺と婆とがあった。爺は山に柴刈に往って、大きな穴を一つ見つけた。こんな穴には悪い物が住むものだ、塞いでしまった方がよいと思って、一束の柴をその穴の口に押し込んだ。さうすると柴は穴の栓にはならずに、するすると穴の中に入って行った。また一束押込んだがそれもその通りで、それからもう一束、もう一束と思ううちに、三月が程の間に刈り溜めた柴を悉く穴に入れてしまった。その時、穴の中から美しい女が出て来て、沢山柴を貰った礼をい一度穴の中に来て呉れという。あまり勧められるので爺がついて入ってみると、中には目の覚めるような立派な家があり、その家の側には爺が三月程もかかって刈った柴がちゃんと積重ねてあった。美しい女に此方に入れといわれて、爺は家の中に入ると立派な座敷があり、そこには立派な白髪の翁がいて此所でも柴の礼をいわれた。そして種々ご馳走になって還る時、これをお礼のしるしにやるから連れて往けといわれたのが一人の童(ワラシ)であった。それは何ともいえぬ見ッともない顔の、へそぽかりいじくっている子で爺も呆れたが、ぜひ呉れるといわれるのでとうとう連れて還って家においた。その童は爺の家に来ても、あまりへそぽかりいじくっているので、爺はある日火箸でちょいと突いてみると、そのへそからぷつりと金の小粒が出た。それからは一日三度づつ出て、爺の家は忽ち富貴長者となった。ところが婆は欲張りの女で、もっと多く金を出し度いと思って、爺の留守に火箸を持って童のへそをぐんと突いた。すると金は出ないで意は死んでしまった。爺は外から戻って、これを悲しんでいると、夢に童が出て来て、泣くな爺様、俺の顔に似た面を作って毎日よく眼にかかるその所の竈前の柱にかけておけ、さすれば家が富み栄えると教へて呉れた。此童の名前はヒョウトクといった。それ故にこの土地の村々では今日まで、みにくいヒョウトクの面を木や粘土で造って、竈前の釜男(カマオトコ)という柱にかけておく。所によってはまたこれを火男(ヒオトコ)とも竈仏(カマホトケ)とも呼んでいる。
 ここに昔話を引用したのは、「かま神」の発生の時期を民俗的に知る一方法であるが、これでは如何にも物足りない。これを究めるには可成り広範囲の研究を必要とする。そのためには考古学や歴史学・民族学の分野にも分け入らねばならないことがある。わが国における火食の風習は石器時代に初まったといわれていわれている。だとするとこの時代には火を作ることがすでに行はれ、火が神秘・霊妙な性質をもっていて、生活に欠くことのできない重要な意味と役割をもっていたことであり、われわれの祖先が火に対して畏怖の念を絶えずもっていたことと考へても誤りではない。この時代の生活は共同体であり、さらに分散体として人類は発展したのではないか。次いで家屋の構築を必要とし、建築技法や社会状勢などを研究しないと「かま神」の発生の時期を解明することはできない。一般にいい伝へられているのは「かま神」は家を建てた時点で大工若くは左官が残材を用いて、施主の顔に似せて作ったといわれているから、古代住民が共同体から分散して各自が家を作る様になったころ、すなわち民家の発生と共に作られたのではないかと考えられる。国の重要文化財となっている北上市の菅野家は享保十三年(一七二八)正月建築と明かに記されている。又江刺市の国指定文化財の民家、後藤家はそれより古く元禄八年二六九五)建築である。いずれも「かま神」が台所の壁にはりつけられている。北上市更木町菅シゲ氏の家(約二百五十年以前の建物)を取壊した時、壁に固着せられた「かま神」が北上市立博物館に保存されている。これによってそれ以前の家屋にも「かま神」があったことが推測される。家を何回建替えても、古来からの伝えで祀っていた「かま神」は新しい家へも継承して祀ったであろうことは、土俗信仰の対象であるだけに無条件に首肯できる。
司東先生よりの通報によると「江刺市大田代の白山神社に御神体として二個の面が祀ってある。面は杏眼で縦一尺五寸(四十五センチ)位のもので形式からいえば鎌倉期の作であると考へる。これを「かま神」と即断することは出来ないが、信仰の対象となったことは事実でこれらの信仰が鎌倉期より室町期にかけて広まったと考えられる」という。これには山伏修験者の呪阻的指導が大きな要因をなしていると思うが、家の台所に「かま神」を祀ることも、現在のような家屋を建てはじめた室町期ころにはすでに発生していたと推考できる。

【かま神の分布】:いま仮説として「かま神」発生の時期を室町時代とすると、この時代はまさに群雄割拠の時代である。ここで一寸この時代末期の東北の領主の配置転封に触れておこう。文治の役以来奥州の中央部にあって勢力を培養し、足利家と結んで関東管領に対抗して奥州探題にまでのし上った伊達氏は、つねに領地争いをくりかえし、専ら目前の野心達成に関心をもっていた。そのため政宗の小田原攻略参陣がおくれて秀吉より一時蟄居を命ぜられ、且つ接境の攻防についても詰問せられ、その結果会津から米沢へ滅封移配させられた。次いで旧葛西・大崎領に配置されていた木村吉晴・晴久父子が葛西・大崎の残党に一揆をおこされた。その鎮圧に功があった政宗は葛西・大崎の旧領を与えられ、仙台に築城し、六十二万石の領主となり近世をむかえるのである。当初「かま神」の分布に就いて知りたいと思い、北上市の司東先生の指導をうけた。そのために探訪の範囲を旧葛西・大崎領を主とすることにしたのである。その結果、北限は稗貫郡石鳥谷町新旭佐々木尊祥家にあることがわかった。この家は、江戸初期旧葛西の臣で江刺郡の地頭であった江刺氏が、和賀郡土沢へ転封させられる前の領地で、旧葛西領の風習をうけた家と考えられる。和賀郡晴山にも一つ残こっているが、これも江刺氏の領である。
次いで南限であるが、これは遺感ながら未確認である。西限は秋田県までひろがっているのではないかと思われた。昭和四十七年十月十三日付の秋田魁新聞に「秋田のかまど神」としてカットが載っていた。作者の池田修三氏に所在の場所を問い合したところ、懇切な返事をいただいたが、同氏も十年程前に保谷の民族博物館で見て作家特有の審美眼でスケッチして、「秋田のかまど神」としたのでこの面の旧所在も不明のままであった。しかしこれではどうも納得がいかないので、ある時期に栗駒山の西麓を歩いた。これには外にも理由があった。八切止夫氏が雑誌「歴史読本」(平家はペルシヤ人)の一節に『伊勢平氏の名が伝わる伊勢白子浦から日永にかけて今もそのままの呼称で「ガマアド」と呼ぶ火の神がある。伊勢の荒神山はその「ガマアド」さまを竈荒神と呼んで祀ってある山で・・・(中略)・・・伊勢には沢山の拝火教徒がいた証拠になる。また拝火教徒の台所の火を扱う個所へ正月に物を供えて拝む風習があるというが、日本でも地方へ行くとそうした地域が今でも時たま見かける。』とある。この説によって秋田県栗駒山の西斜面で天江と呼ばれる平家部落を訪れたことがあったが、「かま神」は発見できなかった。これは呼名が異るのではないかと思い、秋田県人に尋ねても知らなかった。以上僅かな資料であるが西限は秋田県にはなく矢張り宮城県側の栗駒山(栗原郡駒ケ岳の意)斜面のようである。栗原郡は旧大崎領で葛西領と共に滅んだところであって、もしこれらの地域以外に「かま神」が祀られてあるとすればその家の先祖が旧葛西・大崎領から転居したのではないかといいたい。東限は海岸まで延びている。
今一つ発生と分布との両面についての説がある。それは塩釜さま信仰である。(水沢市史)即ち家を建てた時、壁土に使った残土に塩を加え、ひび割れを防いで神面を作り、かまどの据えてある奥の柱に大きく塗りつけて、「かま神」として祀ったのである、というのである。これは塩釜神社の神主が塩土翁の字と塩は火に焼けないという縁起から着想して「かま神」を案出し、塩釜神をシンボライズして、火を守る神として、又台所にいて家を守るものとし鎮魂して教えた。故に塩釜神社の信仰地帯である胆沢、江刺、盤井郡から宮城県北までの塩釜神社へ参詣する地区の各家の台所に「かま神」を祀る風習がのこっているのである、と。

【かま神とかまど神】:かまど神の歴史は古い。天平三年(七三一年)神祇官の手で庭火御竈四時祭が行はれたとある。(及川天渓氏著『みちのくの庶民信仰』より)又天喜五年(一〇五七年)源義家が安倍貞任誅伐のため、東北へ赴いたとき、今の岩手県胆沢郡下河原村に宿陣し、同地に御火所を作った。ここに竈神を勧請したことが下河原風土記の御用書に出ている。(司東真雄先生報)また大日本神祇史によれば竈神は高倍の神とあり、また別の名を奥津比売神あるいは大戸比売神とあり大膳職に坐す神であるという。宮城県栗原郡花山村地区には奥津彦、奥津姫二神のお札を「かま神」の下に張って祀っている。図示によれば神の寄代(よりしろ)として大釜がえがかれてある。このように「かま神」も「かまど神」も混然としている。「かま」と「かまど」は表裏一体であって、これは物として区別出来るが神格をもった「かま神」も「かまど神」も信仰の面では同一であってもよいのではないか。

【かま神の性格】:本書にいう「かま神」とは東北地方の一部にのこる、かまどの上またはうすもち柱(うしもち柱)などに架けられた土または木などで作られた面で、民間信仰の対象となっているものを指す。さて「かま神」の性格を知る上において見のがすことができないのは「ロックサマ」のことである。及川天渓氏の「みちのくの庶民信仰」の中に『著者は土公と推しながらだんだん土公サマが竈の神の常位を占め、火の元の厄を怖れる心が「ロックサマ」の奇態な形相を生み出し、火に止らず人間万事を支配される屋敷神の位置に祀りこまれたのが、この神の正休であろうと、これは私の勝手な独断である。』と解している。と此項を採り上げて、あえて反論されないことを考えると、及川氏は暗にこの推論を認めていられるのではないかと考える。私もこの推論にほぼ同意である。かくて「かま神」を屋敷神と認めるとき、「かま神」は時に厨の神であり、祖神ともなり、また荒神ともなって祀られている。素朴な庶民は区別して特に屋敷神を祀らず、朝夕に接する身近かな「かま神」を拝むことによって願望のすべてを祈願した。一般的には火難、悪魔除けを目的として祀られあるが、稀に家長が怠けることの監視もするという。これによっても「かま神」は矢張り祖神の性格をもっている。又岩手県東磐井郡藤沢町の阿部晴夫氏方では幼児のお守りまでされているし、幼児の駄々封じにも引合ひに出されている。更に水沢市の前谷地地域の話(東北民俗資料集)では「器用さ」を願ふ神として火難除け、家内安全と共に祀っている。平泉の大長寺院や千厩町奥玉の一部には「かま神」にさわると頭痛を病むとおそれられているし、桃生町の須田万平家では家訓として「かま神」の移動を禁止している。
さてこのように祀られる「かま神」は及川大渓氏の著述によれば『神格に就いては多く伝わっていない。民俗的な説としてみるとき、「かま神」は器量の悪い女神で三人、七人或は多数の子女をもち・・・(中略)・・・貧乏暮しで粟を常食とし』と述べられているが、本来我国の「かま神」は先にのべた花山村の神符のように奥津彦、奥津姫の二神であり、三項で触れたように荘重に祀られている。その一例として京都北野神社(祭神は菅原道真)の東門脇に竈社があり、八島竈社として祀られている。しかしながら「かま神」「かまど神」が三方荒神や三宝荒神と結合して祀られてある例は現今各地に多く見るところである。

【かま神の呼称と形態】:「かま神」は地域により、かま男、かま別当、かまほとけ、かまじん、かまめんこ、かまど神、かま大黒と呼ばれまたヒョットコともいわれている。もし同一地域で異った呼称であれば、その面相は大黒面の場合である。たまたま同じ地域で呼称が異っておれば、其の家の人は地つきの村人でなく他からの移住者と見ている。次に「かま神」の大小についてであるが、一般に土製のものは三〇〜四〇センチ位で木製のものより製作時代は古い。木製のものは大は花山御番所のそれのように一米位のものがあるが、おおむね製作年代は新しく江戸末期以降に多いようである。なぜにこの様な巨大なものを作ったかは判らないが、推考を許されるならば門閥の誇示と分限者の示威ではなかろうか。

【かま神と修験】:かま神の分布や容相に修験者の影響が可成りあるのではないかと推察する。修験者の中には有能なものもあれば、また先輩の犠牲的苦行を借りて素朴な庶民を欺いた輩もあった。旧領を奪われた葛西・大崎藩の残党の中にはこれに走った者も多数あったと考へる。喰ひつめれば修験者になれとさへいわれた時さへあった。これ等の者達が各地に散って室町期以降には加持祈祷を糧とする者さへ現れた。これらの修験者が偶然呪術に成功したとすればまさに神様扱ひで、その信頼は大きくその修験者の説なれば何でも肯くという結果が生れたと考へるのも無理ではないだろう。また修験者自らの面相を作らしめることも容易である。これが「かま神」の面容にも現れたと解したい。花山村の「かま神」の面容にそのような結果がでているようである。しかしこの現象は修験道の発達した山に通ずる街道に副うて展開しているようである。
さて修験者の職能をみると加持祈祷の外に神仏の祭祀、地鎮祭、荒神法楽、亡葬跡清などを職掌としている。この内「かま神」に関係あるものに亡葬跡清がある。これは俗に火ばらいと呼ばれて、葬家の汚れた火を清浄な火にきりかえる行事で、家の中の火のすべてを合むものであるから「かま神」に関係がある。これら火の行事を、また火注連(ヒジメ)とも呼ばれこれの取扱う権限を修験者に詫した。火注連というのは前述の他に祭祀に際して別火精進に入る時の火のきり出し、水神、かまど神の祓いなども火注連の中に含まれる。この時代の火作りは無論火打石と火打金を打って発火させた。現今でも修験者の装具の中にこの火打石と火打金を収容した袋をもっている。また修験者を山伏と称したことがある。その山伏を「ひじり」といったのは中世以前のようで「聖」とは火を管理するものという意味であるから「かま神」と相通ずるものがある。



郷土史 仙台耳ふくろ
三原良吉

釜神さん
古い家がらの農家に行くと、勝手の土間の奥にヘッツイがならんでいるのは誰でも気がつくが、宮城県では時とするとその後の柱に奇怪な面がつけてあって、真黒にすすけているため、うっかりすると気がつかない。しかし面があってもなくてもシメが張ってあるのはここが釜神の座だからである。この面を釜神さんと称し、釜男、火オトコともいう。要するにカマド神、火の神のカタシロであるが、これについて故佐々木喜善氏からヒョウトクという昔話を聞いたことがある。喜善さんは柳田先生の「遠野物語」の語り手として知られ、オシラ神や座敷ワラシを初めて中央に発表した人で特に民話採集の先覚として初期の日本民族学に大きな業績を残した。昭和4年に郷里の遠野から仙台に移り東北地方の民話を集大成した「聴耳草紙」を著し、同8年9月に亡くなるまでわたしは親しくした。以下喜善さんの話。(省略)
以上が喜善さんから聞いた釜神の発生説話であるが、民俗芸能の獅子舞のアヤシに登場する道化の面をヒョットコというのも、正直爺さんに黄金の粒を授けたヒョウトクも畢竟は火の神の形代であるヒオトコの転化であろう。民間信仰の釜神の分布は岩手県中部から南、特に宮城県の全域に及んでおり、中通りから西側の山村地帯には木彫りの大型のものが多い。
戦後間もないころ、栗駒山の県立公園指定調査のため一週間ばかり山に入り、最後に一迫川渓谷の奥の湯浜温泉に下りた時、注文した食事があまりにも遅いので台所へ催促に行ったらケヤキ材の一メートルぐらいもあるみごとな釜神が掛けてあって腹がへったのも忘れて見とれたことがある。
釜神さんの面形は家を普請した時かける習わしで材質が三通りある。大工が作ったものは木彫り、職人が作ったものは瓦の土焼き、左官職人が作ったものは生まのカベ土を手びねりにしたもので、柱の正面と両側面を包んでぶっつけとし、必ず眼にアワビ貝を裏返しに入れて光るようにしてあり、大型のものが多い。
現在釜神の面打ちは県内でかぞえるほどもいない。従って家を建てても新らしく釜神の面をかけるようなこともなくなった。加えて農家の改築時代で代々伝わった釜神さんもとかく敬遠されがちである。釜神の面は家の歴史を物語る象徴であり、貴重な東北特有の民俗資料であるから是非とも保存の要があり、改築ブームをねらって横行する都会のゲテ物屋の買いあさりを警戒すべきである。こんなすすけたグロな面形は近代住宅にふさわしくないなどと考え、ししゃますような人があるなら、県の文化財保護室に連絡してほしい。そして県民の森の歴史資料館に陳列することによって永久に保存したい。



祭礼と年中行事
仙台市歴史民俗資料館編

【カマガミサマ】
旧仙台藩地域では、江戸時代から現在にいたるまで、土間の竈の上や、竈近くの柱や壁に土や木の面を祀る風習がある。「これらの面は一般にカマガミサマとよばれるが、地域によってカマオトコ、カマズンツァン、カマノカミサマ(宮城県)、カマダイコク、カマベットウ、カマメンコ(岩手県)などの異なった呼称が与えられていることもある。」
宮城県が昭和60年度に行った調査では、県内に分布数が多いのは仙台市以北から一関市付近にかけてで、とりわけ宮城県の北東部から岩手県の東磐井郡にかけてと、宮城県北西部の古川市以西と、奥羽山脈沿いの地帯にかけての分布密度が高い。
カマガミサマは「年の暮れに煤を払って注連縄や幣束を飾る例が多く、この時以外に特に掃除はしないのが普通である。正月にはほとんどの家で、御神酒を供えて拝んでおり、小正月にも繭玉を飾ったりする。」
仙台藩時代や明治初年などの古くからのカマガミサマには、家を新築した時に大工や左官の棟梁によって作られたと伝承していることが多い。新しいカマガミサマには、人に頼んで新たに制作してもらったとする例が多い。
カマガミの素材は粘土(土製)と木(木製)に大別される。土製の場合アワビ貝やホタテ貝などの貝殻や瀬戸物などを目や口にはめこみ、目や口を強調し、表情を豊かにするものが多い。



東北民俗 第参参号(東北民俗の会編)

旧仙台藩領におけるカマ神の成立

1)竃神を祀ることは東北地方においても一般的に見られる風習であるが、竃や炉の傍らにある柱や壁に様々な容貌をした面を掲げて竃神としているのは、旧仙台藩領内でも主として仙台以北から岩手県南の胆沢、江刺、西磐井、東磐井、気仙郡に及ぶ地帯である。
東北歴史資料館が昭和63年(1988)に行ったこの地帯のカマ神分布調査によると宮城県2,035、岩手県429、福島県2の計2,466のカマ神があり、なかでも東磐井郡から牡鹿半島にかけての地帯、玉造、栗原郡地帯、古川市を中心とする地域、仙台市では旧泉市、旧宮城町、旧秋保町にかけての地帯がカマ神分布の稠密地帯となっている。
竃神のご神体を木で作る風習は信州秋山郷とその周辺で知られているが、面を掲げる風習は旧仙台藩領内と云う極く限られた地帯であるのは何故か。本稿ではカマ神成立の要因とその過程について考えてみたい。
最初にこの地帯の竃神の呼称のなかで、カマガミ、カマジン、カマボトケ、カマベットウ、カマオトコ、ヒョットコ、ウントクなどとあるのはいずれも面を掲げている場合のものであるため、面を掲げない竃神と区別するために一応「カマ神」と記し、土偶(人形)の場合は「カマ男」と表記することをお断りする。

2)一般的にカマ神は憤怒の相をしているとされているが、必ずしもそうではない。旧仙台藩領内のカマ神分布の稠密地帯の一つ岩手県大東町の場合についてみると、平成元年(1989)段階での151面のうち福顔のカマ神が68あり、外は憤悪相と中間的な表情をしている面である。また、面には烏帽子や頭布を被っていたり、鉢巻きを締めたりするものや鬚があるなどその容貌は多様である。カマ神の面の素材を大別すれば土と木で、土の場合は壁土、粘土、木は松、槻などが使われている。いずれの場合も母屋を建てた際に左官や大工などによって作られたとされるので、カマ神の製作年代は母屋建築の時期と同一視されるが、厳密には母屋建築時を以てカマ神製作時期とすることには難しい点がある。しかし、希少な事例であるが岩手県大東町渋民の某氏方の「カマガミサマ」のように土間の裏戸側の壁面一画(縦80センチ、横60センチ)全面に塑像のように作られている場合や北上市更木町の某氏方のように縦30センチ、幅31センチ、厚さ7センチのカマ神の面が壁土と一緒に塗り込められている事例などは家屋建築とカマ神製作の時期が一致するものと認められる。両家の母屋はおよそ170〜200年前の建築とされていたが現在では改築、解体され、某家のカマ神は壁面とともに北上市立博物館が所蔵している。
 カマ神の製作年代が知られる最古の事例は、宮城県鳴子町大口の某氏方のカマ神で裏面に「文化十一甲戊年正月十七日」の墨書がある。また、「菅江真澄遊覧記」などの文書資料により、カマ神の存在は近世後期には確実であったと云えるが、母屋の建築年代などを勘案してみると近世初期までは遡り得るのではなかろうか。

3)次にカマ神を成立させた要因について述べてみたい。最初に取り上げなければならないのは金屋の活動である。旧仙台藩領内に踏輔師、鍛冶、鋳物師などが入込んでいたことは各地に残されている地名、遺跡、遺物などによって指摘でき、金屋に関する地名は金谷24、鍛冶82、銅屋24とある。ただかれらの生業の特質から各地を渡り歩く徒であったため時期を特定することは困難であるが、寛永検地以後は品替御百姓として村落社会に定住しているので「歩き筋」としては近世の初頭までであろう。金屋が関係すると考えられる昔話、伝説のなかにカマ神の起源に関するものがある。いわゆる龍宮童子型と云われる昔話もその一つで爺が山中の穴にいた翁から授かった醜い面の童が臍から出す黄金によって富裕となるものであるが、その後半を『江刺郡昔話』は次のように収載している。(略)ところが婆は欲張りの女で、もっと多く金を出したいと思って、爺の留守に、火箸を持って童の臍をぐんと突いた。すると金は出ないで童は死んでしまった。爺は外から戻って、これを悲しんでいると、夢に童が出て来て、泣くな爺様、俺の顔に似た面を作って毎日よく眼にかゝるそこの竃前の柱に懸けて置け、そうすれば家が富み栄えると教えてくれた。この童の名前はヒョウトクと謂った。それゆえにこの土地の村々では今日まで、醜いヒョウトクの面を木や粘土で造って、竃前の釜男(カマオトコ)と言う住に懸けて置く。所によってはまたこれを火男(ヒオトコ)とも竃仏(カマホトケ)とも呼んでいる。伝説では炭焼長者型系統の由来譚がある。貧賎な若者が山中で炭を焼いているところに、都から貴族の娘が観音のお告げによって押し掛女房になる。若者が嫁から小判を貰って市に出かける途中、水鳥を見つけこれを捕ろうとして小判を投げ付け帰ってきたので、驚く嫁にこのようなものは炭焼く谷に沢山あると話したことによって若者は長者になったという型である。この型の展開されたものとして福分のある女が夫に離婚され、炭焼きと再婚して長者になったところに、零落した前夫が来て再会し自分を恥じて死んだので屍を竃の下に埋めて竃神として祀ったのがカマ神の起りであるとしている。あるいは長者の家に厄介になっていた乞食を祀ったとするなど多くの系統譚がある。
これらの昔話・伝説は踏鞴の鉄吹や金掘りなどが反映されたものであろう。踏鞴師には死機を嫌わずかえってそれによって鉄をよく吹くことが出来るとさえ云われていた。さらに注目したいのは「ヒョウトク」譚にみられるような面を掲げる風習が踏鞴師の間に存在したのではないかと云う点である。19世紀前半に成立した「芸州加計隅屋鉄山絵巻」の踏鞴図には、押立柱の傍らに金屋子神の神棚が設けられ、爐の左右に配置された天秤鞴を踏む様子と壁の上部に掲げられた面が描かれている。この面は恵比寿大黒あるいは鉄の神とも云われている。また、幕末の「先大津阿川村山砂鉄洗取之図」の「タタラ銕ヲフク図」にも天秤鞴の前にある壁面に鬼神面が掲げられている。これらの絵巻の成立はいずれも近世後期であるが、天秤鞴の出現は近世初期頃にも遡り得るとも云われており、また板踏鞴の場合でも爐の火力は相当なものと思われ、爐の熱気を遮るために炉と鞴との間に鞴壁を立てこの陰で番子たちが鞴を踏んでいることから、カマ神の起源譚はこのような踏鞴師の習俗から生みだされたものではなかろうか。ところで金屋たちが信奉した神は鍛冶祖神としての金山彦命、金山姫命、天目一箇神であり、野鍛冶などは三宝荒神、不動明王を守護神とするが、踏鞴製鉄の盛んな中国地方では金屋子神と金屋荒神である。そして同地方では明治維新までは金屋荒神も多かったと云われているが、以後製鉄の神として金屋子神が卓越するようになった。「鉄山必要記事」によると「又或説日、金屋子ノ神体は女神ニテ座ス故ニ、女ヲ強ニ忌嫌給フトモ申ス(略)」「凡鉄山ニテハ金屋子神ハ一向ニ姫神ナリト云習ハシタル也」とあり、あるいは「村下」を祀ったものともするが、大方は女神とされている。しかし、旧仙台藩領内に残されている金屋たちの祀った守護神は様相が異なる。旧仙台藩領内には金鋳神、金井神の地名が残されており、柳田は「カナイ神は最も多くは金井神と書くが、又叶神或ひは家内神とも書いて居る。此は多少の意味のあることらしい。金子屋敷を挙げた羽前小松地方にも此の神は少ない。常陸岩代陸前には正しく金鋳神と呼んだ為かと思ふ。また金谷神とも書いている。」と金屋がもたらしたかれらの守護神であったことを述べているが、この地方で祀られていたのは女神としての金屋子神ではなく殆どが三宝荒神であった。
若干の例をあげると遠田郡沼部村(田尻町)金井屋敷の金井神社について、安永四年(1775)の「同村風土記御用書出」には「一金井神 但先年ハ間違ヲ以荒神社と御書上仕候事」とあるので「荒神」とも称していたことが推測される。利府町春日に鎮座する荒神は文応元年(1260)、鍛冶国豊なる者が勧請したと伝えられているが、郷民はこの神祠を金鋳神と呼んでいたと云う。また、水沢市羽黒堂岩脇の千葉氏は応永年中(1394〜1427)より鋳物業に従事した家であるが、正保元年(1644)正月11日に千葉善右衛門によって改書された文書に「金鋳神三宝荒神わに口之事」と題する文書があり、金鋳神として三宝荒神を祀っていたことが明らかである。旧仙台藩領内の金屋が三宝荒神を祀ったのは、修験の影響が強かったためであろう。三宝荒神はかれらの祖師として信仰されている役行者が感得した神とも云われ、陰陽道の影響を受けて成立したもので、不浄を嫌うところから火の神にあてられ、家の竃神ともされてきたのである。この地方の里修験たちが三宝荒神に対して抱いていた信仰を示すものとして天明四年(1784)10月に登米郡東和町鱒淵の羽黒派修験慈明寺法印が記した「三宝荒神由来記」(仮称)がある。同町吉田の高荒神山(227・2メートル)上にある荒神堂の由来を述べたもので「大日経」や「無障疑経」で説かれる三宝荒神の功徳を記している。この社殿の創建年代は不明であるが、葛西氏の時代に麓の森合城主によってなされたものではないかと考えられる。同館主千葉土佐は永禄年間(1558〜1569)に、備中中山有木の別所より千葉大八郎・小八郎兄弟を招いて砂鉄精錬を営み、この地方の製鉄の向上を図った人物である。この時導入されたのは中国地方の野踏鞴であったらしいが、従前より火力がありそれが製鉄の向上につながったものであろう。そして、領内の?屋(どうや)を営んだ人びとも三宝荒神を守護神として祀ってきたもので土佐の子孫、?屋八人衆の一人であった千葉家では大篭の鎮守神明社の境内に三宝荒神社を立て三宝荒神像を安置していた。仙台藩でも明暦元年(1655)に登米郡米谷村に設けた鍛冶会所の鎮守神として三守荒神像を仙台で鋳造して米谷に移送し、会所の東方に社殿を創建して安置し羽黒派修験伊法院をして開眼供養の導師を勤めさせ、以後同院をして別当に当たらせてきた。また、岩手県藤沢町の鍛冶屋敷にある元亨三年(1323)の板碑の伝承に、近くで行き倒れていた行者(修験)を見つけた当主が家に運び介抱したが亡くなってしまった。行者の懐にあった遺書に死後は三宝荒神として祀って欲しいとしたためられていたので、遺骸を埋めて立てたのがこの碑であると云われており鍛冶と三宝荒神と修験の関係が伺われる。
鍛冶屋の鞴祭りに掲げられるいわゆる「鍛冶神」掛図のうち、三宝荒神が描かれているものがある。大船渡市日頃市の某氏蔵の文政五年(1822)10月11日銘の箱に納められている三宝荒神像は三面九目六臂像で鞴の上に立ち、左手に宝輪、弓、右手に宝珠、矢を執り、中の左右の手は前で印を結ぶ図柄である。藤沢町曲田の某家はかつて葛西氏の鍛冶を勤めていたと云い、三幅一対からなる鍛冶神掛図を伝えてきた(現岩手県立博物館蔵)。これらの鍛冶神の図柄は修験によって説かれたものであろう。カマ神成立の要素として修験の果たした役割を指摘したい。

4)カマ神の成立過程において、最初から「面」が造られて掲げられていたものかどうか。この点についてみると菅江真澄の日記「はしわのわかば続<仮題>」天明六年(1786)9月16日条に、「(略)此あたりの家の、かまどのはしらに、土をつかねて眼には貝をこみて、いかる人のつらを作りたり。是を『かまおとこ』といひて(略)」と河南町鹿又辺のカマ神のことを記している。一方、寛政10年(1798)の岡田提之の「秉穂録」には「奥州の民家には、竃のほとりに土偶人の長さ六尺ばかりなるを置く、釜男という」とある。岡田提之は「奥州の民家には」と書いているのみであるが、この項の前後関係から推して陸前地方であると考えられる。そしてこの釜男の系統にあたるのではないかと見られる「カマ男」が二体存在しているので事例として次に掲げておく。
事例1 本吉郡津山町黄牛 某氏方
 同家のカマ男(土人形)は170年前に建てられた母屋の大戸を入った土間の突き当りの柱に、戸口を向けて掲げてきた。全長53センチ、幅12センチ、顔長13センチあり、壁土を用いて芯木に全体像を型取ったレリーフ状で、身体は螺旋状の衣で覆われている。足は細木に粘土を巻き付けて作っているが、両脚とも粘土が欠けている。目は瀬戸物を用い、鬚はミゴを利用している。同家では「カマガミ」と呼び、竃は土間の次の室にあって六基設けられていた。二十年前に母屋を解体し、カマガミは箱に納めて保管している。
事例2 桃生郡桃生町中津山 某氏方
 同家ではカマ男を「カマガミサマ」と呼び、全長63センチ、幅17センチ、顔長23センチあり、目は瀬戸物で煤払いの際に雑巾で拭いて筆で目玉を描いていた。鬚があり、右手に宝剣を持つ。クド(竃)の前に掲げ、正月に法印から頂いてきた竃神の幣束を頭上に刺し立てていた。同家ではこの「カマガミサマ」は「ハダカカベ」が作ったものと伝えている。かれは慶応元年(1865)気仙郡竹駒村(陸前高田市竹駒町)に生まれ、桃生郡脇谷に住み左官職人として働き、昭和8年(1933)に同地で没したが桃生地方のカマ神を多数造っている。
 両事例の系統的な関係は不明であるが、両カマ神とも酷似しており、事例Iの右手の棒状なるものは事例2よりして宝剣であることが推測される。真澄の日記には「いかる人のつら」を作りこれを「かまおとこ」と云うとあり、「秉穂録」には「土偶人の長さ六尺ばかりなるを置く、釜男という」とあって「カマ神」とは書いておらず、面に先行して「長さ六尺」はともかくとして土偶のような人形が祀られていた可能性も否定できない。『江刺郡昔話』では「醜いヒョウトクの面を木や粘土で造って、竃前の釜男(カマオトコ)と云う柱に懸けて置く。」とあり、カマ男を祀っていたことを示唆するものではなかろうか。
 カマ神の成立過程を考える際にこの神の呼称も重要な面であろう。一般的な呼称としては「カマガミ」であり、事例1、2の家でも「カマオトコ」なる呼称はなく「カマガミ」である。「カマオトコ」と「カマガミ」の呼称の先行は、「カマオトコ」の方ではなかったかと思う。カマ神の呼称の中で「カマベットウ」なる云い方があることは修験との関係からは注目されなければならない。岩手県大東町では母屋の新築に際してご祝儀として神社の神官がカマ神の面を彫って贈ってくれたので「カマベットウ」の呼称が多い。玉造郡鳴子町大口の某家所蔵のカマ神裏面には「文化十一甲成年正月十七日」の紀年銘の外に「竃神(オンケンバヤダソワカ)/願主大瀧山明昴/鬼首縦出」の墨書がある。この種字は三宝荒神の真言であり、大瀧山明昴は同家の先祖で同家は羽黒派修験大瀧山行蔵院と称し、開基年代は不明であるが中興は元和年中(1615〜1623)記伊坊によってなされ、以後同郡大口村に道場を構えてきた。明昴は鬼首出身とみられ行蔵院十世(十一世カ)の法印である。したがって同家のカマ神は明昴法印によって彫られ、墨書されたものとみて間違いないだろう。ただ、このカマ神を同家の祖父(明治21年生まれ、97歳で没)は「カマオトコ」と呼んでいたと云う。

5)炯屋・鍛冶などで鉄を産み出し、それを加工する強力な火を守護する三宝荒神は防火、鎮火に霊験のある神として修験によってさらなる信仰が説かれ、火所の守護として祀られてきたものである。かつての炯屋(踏鞴)、鍛冶跡には金屋によって信仰された三宝荒神の小祠や供養塔が残されており、なかには村の鎮守や同族の屋敷神ともされている。このような三宝荒神信仰の在り方が民家にあってはより一層の霊験を期待するために、三宝荒神の具象として土偶や面を火所の傍らに祀り始めたもので、以後「カマ神」とされるに及んで火所の守護神としてだけではなく様々な機能が付与されて家の安全、繁栄を司る「家の神」化に至ったのであろう。したがって、現在伝承されているカマ神に関わる民俗は、カマ神化の過程で発生したものと云えよう。母屋の建築に際して、左官や大工などによってカマ神が造られるのは竃や炉の火を守り家屋にとって最大の災難である火災を防ぐことでもあった。面を戸口に向けて掲げるのは、盗難や悪病の侵入を防ぐためであるとか、初田植えやサナブリに早苗を供えて拝んだり、カマ神の供物を未婚の者が頂くと縁遠くなると云う伝承は家の永続と繁栄をカマ神に対して願うものであり、そのため祖霊的な性格も認められるのである。カマ神に飾った注連縄(カマジメ)は毎年つけ加えていき、屋根葺きの際にまとめて下げて屋敷神に納めるとか、カマ神は神無月に出雲に出かけず、家に留まっていると云われることも家の神としての側面を示すものであろう。祭祀形態においても三宝荒神は金屋集団や同族、村の鎮守として共同体で祀られていたが、カマ神は家の神としてそれぞれの家のみで祭りをしてきたのである。本吉郡津山町南沢の山林には珍しく「釜神」の石造小祠が安置されている。安永三年(1774)七月の「本吉郡南方横山南沢村風土記御用書出」には「一釜神社/一小名釜神山/一勧請誰勧請ト申義并年月共ニ相知不申候事/一社地南北拾間東西六間/一社東向壱尺作/一地主屋敷清兵衛/一祭日十月朔日」と書き上げられている。この地帯は同族屋敷神が卓越しているところであるにも拘わらず、同族神としての祭祀ではなく「荒屋敷清兵衛家」の神として石祠を安置したものである。現在でも石祠のある山林は「カマノカミヤマ」と呼ばれ、某氏方で11月1日に赤飯、神酒、餞米を供えて祀っているが、三宝荒神としての信仰は見られない。旧仙台藩領内におけるカマ神の成立をなさしめた要因を幾つか取り上げて述べてきたのであるが、紙幅がつきてしまったので他日に記すことにしたい。



東北学院大学東北文化研究所紀要
(東北学院大学東北文化研究所編)

宮城のカマ神

カマガミ、カマドガミ、カマジン、カマオトコ、カマオニなどと呼ばれる土製や木製の、多くは忿怒の形相をした面を、かまどの上や柱にかけて出入口をにらむようにして祀っておく風習は、宮城県中北部から岩手県南にかけて見られるところである。一般に火難よけ、魔よけ、家内繁昌のためという。家を新築し、かまども新しくした際、その材料の一部を使って大工や左官につくってもらうことが多かった。土製の場合はこねた粘土で顔面をこしらえ、目や口に鮑貝や陶器の破片を利用していることが多い。木製の場合の材質としてはケヤキ、松、栗などが多い。現在この習俗はすたれ、家屋新築の際にもカマ神をつくることはなくなり、僅かに古い家に残存しているだけとなった。炉やかまどの火が生活の中心であったころの家の歴史を知る貴重な資料であるが、年号を記したものはほとんど無く、確実な時代を知ることはできないが、その家の新築にまつわる伝承によって僅かに知られる年代は元禄、延享、天明、文化などの例である。菅江真澄の「はしわの若葉」(続篇)には「このあたりの家の、かまどの柱に、土をつかねて眼には貝をこみて、いかる人のつらを作りたり。これをかまおとこといひて、耳のみこのふるごとありといひ伝ふ」と宮城県石巻あたりの記事が天明六年九月十六日のところに見えている。かまどに火の神をまつる風習はほとんど全国的であるが、面をつくって飾ることはこの地方の特色といえる。ここには塩釜神社博物館のもの10体、香林寺懐邑館のもの20体、東北歴史資料館のもの8体をとりあげたが、延享元年四月三日と家屋新築の棟札によって詳細な年月日を知り得たものは香林寺の一体に過ぎない。

塩釜神社博物館のカマ神10体
(1)縦三八糎横三三糎、旧所有者桃生郡河南町前谷地某氏、土製、眼と口に鮑貝を利用、伝承では元禄年間につくった家に付属していたと伝えている。
(2)縦六三糎横四六糎、旧所有者登米郡豊里町赤生津某氏、土製、眼は陶器片に墨を入れたもの、口が特に大きい。伝承ではこの家は天明年間の建築であったという。
(3)縦五〇糎横四九糎、旧所有者登米郡豊里町沼崎某氏、土製、眼も歯も鮑貝を利用、文化年間の建築という。
(4)縦六四糎横六三糎、旧所有者登米郡豊里町加賀巻某氏、土製、眼に鮑貝を利用。伝承では文化年間の建築という。
(5)縦二五糎横二二糎、旧所有者宮城郡利府町加瀬某氏、土製、伝承によれば某家は塩釜神社社家の家で四〇〇年近く続いているといい、明治初年建て替えた時もかま神だけはそのまま祀ったといっている。
(6)縦六一糎横五六糎、旧所有者栗原郡若柳町千葉某、木製、材質ケヤキ、頭に鉢巻あり。伝承では文化年間に建てた同家にあったものという。
(7)縦五二糎横五二糎、もと栗原地方にあったものという。木製、材質ケヤキ。
(8)縦五一糎横四五糎、もと栗原地方にあったものという。木製、材質ケヤキ、冠と頭髪あり。
(9)縦五〇糎横四三糎、もと栗原地にあったもの、木製、材質サクラ。
(10)縦五〇糎横五五糎、もと栗原地方のもの、旧所有者某氏、木製、材質スギ、耳、眉、鉢巻などは別木でつくってある。

香林寺懐邑館のカマ神20体
(1)縦四三糎横四三糎、旧所有者竹花某氏、土製、延享元年四月三日家屋建築の際の棟札が残っているから柱につくりつけのカマ神も当時のものと考えられる。カマ神についての伝承は、もとかまどを守る火たき男をまつったものという。男は村の長者の家に住み込み、その勤労ぶりが長者の目にとまり娘の婿になったのだとも伝える。また、三五人の子神を持つ農耕の守護神で、山と田圃の間を往来する神であり、正月のほか、田植時に苗を供えてまつるという。田植時にカマ神に苗を供える風習は東北にひろく見られる。
(2)縦三八糎横三四糎、旧所有者竹花某氏、土製 眼に茶碗の外底を利用、縄の鉢巻。
(3)縦五二糎横五二糎、旧所有者不明、土製、眼に鮑貝歯に陶器片を利用、縄の鉢巻。
(4)縦四八糎横四九糎、旧所有者浦軒某氏、土製、眼に鮑貝歯に陶器片。
(5)縦六一糎横五八糎、旧所有者不明、土製、眼は鮑貝、歯は陶器片。
(6)縦五〇糎横五〇糎、旧所有者竹花某氏、土製、眼に貝殻、歯に陶器片、あごひげに馬の尻毛を利用。
(7)縦四五糎横二七糎、旧所有者鴇波某氏、土製、眼は盃の外底を利用、ひげは毛糸らしい。
(8)縦四二糎横三七糎、旧所有者山根某氏、土製、眼に茶碗の外底を利用、面は板に取付けて柱に掛けるようにしてある。
(9)縦四三糎横四三糎、旧所有者竹花某氏、土製、眼と歯に鮑貝を利用。
(10)縦六一糎横五八糎、旧所有者仲町某氏、土製、眼は茶碗に墨を塗ったものを利用、歯は陶器片らしい。
(11)縦四五糎横四〇糎、旧所有者本地某氏、土製、眼は陶器片に墨を入れたもの。歯は鮑貝片。
(12)縦三六糎横三五糎、旧所有者本地某氏、眼は茶碗の外底を利用、歯も陶器片。
(13)縦五九糎横五四糎、旧所有者上町某氏、土製、眼は陶器片に墨を入れたもの、歯も陶器片。
(14)縦四七糎横三九糎、旧所有者本地某氏、土製、眼は陶器片に墨を入れたもの、歯も陶器片、馬の尻尾をひげにした跡が残っている。
(15)縦五〇糎横四七糎、旧所有者上町某氏、土製、眼は墨を入れた茶碗かけ、歯も陶器片、縄の鉢巻の跡が残っている。
(16)縦三五糎横三五糎、旧所有者保手某氏、土製、眼は鮑貝、歯も鮑貝片。
(17)縦三六糎横二五糎、旧所有者江の島某氏、土製、陶器片に墨を入れた眼をガラスで被ってある。
(18)縦二七糎横二二糎、旧所有者竹花某氏、土製、眼は陶器片、ひげの跡が残っている。
(19)縦五三糎横五七糎、旧所有者保手某氏、土製、眼も歯も鮑貝破片。
(20)縦五一糎横四六糎、旧所有者保手某氏、土製、眼は鮑貝、歯も鮑の破片、舌もある。

東北歴史資料館のカマ神8体
(1)縦三七糎横三一糎、旧所有者小野田町鹿原某氏、土製、両眼と口に鮑貝を利用。かま神は普通柱にとり付けてあるが、これは取付けたままで柱の上下を残してあるのでその状態がよくわかる。
(2)縦三〇糎横二六糎、旧所有者気仙沼市某氏、土製、左眼に鮑貝の破片残る。
(3)縦二九糎横二六糎、旧所有者色麻郡高城宮某氏、土製、眼と口に鮑貝を利用。
(4)縦三八糎横三〇糎、旧所有者仙台市元寺小路某氏、土製、口に陶器片残る。
(5)縦三二糎横二九糎、旧所有者中新田町某氏、土製、目に卵の殻らしいものを利用、眉毛はワラ。
(6)縦三八糎横三六糎。旧所有者は不明であるが、昭和四十七年三月沢口本家某氏よりゆずり受けたと記録に見える。土製、目と口に鮑貝残る。
(7)縦三四糎横二三糎、旧所有者小野田町某氏、木製で丁寧な彫り方である。 (8)縦三五糎横三〇糎、旧所有者色麻町高城宮某氏、土製であるが焼いたものらしい。やや風変りな相貌である。(3のと旧所有者は同一であるが理由は不詳。



東北竃神の精神史(一部抜粋)
(著者:内藤正敏)

 東北の宮城県から岩手県にかけて、カマドやイロリの近くの柱や壁に、奇怪な顔の面をつけて竈神として祀る風習がある。
竈神はカマガミ、カマドガミと読む。土製と木製があり、家を建てた時に大工や左官などが、その家の当主の顔に似せて作るといい、なかには腕がたつ近所の人に頼んで作ってもらうこともあるが、いずれもプロの仏師や彫物師が造るわけではない。そのため竈神一つひとつの造形が実に自由でのびのびと個性的である。薄暗い民家の闇のなかから懐中電灯のスポットで浮かびあがる竈神の表情は神秘な謎に満ちている。その人間臭くて生命力あふれる造形は圧倒的な存在感がある。
東北の竈神とはいかなる神なのか。竈神起源譚を解読して、その原像にせまりたい。

……竈神が祀られていたのは、ほとんどが農家や猟家であり、火防の神や家の守り神としてであり、直接に金属・鉱山に結びつく信仰はみられない。作られた時代も、古くても江戸時代で新しく、みられるのは旧伊達領である。しかし竈神の密集地帯は、日本でも有数の鉱山地帯や金属文化の地と重なるか隣接するのである。宮城県から岩手県にかけて、かつて北上山地は金と鉄、奥羽山地は金銀銅鉛などの巨大な金属資源の宝庫であった。奈良時代の天平二十一年(七四九)に奈良の大仏の渡金用の九〇〇両の金を産出したのも宮城県遠田郡涌谷の黄金山神社付近であり、平安時代に奥州藤原氏の絢爛たる黄金文化を花咲かせたのも、これら東北の金属資源であった。現在、東北の金属鉱山はほとんどすべて閉山されているが、戦後まで東北は有数の金属鉱山地帯であった。こうした東北の金属文化の歴史と風土を考える時、東北の竈神の「ヘソから金がでる」という金属伝承の担い手の姿も浮かびあがってくるのである。

……『江刺郡昔話』では、竈神として柱にかけて祀るのが「ヒョウトクの面」、つまり醜い童の面にしかすぎなかったのが、『ひろば』では「その面こ、ひょっとごっんだど」と竈神は「ヒョットコ型の面」に変っているのである。
しかし、すでに佐々木喜善も『江刺郡昔話』で、「ヒョウトクはヒョットコ即ち火男であろうと謂う説に、自分も何らの異議もない」と記している。
柳田国男も「蘆刈と竈神」(『海南小記』)で、東北の竈神について、「火男と言ったのがヒョットコとなり、火吹きと言ったのが潮吹きの面になったかと思われる」と説いている。これが後に大きな影響力を発揮することになるのである。
ところで「江刺郡昔話」を佐々木喜善に話したのは浅倉利蔵という炭焼をしていた人で、のちに江刺市米里町字野里向の後藤という農家の養子になり、一九五八年に亡くなっている。生前、利蔵爺が佐々木喜善にヒョウトク譚を話した時のいきさつについて興味深いことを語っている。
佐々木喜善が「ヒョウトクはヒョットコか」と聞いてきたので、とっさに「そうだ」と答えてしまったという。それでヒョウトク譚に「ひょっとこの始まり」というタイトルがついたようだ。これは同じ村に往む千田正肋さんが利蔵翁から直接聞いた話で、私が米里村を訪れた時に千田さんから教えていただいたのである。いわば佐々木喜善の誘導尋問によって、ヒョウトクがヒョットコになったというのが真相のようである。ヒョットコはヒオトコ(火男)がなまったのかもしれないが、はたして竈男はヒョトコなのか。そして醜い童の名前は、本当にヒョウトクだったのだろうか。
実際に竈神について、私が宮城県と岩手県の全市町村の教育委員会や公民館に問い合わせた調査や長年の現地調査の経験からも、竈神をヒョットコとよぶ例は無かったし、口をとがらせたヒョットコ型の竈神はみつからないのである。かつて私も或る高名な民俗学者からヒョットコ型の竈神を撮影するように強く忠告されたことがあり、柳田と佐々木の竈神の火男=ヒョットコ説が根強く信じられていることに改めて驚かされた。柳田や佐々木の竈神のヒョットコ説は、昔話や伝説の採集者や話者にまで影響を与えているように思われる。

……東北の竈神で最大の問題は、なぜ竈神を面に造って祀るのか、という点である。
 竈神の面を祀るのは、宮城県から岩手県にかけて、ほぼ旧仙台領である。製作年代も近世以後で、年代が分るものでは、元禄から宝永年問(一六八八〜一七一一)に建てられたという旧後藤家住宅の竈神が古い。
この問題について、私が気にかかるのは、島根県安来市の和鋼博物館に展示されているタタラの土製の面である。タタラ製鉄炉の両側に風を送る天秤吹子があり、その上部に大黒と恵比須のような顔の素朴な土製の面が向かい合せについている。この天秤吹子は、出羽鋼の産地で知られた島根県邑智郡瑞穂町の若杉タタラから移したもので、新しく展示用に作ったものではない。
東北の竈神にも、これと似た素朴な土製の面があり、カマ大黒とよぶ大黒型の面もある。仙台領では、永禄年間(一五五八〜七〇)に東磐井郡天籠に備中から、慶長十年(一六〇五)に本吉郡馬籠に出雲からタタラ製鉄法が入っている。あるいは、近世初期の中国山地からのタタラ製鉄法の導入で、製鉄炉の側に面を祀ることに影響され、竈の側に竈神の面を祀る風習が始ったのかもしれない。今後の研究課題としておきたい。ただし竈神を面として祀ることと、竈神起源譚の担い手は分けて考えたほうがよく、竈神には、その性格や起源譚が何層にも重なっている。
竈神はカマドやイロリの近くに祀られる神なので、火防の神、火伏の神、火難除けの神として信仰されており、災難除け、家運隆昌、盗難除け、無病息災といった家の神ともされている。そのほかに田の神、養蚕、製紙、馬の神などとしても信仰されている。しかし金属神や鉱山神として信仰されてはいない。それにもかかわらず竈神起源譚から浮かびあがってきたのは、金属神や鉱山神としての一面であり、竈祓いや唱門師、山伏や法印などの宗教者、金掘り、鍛冶師、タタラ師などの金属・鉱山民、山の民、川の民……といった竈神起源譚の担い手たちの姿であった。彼らは土地に定着することなく、高度で特殊な技術をもって諸国を渡り歩いた「非農業民」である。竈はこの世と他界の境界であることから、竈神は境界性、両義的性格をもち、竈神には日常世界から排除された諸属性が集まると、飯島吉晴や小松和彦によって指摘されている。こうした竈神の他界的性格が、彼ら非農業民の伝承を吸収したのであろう。謎に満ちた竈神の背後の闇から浮かびあがってきたのは、東北の風土であり、東北竈神の精神史である。



東北民俗資料集(1)〜巫女の仏おろし・ほか〜
萬葉堂書店刊 東北学院大 岩崎敏夫編

竈神
【玉造郡鬼首原】
1.洞雲寺には最近和尚さんが彫ったものだという木製の面が、入口の正面を向けて庫裏の台所に飾ってあった。食物を司る神様で、火に注意するように祀るのだという。
2.某宅ではカマガミといっており、木製の面で、味噌や馬糧などを煮る大釜のクドの上の柱に飾られている。入口の正面を向いている。特に日を決めて祀ることはしていない。
3.某宅では家を支える最も太い柱に飾っており、木製である。入口の正面を向いており、カマジンと呼んでいる。
4.某宅ではスイガマと呼ぶ大釜のクドの上の柱に飾ってあり、カマジンと呼ぶ。木製の面である。火の神様だという。毎月1日、15日、28日には御飯を供える。また馬を初めて使用する時にはドンブリに小豆御飯を山盛りにもってカマジンに供える。こうすると馬があばれないからだという。

【登米郡東和町】
5.某宅ではカマガミサマと呼んでおり、土製の面で入口の正面を睨んで飾ってある。以前はカマドの上の柱に飾ってあったという。祖父の代に隣家のものを真似て作ったものだと言っている。正月には年縄を張り、餅や御飯を供える。年縄は正月毎に取り替える。旧暦2月9日には、つぼさかの団子といって団子を作って供える。田植には苗を供える。
6.某宅のカマガミサマはニワの真中に立っている太い柱に縄を巻きつけて、その上に土を付けて作ったもので、現在では顔の凹凸が崩れてきている。カマドの側で入口の正面を睨んで飾ってあり、家が新築された際(300年位前)に作られたものであろうと言う。毎月1日、15日、28日に御飯や餅を供える。旧暦2月9日には団子のくいそめといって団子を作って供える。カマガミサマは家のまもり神なので、どの神様に供えなくともカマガミサマだけには必ず供え物をするという。
7.東和町楼台の某老人の話では、カマガミサマは家を新築した際に、左官が作るもので必ずウシモチ柱に飾るのだという。カマガミサマはお家繁盛の神様だという。

【登米町中田町】
8.某宅ではカマドの上の柱に崩れかけた土製の古い面と、最近作ったという新しいカマガミサマの面の二つが飾ってある。正月に供え物をする位で特別にまつることはしていない。
9.某宅では、カマドの位置を変えた現在でも、以前にカマドがあった場所の柱にそのまま飾ってあり、入口の正面は向いていない。カマドの守りをしている神様だと言っている。
10.同地の某の話によれば、カマガミサマは夫婦そろっているのが本当で、二本のウシモチ柱に向かい合わせに飾るものだという。その時、女のカマガミサマは上で、男は下になる。女の神が台所を監視するためだという。恐ろしい顔をして家を守る神で、カマドの神様だという。
11.某のカマガミサマは、曽祖父の代に土蔵を建てた左官に作ってもらったという。入口の正面を睨んでいる。
12.某宅では最近家を改造した際にお明神様におさめてしまったというが、カマガミサマは入口の正面に飾るもので、悪魔除けの神様だという。

【登米郡豊里町】
13.某宅のカマガミサマはアワビ貝の眼をした土製のもので、以前にカマドがあった場所の上の柱に飾られ、入口の正面を睨んでいる。家を新築した際に作るものだという。珍しいご馳走を作った時などに供え物をする。旧暦2月9日にあしもと餅といって米を作ったときに臼からこぼれた米で作った団子でこれを一升枡に盛り、さらにそれを五升枡に入れて供える。
14.某宅では、カマドの柱に眼と歯にアワビ貝を使用した土製のカマガミサマが入口正面を睨んで飾ってある。家を新築した時に左官が作ったものと伝えられている。正月には年縄と八本幣を飾り供え物をする。これらは正月毎に取り替える。旧暦2月8日には団子を作り、一升枡にうず高く盛って、さらに五升枡の上にのせて供える。

(以下の著者:二階堂睦子・黄川田啓子)

◎火の神信仰 (採集者)二階堂睦子

【水沢市前谷地】
○カマ神の大きさ:高さ三三センチ
○表情:忿怒相 土製で目と鼻は深い穴になっている。目には瀬戸カケラが嵌入。カマ神の頭上から馬のワラぐつを振り分けにたらしている。馬の耳のように見える。
○供養:昔は毎年、二月二十八日にワラぐつをつくりかえた。現在はとりかえることをせず放置してある。忌の年は祀らない。
○供物:正月に真四角に切った餅を二つ重ねて供える(サイコロ状のもの)
○祀る人:主婦
○信仰:カマドの神としては勿論のこと、家内安全を祈願する。又、「ていど(器用さ、願いごと)」になるようにと祈る。
○カマ神のいわれ:この家の主人の話によると、幼い時からカマ神を「カマメンコ」と呼んで親から悪いことをするとカマ神さまに言いつけるぞとよく脅されたという。カマ神をかけている柱は、ウシ柱と呼ばれており、カマ神さまはこの家を出這りする人を見ているのだともいわれている。カマ神の頭上に振りわけてあるワラぐつのいわれは不明確であるが、いろいろな説があるという。一つは昔からこの家では馬を飼っているところから馬供養のためかと考えられている。又、旅に出る時の無事を祈ってかけたものかともいう。勿論、カマ神そのものは火防の神として、且つ家内安全を祈って祀られているわけである。この家から他家へ嫁いだ老婆の話による。カマ神がかけられている柱は、「ヨメゴカクシ柱』と呼ばれ新しい嫁は客が庭からはいってくると恥づかしがってこの柱の陰に隠れるからだという話であった。

  【水沢市表小路】
○カマ神の大きさ:高さ1尺1寸 幅8寸
○表情:憤怒相 土製で両眼に大きな蛤の貝殻が入れてある。面は長方形の板につけてある。
○供養:正月に五升マスに物を入れてカマ神さまに供える。
○祀る人:主婦
○信仰:火難除け
○カマ神のいわれ:蛤の入った眼でその家の主人をにらむといわれカマ神を床の間に向く位置にかけない。現在は台所には祀られておらず廊下の棟のところにかけてある。


【栗駒山湯浜】
○カマ神の表情:福神相(土製)
○祀られている場所:炉に面した柱にかけられていて実際にはカマドの近くには祀られておらない。
○時代:不明
○信仰:火伏せと家内安全
○祀る日:正月
○祀る人:主婦

【栗駒山湯浜】
ここは山の中にある部落でまだ電燈がなく未だにランプ生活をしているところである。交通機関がなく町に出て行行くには三、四の山を越えて行かなければならない非常に不便な素朴な生活が残っているところである。
○炉:ランプ生活の中で炉はまだ現存し生活の中心をなしている。炉の上には火棚が吊され、自在カギがかけられてある。カギには「寿」という字が付けられて、火の用心のお札が結ばれてある。火棚には、きのこをつるしたりいろんなものがのせられてあった。この他にこの家には魚の形をした自在カギがカマドのところにかけられてあった。

【栗駒山花山御番所】
ここは秋田県雄勝郡皆瀬村に通ずる、花山越えの秋田口の関所で仙台藩仙北御境目寒湯番どころという。寒湯番どころは藩内二十七ヵ所の一つで他藩に直接する重要な番どころであった。国指定史跡、番どころ跡、四脚門と役宅がある。その役宅の中にカマ神さまと炉が保存展示されてあった。
○炉:時代は明治中期〜末期と推定される。火棚があって自在カギがその上から吊されてかなり立派な炉である。
○カマ神さま:二つのカマ神があるが、釜男とも呼ばれ、両方とも土製である。時代は明治時代のものらしいが、今まで見てきたカマ神の中では一番大きいように感じた。

◎竈神 (採集者)黄川田啓子
【玉造郡鬼首原】
○洞雲寺には、最近和尚さんが彫ったものだという木製の面が、入口の正面をむけて庫裡の台所に飾ってあった。食物を司る神様で、火に注意するように祀るのだという。
○高橋某氏宅では、カマガミといっており、木製の面で、味噌や馬糧などを煮る大釜のクドの上の柱に飾られている。入口の正面を向いている。特に日をきめて祀ることはしていない。
○高橋某氏宅では、家を支える最も太い柱に飾っており、木製である。入口の正面を向いており、カマジンと呼んでいる。
○中鉢某氏宅では、スイガマと呼ぶ大釜のクドの上の柱に飾ってあり、カマジンと呼ぶ。木製の面である。火の神様だという。毎月一日、十五日、二十八日には御飯を供える。また馬をはじめて使用する時にはドンブリに小豆御飯を山盛りにもってカマジンに供える。こうすると馬があばれないからだという。

【登米郡東和町】
○千葉某氏宅では、カマガミサマと呼んでおり、土製の面で、入口の正面を睨んで飾ってある。以前はカマドの上の柱に飾ってあったという。祖父の代に隣家のものを真似して作ったものだと言っている。正月には年繩を張り、餅や御飯を供える。年繩は正月毎に取り替える。旧暦二月九日には、つぼさかの団子といって、団子を作って供える。田植の時には苗を供える。
○千葉某氏宅のカマガミサマは、ニワの真中に立っている太い柱に繩をまきつけて、その上に土をつけて作ったもので、現在では顔の凹凸がくずれてきている家が新築された際(三百年位前)に作られたものであろうと言う。毎月一日、十五日、二十八日には御飯や餅を供える。旧暦二月九日には、団子のくいそめといって、団子を作って供える。カマガミサマは家のまもり神なので、どの神様に供えなくとも、カマガミサマにだけは必ず供え物をするという。
○東和町楼台の某老人の話では、カマガミサマは家を新築した際に、左官が作るもので、必ずウシモチ柱に飾るのだという。力ガミサマはお家繁昌の神様だという。

【登米郡中田町】
○大山某氏宅ては、カマドの上の柱にくずれかけた土製の古い面と、最近作ったという新しいカマガミサマの面の、二つが飾ってある。正月に供え物をする位で、特別にまつることはしていない。
○伊藤某氏宅では、カマドの位置をかえた現在でも、以前にカマドがあった場所の柱にそのまま飾ってあり、入口の正面はむいていない。カマドのまもりをしている神様だといっている。
○同地の某氏の話によれば、カマガミサマは夫婦そろっているのが本当で、二本のウシモチ柱に向い合せに飾るものだという。その時、女のカママガミサマは上で男は下になる。女の神が台所を監視するためだという。恐しい顔をして家をまもる神で、カマドの神様だという。
○伊藤某氏宅のカマガミさまは、曾祖父の代に、土蔵を建てた時に左官に作ってもらったものだという。入口の正面を睨んでいる。
○千葉某氏宅では、最近家を改造した際に、お明神様におさめてしまったというが、カマガミサマは入口の正面に飾るもので、悪魔よけの神様だという。

【登米郡豊里町】
○高橋某氏宅のカマガミサマは、アワビ貝の眼をした、土製のもので、以前にカマドのあった場所の上の柱に飾られ、入ロの正面を睨んでいる。家を新築した際に作るものだという。珍しい御馳走を作った時など供え物をする。旧暦二月九日に、あしもと餅といって、米をつく時に臼からこぼれた米で作った団子で、これを一升桝に盛り、さらにそれを五升桝に入れて供える。
○阿部某氏宅では、カマドの上の柱に、眼と歯にアワビ貝を使用した土製のカマガミサマが、入口の正面を睨んで飾ってある。家を新築した時に左官が作ったものと伝えられている。正月には年縄と八本幣(ハチホンベイ)を飾り、供え物をする。これらは正月毎にとりかえる。旧暦二月八日には、団子をつくり、一升桝にうず高く盛って、さらに五升桝の上にのせて供える。

【本吉郡志津川町】
○山内某氏宅のカマガミサマは木製で、家を新築した際に大工が作ったものだろうという。カマドの上の柱に飾ってある。カマガミサマに供えた餅は、嫁にいけないとか、色が黒くなるといって、女の子には絶対に食べさせないという。
○阿部某氏宅では、カマガミサマは悪魔よけ、火難よけの神様であるといって、土製の面を入口の正面に飾っている。正月に供え物をする位である。二月十五日にとなえごとをしながらカマガミサマに雪花梨をぶっける。何故そうするのかわからないという。

【仙台市舘越】
○大内某氏宅では、ニワの中央に立っているヨメガクシ柱にオカマサマをまつり、そこに張る注連縄は年々古いのに重ねて張っていくという。
○佐藤某氏宅では、田植えの日の朝、三把の苗に小豆御飯の握飯をのせて、カマドの上に供える。その苗は一番最初に田にもっていって植える。

【玉造郡鬼首原】
山形県尾花沢の人から聞いたという話。
昔から由緒のある家に、ある時、醜い顔をした、若いもらい人が来た。庭にころがっていた箒をみつけて、それをじゃまにならないようにニワの側にたてかけてから中に入ってきて、雇ってもらいたいとたのんだ。しかし、その家では数人の雇い人もいたし、またちようどその頃、一人娘が病気で長い間床についており、何処に願をかけても、腕のたつ医者にみてもらっても丈夫にならないので、皆困り果てていた時だったので一度は彼の頼みを断ったが、考えなおして、釜の火たきにでもよいならということなので、火たき男として雇った。娘の病気は一向によくならなかったが、年頃になったので、多くの縁談がもちこまれた。しかし、娘は火たき男がよいと言った。家の人たちは困り果てたが、庭にころんでいた箒をたてかけてから家の中に入ってきたことを思いだし、見込みのある奴だといって、娘の婿としてむかえた。すると娘の病気は日一日と快復にむかい、男は一躍若様になり、その家は繁昌した。この火たき男を祀ったのがカマガミである。(中鉢某女談)

【登米郡東和町楼台】
○小出某氏(七六歳)の話によれば、ある所の旦那殿が一人のもらい人を家に泊めた。男は一向に動こうともせず、食べては所かまわず排便をした。カマドの側などにもした。旦那殿は困り果ててしまったが、もらい人はしばらく泊ってからどこへともなく旅立っていった。もらい人が旅立った後、旦那殿がカマドの側をみたら、大便が黄金に変っていた。旦那殿はさっそくもらい人を神様として祀ったが、それからというものその家は繁昌した。このもらい人を祀ったのがカマガミサマでお家繁昌のまもり神である。



北海道・東北地方の火の民俗(著者:和田文夫 明玄書房s59)

宮城県を中心に、カマドの近くにカマガミと呼ばれる人面を掲げる特殊な信仰があり、この神について次の伝説がある。
昔、某家で一人の乞食男を雇ったが、怠け者で働こうとせず、ところかまわず糞をし、カマドの前にもした。この男がしばらくするとどこともなく立ち去ったが、カマドの前をみると、男の糞が黄金になっていた。そこでこの男をカマドの神に祀ると、その家は繁昌した(東和町楼台)。
昔、ある女が嫁になったが、嫁ぎ先から働きが悪いと追い出された。この家では後添いを迎えたが、まもなく傾いてしまった。その家の男は乞食となり、方々歩いているうちに、前に追い出した女の家を訪れた。女は男に飯や銭を与え、火焚き男に雇った。しかし男はカマドの前で死んでしまった。この男を祀ったのがカマガミである(岩出山町真山)。
昔、ある女が嫁いだが、夫の顔があまり醜いので逃げ帰った。しかし思い直して再びその家に戻った。この醜い男を祀ったのがカマガミである(松島町根廻)。
 これらの伝説は断片的であるが、まず男女の結婚が語られ、不縁になった女には福分があり、乞食になった男がやがて女に巡り会うというモチーフで語られており、かの「芦刈説話」に起源が求められ、「炭焼き長者」の昔話などに類するもので、火とかかわりのある鋳物師たちによって伝えられた伝説と考えられている。

【カマガミ】宮城県にはカマドの近くに立っている柱の上に、恐ろしい人面を掲げ、カマガミ、カマオトコなどと呼び、家を新築すると作って火の神または火伏せの神として祀る風が広くあり、とくに北半部に多くその分布は岩手県の南半部に及び、福島県の一部にもみられる。土製と木製があり、土製のものは眼と歯に鮑貝がはめ込まれ、ぎらぎらして恐ろしくみえる。みだりに煤を払うものでないといわれ、真っ黒になっているのが一般で、煤払いにだけ眼と歯が拭われる。祀られている位置は、炉端の横座に向けず土間の入り口に面するように掲げられ、恐ろしい面相であることは、入り口から侵入する悪霊を防塞することにあったと考えられる。この神の伝説については前述した。
人面のカマガミを掲げなくとも、カマドの近くに棚を設けてオカマサマを祀る信仰は一般的であり、正月には神社から配られるお札を貼り幣を立て、オソナエの餅を飾り供物をする。さらにこの神のものというオカマジメという注連縄が飾られる。オカマジメは1メートル前後あり紙と藁の垂を下げたもので、正月がすぎても下ろすことがなく、毎年飾ったものが分厚く重ねられていて、古いものは煤で真っ黒になっている。この注連縄を屋根替えのとき下ろし、その数で屋根替えをしてからの年数を知ることができるといい、単にあまり数が多くなると、煤払いに下ろされる。下ろした注連縄は屋敷神に納める。正月に飾られる他の注連縄は、正月がすぎると下ろされるが、この神のものはそのままにされるので、正月の神は行事が終ると送り出されるが、カマドの神は家に常在することになり、日を定めて祀られる神に対して、この神は恒常的に家を守護する神ということができる。
カマガミまたはオカマサマに、田植え始めの儀礼で苗を供え、この苗から植え始める風習も散見される。この苗は一般には田の神に供えるものであるが、カマガミに供えることは、重要な農作業にあたって、その成就を願うことであり、この神は家の守護神として作神的な性格も持つことを示している。




東北民間信仰の研究 下(岩崎敏夫著作集s58)

竈神と火の信仰
竈にも炉にも同じように火の神をまつるが、火の神をまつる方式は、棚をつくって幣束を置くとか、オカマサマとして注連縄を正月に飾るとかする中で、宮城県から岩手県にかけてカマガミサマ、カマジン、カマオトコなどと称して土 製や木製の忿怒の形相をした面がかまどの上や大黒柱(ウシモチ柱)に、入口をにらんで飾ってある習俗が見られる。

まず「竈神信仰の研究」(黄川田啓子、昭和四四)を中心にみてみたい。普通、火難よけ、魔よけ、家内繁昌のためと考えている。なお、正月神棚に注連縄を張る場合は、正月が過ぎても外さずに年々重ねてゆく風がある。
家を新築・改築した際、あるいはかまどを新しく築いた時に、大工や左官によって作られたといっているが、現在この風習はすたれて新しく作ることはほとんど無くなり、昔のものが古い家に残っているだけである。土製のものには眼の部分に盃の糸尻や鮑貝の光る部分をはめ込んだものなどがある。
○竈神の例。二、三の例をあげれば、水沢市表小路坂野家のものは長方形の板に土製の面をとりつけたもので、流しのヨメカクシ柱の上にかけてあり、正月には一升枡にものを入れて供える。水沢市福原の佐藤家のものは、はやり風をふせいでくれるといい、月の二十八日にアゲホケェする。
岩手県姉躰村では眼病のものが紙に「め」の字を書いてカマガミの下に貼っておくとよい。東磐井郡曽慶の岩淵家のものは大黒に似た福相であるのは珍らしいが、同郡室根村にも「カマ大黒」と呼ばれる大黒様に似たカマ神があるという。
宮城県玉造郡辺では月の一・十五・二十八日に祭るところも多く、また中には馬をはじめて使役する時にどんぶりに小豆飯を山盛りにしてカマジンに供えると馬はあばれないなどといっている。同県登米郡辺では旧二月九日にはツボサカ団子を供え、田植時には苗を供えるが、苗を田植の時供える風習はひろい。またカマガミは家の守り神だからという観念が強く、とくに大切に考えている所が多い。
○竈は家の象徴。本来竈は一戸に一つのはずで家の象徴であったから、カマドを分けることは家を分けることであり、竈に供えたものを食べるのは家の長男がよいわけであった。
○カマ神をまつる場所は、家の中心でもある大切な柱とくに大黒柱(ウシモチ柱、ヨメカクシ柱)にまつるのは、柱そのものが神の座としてふさわしいからである。
○火の神の性格。竈神は家の入口を睨み、家によりつく悪魔を払う機能をもっていることを忿怒の相の面で強調して居るのは激しい火の姿の反映と思われる。神の性格は怒りやすく気むずかしいともいう。一方火は極度にけがれを嫌い、月経や出産の時に別火する風習はひろい。ところが娘の初潮の時、小豆飯を炊いて供える風の見られる地方があるというのは、女性のまつる神故であろうか。
また竈神は器量が悪く、貧乏で子沢山ということである。東北のそちこちで十月神々が出雲へ行く時に竈神は留守をするという伝承も子供が多いためだと言っている。また荒神も火の神であるが、陰陽道から来ている別系統の神と考え、鍛冶屋など火を使う職業では火の神として荒神をまつることが多い。出雲に行かないで留守をする神々は山の神、えびす、竈神の三柱だという。

○竈神と稲苗。田植の苗を竈神に供える風はひろい。一、二例をあげれば北上市稲瀬の千葉家では、田植の中の日に大水口で田の神を拝んでから、苗代と植え田の方から三把ずつの苗束をとって竈の神に供えるという。仙台市館越の佐藤家でも田植の日の朝、三把の苗をかまどの上に供え、小豆飯を握飯にして苗の上にのせるがこの苗は最初に田に持って行って植える。また所によっては、田植終了後、さなぶりに上げるところも多い。おそらくは火の神そのものに農業神的な要素があったものか疑わしいが、田の神も火の神も女性の祭る神であって信仰が一緒になっている例はよく見られる。苗取山三宝荒神などいわきにあるのもその例である。

○竈神の由来。竈神の由来を説く伝承が昔話のようになって宮城・岩手の辺に見られる。ヒョットコの話である。爺と婆とがおり、爺は山へ柴刈りに行って一つの穴をみつけた。こんな所にはよくない者がいるものだ、ふさいでしまおうと思い薪の一把を放り込むとするすると入ってしまった。次々と入れて薪が全部無くなったころ中から美しい女が出てきて、柴のお礼だといって爺を穴の中に案内する。中には爺の押し込んだ薪が一杯積んであった。御馳走をしてくれた上、何ともみっともない顔の子供をくれた。しかたないから連れ帰ったが、炉のそばで腹をあぶりながら子供はへそばかりいじっているので、爺は火箸でちょいとつつくと、中からぷつりと黄金の小粒がこぼれ落ちた。それからは毎日三度ずつヘソから金が出て爺はたちまち金持になった。欲ばりな婆は一度にもっと多くの金が欲しくなって、爺の留守に火箸でぐんとつついたら、黄金は出ないで子供は死んでしまった。爺は悲しんだが、その夜夢に子供が現われ、爺さま泣くな、おれの顔に似た面を粘土でつくってカマドの柱にかけてくれろ、家は必ずふくしくなるから、と言った。この子供の名はヒョウトクと言った(佐々木喜善『東夷異聞』その他)。ヒョウトクはウントクとも言い、ヒョットコも同じで火男のことだという。
 ものもらい(乞食・ホイト)を火焚きにやとったが、大事な娘の病気を治してくれたので、その火焚き男をまつったのがカマガミのはじまりだという伝承も東北に多く、中には炭焼長者型・産神問答型になっている話もある。福運の無い男の方が零落し、福分のついているもとの女房に助けられたのを恥じて死んでしまったのを釜屋の下に埋めた。これが竈神の起源となったとする話も多い。
 神聖なカマド近くに死体を埋めるなどの、火と死霊との関係については別に考えなければならない大きな問題だと思われる。イザナミ命が火神を産んで身まかったのもただそれだけのことではないであろう。死体を埋めて竈神とする伝承は日本だけではないという。同時に竈の神は家であり、祖霊をまつることに関係があり、それも主婦が中に立っていることに意味がありそうである。

次に岩手県江刺地方の「竈神を中心とした火の信仰」(佐藤智子、昭和五五)からかいつまんで取りあげて紹介したい。
○江刺(岩手)の竈神。この辺でも家の火の管理をするのは女性であり、女の賢さは火の焚き方一つでわかると言われた。今のように火が自由になる以前の時代には、炉の火を絶やすことは女の恥であった。明治時代までは、就床時に 不必要な分のオキは火消壷に入れ、残りのオキはかき集めて薄く灰をかぶせてヒドメをなし、翌朝火種をかきおこしてツケ木で火をつけたもので、台所の一日はまず主婦の炉の火おこしからはじまるものであった。
○火と出産の関係は別にも出てくるが、炉をホドとも呼ぶそのホトは、炉の真中の火を焚くところ、火を産み出すところで『古事記』にある女陰の古語である。炉が神聖な火を産み出す所故に、生産機能を持つ女陰と同様にみたのである。
○江刺地方では火の神として月の二十八日荒神をまつることが多い。
○竈はクド、へッツイともいうが、本来はカマドは釜をかける処の意と思われ、ホトとは語源を異にし炉ともおのずから別であるが、火の神そのものは共通という観念である。カマドを別にすることは、同じ火のものを中心とする生活から離れて、別な火の仲間に入ることでこれはかつては重大な意味があったのである。
 古さもそうかも知れないが、カマドの方が神聖視されていた感じで、ふだんの生活は炉が中心であっても、神まつりや人寄せの場合のいわゆるハレの食物であるモチや赤飯をつくる時は、土間のカマドを用いることが多かった。古い家など見るとカマドは多く土間にあるが、位置する場所やことに向く方角がやかましかった。北向きのカマドなどもっとも嫌った。そして同じ釜の飯をたべるということの意味は、同じ火で炊いた飯ということでそこには神聖な火の神の力がこもっているのである。けがれた火で炊いたものは、一緒に喰ったものにけがれが移ると考えられたのである。
○鎮火防火の信仰として愛宕神社・古峰神社・秋葉神社などがあるが、江刺市米里字山本の妙祗神社は変った由来を伝えている。人首福泉寺の住職であった宥玄を火防の神としてまつっているが、ここには縁起は省略する。
○江刺辺では竈神の面のことをカマジンゾウとかヒョットコという。ジンゾウとは子供のこと。昔話に出てくるもらってきた子供に火男とつけたのが訛ってヒョットコとなったともいう。
○トコヨや竜宮のような他界から来た子供のために福が授かったという話は、昔話の一つの型で、来訪神が幸福をもたらすことと同じである。
○『古事記』の竈神は奥津日子・奥津姫の二神で大歳神の子というが、のちに仏教や儒教の影響を受け、一方三宝荒神と結合したと言われている。
○竈神の面。竈神の面はほとんど土製と木製であるが、土製のものは壁土(粘土)を用いたものが多く、モッタラ(藁をきざんでつなぎにまぜたもの)の入ったものもある。したがって左官がつくったものも多く、目や口の部分にアワビやアサリ貝をはめ込んで悽味を出したものもある。木製の材質は杉、檜、桐、松、栗、柿、みずの木、桑など一定していないが、中には漆や金箔を用いたものまである。素焼のものも少しはあった。
 面相は忿怒相・福神相・神楽面相その他である。家を建てる時、その材料の一部を使ってつくることが多いようで、したがってその家を守護してもらうという意識が強く出ていることを見のがしてはならない。
○江刺地方のカマド神には、流行り風をふせぐ、魔よけによいというのがある。山形県村山地方では、嫁入りの時、婚家のカマドの前を三度まわるというのは、新しい家族に加わるためにはまずカマドの神の承認を要したわけである。

「民俗学的にみた火の信仰」(二階堂睦子、昭和四三)は水沢市周辺を調査地としている。
○火の神。火の神として信仰されているのは荒神・三宝荒神・愛宕・古峰・秋葉・不動などである。本寺辺では炉にはお不動様が居るという。家の中心とし てのイロリは、ユルギ・ユリ・ヒホド・ヒジロ・ジロなどとも呼ばれる。大籠辺では炉の神とカマドの神を一緒にして火の神と考えている。
○岩手県の轟木では小さなヘラを沢山火棚につるして庚申さまをまつり、下っている自在鉤にも火伏せの御幣をまつっておく家がある。鉤も神聖なものでカギドノ・オカンサマ・カギツケサマなどと呼ぶ。鉤には火伏せの意味で水に縁のある魚などを彫った飾りをつけておくことがあるが、「入魚」の縁起をかついで家の入口から奥に向っている。
○炉とカマドは別個に考えるものと、一緒にみる両説があるが、いずれにしても面形の神像をカマオトコ・カマ仏・火男などいろいろに言う。カマジン・カマメンコなどともいうところが岩手県内に見られる。
○禁忌。水沢辺の炉に対する禁忌には、炉には繩類・葱類をくべてはならない、唾をしてはならない、火ワサをすると寝小便をする。火をまたいではならない、爪をくべるなという。
○水沢周辺のカマガミ。水沢辺のカマガミも、先に書いた他地方の場合とほとんど似ているので記述を省略するが、他と変った例としては、水沢市福原のは忿怒相で、頭上から馬の藁ぐつを振分けに垂らしている。昔は毎年二月二十八日に藁ぐつをとり替え正月には餅を上げた。火伏せだけでなく家の神として馬を守る神、作物の豊穣を守る神としての信仰もあったという。新しい嫁が来ればカマド神に拝礼してこの家の一員となる承認を得た名残もある。もとはヨメゴカクシ柱にかけておいたそうである。




もう一つの世界=庶民信仰(河北新報社編集部編1984)

【カマガミサマ】
カマガミ、カマオトコ。かまど近くの柱の上から、頁っ黒にすすけた恐ろしげなお面がにらんでいる。宮城県北と岩手県南に多い。火の神、家の守り神、目の神とも。子供が泣きやまないと、「カマガミサマが来るぞ」と脅す。宮城県宮崎町の佐竹某家では、正月にしめ縄を飾り、毎朝欠かさずご飯を供えて「家内安全」を祈る。
◎目、歯に貝や磁器片
 台所の柱の上、かまどの火ですすけた大きなお面がにらみつけている。カマガミサマである。同じ家の神でも、オシラサマが”陰”とすれば、カマガミサマは”陽”だ。カマジン、カマオトコ、カマオニ、ヒオトコなどと呼ばれ、木や土で作った、お世辞にもきれいとは言えない顔のお面である。目や歯に貝とか磁器片をはめ込んだり、繩の鉢巻を締めているものもある。これは、岩手県南から宮城県にかけて見られる信仰で、土間のクド(かまど)後方の柱に飾る。かまどに神をまつるのは全国的な風習だが、お面を掲げるのはこれらの地方だけだ。
 福運のある女と貧困な男が結婚し、富み栄えるが、夫が妻を追い出したため、落ちぶれてこじきとなり再婚した妻に再会、かま炊きに雇われ、死後カマガミサマにまつられるという由来を持つ。台所の実権を握る主婦がまつる神とすれば、「私を追い出せば、このようになりますよ」という無言の威圧を夫にかけているのだろうか。そう考えると、恐ろしげな顔も、なにやらこっけいに見えてくる。
 かまどは家のかなめであり、火所で、神聖な場所とされる。カマガミサマは火伏せの神であるとともに田の神でもあり、田植えを始める前に苗を供える農家も多い。
 農家の台所は生活改善でぐっとモダンになり、主婦が火を守り続けてきたかまども、ほとんど姿を消した。現代のカマガミサマは、プロパンガスコソロなどの上に引っ越している。
◎正月にはしめ縄
奥羽山脈の山懐に抱かれた宮城県宮崎町宮崎字浦の農業佐竹某さん(六九)宅でも、かまどを壊してしまったので、カマガミサマは土間のはりの上に居を移した。正月に新しいしめ繩を飾り、毎朝、ご飯を供えて拝んでいる。「家内安全の神様だな。ほかではあまり拝まなくなったが、おらは信心している。何でも、先祖が山形の行商人から買い求めたと聞いている」と某さん。
 家の守り神、繁盛の神であり、移転のときはカマガミサマを先頭に立てる。「家を建て替えるので、カマガミサマを物置に入れ、目の上に荷物を説いたら目が痛くなった」という話が宮崎町に伝わっており、粗末にすると罰が当たるらしい。ヒョットコも火吹き男で、カマガミサマと同じだといわれるが、この異形の神は一体どこから来たのであろうか。
◎顔はインド人の説も
「カマガミサマはインドの原住民ではないか」と、同町の郷土史家猪股八喜さんは外来神説を唱える。「髪の毛は縮れており、表情も日本人離れしている。それに色も浅黒い。これはインド人だ。彼らは優れた製鉄技術を持っており、奈良時代末期にわが国にその技術を伝えた。宮崎町には、田川上流に古くから鉄を産出する鉱山があった。あるいはインド人が東北に来て製鉄を始め、(鉄を溶かす)かまどを築いたのかもしれない。鉄に対する畏敬が、カマガミサマ信仰になった」猪股さんの説では、カマガミサマが現在のように火伏せの神様になったのは「江戸時代になってカマガミサマが世俗化したためだ」そうだ。製鉄を広めたインド人の顔を神様にしてあがめたとする説は、あまりにも飛躍的だが、夢があって面白い。宮城県北に多い、このカマガミサマは、火を吹く古代産鉄族の信仰の名残なのだろうか…。




生活(くらし)の中のカミサマ(迫町歴史博物館編2002)

昔の家には様々な役割を持った部屋や建物があり、人々はそれぞれの場所にカミサマがいて、毎日の暮らしにかかわっていたと考えていました。そこでカミサマの形をかたどったものやカミサマが宿る依代を祀って日々の暮らしを過ごしていました。
ここでは宮城県内で広く分布しているかまどのカミサマであるカマガミ、全国的に見られる便所のカミサマ、また県内では唯一と考えられるヒトの体つきのの形をした馬小屋のカミサマであるソウゼンサマをとおして、人々の家とそこに集まるカミサマへの思いを紹介します。
カマガミとは、土間の近くの柱にカミとして祀られていて、面の形態をしており、宮城県から岩手県南部にまたがる旧仙台藩領を中心とした地域に分布しています。面の材質は木または土でつくられており、その多くはいかめしい形相をしています。

カマガミ(豊里町教育委員会蔵)
○土製 眼に鮑貝 歯に陶器片を使用 縄の鉢巻
○土製 眼に鮑貝 歯に陶器片を使用 縄の鉢巻
○土製 眼は茶碗に墨を入れたもの 歯は陶器片 縄の鉢巻
○土製 眼は陶器片に墨を入れたもの 歯も陶器片 縄の鉢巻
○土製 眼も歯も陶器片 縄の鉢巻
○土製 眼も歯も陶器片 舌もある 縄の鉢巻

(迫町 鈴木某氏蔵)
○木製 眼に金紙を貼り付けており、顔のしわの部分に朱が塗られていた。

(南方町歴史民俗資料館蔵)
○土製 眼も歯も鮑貝片

(東和町 小野寺某氏蔵)
○土製 眼は鮑貝片

(米山町 浅田某氏蔵)
○土製 眼も歯も鮑貝片 縄の鉢巻

オソウゼンサマ(豊里町教育委員会蔵)
○土製 眼は陶器片 ひげがある
 オソウゼンサマは馬小屋のカミサマとして祀られていた。




陸前北部の民俗(著者:和歌森太郎)1969
もとダイドコロはほとんど土間であった。この土間に古くは莚や茣蓙を敷いて居間に使っていたものもあるという。山田ちかの氏(91歳)談によれば、明治維新後農家の生活様式に大きな変化があり、多忙な農作業時の食事などにも便利なようにと、この土間に板間(ダイドコロ)を拡大して炉を作り、広間型に改変したという。土間と床上げ部分に大黒柱のあるのが多く、大釜に並んでウシモチ柱(唐桑町石浜)がある。岩手県南部から陸前北部地方にかけて、イロリの近くにある柱をカマ柱といい、それには入口に向かって怪異な面を取りつけてある。火伏せの呪いで釜男・釜神様などといっている。

土間のウシモチ柱のところに大釜が設けてある。この大釜は日常に使用することはなく、餅搗・豆腐づくり・婚礼などの晴れの日に使われるものである。釜口・焚きロが入口の方角にあるのを吉とする。平生は蓋をかぶせ、この上に道具を置くことを禁じ、大釜の中の灰をかきまぜたりすることを、どこの家も固く禁じている(志津川町大船沢)。カマドの近くの柱や奥の壁にカマ神あるいはカマド神をまつっている。また、これを三宝荒神ともいう。ヒョトク(牡鹿町鮫ノ浦)・カマボトケ(志津川町大船沢)・カマオヤジ(本吉町馬篭)などとも呼んでいる。もとは炉の神であったが、現在ではカマド神となっている。カマド神の面を飾り、注連縄をはっている。このカマド神をカマ男といい、眼を大きく開き、歯をむき出した恐しい男の顔や素朴な顔を木彫で作った面もあり、なかには赤粘土で作ったのもある。粘土製がもっとも古い。目玉にあわびの光る貝殻を入れたり、茶碗を入れてその上に墨で塗っている。

「封内記」の「横山南沢邑」に「釜神社。不レ詳三何時祭二何神一」とあって、釜神社があるが、まつった年代も祭神も不明となっている。市原輝夫氏も別項で古い家では、ダイドコロの柱にカマオトコ・カマガミ(土製・木製)と呼ばれるカマド神をまつる風習があることを述べている。この地域の旧家では、家屋を新築したり再建した時に、左官屋が壁土や木で作ったものを、大黒柱・釜神柱またはカマドの上にまつっている。要するにこれは家の中に悪鬼や悪霊の入るのを防ぐためのものであり、それにふさわしくいかめしい顔をしている。現在零羊崎神社の禰宜桜谷家でもカマドの上にまつっているが、これは文化年間、社務所(もと庫裡)を再建した時の当時の住職であった12世雄淳氏の似顔であるとのことで、一般のものとは異なり、やさしい顔をした釜神さまである。

招福に関連するもの
○玄関に掲げる福神の字 釜神さまが悪魔の侵入を祓うのに対して,福神の文字を玄関に掲げて,積極的に福の神を迎えんとする習俗ではなかろうかと思われる。




月刊私の旅(カマド神の民俗学)1999
廉価なライターや喫茶店がタダでくれるマッチで火を楽々と得られなかった時代、いちど得た火を絶やさないことは火所をまもる女たちのつとめだった。
前夜の残り火を熱灰でおおって翌朝までもたせたり、火消し壷に燃えつきのいい消し炭をつくったりした。たいせつな火種を消してしまえば、煮炊きも、暖房も、照明もかなわない。まこと、家の火は暮らしと強く結びついていたのである。
いっぽうで、いったん失火すれば財産も人命も焼きつくす炎は恐怖そのものだった。火は効力と魔力をあわせ待つ。これを畏怖した家人は、家の火所であるかまどに思い思いの神様を祀った。
カマオトコ(東北)、カマガミ(東北・信越)、オカマサマ(関東)、ドクウサマ(関西)と神様の呼び方は定まっていない。名のある大社から迎えられて、神棚に鎮座する神々とちがって、家にもとから住んでいた神様だから固有名詞を待たないのだ。
土着の、名も無い、しかし心やさしい神様たちは、かまどが姿を消した今でも、各地にその面影を残している。

◎宮城県  火の神は強面
宮城、岩手両県にまたがる旧仙台藩領では、かまど近くの柱に怒相の面を祀り、カマガミ、カマオトコなどと呼びならわしてきた。
東北歴史資料館(宮城県多賀城市)に保存される面は、恐ろしげな顔が煤で黒光りして、憤怒の表情にいっそう凄みが加わっている。
民俗研究家の笠原信男さんは、その起源について「江戸中期の国学者で民俗学者でもあった菅江真澄が天明六年(一七八六)に『此のあたりのいえの、かまどの柱に、土をつかねて眼には貝をこみて、いかる人のつらをつくりたり。これをかまおとこといひて……』と書いたのがもっとも古い記録ですが、実際はもっと古くからあったと思われます」。
カマガミ様は粘土製と木製(マツ、クリ、ケヤキなど)がある。家の新築を機に大工や左官がつくったものが多い。木製のなかでも彫りの深い、洗練された顔だちのものは仏師や神楽面師の作だろう。ときには家の主人みずからつくることもあった。素人づくりは目鼻だちが平板だが、そのぶん素朴で親しみが持てる。ギョロリと剥いた目玉は、明治以降になると伏せてはめ込んだ盃の糸尻に墨を入れて黒目を模したり、ランプのガラスに黒目を描き入れたりと、より技巧的になっていく。薄暗い土間で、この目でねめつけられたらさぞ迫力があったことだろう。菅江真澄が見た「眼には貝をこみて」の貝は、よく光るアワビの貝殻であることが多い。「『小さいころ、かまどの炎がカマガミ様の目に映って、ギラッと光るのが怖かった』という話をよく聞きました」(笠原さん)子どもたちは、「カマガミ様が見ているから悪さをするな」と聞かされるいっぽうで、「家の守り神だから怖がらなくてもいい」とも言われていた。
火の守り神、火難よけの神だけでなく、魔よけ、盗難よけだとする信仰がひろく浸透していたからだろう。この形相と眼力で、災いと侵入者を撃退するべく睨みをきかす神様をねぎらって、年の暮れに煤をはらい、正月には餅やお神酒を供えた。強面に似合わず、懐の深いみちのくのかまど神である。

◎新潟県  神様は夫婦者
信越(長野県と新潟県)の境では、カマガミ様は女神だという。
新潟県中魚沼郡津南町在住の滝沢秀一さん(80歳)は、町職員として郷土史や古民具の調査に長年たずさわった。
近隣の中里村、松之山村(新潟県)、栄村(長野県)のカマガミ様にまつわる伝承をあつめた著書に『アンギンと釜神様』がある。
「カマガミ様は貧乏で、髪がもじやもじやの器量の悪い神様だと言われておりますよ(笑)。昔はどこのおかみさんも忙しくて、お洒落どころではなかった。そういう農家のかあちやんが神格化されたのではないでしょうか」
木彫りの御神体を、やはりかまどのそばの柱に祀った。御神体の多くはどういうわけか二体をしめ繩で結わえてある。大小ひと組であるため、男女、夫婦ではないかと言われる。この地域でなじみの深い道祖神によく似ているのだ。「たいていは家長の手製で、大きさは家ごとにまちまち。目鼻は鉈で印をつけたくらいの、いたって簡素なものです」
「カマガミ様の年とり」という年越しの祭祀を、たいていの家が、大晦日でも元旦でもない正月の三日にする。「貧乏で、暮れも元旦も働きどおしの神様だから、人並みに年を越せず三日になってしまったのだそうです(笑)」
「年とり」のお供えは、カマガミ様の常食でめる粟のおむすび、これに萱やススキの穂、大豆の枝などを挿す。御霊の飯などと呼ぶ。
子だくさん説が有力で、御霊の飯を子どものぶんとあわせて、多いところでは16個供える家もあった。 
東北のカマガミ様と同じく、信越のカマガミ様もまた火の神だけにとどまらない。母神だけに子ぼんのうで、小正月(一月一五日)に前年の御神体を燃やし、年ごとに新調すれば、子どもの厄を遠ざけてくれたし、「『若木むかえ』と言って、お正月に雑穀のだんごや繭玉を木の枝にさして、作物が実る様子に似せたものをお供えすることもあります。カマガミ様が作の神様でもあると信じて、豊作を祈願するものでしょう」
滝沢さんは訪ねた先々で、姿かたちも、祀り方も、じつに多彩なカマガミ様たちと会った。「カマガミ様を信じてはいても、とくに御神体はない家もありました」つまり観念のみ。未墾の信仰心の中にカマガミ様が宿っているのだ。「荒神様(三宝荒神‥‥火伏せの神)を神棚に祀る前からの、原始的な信心のように思えます。素朴で、身近な神様だったんですね」

◎高知県  システムキッチンのかまど神
二毛作がさかんであった高知県では、かまどの神様がより顕著に田の神、作の神に通じていた。土佐郡土佐山村では、竃屋(かまどのある土間)や囲炉裏のある板の間の天井近く、鴨居や梁に棚をこしらえ、恵比須様と大黒様を祀ったという。財神、穀神である大黒様と、生業の守護神である恵比須様はどちらも縁起のいい福神だ。
同村在住の和田昭八郎さんによれば、この二神をあえて分けることはせず「あわせて『えぶすさん』と呼んでいます。かまどはなくなりましたが、どこのお宅でもまだ台所の高いところに残しています。昔、かまどがあった場所です。ええ、私の家にもいらっしやいますよ」
えぶすさんはイズミ桶なる桶の上にお座りになる。桶の中身は籾。麦の収穫後は麦を、米の収穫後は米を、前年のものと入れ替えた。「村に専業農家は少なくなりましたが、今でも毎朝、炊きたてのご飯を差し上げて、お正月には新米の籾をお供えします」(和田さん)。
火の神というよりも、農耕神の色あいが濃いえぶすさんであるが、やはり火所と縁が深いのはよそのかまど神と変わらない。「ふつう、神様は表の間(畳敷きの間、座敷のこと)にいらっしやるものなのに、煤をかぶるような場所にお祀りするのがおもしろいですね。お客様を通す、あらたまった部屋ではなく、家族が集まってご飯を食べる場所にいる、身内の神様なんでしょう」

◎住宅事情とかまど神
土間しかなかった庶民の住まいに、近世になって板の間や座敷が加わった。新しい空間には、由緒も格式もある神様が迎えられたが、古参の神々はもとの土間に宿りつづけた。
かまどにかぎらず、納戸や厠、厩などに祀られた神様たちがそうだ。古くからの神様の住処は、どうしてか、家屋のうちでも光の少ない、暗所が多い。今日とはくらべものにならないほど夜が暗かった時代には、闇がはらむ危険は数多く、深刻だったにちがいない。屋内の暗所は、いったん引きずりこまれたら生きて帰れないかも知れぬ暗闇とつながる、ちょっとした異界の入り口であっただろう。
かまどや囲炉裏に絶えずともる火種は、屋内の闇を照らす、文宇どおりの光明だったから、火と火所は神聖視され、ごく自然に精霊の存在が信じられた。
明かりだけでなく、温もりや調理された食料ももたらしてくれる精霊は、やがて食や家庭の全般を守護する多能神になったのだろう。
かまどの神様についてたずねながら「昔はあったと聞きますが……今はかまどそのものが無くなりましたから」という返事を多くもらった。ワンタッチで点火する台所と、家じゅうが明々と照らされるのが当たり前になった今、煤けた場所で家族を見まもっていた神々の行方が、少し気になる。




民俗採訪 (国学院大学民俗研究会)花山村S48
宮城県のほぼ全域と岩手県南部に、カマ神様といわれる木または土製の面が土間の大釜のあたりの竈柱に、入口をにらむような格好で掛けている。
花山村でも同様のものが見られた。当地ではカマ神・カマ男と呼ばれ、火難、盗難、魔よけの神として祀られている。水神様という人もある。そのほとんどが竈柱に掛けられてあったもの、または現在も掛けられているものであるが、浅布の三浦某家では改築以前はウシ柱に掛けており、坂下の佐藤家では今なお水神柱に、宿の狩野家では蒼前柱に掛けている。花山沢の千葉家では竈の上の屋根裏の高い所に祀ってある。
カマ神様の表情、形態、大きさ、材質も様々である。表情は恐しい顔をしたものからおとなしい顔をしたものがあり、その家の主人に似せるということも聞かれた。
形態は人の顔のように彫ったものや、土で固めて目や口に貝殻をはめたり、馬の尻毛で髭をつけたもののほか四角のまま目と口だけを刳り抜いたものもある。材質は木製の場合にはケヤキ・松などが多いが、新しいものでは栗の木のものもある。天神の千葉家のカマ神様は現在流しの上に掛けているが、恐しい顔をしており、縦六十八センチ、様五十六センチ、厚みが四十八センチもある大きなもので、松の木でできている。
製作年代は一定せず、先祖代々祀っているものから明治・大正に作られたもの、一番新しいものでは昭和二十六年に作ったものがある。いずれにしても家を新築したときに作るようである。
花山沢の千葉さんによると、今は家を新築すると天井裏の大黒柱の上に男女一対のおひなさまを掲げるが、それより以前は神道様が白い御幣を掲げ、更にその昔はカマ神様を掲げていたということである。
製作者はその家の者、大工、宮大工が多いが、玉造や仙台の方から専門に彫る人が来たという伝承もあった。カマ神様の由来は次のようである。
 遠い讃岐の国に大きな酒屋さんかあった。栄えていたが何かのひょうしで家産が傾き、つぶれてしまう。その酒屋にごく下級の人で、釜揚で働く男がいた。身分は低いが豪胆な人で、がっかりすることはない、もう一度働くから、と主人を励まし、とうとうつぶれた酒屋を再建した。二、三代経ってから、その恩に報いるためにその姿を祀ったのがカマ神様である。(宿・狩野斉治氏)
 むかし佐渡の国から、ぼろぼろの着物を着た乞食のような格好の男が来た。そんな男にカマドの火焚きをさせることが多かったのである。そういう格好をしているので、卑しい人と思ったが、風呂に入れて仕度をしたら立派な人になったのでその人をカマ神様に祀った。(中村・三浦洸氏)
 むかし御飯炊きをしていた人が一日ひと握りずつ米をとっておき身上をこしらえた。それで竈の上にカマ神を祀る。(中村・三清明氏)
 クワガシラ(一家の主人)を誰かが木に刻んで作ったのがきっかけでカマ男に祀られ、それがカマ神様になった。(浅布・千葉栄吉氏)
カマ神様の祀りとして、宿の狩野家では年越に一番大きな直径五寸位のお供え餅の重ねを供える。浅布の佐藤家でもやはり年越の晩に二つ重ねのお供えを供える。稲干場の佐藤家でも正月に祀る。また松の原の佐藤家では、毎月一日と 十五日に御飯をあげる。花山沢の千葉家では、毎朝食事をする前に家の主婦が御飯をあげる。その他は現在あまりカマ神様の祀りをするようなことはないようである。天神の菅原さんによると、昔、カマ神様を洗った人がいたが、夢枕にカマ神様が現われて、「何故、洗ったんだ」と怒ったために、カマ神様は煤を払うだけで洗ってはいけないそうである。




竈神信仰の研究 (著者:黄川田啓子)1970
【はじめに】
宮城・岩手県一円の農村地帯の旧家には、カマガミサマ、カマジンなどと呼ばれて、土または木製の恐ろしい顔をした面が、竈の上やウシモチ柱あるいは大黒柱の上に、入り口の正面を睨んで掲げられている例を多くみることができる。
 家を新築した際、あるいは竈を築いた際に大工や左官の手によって昨られたものといっており、土製のものには眼の部分に、盃の糸尻やアワビ貝が使用されている。アワビ貝の眼の輝きは面に一層の迫力を与えている。
 たとえ面は飾らなくとも、多くの家々では必ず竈の上に棚を設けて、お札を貼り幣束を立てて竈神を祀っているが、いずれにしろ正月に供え物をするぐらいで、多くは特別にまつることもしていない。また、正月には竈神にも注連縄を張るが、特にこの繩は正月が過ぎても下ろさず、上へ上へと重ねてゆくという風習もみられる。この繩を年繩といって、屋根を葺き替えるときまでそのままにしておくというところが多い。恐ろしい形相をした面を掲げる例は、宮城 ・岩手の両県に限られているが、注連縄を重ねて張ってゆく例は他県にも多く知られている。
 このように例え小範囲であるにせよ、竈神は他の神々とは違った信仰形態を示していると考えられる。そこでこの竈神はなにか特別な神として祀られる理由があったであろうという推定のもとに、竈神信仰そのものを追求してみた。それとともに、何故恐ろしい形相の面が竈神として祀られたか、しかも宮城・岩手の両県に限って分布するのは何故かということも合わせて考えてみたい。 調査範囲を主に宮城県北部地域に求め、この地域以外の事例は諸氏の協力によるものである。

【竈神の呼称】
 この調査地域の農村の旧家の多くには竈神の面が掲げられており、土製の面が多く、木製のものは玉造郡鬼首に多くみられた。呼称としてはカマガミ、カマガミサマが多く、鬼首ではカマジンともいっている。県下で聞かれる他の呼称としては、カマノガミサマ、オカマサマ、お荒神さま、カマオトコなどがあり、房州にはオカミサマと呼ぶところがあるという。これらのなかで最も一般的な呼び名はカマガミ、カマガミサマ、オカマサマで、オカマサマといわれるもののなかには大釜そのものを指していう場合もある。お荒神さまと呼ばれるのは、陰陽道で竈神が三宝荒神であると説かれていることによるものであろう。

【竈神の祭り方】
 面は家を新築したとき職人の手によって作られたといっているのが大部分であるが、登米郡石森や嵯峨立には、家の主人が作ったというものもあった。
 面を掲げる場所は、普段食物を煮炊きする竈の上や、馬糧・味噌などを煮る大釜の上の柱に掛けられているのが大半である。鬼首ではほとんどが後者の例であった。竈の位置とは関係なく入り口の正面を同けて掲げてある例も多く、カマガミサマは悪魔除けなので入り口の正面に飾るのだと登米郡の石森白地ではいっていた。
 竈神を祭る日は正月のほか他の神と同じように、毎月の朔日、十五日、二十八日に供え物をする例が多い。登米郡豊里町加賀巻では、二月八日に「アシモト餅」といって、米を搗くとき臼からこぼれた米で団子を作り、一升桝に高盛りにして、それをさらに五分桝に入れてカマガミサマに供えるといい、同郡の東和町嵯峨立では、二月九日に「ツボサカ団子」といって、小豆団子をこの神に供えている。
田植えのとき苗を供える例もみられる。桃生郡矢本町小松上前柳では、田植えをする当日、苗代から三把の苗をとって来てカマガミサマに供えるといい(小田島寿夫氏談)、
仙台市館越では、田植えの朝三把の苗をとってきて、小豆ご飯の握り飯を苗の上にのせて竈の上に供え、その苗は一番最初に田に植えるといっている(佐藤要七氏談)。同様の例は名取市愛島塩手や登米郡東和町嵯峨立でも聞き取られた。
 岩手県の北上市稲瀬町下門岡でも田植えの日に、六把の苗を竈の上に供えるが、ここでは田の神を拝むのだという。また、茨城県久慈郡の生瀬村では、田植えのとき以外の農作業の折り目にもオカマサマに供え物をするという。

【竈神の由来】
竈神の由来を伝える伝承を二、三例採集することができたが、その一つは鬼首で聞いたものである。昔、ある由緒のある家へあるとき醜い顔をした若い乞食が訪ねて来た。乞食が家に入ろうとするとき、庭に倒れている箒をみつけ、それを邪魔にならないところに立てかけてから中へ入って来て、雇って貰いたいという。しかし、その家ではすでに数人の雇い人がいて、一人娘が病気で長い聞床についており、願をかけても腕のたつ医者にみて貰っても丈夫にならず、困り果てていたときだったので乞食の頼みを断わった。一度は断わったが、考え直して竈の火焚きとしてその乞食を雇った。娘の病気は一向によくならないが、年ごろになったので、その家では娘の婿を探した。娘は火焚き男がよいという。色々考えた末に、火焚き男が庭に倒れている箒を立てかけてから家に入って来たことを思い出し、見込みのある奴だといって、その男を娘の婿に迎えた。火焚き男が婿になると娘の病気も快復に向かった。火焚き男は一躍わこ様になり、その家は繁昌した。この火焚き男を祀ったのがカマガミサマである。(中鉢ハルヒ女談)
もう一つは登米郡東和町の楼台で採集したものである。昔あるところの旦那殿が一人の乞食を家に泊めた。その乞食は一向に働こうともせず、食べては所かまわず排便をした。竈の側などにもした。旦那殿は困り果ててしまったが、しばらくしてその乞食は、何処へともなく旅立って行った。乞食が旅立った後、 竈の側をみると大便が黄金になっていた。旦那殿は早速その乞食を神さまとして祀ったが、それからというもの家が繁昌した。これがカマガミサマであり、繁昌の守り神である。(小出庄之進氏談)
 これに類似した話は、同郡中田町でも聞くことができたし、宮城郡松島町の根廻では、『昔、ある女が嫁に行った先の亭主の顔があまり醜いので逃げ帰えった。思い返して戻り醜い亭主を祀ったのがカマガミサマである」(阿部忠治氏談)という断片的な由来を伝えている。

【竈神の性格】
◎留守神  十月を神無月といい、この月には神々が出雲に集るので、地方の神々は留守になってしまうといういい伝えが全国的に分布している。一方、神々の留守をまもるという神々も方々に伝承されている。
留守の役をする神としては、恵比須・山の神・雷神・道祖神・歳徳神・荒神などのほかに、竈神もその代表的な留守神の一つに数えられており、すでに関敬吾氏が「神不在と留守神の問題」の中に、留守神信仰の全国的な事例が発表されている。
留守神としての竈神への供物は、餅や団子の類が多く、調査地域では前記のように、二月八日または翌九日に「アシモト餅」とか「ツボサカ団子」を供えられる例が採集された。ここでは神の去来とも関係がなく留守神ともいっていないが、宮城県では十二月八日に神々が出雲に発ち、二月八日に帰るという神去来信仰の伝承が、ほぼ県下一般に分布していることから、この事例も神去来信仰にもとずく留守神の祭りではなかろうか。
では、何故留守神という信仰が生れてきたのであろうか。先きに記した留守役の神々は、出雲に行く神が本社のある勧請神であると考えられるのに対して、いずれも家の土間や勝手に祀られている神々であるが、日常の生活と密接な関わりをもつ神々であることがわかる。つまりこれらは原始的な自然崇拝のなかから発生した神々であり、したがって、人間が生活の営みを始めたときから祀られていたものと考えられ、勧請神に先行する最も古い神々であるといえる。
これに対して出雲へ行く神々というのは、出雲側からひろめられた神々であって、私的に祀られる家の神に対して、公的に神社や座敷の神棚に祀られる神々である。つまり、竈神の留守神としての性格は、竈神は出雲との関係を持たないすなわち勧請神でない、もともと家の中に祀られていた神であったにほかならない。
さらに、この竃神に正月注連縄が張られるが、この繩を取り替えることがなく毎年上へ上へと張り加えて行くという習俗は、宮城県の場合ほぼ全県にわたって行なわれている。福島県にも同様な繩が知られており、この繩そのものをオカマサマという例などが栃木県や茨城県にも分布していて、柳田国男氏は栃木県赤津の例や長野県小県郡でこの注連を留守神さまと呼ぷ例を掲げて、この神が「年中家に祭られて、出雲などには行かれない神のしるしではなかったか」と仮説されている。
◎家の神  次に、竈神に田植えに苗が供えられることは、この神が田の神として祭られることであり、火の神であるこの神が何故田の神と結び付くのであろうか。和歌森太郎氏の説を引用させていただくと、「カマドの火は純粋なる火の神として家人の生死や消費生活に拘りをもってきたが、家が生産的共同体としての意味をもつようになってくると生産の神としての性格をも要求され、それが田の神と結びついて伝承されたものであろう」というのである。端的にいうならば、竈の上に苗を供えることは、竈が前代において祭壇としての役割をもっていたことを顕著に示す事例であると思われる。
 近畿地方では竈のことをロクダイ、すなわち土公神を祀る祭壇といっており、考古学的にも炉が祭場であった例が知られている。祭りの場が竈から神棚や仏壇に移されてしまった後も、人間の生活にとって欠かすことのできない食糧の生産を司どる神の祭りは、依然として古代の習わしにもとづき、今日なお竈を祭壇として神を祭るという古い姿の祭り方を止めている事例ではあるまいか。
 竈神が家の神であるとの性格を持つことはすでに多く説かれているが、私はこれをさらにこの神の由来からも引き出して確かめてみたい。
 竈神の縁起を伝える伝承は、わが国に広く分布しており、話の型としては「炭焼長者伝説」型の話が、さらに展開された型をとっている。その大筋は、柳田国男氏が収集整理された「炭焼小五郎が事」によると、福分のある女と、福分に恵まれない運をもった男が結婚するが、やがて女が不縁になって追い出される、女は炭焼きと再婚し、炭焼きは女の福分によって長者になる、女を追い出した男は笊売り(あるいは箕売り・乞食)に零落する、後に長者の妻になった女に再会するが、男は身を恥じて死ぬ、その男の屍を竈の下に埋めて祀ったのが竈神である、というものである。
 前記した二、三の採集し得た由来譚も、かなり内容に逸脱があるにしても、共通する筋立てがあり類型をなしていて、やはり長者伝説の系統を引くものである。また、醜い顔の童子を竈神に祀ったというヒョットコの話も、これらの由来譚と共通したものである。
 竈神の由来で注目すべきことは、そのほとんどが屍を火の神として祀るというモチーフで話が終っていることであるが。これはさらに炭焼長者伝説と関係のあるタタラ師の信仰である火の神(銀冶屋神)も、その由来に屍を神に祀ったと伝えており、関わりをもっている。屍を神に祀るという観念は、死を穢れとする観念とは大分の隔たりがあり、さらに死者を竈の下に埋めるということは、死者の霊とともに生活することを意味し、死者に対して親近感をもってお り、死を穢れとする思想が発生する以前のものであり、このことは火の神が祖霊神と通じることを示唆するものではなかろうか。
わが国に分布する竈神の由来譚と全く類似する話が、中国や南シナ海の島々でも語り伝えられておリヨーロッパでも炉の下に屍を埋葬したと伝えると聞いているが、これらの事例から察すると、死霊が火に通ずるという観念は、人類に共通するものとも考えられる。
竈神が家の神、つまり家の守護神的性格を強くあらわしているのは、これらの由来が示すように、竈の火の神が祖霊神ともつながりがあることに根拠するものと考えられる。

◎むすび
 以上、宮城県下の事例を並べるとともに竈神信仰の吟味を行なってきたが、まず第一に竈神は人間の生活が始まるとともに祀られた原始的な自然崇拝に基づく神であると考えられ、常に生活の場近くに祀られ、生活と密着した神で、出雲に行く神とは異った系統に属する留守神としての性格をもつこと。
第二としては、祖霊神的性格を濃厚にもった火の神であると考えられ、家のシンボルとして祀られ、したがってその機能は家に関するあらゆることに及んでいる。この神が祖霊神と通じて単に火の神としてではなく、家の守護神とされ、したがって第三として竈神は家の神であるということができる。ところで、あの恐ろしい顔をした竈神の面については、以上述べてきた信仰の内容からのみ説くことは難しい。
そこでこれを仮面史的に考えるなら、東北には秋田県男鹿のナマハゲの面、岩手県三陸地方のスネカの面などがその類型として考えられる。これらの恐しい表情の面も、除魔の呪力が期待されているが、これらはすでに「小正月の訪問者」として分類され、正月に来臨する神すなわち祖霊神の代役であると説かれており、ともに神威の期待が神の畏怖となり、やがて人に懲罰を与える恐ろしきものと観念されるようになり、この神を畏怖するという半面が具象化されたものと考えられる。竈神の場合も同様に発生し、竈の上に入り口を睨む位置に掲げられているのは、家に襲い来る悪霊を防ぎ、特に悪霊が竈を襲って食物に 憑き、体内に入って恐ろしい結果になると考えられたからにほかならない。この点では屋根にあって悪霊を防ぐ鬼瓦と同じ機能をもつ呪物とも思われる。
 あのような恐しい面がいつごろから掲げられたのか、それを知る手掛かりはないが、本来、神の霊力が具象されて作られ掲げられたものであるが、その形相から魔性のものを避けるという考えが後次的に展開されて、魔除けという新しい機能が賦与されたものと考えられる。




陸前のカマド神信仰(著者:桜井清美S51)

【陸前のカマド神信仰の概要】
 陸前、すなわち岩手県南部及び宮城県一帯のカマド神信仰には、旧家のカマドの近くに人面相、福神相など様々の面相をした木製、または土製の面を掛ける風習があり、日本におけるカマド神信仰の中でも一種独特の様相を呈している。それらにはカマガミ、カマオトコ、その他幾つかの呼称があり、多くは土間のカマ柱やカマドの側の家を支える最も重要な柱である大黒柱(ウシモチ柱)に掛けられ、入口の方を睨んでいたり、一家の主人の座に当るイロリのヨコザと向い合せになるような格好で掛けられている。火難除け、盗難除け、家の守り神などと意識されている。一般的には奥羽山脈沿いの地域には木製、牡鹿半島を中心とする一帯には土製の面が分布すると言われている。又、これらの面をカマド神として祭った由来を語る代表的なヒョウトク、ウントクなどの水神少童と関連した話、その他比較的多くの由来譚を有していることも陸前のカマド神信仰の一つの特色と言えよう。

【カマド神としての面のこと】
 次にこの面を飾る陸前のカマド神信仰について、呼称・形態・材質・分布の状態・製作年代・製作者・面を掛ける場所(掛け方)・祭日と祭り方・由来譚などの各項目別に実例をもとにして、このカマド神信仰の固有性の所在とその固有性の要因について、民家の建築様式、宗教の関与、炉の信仰、昔話や伝説の機能などに触れながら検討してゆきたい。まず、先にあげた各項目別の資料の検討から始め、その固有性の所在を明らかにするための分析を試みる。

【呼称・形態・材質】
 カマド神の面の呼称を調査資料及び文献から拾ってみると次の如くである。
カマガミ カマドガミ カマジン カマオトコ カマ大黒 カマ別当 カマ大仏 カマボトケ カマジジイ カマオヤジ カマガキ カマオンナ カマメンコ ヒットコ ウントク オカマサマ オコウジンサマ(お荒神様)水神様
 これらの呼称の中で最も一般的であるのはカマガミとカマドガミである。この二つの呼称については釜神と竈神のどちらが正しいのかということが問題となってきた。何故ならば釜の場合には一家の火所として重要な家の象徴としてのカマドの神を連想させるからである。しかし、諸氏の言われるように、釜と竈は表裏一体の関係にあり、神としての機能においては前者は後者に包括され得るものであるので特に釜神と竈神の正否を問う必要はないと思う。私白身はこの面についてより総括的なカマド神という呼称を用いることにしている。次に多いのはカマジン、カマオトコ、カマ大黒、カマ別当である。カマジンは「神」という文字の読み方の音訓による相違のみでカマガミと同じである。カマ大黒、カマ別当、カマ大仏、カマボトケなどという呼称には宗教者の関与がうかがわれる。ヒットコ、ウントクという呼称は広く知られてはいるが昔話の類に見られるもので実際の調査資料においては一般的な呼称ではない。その他も前述の呼称程多い呼称ではない。
 形態は様々である。特に土製の面は目や口にアワビなどの貝、盃、ガラスなどをはめ込んだり、馬の毛や真綿で髪や髭をはやしたりして工夫を疑らしたものが多い。
 面相も「岩手県史』(第十一巻・民俗篇)において人面相、鬼面相、福神相、天狗相、虎面相、明王相、醜男相と分類されているように様々である。しかし、いわゆる鬼面という頭に角のある面や鼻の長い天狗の面、虎面、ヒットコの面のように口を尖らせた男の面の所在は明確ではない。また、忿怒相、醜い男の顔、笑った顔、山伏の烏帽子のようなものをかぶったものと色々あるが、それらは人面相として集約してよいと思う。福神相には恵比寿大黒の顔の面が見られる。明王相というのは不動明王の像を思わせるものである。
 材質には先に述べたように大きく分けると土製と木製の二通りがあり、木製の場合にはケヤキ、ブナ、杉、栗、松などで作られる。しかし、特殊な例として『カマ神図説』(細川魚紋子)によれば、キノコで作られたものが、岩手県東磐井郡千厩町奥玉字松森の藤野宅にある。
 呼称、形態、材質などについて述べてきたが、それ自体を論ずることはそれ程重要ではないかもしれない。唯注意すべき点は、呼称において「カマ」のつくものが殆んどであり、釜、或いは竈との関連についてまず考えなければならないということであろう。しかし、呼称、形態、材質などを分布の状態と絡み合せて見てゆくことは何かの指標になるかもしれない。

【分布】
 カマド神の面の分布の範囲は現在の資料で判り得る程度において、岩手、宮城の両県に限っていぅならば、北限は岩手県稗貫郡石鳥谷町新堀の佐々木家であり、南限は宮城県刈田郡蔵王町曲竹の吾妻家の周辺である。しかし佐々木家はもと江刺郡に住んでいたものである。従って北、南限に見る限り旧仙台藩領内と考えられる。しかし、その南東の端に当る伊具郡における所在は判らない。
また、調査において現在、明確にカマド神の面を祭る風習がないと思われる所は、宮城県名取郡秋保町野尻と刈田郡七ケ宿町の最も山形よりの二地域、柴田郡川崎町天神、白石市鷹巣と越河である。そこでは何れもカマドの所に注連縄を張るだけである。野尻部落、七ケ宿町ではどちらもムラ全体で火の神には不動を祭っている。天神部落では火の神に古峯ケ原神社の分霊として明和年間の年号の刻んである石碑を部落の氏神である天神社で祭っている。これらの事実は陸前において火伏せの神として一機能を担う面を祭るカマド神信仰がある一時期以来の風習であることを暗示しているのではないであろうか。少しとんで福島県でも『いわき・鹿島地方の民俗』の中に「磐城市下天田部落のカマガミ」という写真が掲載されている。これは写真のみでその詳細は判らない。また、山形やずっと離れた京都でもカマド神の面が見られることは伝え聞いているが、その所在さえも殆んど判らない。唯山形の場合には『東北民俗』(第五輯)の黄川田啓子氏の竈神信仰の研究」の中に尾花沢から来た人によるという由来譚が一つ載っているし、尾花沢とは母袋街道を通じて隣接している加美郡宮崎町においても尾花沢の方から面を売りに来たといいうことが聞かれるので山形にもカマド神の面があったことは事実であろうし、現在でも残っているかもしれないのである。何れにしてもこれらの所在が明確になれば、面を祭るカマド神信仰の研究が一歩前進するであろうことは明らかに予測できる。
 次に先のところで述べておいたカマド神の面の呼称、形態、材質と分布の状態との関連について分布図をもとにして考えてみたい。一般的な論として奥羽山脈沿いには木製、牡鹿半島を中心とする一帯には土製のカマド神の面が分布するということをあげた。栗駒山麓付近には木製が多いのは確かであるが、加美郡辺りではそうとも言えない。土製の面が牡鹿半島辺りに多いことは事実であることが判る。このカマド神の面においては材質による地域的区分は当らないようである。むしろ製作者との関連において捉えるべきであろう。岩手と宮城の県境付近には呼称、形態ともにかなり入り混っていることが判る。多くの製作者の手を経ていることを示しているのだと考える。これはこの地方で面を祭るカマド神信仰が他地域よりも新しいことを示しているのではないかと考えられる。
一つの試みとして比較的インテンシブな調査のできた岩手県東磐井郡室根村について、分布の状態から考えてみたい。現在、室根村は折壁、矢越、津谷川の三つの大字による行政村であるが、津谷川は十年程前までは宮城県本吉郡に属していた。室根村の矢越、折壁地区はカマ大黒という全体を通してみれば珍らしい形態のカマド神が殆んどで、それは同郷の大東町にも見られるが、現在は同じ村に属し、以前は異なると言いながらも境を接していた津谷川には一つもカマ大黒は見られない。行政村になる以前には矢越、折壁地区は千厩街道沿いの隣り町である同郡千厩町から一関市方面にかけての交流が主であった。津谷川から本吉町にかけての方面との文化的交流が殆んどなかったことを示すのであろうか。ここにこのカマド神研究の一つの可能性として、よりインテンシブな調査を行なえば文化交流の経路まで判り得ることがあげられる。

【祭る所】
 カマド神の面を掛ける場所は民家の建築様式や家によって異なるが、ほぼ一貫しているのは大釜の上及びその付近の柱である。大釜は味噌や豆腐、家畜の飼料の調製、紙漉きの原料である楮を煮る。赤飯など晴れの日の食事の調製などに使用されるものである。普段の食事の用意などは炉を使用していたようである。周知のごとく藩政時代には藩は一つの国で、他は他国と同じであった。それ故、食料の確保は藩にとって一国を維持できるか否かの問題であり、少くとも藩政期において村方での食習は自給自足が原則であった。醤油はあまり使わなかったがそのかわりに味噌が往古の塩とともに食物調製の重要な調味料であったため、味噌の調製も各自で行なわなければならなかった。そのためにも大釜とカマドの普及とは農家にとって必然的なものであった。しかし、大釜の使用は歴史的には新しいものであることは既に実証されている。(『日本民俗学事典』)
 カマド神の面がカマド付近の柱に掛けられることが多いことは先に述べた。ではどのような柱にどのように掛けられていたか、それ以外にはどこに掛けられているかについて、カマド、炉などとの関係に触れながら述べてゆきたい。カマドは土間におかれるべきものであるから、柱も土間、しかもカマドの付近の柱である。面を掛ける柱の主な名称はウシモチ柱、大黒柱、中持柱、カマ柱などである。ウシモチ柱を大黒柱という所もあるし、大黒柱とウシモチ柱とは別の所もある。何れにしても、カマ柱を除いて土間の中央あたりにある太い柱を指している。カマ柱はカマドのある所の柱を指すが、それ程太い柱ではない。これらの柱の相違は大して重要ではない。
 その他現在のところ一例づつではあるが、水神柱、蒼前柱に掛ける例やヨメゴカクシ柱に掛ける例が二例ほどある。水神柱は宮城県栗原郡花山村坂下の佐藤家の例である。福島県西郷地方ではニワの正面の柱を水神柱(またはミズ柱)といい、百姓にとって最も大切な柱である。それでこの柱に小さな棚をつけ、正月には餅一重ねを供え(正月の鍬入れに田に持って行く)、かたわらの竹筒には新松を飾り、正月様といって、正月六日に田に待って行ってあげる。サナブリには神の鉢にゴハンを供え、早苗をさす。正月十四日にはこの竹筒に団子をさすなどのように農耕儀礼とも関連の深い柱である。佐藤家の場合には、現在特に祭りをしていないようであるが、水神柱とカマド神との関係は福島県の例の如く農耕神との関係を示すものというより、火の用心の神といっていることからも、火に対する水の効果の所産であったかもしれない。水神様ではないが、これに似た例に岩手県東磐井郡室根村折壁の遠藤家の例がある。この家の場合はイロリのヨコザの水がめの上に火難、盗難除けの神として祭っている。蒼前柱は宮城県栗原郡花山村宿の狩野家の例では土間でなくイロリのそばにある。一般的には馬や牛の神であり、蒼前様のお札などを貼ってある柱である。この家もカマド神の面の下にそれがあった。ヨメゴカクシ柱はニワと板の間との境の流しよりにある柱で、新しい嫁は客がニワから入って来ると恥ずかしがってこの柱の陰に隠れることから、この名がついたと言われている。岩手、県水原市福原前谷地の佐藤家、同胆沢郡旧相去村山根(現北上市)の高橋家ではここに祭っている。この下に馬糧などを煮るカマドがある。以上が柱に祭ってある例である。
 その他に、流しの上や天井を支え、家の中央を横に通っているサスより奥の細い支えであるナゲシの土間の上部にあたる所に祭っている宮城県加美郡宮崎町のようなところもある。これらはカマドとは直接関係ない。また、宮城県栗原郡花山沢の千葉家では、現在天井裏の大黒柱の上にある。これは家を新築した時に男女の人形のおひなさまを買ってきて箱に入れてあげてあるが、昔は、シントウ様に白い紙で切ってもらったものをあげ、更にそれ以前にはカマガミサマを彫ってあげたという。「蔵王山麓の民俗」によると、釜房ダム建設のために民家の解体が行なわれた柴田郡川崎町小野地区の二つの家からもオヒナバコが発見されている。一つは紙製の男女二体のオヒナ人形に「櫛、?、髪剌、鋏、針、毛抜、鏡」と記した目録を付して箱につめたもの、他の一つは形の整ったヒナ人形(男女二体)に櫛などの現物を納めた箱で、前者は近世末期、後者は明治中期らしいとのことである。これに関して竹内利美氏は気仙大工が民学建築にも関与していたためであろうと述べている。(「蔵王山麓の社会と民俗』)これらから、カマド神の面を祭ることが民家の建築儀礼の一つであったことが推測できる。先にあげたナゲシに祭る例も建築儀礼と関連しているのかもしれない。
 次に面の向きについて考察する。混在しているところもあるので明確に分けることはできないが、大体、宮城県登米郡東和町から北の岩手県南部一帯(東磐井郡室根村津谷川地区を除く)では面の多くはイロリのヨコザと向き合うようになっている。柱に掛けなくてもイロリのヨコザと向き合うように掛けるということが聞ける。極端な例では室根村の折壁、矢越地区。殆んどが大黒相のにこやかな表情の面でヨコザに坐る主人に向って笑いかけているような印象さ受ける。概して、この辺では火の神ということと共に、家内繁昌の神と考えている。これに反して、先に述べた地区以外の本吉郡や栗駒山麓以南の宮城県では入口の正面に掛けることが多く、而も忿怒相が比較的多い。これらの地方では火の神に加えて魔除け、盗難除けとしての意識が強い。これらのことから面の向きとカマド神の信仰意識に相関関係が認められる。それには二つの場合が考えられる。第二には面の向きの相違は単にカマドの向きや民家の様式によるもので、それがカマド神の信仰意識に反映していると考えられる場合である。第二には逆にカマド神に対する信仰意識がその向きを決めたと考えられる場合であるが、いずれとも判断しがたい。

【製作者】
カマド神の面の製作者は伝承によると大体次の三者である。
 ◎大工・左官
 ◎専門にカマド神の面を作って歩く人
 ◎家の主人
カマド神の面の製作者といわれる者の中で最も多いのは大工と左官である。これは家を建てた時に木製の面ならば大工、土製の面ならば左官が作ったと伝えられているためである。この面が作れれば大工としても、左官としても一人前だといって作っていったということが多く聞かれる。このことからカマド神の面を祭る風習は祭る側の積極的な意志によるものというより、一種の建築儀礼的な感じを受ける。
 大工・左官・その他で製作者として明確な者をあげてみる。
○ハダカカベ 宮城県桃生郡桃生町脇谷に住んでいたカベ屋。江戸末期に生まれ、明治十年頃から近郷のカマド神を作って歩いた。特に新築の家とは限らず、旧北上川をはさんだ隣り町の登米郡豊里町ではほとんどの面がハダカカベの製作によるという。特徴としては目や口にアワビや盃を用い、髪、髭には真綿を利用していた。表情は忿怒相である。岩手県の方にも作りに行ったそうである。現在は息子の阿部氏が居られるが、この仕事はハダカカベ一代限りの仕事であった。宮城県登米郡町日根牛の金田家のカマド神も『カマ神図説』によると、ハダカカベの作であるというが、家屋同様二百年前という推定は誤りであろう。
○糸賀彦(イトカヒコ)太夫 『カマ神図説』によるとこの糸賀彦という大工は茨城県からの渡り者で彫刻をよくし、仕事にかかると他人、特に婦人を作業部屋に入れなかったとある。宮城県栗原郡花山村本沢浅布の三浦家のものは火事で家が焼けてしまったために明治四十二年に尾松八幡の神宮佐藤東氏と糸賀彦が協力して作ったものである。この時にエビス大黒も作ってもらった。同村本沢水無の三浦家、金沢町の三浦家のものも糸賀彦の作であるという。三浦家の面の製作年代は明治四十二年と明確であるので「カマガミ図説』における三浦家の百二十年前というのは誤りであろう。
○板垣学 宮大工で中新田町に住んでいた人。宮城県花山村宿の狩野家では昭和二十六年にこの人に作ってもらった。栗の木で彩色がしてある。
○佐藤甚太夫(初代) 岩手県東磐井郡室根村矢越馬場の大工。同村津谷川有切の菊地家ではもとの古い家を寛政十二年に建てた時、この大工に作ってもらったと伝えられている。材質は桐の木。
○佐藤金治郎 岩手県東磐井郡東山町の人である。その弟子の小野寺専蔵氏は現在七十七歳で神楽面を作っている。一関市舞川峠の千葉家のものは土製で佐藤金治郎作。(『カマ神図説』)
○茂庭義見 岩手県一関市厳美町入道の千葉家では明治後期の祖父の代に火災が多かったので、火の神として氏神八雲神社の宮司の茂庭義見氏に作ってもらった。この人は神楽面をよく彫り、この地方各所に残されている。(同上)
○已之 岩手県一関市厳美町外谷地の菅原家では厳美八幡沢の已之という人が手斧ひとつで作ったという伝承がある。現当主は五代目である。(同上)
○蘇武 岩手県一関市舞川小戸の千田家では明治十一年頃に仏師蘇武に作ってもらった。(同上)
○薄彦 岩手県一関市舞川蛙沢の日下家では約二百年前に東磐井郡の薄彦という人に頼んで作ってもらったと言い伝えられている。(同上)
以上の製作者たちの中ではハダカカベなどは専門にカマド神の面を作って歩いた人と言えるが、他にもカマド神を専門に作って歩く人がいたようである。宮城県栗原郡花山村山内の三浦氏によると、カマ神の面を彫る人は仙台から来て気短かな人であったという。その他山形から作りに来たということも幾例か聞けた。宮城県加美郡宮崎町北永志田の佐竹家、同町坂下の今野家、黒川郡大和町舞野の大内家では山形の人が作ったという。このように各地を作り歩いた人々が現われたり、家の主人が作ったりするようになったのは、ある程度カマド神の面が民間に定着した後のことであると思う。ただ全体として大工、左官が作ったという事例の多いことはカマド神の面を祭る風習の建築儀礼化を示していると言えよう。また民間信仰の伝播の一方法、継承の一形態としても注意すべき点であり、その方面からの研究を促すものである。これは製作年代のおよそを知る手掛りにもなるであろう。『岩手県史』(前掲)によれば、南部領において延宝八年(一六六〇年)には大工、木挽桶屋、物師、畳刺、屋根、鍛冶、瓦師、鋳物師、左官などの職人がいたとある。しかし、これら各職人の需要は城下における上級士家とか商家が主であって、一般に普及するようになったのは元禄以降であったという。仙台領においてもこれら職人の関与した民家の普及はそう早くはないと考える。

【普及した時代】
 ここではカマド神信仰が民間に普及するようになった時代についての考察を試てみたい。
 近年になって現代風の家に新築した家を除く古風なつくりの旧家におけるカマド神の面の多くは、その家の建てられた時にその家の建築に携った大工や左官によって作られたものであると伝えられている。旧家の建築年代においては現在の居住者の推定によると百年から三百年位前というのが最も多い。宮城県刈田郡蔵王町でも古く由緒のある禰宜屋敷といわれる吾妻家では享保十四年(約二百五十年前)、岩手県東磐井郡室根村の菊地家は寛政十二年(約二百年前)と比較的明確な資料を有する家もある。非常に少い例ではあるが、最も古い例として約四百年前というのがある。しかし、資料となるものは残っていない。このような古い家の場合においては、話者の推定ではおそらく三百年前も四百年前も古さという点において感覚的にはそれほど変らないと考えられるので、そのまま四百年前とは信じ難い。カマド神信仰の普及について論ずる場合、この百年の差は藩政期に入る以前かそれ以降かということで問題となる。約三百年もの歴史を有する藩という地理的にも行政的にも限定された一地域は九州の島津文化と推される田の神の石像などの例に見る如く一つの独自の文化を育成し得るのである。先の分布に見る限りでは旧仙台藩領内とその周辺であり、藩政以降と考えられるが、民家の様式やカマドの使用についても考慮にいれる必要があると考える。現在残っている旧家は石場建という土台に石を置く建て方である。石場建は東北においてはそう古い様式ではなく近世以降のものである。このことについては農民の生活が土間から板敷の座敷に移行する過程とともに小倉強氏の『東北の民家』にその詳細が記されている。その中に古川古松軒の『東遊雑記』から幾つか民家に関しての抜粋がある。古松軒が幕府巡見使として関東、東北、松前を巡回したのは天明八年であったが、その時の記述によると秋田、山形の地方では農民の生活は土間生活が一般的であったことが判る。竈のことについても次のような記述がある。
 「豊岡の南一面の原にてかぎりなく、所々に乞食小屋同前の百姓家を見る、委しく聞くに人死して墓というものなく野に葬りて土をかきよせて置くのみといへり、大家にても竈といへるものなし、いきゐ(囲炉裏か)と称して炉をしてそれにジザイをつくりて前焚きをする事なり(秋田付近)」
以上から秋田付近では江戸後期に至ってもカマドが使用されていなかったことが判る。小倉強氏は民家の生活様式が土間から板敷の座敷に移行し、土間にゆとりができたところにヘッツイ式のカマドが入って来たのではないかと述べている。カマドの使用については、和歌森太郎氏の「カマド神信仰」(『歴史と民俗学』)に引用された徳川光圀の西山公随筆に、「民家に竈あるは囲炉にまされり、関東の土民惣じて心?惰にして竈をもうけず、囲炉を用ゆる、これは制して竈に改むぺし」とある。これによれば東国ではカマドを使用するのが遅かったらしいことが判る。これら東北における民家建築の変遷とそれに伴うカマドの使用が、陸前地方にも現在のようなカマド神信仰を定着させたと考えられる。そしてそれは早くて近世初頭から中期にかけて行われるようになり、一般に信仰が普及したのは中期以降であると考える。唯『岩手県史』(前掲)において、一村で祭るカマド神社の例として胆沢郡下河原村(水沢市)のカマド神社を『封内風土記』から引用した部分がある。これによると伊達藩の儒者田辺希文はカマド神社について「云々、後冷泉帝、天喜中、源頼義父子、征伐安部貞任時、宿陳於此地、其構厨処、後建小祠祭竈」と説明しているとある。また『封内風土記』本吉郡横山南沢のところには「……釜神社。不詳何祭何神。」とある。しかしこの二例と陸前のカマド神信仰との関係は判らない。

【祭日及び・祭り方】
 神の祭り方は地域ごと、家ごとに差があるのは普通であるが、同じ神の祭りにおいて、しかもある程度限定された地域内において、この陸前のカマド神の面を祭る風習に伴うもの程、祭日も祭り方も異り、全く違った要素の入り混じっている例は少いと思う。先ず祭日を整理してみる。
正月(大正・小正月)/旧二月八日/旧二月九日(新三月九日)/初庚申/初午/二月二十五日/節供/お十八夜/田植え始めと終り/刈り上げの朔日(旧九月一日)/収穫の後/紙漉き始め/毎朝/毎月一、十五日(八、十八日)/毎月二十八日(二月二十八日)/神社(氏神)の祭礼/変り事のある時
以上が祭日の整理であるが、カマド神の信仰内容を祭日から見てゆくことにする。
 予祝行事を含む小正月を除く正月、節供、毎朝、毎月一、十五日(八、十八日)、神社の祭礼、変り事のあるとき祭るのは一般的な家の神の祭りをする日と同様であり、地理的な片よりは見られない。
 旧二月八日に祭るのは登米郡豊里町竹、花同東和町の例であり、この白団子を一升桝にうず高く盛り、更にそれを五升桝にのせて供える。陸前地方では二月八日は十二月八日と対比して考えられている。暮の八日に神様は出雲へ立ち、二月八日に帰って来るという信仰に基くものである。そして詰めの八日のアサダンゴなどといい、団子を供える。またこの日に正月神と厄神が入れ替るという信仰もあり、八日ダンゴ、カラスダンゴ、ハツダンゴなどを供え、魔除けの習俗も付随している。後者の厄神との関連で捉えた方が、魔除けの意味でカマド神の面を祭る風習と通ずるところがあり妥当であると考える。これは厄神信仰に由来する。
 旧二月九日(新三月九日)に祭るのは登米郡豊里町加賀巻、同豊里町竹花の後藤家、同東和町、同東和町嵯峨立の例であり、アシモト餅、ツボ団子、ツボサカ団子を供える。この地方では旧二月九日にはツボダンゴ、ツツダンゴを流しの鍋蓋にのせて、ツボガミサマに供える風習がある。これはある女中が食べ物を乞食や母親などに与えて、自分は流しに袋をかけて集めた屑米を食べていたのだがその女中は死後ツボガミ、シンザンゴンゲンになったという由来譚とともに残っているものである。この由来譚は女性のカマド神の面を祭る由来譚の1つと同じものである。何故にツボガミ信仰とカマド神信仰とが結びついているのかは判らないが、あるいは巫女の関与を暗示しているのかもしれない。
初庚申は一関市舞川平石の佐藤家の例で、初庚申の日にはカマドガミに縄をなって供える。初庚申とカマドガミとの関係はよく判らないが、腹の中の三層の虫が年に一度昇天し、その人の悪行を天帝に告げるという伝承と、沖縄や中国のカマド神が年に一度昇天し、やはりその悪行を告げるという伝承が類似しているところから庚申信仰との関係が論じられて来た。
 初午は本吉町中島の森谷家の例であるが、初午には陸前地方の各地で火伏せに関した行事が行われて来た。初午にカマド神を祭るのは火伏せの神としてのカマド神の機能と通ずるためであろう。
 二十八日に祭る例も多い。二十八日は不動の祭礼の日である。不動は火伏せ、諸魔降伏の神と幅広い信仰内容を有する神で修験の本尊として崇拝された。二十八日に祭る例が多いことはカマド神信仰と修験との関係を暗示するものであろうか。また火の神である荒神も二十八日を祭日とする例も多く荒神信仰との関連も考慮に入れなければならない。不動信仰と荒神信仰の関係も現在明確ではない。
(前記)お十八夜/田植え始めと終り/刈り上げの朔日(旧九月一日)/収穫の後/紙漉き始めから田までは生業に関連するものとして並べてみた。紙漉きの始めに祭る例は一関市折の口の千葉家、同舞川中入の氏家家、東磐井郡東山町田河津字田の萱の佐藤家である。『岩手県史』(前掲)によると、松川地方ではこのことについて「和紙の製造には楮を楮釜に入れて煮る必要があり、その時薪を焚くが、そうした場合に不慮の火災を招くことがあってはならないというので楮釜を作った残り土とか木を材料にしてカマド神の面を刻み、防火の神として祭り、それが後に家内円満、お家繁昌の守り神としても祭られるようになった」と説明している。
お十八夜(正月、五月、九月の十八日の夜)は遠田郡涌谷町大田の例で、「かまど餅」を搗いて明神様に供えた。お十八夜は作神を祭るためにお供え物をして月を拝む日である。
 田植え始めや終りに苗を供えて祭るのは北上市鳴瀬町下門岡、東磐井郡室根村折壁留の小沢家、登米郡東和町、同米山町の高橋家、桃生郡久本町小松上前柳、仙台市館越、名取市愛島塩手、刈田郡蔵王町大曲竹の吾妻家等の例である。これは田の神の祭り方であるが、田の神とカマド神が同じであるとも言えないし、またカマド神が田の神的な性格を有するとも言えない。何故ならば「お田の神さま」は別にいて、田植えの時に苗を供えるのは神棚であるという方がより一般的であるからである。またカマド神とは別に田の神の小祠を祭っているという家もある。カマド神に苗を供える例の中でも岩手県室根村津谷川竹野下の日下家では田植え始めにお供え物をするが「お田の神様にあげる」と言ってカマド神に供え、北上市稲瀬町下門岡では「田の神を拝む」と言って苗を神棚に供える。これによればカマド神に苗を供えたりはするが、田の神とカマド神を明確に区別していることが判る。田の神には御神体というものがないために何時か田の神の依代的性格を担うようになったためではないかと思う。このことは和歌森太郎氏の「カマドは純粋なる火の神として家人の生死や消費生活に拘りを持って来たが、家が生産協同体としての意味をもつようになってくると、生産の神としての性格をも要求され、それが田の神と結びついて伝承されたものであろう」『歴史と民俗学』という指摘で説明がつくであろうか。これによれば登米郡豊里町での「カマガミは農事の初期と終り頃山と里の間を往来する」という田の神の去来伝承と同一の伝承があることも納得できる。しかし伝承の混乱ということも一応考えられる。また田の神とカマド神との区別が人々の意識の中で明確であることは田の神とカマド神の結びつきが新しいことを示していると考えられる。以上が田の神とカマド神としての面との関係であるが、お十八夜における作神との関係も同様であろう。
 次に祭り方から多少の考察を試たい。黒川郡大和町舞野の大内家等のように毎年年越にカマド神に注連縄をかけて重ねてゆき、何本かになるとまとめてはずしてお明神様に納める例がある。明神は陸前地方においてはウチガミ、つまり屋敷神として小祠を各家で祭っている。カマド神の注連縄を一年間はずさないのはカマド神は一般の神々が出雲に立たれても家に留まる留守神であるという信仰に基くものであるが、この信仰は陸前以外にも広く認められる。屋敷神である明神に注連縄を納めることはカマド神が家の神として定着していることを示すものである。
 栗原郡栗駒町下明神の佐藤家ではカマド神に炉の鈎型の幣束を供えるが、これは炉の信仰との関係を示すものであり興味深い。私見ではカマド神として面を祭る風習は近世以降であることは既に述べたが、民家でカマドが使用されるようになるまでは長い間一家の火所として炉が重要な意味を持って来たと思われる。そして炉の方がより生活に密着していたであろうことは推測に難くない。故に炉の信仰が火を媒介にしてカマド神信仰にも現われて来ることは十分あり得ることである。東磐井郡藤沢町大滝の小野寺家では、『岩手の民俗資料』によると、カマド神の面をカマガミ、カマ仏と言っており、これは炉の神であるという。この例も先の例も共に火を媒介にしてカマド神の面が炉の神として祭られるようになったことを示している。また火に関する俗信が『東北民俗資料集』(第一巻)に載っているが、それによると炉の火に対しては様々な信仰があるにもかかわらずカマドの火に対する信仰はほとんど見られない。
カマド神の面を祭っている栗原郡花山村でも、十二月一日をミヅコボシの一日といって豆腐を小さく四角に切ったものをハギの木に刺してイロリの四隅にさし、子どものたくさんあった人のその子供が水に溺れて死んだ供養だと言っている。これは火伏せのためであり、炉に水をこぼしても罰があたらないためであるという。このような風習は陸前地方においては広く行われている。更に、『江刺郡昔話』に「火のお陰げで長者になった話」という昔話が収録されているが、これは炉の火に対する信仰を基盤にした話である。カマド神の面の由来譚の中にもこれと極似したものがあり、この話がもとになって伝承されたものと考えられる。以上炉に対する信仰とカマド神信仰がどのように関わりを持って来たのかを見て来たわけである。これらからカマド神信仰が普及してもなお火の神は炉にいると観念されていたことが判る。従って、火を媒介としてカマド神を祭る風習の中にも炉の信仰が混在することもあり得た。そして炉の信仰に遅れて来た陸前のカマド神信仰は純粋な火の信仰に対して、より宗数的色彩の濃い火伏せの信仰が強調され、家内安全、家の守り神としての信仰を受けるようになったと考えられる。この点において、一家の重要な火所としての炉からカマドに信仰が移り、カマド神が火の神から家の神という性格を有するようになった本来のカマド神信仰とその過程が異なる。
 水沢市福原のようにカマド神の面の頭上から馬のワラグツを振り分けにたらしたり、毎年二月二十八日に飼い馬を守るためといってワラグツを作り変える例もある。馬と水神、水神とカマド神に相関関係があろうことは柳田国男が「河童駒引」『山島民譚集』において詳述している。またカマド神の代表的な由来譚である水神少童譚との関連や、水神柱に祭る例、水神様と呼ぶ例においても認められるところである。
 以上祭日及び祭り方からカマド神を祭る風習の独自性を見出すべく多少の考察を行って来た。それによりかなり多岐に渡り他の信仰と結びついていることが判ったが、このカマド神信仰独自の祭りというものは見当らない。これはこのカマド神信仰が新しいもので火の神から家の神という民間にかなり寛容な浸透の仕方をしたために他の信仰と結びつき易かったためではないかと思われる。

【祭祀意識】
 祭祀意識とはカマド神の面を祭る人々がこれを如何なる意識で祭って来たかということである。地域を問わず最も一般的であるのは「火の神」ということである。しかし「火の神」といっても純粋な火に対する信仰ではなく、火難除けを意味することがほとんどであり、「火伏せの神」という意識が濃厚である。次に「災難除け(家内安全)」、「魔除け」「悪病除け」、「盗難除け」などが続く。もちろん災難除けというのは総括的な言い方で、これには火難除け、悪病除け、魔除け、盗難除けなども含まれる。ここでは「家の守り神」という意識が強く感じられる。特に恐しい表情で入口を睨むように掛けられた面においては火伏せに並行あるいはそれに先行して悪魔・悪病・盗人など外から禍いをもたらすものの浸入を防ぐという意識が強い。また「家内繁昌の神」ということも聞ける。これは面の由来譚の中にも多くみられる意識であり、福神である大黒の面などに由来する意識である。
 宮城県加美郡宮崎町道城の鎌田家では明治三十七年に水害にあい、その時にカマド神を祭ったといっているが、これは水神柱や水がめの上に祭る例とともに、火伏せの効果から水、更に水神へとカマド神に対する意識の変化と考えられる。また面という人間に馴み深い形態を有するカマド神は以上の意識の他にも様々な意識を付加している。
 家を建てた時、その家の主人を似せて作ったという伝承も比較的多く聞けるが、これはおそらく先祖の霊が子孫を守ってくれるという信仰に基くものであり、家内安全、家内繁昌の神という意識に通ずるものである。
 恐しい顔をした面に対する畏怖の念は子供が暴れたり、いたずらをした時などに「カマガミに食われるぞ」とか「ほうら、カマガミが来るぞ」などと言って戒しめる例に見るごとく教育的機能も待たらしめた。
 イロリのヨコザと向い合せに面を祭っている宮城県登米郡東和町綿識大木の伊藤家では「カマガミの変な面白い顔を見て、旦那殿がいつもにこにこしているように祭った」と言っている。岩手県室根村折壁岩田の遠藤家でも「心が苦しい時など、カマ大黒様のにこやかな顔を見ると心がなごやかになる」と言っている。これらの例はカマド神が面であるが故に人間生活によく解け込んでいるものである。また、人相の良くない人や変な顔をした人のことを「カマガミ様みたいだ」などという例もある。
 宮城県加美郡宮崎町北永志田の佐竹家では「目の悪い時、自分の年の数より多くめという字を書いてカマガミにあげればなおる」と言い、「この神ほど煙の中にいる神はない」と付け加えている。同県気仙沼市大島崎浜でも『宮城県文化財調査報告書・第十集』によると煤掃きの時に眼の悪い人が目を掃除して目玉を入れるとある。
 以上のようにカマド神としての面を祭る人の意識は様々であるが、人々にとってこのカマド神の面は人々の幸福を守る神であった。宮城県栗原郡花山村の狩野家では年越には神々にお供えをあげるが、カマオトコには一番大きなお供えをあげるという。家の神々の中でも最も重要な神として意識していることがうかがわれる。

【由来譚】
 面の由来を語る話は色々ある。ここではその由来譚から陸前のカマド神信仰について考えてゆくことにする。まず、由来譚を十七例ほど列挙してみる。
@ ひょっとことこけし
 昔、あるところに爺と婆があった。爺は山に柴きりに行って、大きな穴コーつめっけた。こんな穴コに悪いものがいるものだと思って口ばたをふたいでしまおうと思った。そして、うざねはいて(骨折って)きった柴を一把、穴コの口ばたに入れて見た。すると柴は穴コのふたにならずに、するすると穴コの中さはいって見えなくなった。やり出したことなので、また一把押し込んで見た。やっぱりするすると入ってしまう。もう一把と、夢中でくり返すうちに、ひと春かかってきりためた柴をみんな穴に押込んでいた。「しまったと気がついた時、穴コの中から美しいお姫さまが出て来た。「柴を沢山いただいて、ほんとに有難うございました。それで爺さまに御苦労分、一ぱい上げたいから、おらえ(家)さあェんでけらしェ」そう言って、袖をひっぱらんばかりにすすめた。爺もわる気がしないので、後について穴コさ入って見ると、立派な御殿のような家があった。そして爺が今しがた押し込んだ柴が門の内側にきちんと積みかさねてあったお姫さまは家の中までつれて行って、爺に座敷にあがれというので、山きりの爺は、おしょうしい(おかしい)と思ったけれど、テカテカ光る立派な座敷にとおった。座敷には福の神さまみたいな、白髪の翁がいた。そしてやはり柴をもらった礼を述べて、「何も珍しいごちそうはないけれど、御夕飯を召上って下さい」という。お酒、お肴、米の飯と、爺はめったにたべたこともない御馳走を、いろいろいただいた。そして婆が待っているから帰ろうと思っておいとまを告げた。「何もかにもうんとごっつォになりんした。どうもどうも」なかなかあらたまって、十分な挨拶もできなかったが、これをおみやげにつれて帰るようにと言われたのが、めっちゃこい、みぐさい一人のワラシであった。あんまりほしいものとも思えなかったが、ぜひくれるからつれて行けと言われるので、だまって家につれ帰った。このワラシは爺の家に来てから、炉ばたで火にあたりながら、毎日へそばかりもじゃくって、大きくもならず、りっぱにもならなかった。ある日のこと、爺は火箸のさきで、ワラシをちょいとついて見た。するとそのへそから金の小粒がでた。それから一日三度ずつ出て、爺の家はやがて金もちになった。ところが婆は慾ばりで、もっと沢山の金を出したいと思って、爺の留守を見はからい、火箸をもってワラシのへそをうんと力一ぱいついた。すると金が出ないでワラシが死んでしまった。爺は外から帰って来て、ことけェだことになったと、ひどく悲しんだ。ある晩のこと、夢に死んだワラシが出て来て、「泣くな爺さま、おれのつらに似た面コをつくって、毎日よく目につくカマド前の柱さ、かけて置きもされ。そしたらシンショがよくなるから」と教えてくれた。このワラシの名前、ヒョウトク、ショウトク、ヒョットコなどと呼ばれた。(『みちのくの百姓たち』及川喚右衛門)
A ある海辺に貧しい親子があった。せめて立派な門松を立てて正月を迎えたいというので、父と子が各自別々の山へ松の木を切りに行った。両人の切って来た松の木は、どちらも立派であったが、結局、父が切って来た門松を立てることになった。子供の切って来た松の木は不用になったが、ただ棄てるのにはあまりにも立派なので父は海に流してやった。すると翌朝、見知らぬ人が来て「昨日は、立派な門松を送っていただいて有難かった。お礼に御馳走したいので一緒に来てくれ」と言った。御馳走になり、いざ帰るというとき「何かお礼を差し上げたい。欲しいものがあったら申していただきたい」といわれた。そこで「カマド神をいただきたい」と言ってカマド神をもらって帰った。それから父子の家が繁昌するようになった。(岩手県東磐井郡松川町『岩手県史」前掲)
B 山で炭を焼いていた男が通りかかった女に誘われて夫婦になったら、その晩から米とぐ井戸の水が酒となり、泉の酒とよぱれて大勢の客が押しかけてきたが、よその旦那がきて女房を連れ去り、その時から酒はわかなくなった。男がその旦那の家にたずねて行っても女房を隠して会わせなかったが、その家のカマ柱の底から酒がわいていたのを見て女房のいることがわかり、その家の子になって一生養ってもらった。壁土を手で塗っていた時代のことで、佐藤家のカマガミはこの男の兄弟で、女の方は東の家のカマオンナになった。二十八日はカマガミの兄がこの女と結婚した日だという。東の家のカマオンナにはどこか女らしい優しさがあった。(岩手県胆沢郡旧小山村佐藤家、『民俗の四季』)
C ある女が嫁に行ったが働きが悪いといっておい出されてしまった。その家では後に働きものの嫁を貰ったが、まもなく潰れてしまった。その男はホイト(乞食)になった。ホイトをしているうちに前に出した女の家に行った。女は握り飯や金を与え、男をその家の竈の火焚きに雇う。しかし男は竈の前で死んでしまう。そこでこの男を竈神さまとして祀った。(宮城県玉造郡岩出町真山小坪、曾根護氏宅「陸前の年中行事』)
D ある草深い田舎に大変な怠け者があった。その婿はどんな仕事をしてもすぐに倦きてしまう怠けものであった。ある時家の人は婿にかまどの火たきをさせた。例によって婿は怠けた。家人はおこって婿を家から追い出してしまった。婿は生来の怠け者なので困窮しもとの家に戻って来た。婿の嫁が深く哀んでかまどの火たきをさせ一生を終らせた。婿が死んだ後は家の人が火守りの神として面を刻んでかまどの上にかけてしまった。これがかまど神のおこりである。(岩手県東磐井郡松川町『岩手県史』前掲)
E 昔、ある由緒のある家へあるとき醜い顔をした若い乞食が訪ねて来た。家へ入ろうとするとき、庭に倒れている箒をみつけ、それを邪魔にならないところに立てかけてから中へ入って来て、雇って貰いたいという。しかし、その家ではすでに数人の雇い人がいて、一人娘が病気で長い間床に看いており、願をかけても腕のたつ医者にみて貰っても丈夫にならず、困り果てていたときだったので乞食の頼みを断った。一度は断ったが、考え直して竈の火焚きとしてその乞食を雇った。娘の病気は一向によくならないが、年ごろになったので、その家では娘の婿を探した。娘は火焚き男がよいという。色々考えた末に、火焚き男が庭に倒れている箒を立てかけてから家に入って来たことを思い出し、見込みのある奴だといって、その男を娘の婿に迎えた。火焚き男が婿になると娘の病気も快復に向かった。火焚き男は一躍わこ様になり、その家は繁昌した。この火焚き男を祭ったのがカマガミサマである。(宮城県玉造郡鳴子町鬼首、中鉢ハルヒ氏談「竈神信仰の研究」「東北民俗』第五輯所収)
F 昔、あるところの旦那殿が一人の乞食を家に泊めた。その乞食は一向に働こうともせず、食べては所かまわず排便した。竈の側などにもした。旦那殿は困り果ててしまったが、しばらくしてその乞食は、何処へともなく旅立って行った。乞食が旅立った後、竈の側をみると大便が黄金になっていた。旦那殿は早速その乞食を神さまとして祀ったがそれからというもの家が繁昌した。これがカマガミサマであり、繁昌の守り神である。(宮城県玉造郡鳴子町鬼首小出庄之進氏談、「竈神信仰の研究」前掲)
G むかし佐渡の国からぼろぼろの着物を着た乞食のような格好の男が来た。そんな男にカマドの火焚きをさせることが多かったのである。そういう格好をしているので卑しい人と思ったが、風呂に入れて仕度したら立派な人になったのでその人をカマ神様に祀った。(宮城県栗原郡花山村中村三浦氏談『民俗採訪』昭和四十八年)
H 遠い讃岐の国に大きな酒屋さんがあった。栄えていたが何かのひょうしに家産が傾き、つぶれてしまう。その酒屋にごく下級の人で釜場で働く男がいた。身分は低いが豪胆な人で、がっかりすることはない、もう一度働くからと主人を励まし、とうとうつぶれた酒屋を再建した。二、三代経ってからその恩に報いるためにその姿を祭ったのがカマ神様である。(宮城県栗原郡花山村宿、狩野斉治氏)
I むかし御飯炊きをしていた人が一日ひと握りずつ米をとっておき身上をこしらえた。それで竈の上にカマ神を祀る。(宮城県栗原郡花山村中村、三浦氏『民俗採訪』昭和四十八年)
J お正月には朝起きてから豆殼で火を焚くので、隣りのお嫁さんが火を焚こうとしたが、お姑さんがいじわるして豆殼を濡らしておいたために困っていると、向うに火が見えるのでその火を頼って行くと人相の悪い男が豆殼に座って火を焚いていた。わけを話すと、この包みを二、三日預ってくれれば一緒に行って火をつけてやると言って一緒に来た。そしてあさって来るからと言って包みを置いて行った。包みをあけてみると死人だったのでこのようなものを見られてはいけないと思って隠しておいた。しかし約束の日になっても男が来ないので四日目にまた見に行ってみると死人は金ののべ棒に変っていた。そしてその家は繁昌した。それでその男の顔を面にしてウシモチ柱に飾った。(宮城県登米郡東和町綿織入沢、千葉誠一氏)
K 大工の棟梁がいくら考えてもサスを思いつかなかったが、一入の娘がいてその娘が「お父さん、サスにしてつくればできるのでは」と言うのでそうしたらうまく家ができた。一番偉い棟梁がいくら娘でも女の人にきいたのであるから自分の恥になると娘を殺してしまった。そのために建て前の時、アサ、ハサミ、人形などを入れた箱をつけて弔った。この箱を家の守り本尊にしたが、カマドは女のものであるから女の人の顔を面にして飾った。(宮城県黒川郡大衡村、橋本文助氏)
L 昔、上下の差別が著しくお腹をすかした下女がお勝手の御飯を拾って食べていたのを可哀そうに思って祭った。(宮城県登米郡遊里町竹花、後藤家) M 昔、当家に働き者の女中がいて、お陰げで家が繁昌した。その女中を祭ったものである。(岩手県東磐井郡室根村矢越射勢沢、及川秀夫氏)
N ある草深い田舎家に体の弱い嫁があった。力仕事ができないのでカマドの火焚きを手伝っていたが、ある時自分の着物にカマドの火がついてしまっているのに気付かず焼け死んだ。家の人たちはいたく悲しみ、イロリの側に面に刻んでカマド神として祀った。(岩手県東磐井郡松川町『岩手県史』前掲)
O よその家に聾に行ったおじっこが毎日実家のことがあじらいて土ばかり掘っていたところ、ある日その土がくずれて実家のカマドの前に出た。実家ではこれほど家のことを思うおじっこに感激し、おじっこを祭ってやろうとおじっこに似た大黒様をカマドに作った。それ以来大きな災害もなくその家は繁昌した。(岩手県東磐井室根村矢越、鈴木喜久男氏)
P クワガシラ(一家の主人)を誰かが木に刻んで作ったのがきっかけで、カマ神に祀られ、それがカマ神様になった。(宮城県栗原郡花山村浅布、千葉栄吉氏「民俗採訪』昭和四十八年)
 収録できたカマド神の面の由来譚は以上十七例である。数が少ないので類型化できないが・簡単に整理してみる。
 A@・A     龍宮童子(「日本昔話集成』の分類)
 BB・C・D   炭焼長者再婚型(『日本昔話集成』の分類)
 CE・F・G   乞食を祭る話
 DH・I     身分の低い者が身上をこしらえる話
 EJ       大歳の話
 FK・L・M・N 女性のカマド神
 GO・P     その他
次にこの整理順にカマド神との関係について考えてみる。A@は佐々木喜善「江刺郡昔話」の「ひょっとこの始まり」と同じ話で、カマド神の面の由来譚の代表的なものである。同書の「淵からあがった福神童ウントク」も直接カマド神の面の由来とは結びついていないが、同類の話である。これらの話は『日本昔話集成』によると「龍宮童子」に分類されるものである。Aの話もこれに属する。「龍宮童子」の話は北は青森から南は沖縄とほぼ全国に渡って広く分布している。水界に贈り物をする人物、贈り物の内容、水界からの贈り物に相違はあるがモチーフはほぼ同じである。しかし、カマド神と結びついて伝承されているのは@とAの話だけのようであるカマドと水神が何らかの関係があったことを示す話としては愛知県北設楽郡富山村市原の田辺家のカマドの上に住みついていた河童の話が有名である(『北設楽郡史』第一巻)。カマドと水神との関係については「河童駒引」において柳田国男が「川の流の淵を為す処を諸国にては多く釜という。周囲を巌石にて囲われ一方にのみ開けるさま、ほぼ竈の形に似て居るが為の名なるが如く昔よりえを竈の神の祭場に用いたりしが如し。陸上にても岩の形の竈に似たる処を崇敬したる例は多し。巫女の宗教に於ては、生命の根源として、食物調製の為に用いらるる竈其物を祭る風ありき、貴人大家ならば家々の竈に就きて其祭を営みしならんも、一村一郷の合同の竈祭には、天然の地形の竈に似たる処、即ち川々の淵又は山中の岩組の中凹る処など其場に選定せしものならん」と述べていることに尽きるであろうか。
しかし、@・Aの「龍宮童子」に属する話が水神とカマド神との関係を示す本来的な話であるならば、他の地方にも同様の話があってよいはずである。更にヒョウトクの話はカマド神の面の直接の由来を語るものであるのに対して、同地方で全く同じモチーフのウントクの話がカマド神と何の関連もなく伝承されていること、カド松の話に突如としてカマド神の面が出て来ることを考え合せると、極めてカマド神と水神を関連づけようとした作意的なものを感じる。水神が一家の盛衰にかかわる重要な神として信仰されて来たことは昔話、種々の農耕儀礼からも言われて来たことであり、カマド神とも通ずるところがある。
しかし、陸前地方においてはカマドが使用され、民間に普及するようになったのが遅かったであろうことを考えると、カマド神と水神の結びつきが成立するためにはその間に何か媒介となるものが必要であったと思う。そこに私は火の信仰を想定している。その信仰とは純粋な火に対する信仰ではなく、宗教者の関与した痕跡の大なる火伏せの信仰である。特にヒョウトクの話の場合には、カマド神の面が醜い顔の面であり、火の守りの神であるために、先のウントクの話の如き水神童譚とも結びつき易く、カマド神の面の由来として極く自然に伝承され得たとも考えられる。
 Bの話は「日本昔話集成』の分類によると「炭焼長者・再婚型」に属する話である。Aと同様北は青森の津軽半島から南は沖繩、そして朝鮮にまで広く分布する話である。柳田国男の「炭焼五郎が事」「海南小記』によると、この初婚型の類型に属する炭焼と結婚して長者になった姫の話は豊後の国が発祥地であることは違いないとのことである。またこの「炭焼長者・再婚型」の話は袋中上人の『流球神道記』に載っている「竈神の本地」(近江の国の話)としっかり結びついている。このカマド神の本地は、落ちぶれたもとの夫が追い出した妻に会い、恥じて死んだ屍をカマドの下に埋めて、カマドの神として祭ったというものである。このようなカマド神の本地があることは、陸前地方のカマド神の面の由来譚以前に既にカマド神信仰と炭焼長者の話と結びついていたことが判る。従ってBの話は直接カマド神の面の由来を語る本来的な話ではないと考えられる。故にカマド神の本地を語りながら、その信仰を広めた者に焦点を合わせる方が、カマド神信仰の普及の遅かったと考えられる陸前地方のカマド神信仰の研究には効果的であるかもしれぬ。
Cの乞食を祭る話はどこからともなくやって来た乞食が福を待たらし、その乞食をカマド神として祭る話である。これはEの話とも通ずる。福をもたらす乞食は汚ない姿でやって来る来訪神の難き印象を受ける。しかしこれはカマド神信仰の伝道者であった宗教的遊行者を投影したものとは考えられないであろうか。そうであるとすればGに見られる佐渡という地名はその伝道者の根拠地であったかもしれない。和歌森太郎氏によると佐渡は修験道の非常に盛んな地であったという。(『歴史研究と民俗学』)荒神祓いなどカマドやイロリの祭りを行なうのもこの山伏達によるものであった。
Eの話はどこからともなくやって来た者が福をもたらす点においてCの話と共通することは述べた。『江刺郡昔話』にこれとよく似た「火のお陰げで長者になった話」というのがある。Eの話との違いは死体を持って来たのが老人であったこと、カマド神の面の由来を説いていないことである。両者共通して絶やしてはいけない火は炉の火である。そして、「火のお陰げで長者になった話」では単に火のお陰といい、Eの話では福をもたらした人をカマド神に祭ったとある。従って、Eの話は火を媒介にして「火のお陰で長者になった話」のような話と結びついたと考えられる。ここには炉の信仰からカマドの信仰への移行が伺われる。Fは建築儀礼であるオヒナ.ハコの由来と重なる話である。
黒川郡大衡村では木製のものが多く、大工がサスやウシモチ柱に使った木の残りで彫ったものが伝えられており、カマド神の面が一種の建築儀礼となっていたことを示している。D、FのL・M・N、Gの話は由来譚というよりは由来談的なものでEのJのようにツボガミの由来譚と結びついていたり、カマド神が女性であるとしたり、かなり面を祭る人々の作為にもとづく話であると思われる。
 以上由来譚について述べて来たが、原型となる話があったり、建築儀礼の由来と重なっていたり、何か信仰の伝道者である者達の関与がうかがわれ、一貫した面の由来を語るものがないのが特徴である。故にこれら由来譚はカマド神の面本来の由来を語るものというより、カマド神信仰の普及に貢献しただけのものであろう。また信仰の伝道者の関与がうかがわれるが、柳田国男、堀一郎の両氏は特定の宗教的遊行者の手によって伝説も旅して歩いたらしいと指摘している。女性のカマド神として伝えられる背景には巫女が信仰の伝道者として参加していたことも考えられる。Bの炭焼長者の話はカマド神の本地と結びつくもので、カマド神信仰の本質的なものと関連していることは十分考えられるので注意すべきものである。

【まとめ】
 以上、現在見られるような陸前地方の面を祭るカマド神信仰を成立させた要因を抽出するべく、各項目別の検討を試た。まずそれらから判ったこと、推定できることについて整理してみる。
 陸前のカマド神信仰において特徴的なことは先に述べて来た如く非常にその信仰内容が豊富であることである。在来の炉の信仰、水神信仰、庚申信仰、厄神信仰、田の神(農作神)信仰、ツボ神信仰、先に述べなかったが、カマド神の面を一家の主人に似せたり、主人が作ったりする例に見られる祖先を崇拝する信仰など多くの信仰を包括している。また多岐にわたる由来譚をも有する。従って信仰内容からのみ考えれば、このカマド神信仰の多様性はカマドの普及に伴うカマド神信仰の後進性によるものであろう。しかし、よりこの陸前地方のカマド神信仰を複雑化し、特徴づけているのが面という特異な信仰対象を有することであることは自明である。陸前のカマド神信仰の固有性もここに由来する。
 またこの信仰の伝播者、継承者として重要な役割を果したのは大工、左官などの建築家であったことは既に述べたが、これらの人々は単に信仰の普及に貢献しただけであったと思われる。このような独特の信仰が起る背景にはある種の宗教者が関与していたのではないかと考える。まず火伏せの信仰や魔除けの意味が強調され、荒神や不動信仰と関連があること、面を祭るなど呪術的な色彩が濃厚であること、面の中に山伏を型どったようなものがあること、面にカマ別当という呼称があることなどから修験者の関与が考えられる。
堀一郎氏の「日本宗教史における交通の問題」(『人類科学』第五集)による「山伏行人塚」の分布を見ても陸前地方において、修験者の関与の大なることが判る。東北においては出羽三山を根拠地とする羽黒修験の影響には大なるものがあった。しかし、明治期に刊行された「封内風土記』によると宮城県下における熊野神社の数は当時で二四五を数えるのに対して羽黒権現社の数は七十とあり熊野神社の三分の一にも満たない。更に堀一郎氏の『我が国民間宗教史の研究』には「鈴懸衣続篇』の一部が紹介されており、近世の陸前地方の熊野修験の勢力の範囲を知るのに参考になる。それによると、本山(熊野)派の在所引きの先達の縄張りのみを霞といい、羽黒派は檀那場というが、文化十三年(一八一六年)に岩坊より仙台良学院性真に出した陸奥国の霞免許伏の写しでは、それは牡鹿、志田、玉造、遠田、登米、桃生、栗原、磐井、本吉、気仙、江剌、膽沢の十二郡に及ぶとある。和歌森太郎氏は山伏の近世的な特色として、中世以来の山岳修行から「里山伏」としての土着化をあげている。(『修験道史研究』)以上から、陸前にカマド神信仰が普及したのが近世以降であるなら、これら修験者の関与したであろうことは十分考えられる。
また熊野信仰の伝道の一つの方法的特徴に語り物や本地譚を伴うたらしいことは柳田国男、堀一郎の両氏が指摘するところである。そして熊野比丘尼といわれる巫女の一郡もこの伝道に参加し、熊野信仰を背景に本地を語りながら遊行していたことも明白である。ここでは陸前のカマド神信仰に修験者が関与していたのではないか。そしてそれは熊野修験の方が可能性が強いということの提唱だけにとどめる。現在のところカマド神信仰と面がどのようにして結びついたか、どの時点で結びついたかは判らない。唯カマド神信仰の後進性故に、他の火の信仰を優越するためにも、より具体的なものが必要だったために何らかの関連において面が祭られるようになったのではないかと考える。しかし『秉穂録』(岡田挺之著々寛政十一年)によると「奥州の民家には、竈のほとりに土偶人の長さ六尺ばかりなるを置く、釜男という」という記述が残っており、面より以前には土偶人が祭られていたようである。以下この研究の諸先輩方の面の由来に関する考察をあげてみる。
@藤田元春氏 『日本民家史』
  ……支那でも古く竈の祀には必ず主を竈の口に設けたらしい。我国奥州の竈男というはかような竈主であると考えられる。
A黄川田啓子氏 「竈神信仰の研究」(前掲)
  ……あの恐しい顔をした竈神の面については、以上述べて来た信仰の内容からのみ説くことは難しい。そこで仮面史的に考えるなら、東北には秋田県男鹿のナマハゲの面、岩手県三陸地方のスネカの面などがその類型として考えられる。これらの恐しい表情の面も、除魔の呪力が期待されているが、これらはすでに「小正月の訪問者」として分類され、正月に来臨する神すなわち祖霊神の代役であると説かれており、ともに神威の期待が神の畏怖となり、やがて人に微罰を与える恐ろしきものと観念されるようになり、この神の畏怖するという半面が具象化されたものと考えられる。竈神の場合も同様に発生し、竈の入り口を睨む位置に掲げられているのは、家に襲い来る悪霊を防ぎ、特に悪霊が竈を襲って食物に憑き、体内に入って恐しい結果になると考えられたからにほかならない。この点では屋根にあって悪霊を防ぐ鬼瓦と同じ機能をもつ呪物とも思われる。あのような恐しい面がいつごろから掲げられたのか、それを知る手掛かりはないが、本来、神の霊力が具象されて作られ掲げられたものであるが、その形相から魔性のものを避けるという考えが後次的に展開されて、魔除けという新しい機能が賦与されたものと考えられる。
B細川魚紋子氏 『カマ神図説』
カマ神の分布や容相に修験者の影響が可成りあるのではないかと推察する。修験者の中には有能なものもあれば、また先輩の犠性的苦行を借りて素朴な庶民を欺いた輩もあった。旧領を奪われた葛西・大崎藩の残党の中にはこれに走った者も多数あったと考える。喰いつめれば修験者になれとさえ言われた時さえあった。これ等の者達が各地に散って室町期以降には加持祈祷を糧とする者さえ現われた。これらの修験者が偶然呪術に成功したとすればまさに神様扱いで、その信仰は大きくその修験者の説なれば何でも肯くという結果が生れたと考えるのも無理ではないだろう。また修験者自らの面相を作らしめることも容易である。これが面相にも現われたと解したい。花山村の「カマ神」の面相にそのような結果がでているようである。しかしこの現象は修験道の発達した山に通ずる街道に副うて展開しているようである。
C「水沢市史』より(『カマ神図説』所収)
  ……家を建てた時、壁土に使った残土に塩を加え、ひび割れを防いで神面を作り、かまどの据えてある奥の柱に大きく塗りつけて、「かま神」として祀ったのである。これは塩釜神社の神主が塩土翁と字と塩は火に焼けないという縁起から着想して「かま神」を案出し、塩釜神社の神宮がシンポライズして、火  を守る神として、又台所にいて家を守るものとし鎮魂して教えた。故に塩釜神社の信仰地帯である胆沢、江刺、磐井郡から宮城県北まで塩釜神社へ参詣する地区の各家の台所に「かま神」を祀る風習が残っている。
 最後に陸前地方のカマド神信仰と関係があるか否かは判らないが、古川古松軒の『東遊雑記』の中にそれらしきものが載っているのであげておく。
 水沢の是より南一里半、北上川を渡る。川の西南を胆沢郡とし、東北を江刺郡とす。(高寺村・下川原村)この川より岩屋戸町まで二十四町、岩屋戸は大概の町まで二十四町、岩屋戸は大概の町にて仙台在宅の士家多し、多聞天堂御巡所にて、宝物数多の中に図のごとき奇名あり。人面石と称す。長さ三寸七分、 横二寸八分、石の色青白にして眼中に黒色の玉あり、に中白く歯の所高く、鼻のかっこうよく至っての仏像石なり。至って珍しき石なりし、造物者のなす所はかるべからず。
 以上、現時点で判り得る陸前のカマド神信仰の考察を試たが、まだ不十分な点が多い上に、この研究のテーマとして最も難しいが重要な点であるカマド神信仰と面(土偶人)との結びつきまで考察し得なかった。今後の課題としたい。 




森口多里論集 民俗編 (s61)

かまがみ隠退
 カマガミは旧伊達藩領のものといってよいと思う。岩手県の内陸部における旧伊達藩領の北端は、いまは北上市に編入されている旧胆沢郡相去村であるから、相去(あいさり)のカマガミはカマガミ分布の北限と考えられてよいわけである。
 旧相去村山根の高橋さんの家は国道から少し離れて西に低い林丘をもつ農家で、南はひろくひらけ、一本立ちの椿が花を一ぱいつけていた。平泉辺が北限と思っていた椿がこのあたりでこんなに高く育つとは意外であった。南に離れてこれも孤立のマダノ木がまだ葉の余りのびない枝を張った幹を教本そろえて一つ根元から青空に向って高く背のびさせていた。民芸には縁の深い木だ。ことしの三月一日にきたときは枝はまだまだ、まったくの裸であった。
 この家のカマガミは旧伊達藩領の一番北にあるカマガミだが、三月一日にきてみたら家はいつのまにか改築されていてがっかりした。農家だからニワは残されているが狭くなり、元の柱は一本もない。カマガミさんはどうしたかときくと、クラに仕舞ってあるという返事だ。元は右勝手の南面の家の間口ニ間半、奥行四間のニワの中程に東寄りにカマ柱が立ち、それから一間半ほど北に離れてヨメゴカクシ柱が立ち、いずれもチョウナがけの大まかな削り目を見せ、後者の前には大きな瓶が据えられ、その隣に雑水釜のクドがつくりつけられていた。この家をたてたとき、そのヨメゴカクシ柱の上部に縄を十数層に巻きつけ、その上にクドの余り土を塗りつけて、南面するカマガミの面をつくった。威嚇的な相貌の面は戸の口の方をにらんで邪霊の侵入を防いでくれるので、その両眼の威力感を増すためにイシガタ貝をはめこんだ。貝は内側を外にしていたので、口をへの字に結んだ、襞の深い、煤けた顔に、目尻のつり上った両眼だけは白く光っていた。クラに隠退させられたカマガミを明るみに取出してもらってあらためて見直すと、柱を巻いていた縄の層は真中から断ち切られ、面の上の方は少し欠け、元は高さ四〇センチであったものが三八センチになっていた。横巾は耳のところで三五センチ。口は少しあいて歯ならびが見えるが、この歯には竹を使ったらしい。
 この家ではカマガミサンは火事火難を除けてくれると信ぜられていた。元は家中の神さまに毎朝お飯と線香をあげて拝んだのでカマガミサンにもそうした。年取りの晩にはオサンガイ(三つ重ねのお供え餅)をあげた。暗いクラの中に隠退せしめられているカマガミサンは以前をしのんで感慨無量であろう。
 カマ柱のそばには煉瓦でクドが築かれているがこれは後のものである。前からの雑水釜はハツイリガマともいい、洗い水やシロ水をこれで毎朝煮て馬の飼料にかけた。春先には味噌をつくるためにこの釜で豆を一斗ぐらい煮る。
 ニワの西の板間は板戸で仕切って北半分を台所とし、南半分をウチギとよんでいて、人の集るときは仕切りの戸をはずして座をウチギまでひろげる。仕切りの東端とニワとの接するところに最も大きな柱が立ち、これをウシモチ柱とよんでいる。カマ柱とウシモチ柱とは東と西に二間へだててならび、その上にウシ梁が乗っていた。ウシモチ柱のニワ面には水汲み用のカツギ棒がかけておかれた。ウシモチ柱(杉材)の頭のホゾはウシバリに差しこまれていたが、改築のときこのホゾをぬいてみたら、建てた当時の墨書があらわれた。ホゾは高さ九寸三分(二八センチ)正面の幅は三寸三分(一〇センチ)、側面の幅は一寸七分(五・一センチ)。正面には次のように墨書されている。
  寛政二かのへ戌二月廿七目柱立
  大工主立相去村七郎兵衛
  脇大工(二行の文字不明)
側面の墨書は
  安右衛門年五拾壱歳之節
  お立申侯
安右衛門というのはこの家を建てた時の高橋家の主人であった。寛政二年は百七十三年前だが、これが同時にこの家のカマガミの製作年代と考えてもよいであろう。

笑顔のカマガミ
カマガミ(竈神)またはカマボトケをヒョットコ(火男)に結びつけることは柳田先生の「竈神の由来」からの鼓吹にちがいない。先生が交通の不便であった時代の三陸海岸を歩き続けられ、その紀行を「豆手帳から」という題で朝日新聞に連載されたのは大正九年の夏で、わたしは毎日スクラップするのが楽しみであった。この紀行文に特に「竈神の由来」の小みだしで、爺さんが地下の宮殿の美しい女から「何とも言へぬ見とも無い顔の、臍ばかりいぢくって居る児」をもらって帰ってその臍から出る金の小粒で富貴になったが欲張りの婆さんのために子供は死んでしまい、爺さんが悲しんでいると、「夢に其子が出て来て、泣くな爺様、おれの顔に似た面を、毎日よく眼に掛る所に掛けて置け、そうすれば家が栄えると教へてくれた。子供の前名はヒョウトクと謂った。それ故に此辺の村々では今日まで、醜いヒョウトクの面を木で作って板の上に掛けておき、之を江刺郡では『かまぼとけ』とも呼んで居る。」と書いておられる。  この話を先生に聞かせたのは佐々木喜善さんで、同君の「江刺郡昔話」(大正十一年)に同じ授福譚が出ていて、「……其れ故に此の土地の村々では今日迄、醜いヒョウトクの面を木や粘土で造って、竈前の釜男(カマヲトコ)といふ柱に懸けて置く。所に依ってはまた此れを火男(ヒヲトコ)とも竈仏(カマホトケ)とも呼んで居る。」と話を結んでいる。また巻尾に添えられている「江刺を歩き」のなかで、「ヒョウトクはヒョットコ即ち火男であらうと謂ふ説に、自分も何等の異議も無い。」といっている。
 ヒョットコ面といわれるものは口が尖っていたり、その尖った口が曲がったりしていて、いかにも火吹竹で火をおこしている下男の顔を思わせ、神楽の狂言ではいまでも道化面として用いている。いわば人から馬鹿にされるようなおかしな顔、滑稽な顔、笑わせる顔である。家族の中で一番身分の低い男を象徴する顔でもある。
 実際のカマガミは、笑わせるどころかおっかない顔で、子供が泣けばカマガミサンにつれて行くぞとおどかすほどである。また床の間に向けてかけておくと、そのおそろしい顔でその家の主人をにらむからいけないなどともいわれ、つねにニワの入口に向けて柱にかけることにしている。天綱島時雨炬燵の紙治内の段でおさんの父の五左衛門が、紙屋治兵衛をいさめる言葉に、「女郎のまこととな、鬼瓦の笑い顔とはないものじゃ」というのがあるが、鬼瓦の代りにカマガミをもってきてもいいわけで、カマガミはいつも威嚇的な顔をしていて、おそらくその顔で外から侵入しようとする悪霊を追い払うのであろう。カマガミはヒョットコどころか、むしろ威霊的存在である。
 カマもここではカマドまたはクドに仕掛けてある雑水釜、すなわち、馬糧のための水を沸かしたり味噌のための大豆を煮たりする大きな平釜のことで、農家では飯は台所の炉で鍋でたくのが一般であった。炉の火の神とカマガミとを直接に結びつけることにも疑問がもたれるわけである。
 女郎の誠とカマガミの笑い顔とはないものじゃ、といえばいえるのだが、意外にも東磐井郡(岩手県々南)の一隅には笑顔のカマガミが存在していた。
 東磐井郡の曽慶はいまは大東町に編入されているが、まったくの農村で、起伏のつづく地勢で、水田も細長い傾斜地に棚をなしてつくられているところが多い。苔の美しい岩肌が、段がたの水田に迫って、岩の裾を細い清流が走っている。この曽慶の奥の清水という部落の佐藤さんの家のニワの、台所とは反対側(北)の壁の中央にウシ(あるいはウス)柱がピラスターのように立っている。台所の奥(南)にはナカマ(東)とオカミ(西)(茶の間に相当する)とがならび、この二室の合わさり目と台所との仕切りに大黒柱が立っている。ニワを横断してウシ柱の上から大黒柱の上に、それから更に南に延びて架されているのはウシ(あるいはウス)梁である。ウシ柱の上部に杉材のカマガミが南面してかかっている。これがいともにこやかな表情のカマガミである。頭巾をかぶっているので大黒さまのように見える。事実、東磐井郡室根町の某家ではやさしい顔のカマガミを竈大黒とよんでいる。ここではウシモチ柱(ウシ柱と同じ)の北、ニワのカマドの前に立つのが大黒柱で、この柱に竈大黒をかけることにしている。この木製仮面の下に「木の耳」というキノコをとりつけてお供えをのせる棚にしている。木の耳はサルノコシカケであろう。曽慶のカマガミは高さ約一尺二寸(三六センチ)、横幅は耳のところで一尺○二分(三〇・六センチ)、厚さは頭巾のところで約七寸(二一センチ)で、背面は平らに削られている。頭の中央から上に高さ約四寸(一二センチ)の方形に切り残して釘にかける孔をあけている。顔の彫りは深い。
 曽慶も清水部落からずっと西に寄るとバスの終点に近いあたりは人家も多くなるが、大きな家は道路の北側を縁どる高地にたっている。後沢部落の岩渕家も道路から坂を上ったところにあって、ここでは左勝手のニワに、平前寄りに栗材のウシモチ柱、その向うに自然木(栗)のゆるいカーヴをそのままにして八角に面をとった太い柱、とこう二本がならび、後者の上部にカマ別当とよばれる笑顔の仮面(ひば材らしい)がかかっている。鑿を筋目にならべた頭巾をかぶり、その正面に宝珠がついている。顔は肉づきがよくて耳が長い。高さは宝珠の頂から顎の先まで一尺二寸、横巾は頬のところで両耳の附根の間が約一尺(三〇センチ)。厚さは頬のところで約五寸(一五センチ)。背面はやはり平らに削られている。自然のゆるいカーブをのこして頑丈に立ち、四方から梁や貫を集めている太い柱の上部にカマ別当のかかっている構造形態がよいのだが、光に乏しく、それにフラッシュも三脚も用意していなかったので撮影には失敗した。
 しかし曽慶といえども笑顔のカマガミばかりではない。同じ曽慶の水上部落のやはり道路に向って高所に建つ足利家のカマガミは口をかたく結んだ渋い顔である。この家は右勝手で、ニワには右に寄せて三本の柱を立て、いずれもウシ柱だそうで、真中のものはナカウシとよばれている。カマガミは三本目のウシ柱にかかっている。家を建てたとき、近くの山にある熊野山神社の法印がつくったものだそうである。法印はダイガク院といって今の当主は三代目で、その大きな屋敷は道路からも見られた。このカマガミはヒバ材で、高さは一尺七寸(五一センチ)、横巾は鼻の下あたりで約一尺七寸、厚さ頭の上方で二寸五分(七・五センチ)背面は刳ってある。渋い顔つきだが、他の町村の威嚇的相貌のカマガミに較べると、どこかユーモラスなところがある。

よい目・わるい目
 ローマの博物館に図柄の一風変ったローマ時代のモザイク画がある。図の中心は矢に射られた一つの目で、それに四方から犬が襲いかかっている。邸内の壁には絵をえがき、床のおもてはモザイク画で飾るのが古代のローマ人の慣習であったが、それにしてもこの薄気味の悪いモザイクはどんな室のものであったろう。矢のささった目はイヴィル・アイ(邪視)であることはわかる。悪意をもって睨めば相手にたちまち悪い影響を与えるのがイヴィル・アイで、これを防ぐためにはいろいろの呪法が行われたらしい。殊に幼児にとっては予防が必要であった。ロ−マの博物館にあるモザイクも、イヴィル・アイの魔性を退治する呪的効果を期待して制作されたものにちがいない。
 魔性のあるなしにかかわらず、目とは不思議なもので、顔に誰かの熱い視線がそそがれていると、なんとなくそれが感ぜられるものだ。竿の先にモチをつけて野鳥にそろそろ近づくときは狙う獲物に視線をあててはならないといわれている。こういう視線は空間の第三次元を無視した何かの力をもつものらしい。  紀元前三千年紀の前半期といえば途方もなく古い話だが、その時代のオリエントやオルナード(南イタリア)の石の神像に、石膏で円形に縁取った石を嵌入して目としたものがあって、まるで大きな眼境をかけているように見える。これはおそらく神の両眼の威力を造形的に誇示したものであろう。
 これをみて直ちに思い出すのは、宮城県北部から岩手県南部にいまでも追っているカマガミサマである。土製または木彫のカマガミはニワ(屋内の土間)の柱の一つにかけられ、常に入口の方に向いて怖ろしくいかつい目をむいて、悪霊を寄せつけない。そしてその目の威嚇感を強化するために目には鮑貝などの内側を見せて嵌入して光らせることもある。オリエントの神々も、その誇張された両眼の霊力によって住民を護ったのであろう。
 だからイヴィル・アイのように邪悪な目もあれば、他方オリエントの神々やカマガミの目のように悪霊を近づけない目もある。わたしのノートには南イタリア出土の古代土器で、形が番茶を煎るのに用いるホウロクに似たものがあって、その把手のおもてには丸い大きな目のならぶ人面がえがかれている。これは「魔除けの目玉」のついた土器といわれている。目をもって目を制するわけである。器物にえがかれたこの目は、初めから呪的効果という目的をはっきり顕示しているが、そんな大それた目的とはなんの関係もない器物の目である。目籠の目がそれである。これは二つそろって睨んでいる目ではない。同じ形の孔がメカニックに無数に寄りあつまってまったく実用のための一つの面なり空間なりを構成しているのだから、つまり一つの「物」であるに過ぎない。ところがこの単なる「物」が意外な呪的効果を発揮する、というよりは発揮させられるのだから妙である。
 わたしの子供の時分には、水沢の町家では旧暦の二月八日にはオモテ(店)に目籠をつるす旧慣がまもられていた。この日は悪い神さまが下がってくるのだが、目の沢山ある「物」がさがっているのを見て、おそれをなしてその家は避けて通るのだと、母は言っていた。この日は団子をつくって、その七粒を桃の枝につけて目籠に添えた。この桃の枝も呪的作用をするものらしい。
十二月八日には、悪い神が上がってくるといって同じようなことをした。水沢ではこれらの行事は疾うの昔に廃滅したが、こちらに移って終戦後の北上市の近郊をしらべてみたら、立花や黒岩ではまだ行なっていた。ただ冬の方は十二月でなく十一月である。目籠は籾通しを使う農家が多い。最近は行ってみないからやっているかどうか分らない。農家だから桃の枝は畑地にさす。




民俗の四季 (著者:森口多里 S39)

かまがみ
カマガミ、カマボトケ、カマオヤジ、またはカマオトコとよばれる呪法的仮面が民家の台所の柱にかかって大戸をにらんでいるのは、県南の旧仙台藩領だけのようである。もちろん宮城県の北部にも見いだされる。
仮面は木彫りまたは土製で、後者は左官のコテによる造形であろう。いずれも両眼を大きくむいた忿怒相だが、特に木彫りのカマガミには狂言面の武悪に似たものがある。刀法は概して粗剛である。木彫りのカマガミは柱から取りはずすことができる。これは中尊寺の大長寿院にもあって檜製、高さ二九センチ。一日、十五日、二十八日に小豆ご飯をあげるほか、節句には供えものをする。火難よけとして火をたいせつにするためにまつるのだという。またチョセバ (手をかければ)頭痛がするともいわれ、煤はきのとき箒がさわっても頭が痛むという。いまの住職のおとうさんが思いつきで鉢巻きをさせたら、本人は鼻血を出して頭をやみ、おまじないをしてようやくなおったそうである。
宮城県の涌谷ではカマオトコがその家の主人をにらむといけないから床の間の方に向けて柱にかけることを忌むそうである。その反対に大戸口に向けてかけておけば、はいってくる悪霊をにらみつけて追い返すであろう。おそらくこれがカマガミの呪的性能で、したがってその目の威力を強化するために、両眼にアワビやハマグリの貝殻を用いることがある。貝殻は内側を見せてはめこむと、黒くすすけた仮面の両眼だけが青光りに、または白々と目立ってすさまじい。
水沢市福原字前谷地の佐藤家のカマ柱にかかっているカマガミは、柱はニワと板間との境にハシリ(流し)寄りに立ち、これは実はヨメゴカクシ柱である。新しい嫁は客がニワからはいってくると恥づかしがってこの柱の陰に隠れるからこの名でよばれるのだという。土製で、高さ約三三センチ、幅約二四センチ、裏は刳ってあり、目と鼻は深い穴になっているから、おそらく木彫面を手本にして作ってから柱にかけたのであろう。
胆沢郡の旧相去村山根(現北上市)の高橋家の「カマガミサン」はこれとは反対にヨメゴカクシ柱に繩をぐるぐる巻いてその上に土をつけて作ったのだから定着している。高さ四〇センチ、幅三五センチで、目にはイシガタ貝をはめこんでいる。カマドを築いたときこの家で使っていた若い者が余り土で作ったものだという。カマドといってもご飯をたくへッツイではなく、馬糧などを煮る雑水釜のクドである。
福原ではカマガミはハヤリカゼを防ぐといって毎月二十八日にアゲホケァする。忿怒相でにらんで病気の神さまを寄せつけないのであろう。したがって南面してニワの入りロの方に向いている。胆沢郡旧小山村(現胆沢村)ではカマオトコとよび、魔よけだといっていた。福原のものは頭上から馬のワラグツを振り分けにたらし、ワラグツはまるでカマガミの大きな耳のように見える。ワラグツは飼い馬をまもるために上げたもので、毎年二月二十八日に取りかえるという。カマドと馬との関係を考えさせる一資料である。
山で炭を焼いていた男が通りかかった女に誘われて夫婦になったら、その晩から米とぐ井戸の水が酒となり、泉の酒とよばれて多勢の客が押しかけてきたが、よその且那がきて女房を連れ去り、その時から酒はわかなくなった。男がその旦那の家にたずねて行っても女房を隠して会わせなかったが、その家のカマ柱の底から酒がわいていたのを見て女房のいることがわかり、その家の子になって一生養ってもらった。壁土を手で塗っていた時代のことだったという。佐藤家のカマガミはこの男の兄弟で、女の方は東の家のカマオンナになった。二十八日はカマガミの兄がこの女と結婚した日だという。
どうもこの話には何か脱落があって訳のわからぬところがある。東の家のカマオンナにはどこか女らしい優しさがあったそうだが、今は失われている。




民俗の断章 (著者:三崎一夫 H8)

【栗駒の里】
  ◎竈神
岩手県の南半地方と宮城県一円にわたって、土製または木製の恐ろしい面相をした人面が、カマガミまたはカマオトコと呼ばれて、旧家のニワ(土間)の竈の上に当たる柱に、戸口を睨んだ位置に掲げられている風を各地でみることができるが、なぜこの信仰がこの地帯にのみ分布するかは筆者には解き得ない。福分のある妻を追い出した男が零落し、やがてその妻の家を訪れて、竈の傍で死にこの神に祀られるという由来が語られている。この由来はすでに「神道集」にあり、かの謡曲「葦刈」の素材にもされている。
 この地方に隣接する玉造郡鳴子町鬼首で採集したものであるが、竈神の由来について次のように伝えている。
 昔、某家に醜い顔をした若者の乞食が訪れて来て、雇人にしてくれという。しかし、その家では娘が病気で長く床についており、雇人も数人いるので断わろうとしたが、この男が家に入るとき、倒れている箒を土間の隅に立てかけたので、見どころのある者と思って、その家の火焚き男に雇った。娘の病気は神仏に願っても、医者に見せても一向に良くならなかった。年ごろになったので、婿をさがすことになったが、娘はかの火焚き男がよいという。この男を婿にすると、娘の病気は次第に良くなり、やがて快復した。この家はその後大変繁昌した。この火焚き男を祀ったのが竈神である。
また、影和郡東和町楼台に伝えるものは、
 昔、某家で一人の乞食男を雇ったが、この男は一向に働きもせず、ところかまわず糞をした。竈の前にまでした。この男はしばらくすると何処ともなく旅立って行った。その後竈の傍を見ると、かの男がした糞が黄金になっていた。それでこの乞食男を竈神に祀った。それからこの家はますます繁昌した。
 もう一つ玉造郡岩出山町真山では、
昔、ある女が嫁に行ったが、働きが悪いといって出された。その家では後に働きものの嫁を貰ったが、まもなく漬れてしまった。その家の男は乞食になって、方々歩いているうちに、訪れたのは前に出した女の家であった。女は男に握り飯を食べさせ、銭を与え、その家の火焚き男に雇った。しかし男は竈の前で死んだ。この男を祀ったのが竈神である。と語っていた。
 面の竈神を祀らずとも、この地方では一般に竈の傍に竈の神を祀り、正月にタレを多く下げた注連縄を供え、正月の他の注連縄などの飾り物は、正月が過ぎるとはずされてしまうが、この神のものはおろされず、毎年のものが供え加えにされ、数多く重ねられている。この注連縄は屋根替えのときおろされ、この縄を数えると屋根替えをしてからの年代を知ることができるともいっている。このことは正月の神が祭りが終わると送り出されるが、この神は家に常住する神であることを示すもので、この神は家の守護神であるという機能を持つことを物語るものであろう。

【民俗の野帳(2)】
◎竈神について
岩手県の旧仙台領一円から、宮城県の県南刈田郡までの間の農家に、カマガミ・カマオトコなどと呼ばれて、土か木製まれには瓦製の、恐ろしい形相をした面が、竈の上の柱にその入り口を睨んで掲げてある例を、そっちこっちで見ることができる。私はこの竈神の造形的な面白さとともに、このように異様な神がどうしてまつられたか、しかもこの地方に限って分布することに興味を持って、すでに五十に近い数のこの神の写真を蒐集し、祭り方などにっいての資料を調べているが、多くはただ魔除けであるといっているだけで、その起源を辿るのはむづかしくなっている。
 ともあれ、掲げられている場所から、屋根にあって家に寄りつく悪魔をよける鬼瓦と同じように、戸口から侵入してくる魔性のものが竈を襲い食べ物につくことは、それを食べることで体内に入り、恐ろしい結果になると考えられたからであるに外ならない。
 竈神すなわち火の神は、水の神とともにおそらく人間が神というものをまつり出したときからあった神であったろうから、考古学的に出土される住居跡などにも、竈の近くに祭壇が発見されることがあるというが、これもやはり火の神をまっったものであろう、いずれ火がまつられ、祭りに火が登場することは、ここに並べたてるまでもなく、火は祭りに付き物といってもよい。
 家々でも正月には神棚と同じように、井戸の水神とともにお竈さまにも必ず注連縄が下げられ供え物される。特に竈神に供えられる注連縄は年縄といって、他の注連縄とちがって正月がすぎてもおろされず、屋根を葺き替えるときまでそのままにして置かれる。したがってこの縄を数えると屋根の年代がわかるという。なぜこのようにするのか私にはまだ解きえないが、すっかり煤になってぶ厚く重なっている年縄が良く見かけられる。
 われわれの先祖はこの面を何に基いて作り始めたのであろうか、先ず考えられるのは、縄文土器の土偶や土面を作る伝統が我が国にはあって、男鹿のナマハゲとか、三陸地方のスネカの面となり、それが取り入れられたものか、大陸からの文化、例えば伎楽・舞楽の面、更には仏教に付いて入って来た忿怒形の像なども考えられるが、いずれとも決める手掛りは全くない。ともあれ竈神は悪魔を睨み返さなければならない。したがって目にはアワビ貝が使用されることが多く、煤で真黒になっている中で、あの目の輝きは実に素晴しい着想であると思う。この目を暮れの煤払いに拭いてやるという家もあるし、竈神は煤が好きだから払うものではないともいっている。
 数多くの竈神を見ていると、上手にできているのは、その家が作られたときの左官とか大工などの職人によって作られており、そういうのは形は整っていても面白くなく、多分その家の主でも作ったのであろうと思われるのが出来が拙くとも力強く、それとこれとは一見区別がつくようである。
 竈神の縁起を伝えるものはほとんどなくなっているが、ある男が結婚することで幸福を得るが、妻が河かの理由で家を去ってまた不幸になるという構成を持った話がこの神に結び付いているようである。この神が三宝荒神であると修験道とか陰陽道によって説かれており、私も祖母にお竈さまはオコージンさまで恐い神であると聞いている。毎月二十八日を祭日とする処も多いようだが、これも荒神に関係するものらしい。一般では正月に供え物をする位いで、たまには田植えのときするという例も聞いている。その他に平泉中尊寺の大長寿院にもありと森口多里さんが書かれており、石巻牧山の別当であった長禅寺が今社務所になっており、その台所にも掲げてあって、民家ばかりでないことに注目したい。
 大体竈神は家とその運命をともにするようで、建てられたとき作られ祭られて来たが、最近古い農家もモダンな家に作りかえられつつあるので、もうすぐこの世から消え去る神かも知れない。
 今残っている神も、昨今の怪獣ブームにはすっかり威力をなくし、いたずらに煤にまみれ、乳のみ子の泣き声を止める機能も次第に失いつつあるのである。

【東北の民間信仰】
◎竈神さま
竈に神を祀ることは全国的のようであるが、特に土や木で恐ろしい人面を造り、カマガミサマまたはカマオトコといって、土間の竈の上の柱に掲げて祀る風が、岩手県の旧仙台領から宮城県一帯にあり、一部は福島県にも分布している。この神の由来として、昔、嫁を追い出した家があったが、その女には福分があって、その家は潰れ主は乞食になる。この乞食がある家で物を乞うと、その家には先に追い出した女が豊に暮らしている。乞食はこの家に雇われ、やがて竃の前で死にこの神に祀られる。この筋は「神道集」という室町初期の書物にすでに載せてあり、謡曲の「葦刈」もこの話を元にしている。いずれこの神は家の守護神として、家に入る魔性のものを防ぐために祀られたものであろう。正月にこの神に特別の注連縄が供えられる。他の注連縄は正月が過ぎるとはずされるが、この神のものはおろされず、毎年のものが供え加えにされて何十本も重ねられている。これはこの神が家に常駐する神であることを物語っている。




異形の神 カマド神 −カマド神は語る―(北上市立鬼の館H8)

【火と信仰】
「火」は、地球の成立過程に大きな影響力をもつばかりでなく、人間の誕生と生活にもその影響力が見られます。人間社会での「火」の発見は、旧石器時代まで遡りますが、この発見はそれまでの生活文化を一変させ、「灯火」や「暖房」として、また煮る・焼くなどの「食料加工」の手段としてこれまで重要視され発達してきています。日常生活において「火」や「灯」は人のより集うところであり、ある意味では生活の拠点とも言え、主的役割を担うものとして人と密接なつながりを持ち、あらゆる習俗文化に浸透し、いろいろな方面に波及しながら現在に至ってきています。
古代中国思想の陰陽五行説にみられる相乗・相剋の原則は、万物すべてこの法則からなるとして説明しています。すなわち「火」もまた、当法則に照らしてみると相乗・相剋の法則から成り立つことが理解できます。
「火」の相乗効果としては、「木」を擦り合わせることによって「火」が生まれ、さらに「火」が物を燃やし尽くすことによって「土」が生まれる。この反対の相剋効果としては、燃え盛る「火」は「水」によって剋され、「火」は、鉱物を熱によって溶かすことから「金」を剋すとされます。
このように「火」は物を燃やし尽くし、無に帰してしまうというような恐ろしい畏怖の面と物を作る、また加工するという畏敬の面の二面性を兼ね備えた特異性をもつことから、あるものは民間信仰の対象とされ、またあるものは宗教法具や宗教儀礼・仏像並びに年中行事に取り込まれるなどさまざまで、あらゆる方面に波及して信仰の対象となっています。
「火」を象徴化し、具象化して、形として表現した最も古いものに縄文時代中期に製作された深鉢型土器があります。これは一般に「火焔土器」と呼ばれるもので、口縁部に燃え盛る炎を形どったものです。縄文時代における「火」は日常生活において、現代のそれ以上に重要な位置を占めていたものとみられ、火に対する畏敬・畏怖の念から、生活のなかで特にみぢかな用具である土器に表現し、象徴化したものと考えられます。また、仏像等では、悪しきものを打ち破るとされる忿怒の形相をした仏像、特にも不動明王・軍荼利明王・降三世明王・大威徳明王・金剛夜叉明王に代表される五大尊像や四天王立像の光背にみられる火焔光、六道絵に描かれる燃え盛る火炎等は、「火」の持つ勢いと荒々しさを象徴化し具備したものと考えられます。
一方みぢかなものとしては、お盆での迎え火やトウロウギ、送り火や灯籠流し、アンドン祭り、舟っこ流し、ドント祭など盆行事や小正月行事にもみられ、さらには、キャンプなどで行われるキャンプフアイヤーもまた同様の意味合いを示すものです。これらはすべて、火が持ち備える二面の特異性を象徴化し、または具象化して信仰の対象としたものです。
「カマド神」信仰も「火」に対する畏敬・畏怖の念から生じた火伏の神として、人間の精神的な面での現れであり、象徴化された偶像崇拝の一つです。

【カマド神】
竃神信仰は、旧中国全土及び朝鮮半島でも福徳の神や延命長寿・家内安全の神として祀られる民間信仰です。名称は、地域によって異なり竃王・竃君・竃王爺とさまざまです。
我国においても、同様であり、火伏の神・魔除けの神・福徳の神として全国で信仰の対象にされています。しかし、宮城県から岩手県南部(旧仙台藩領内)にかけて信仰されるカマド神は、「火」を象徴化し、偶像として祀られる独特の民間信仰であり、全国的にも異質の民俗風習となっています。
一般にカマガミサマと呼ばれますが、地域によってはカマドガミ・カマベットウ・カマヅンツアン・カマオトコ・カマノカミサマ・カマダイコク・カマメンコ・荒神・土公神など異なった名称で呼ばれています。
カマド神は、土製と木製の2様があり、近年ではコンクリートや焼き物製があります。土製品は、一般的に大型の物が多く、粘土や壁土を素材とし、自然乾燥で形成されます。面相の作り出しは、一定せず頭部にネジリ鉢巻きを巡らすものや髭を生やすものなど製作者の意志が反映され、目や口元に貝殻・瀬戸物を埋込み表情を豊かにするものが多い。
木製品の材質は、ケヤキ・マツ・スギ・キリ・クワ・ミズキ等が使用され一定せず、特にカマド神と材質についての因果関係はないものとみられます。製作方法は、平ノミと縦ノミを駆使して面に立体感を持たせるように製作され、入念なものとなっています。面相は、土製の素朴さに比べ怒りを表現した忿怒の形相をしたものが多く、目や口元に彩色を施すものもあります。一般にこれらの相違は、製作過程における「土」と「木」という素材に関係するものと考えられます。

【カマド神の種類と祭祀の理由】
民間信仰の一つとして、家々に祀られるカマド神の素材には土製と木製があります。これらの面相はいろいろですが、大別して次の四つの形態がみられます。
@怒りの表情をした忿怒面。
A平頭巾を被り柔和な表情をした大黒面。
B烏帽子状のものを被り柔和な表情の夷面。
C人間的な表情の人面。
A・Bの夷大黒の二神は、七福神の筆頭にうたわれる神で、福徳の来訪をあらわすめでたい神の代表とされます。この二神がカマド神として祀られる理由には次のことが考えられる。
家が衰退することを「カマドを返す」、家族の一部が分れて一家を構える、分家の事象などを「カマド分け」、「カマドをつくる」の言葉で表現することがあります。ここで言う「カマド」とは「家自体」を意味する言葉です。家における竈は、家の食と火を司る場所であり、食は、家の繁栄を映しだすバロメーターとされ、火は家の存亡を左右するものとされます。
このように竈は家の存続をはかるうえで、中核をなす場所であることから、福徳の神、火伏の神として竈付近に祀られるのも当然であると考えられます。 @は、厳しい怒りの表情で家の出入り口に向けて祀られる神で、家に害を及ぼすような邪悪なものを防ぐ魔除けの神とされますが、実際これも家を守ることとなり、繁栄をもたらす福徳の神として祀られています。
Cは、家の戸主に似せて造られたとされるもので、囲炉裏の上座に向けて祀られます。これもまた家に福を招く福徳の神とされます。
こうして、火伏の神・福徳の神・悪疫除けの神・盗難除けの神として、また台所に立つ女性を守る神として、家に繁栄をもたらし家全体を守る神としてカマド神は祀られます。

【祭祀の場所】
カマド神は、土間の竈付近に祀られるのが一般的であり、どの地域でも共通しています。その位置は竈より高く祀られるのが普通ですが、取り付けている位置は一定していません。地域によって、家の造りによっても異なりますが、主によく取り付けられている柱として、ウシモチ柱・カマ柱・大黒柱・ヨメゴカクシ柱などが一般的です。この他にも家の間取りとの開連から竈付近の梁や長押に祀られる例もあります。
岩手県南部の北上市や江刺市では壁に塗り込み祀る方式の例があり、これは主に竈の上部の壁土に塗り込まれて祀られています。一般に人面のものが多く、西方(囲炉裏方向)を向けて取り付けられる場合が多いのが特徴です。
柱とカマド神の種類との関係をみると、ある程度の共通性が伺えます。ウシモチ柱やカマ柱には4種類の面相のいずれか1体が祀られ西方又は南方を向いています。大黒柱には、忿怒面・夷大黒面が祀られ東方を向き、ヨメゴカクシ柱には、忿怒面・夷大黒面が祀られ南方を向きます。これらはカマド神の種類によって位置が定まっていたものと考えられます。しかし家の間取りとの関係から、一括して竈付近に祀られる例も数多く見受けられます。
宮城県中田町では竈付近の梁に忿怒面と大黒面を並列して祀る所があります。これは、竈が玄関方向をむくため魔除けの神として忿怒面を、火伏の神として福徳の神を祀ったものです。

【制作年代と製作者】
カマド神についての最も古い記録として菅江真澄(1757〜1829)の紀行文があります。天明6年(1786)9月に現在の宮城県河南町の曽波神地区を訪れた際に、土製のカマド神を見て記されたものです。この紀行文から、210年前にはすでにこのカマド神信仰が普及し定着していたことが理解できますが、どこまで遡るかは不明です。
宮城県鳴子町や金成町には、文化11年(1814)の銘をもつ木製のカマド神や明治3年(187O)の銘をもつ土製のカマド神があります。このような特例を除き、年代を不明とするものが一般的なようです。
製作者についても、同様ですが、一般に家を建てた時に大工や左官屋によって、また家の戸主や神主によって作られたと伝えられます。
しかし、実際に製作者を明確に伝えるものは少なく、金成町の佐藤東三郎(花泉町住)や仏師蘇武(一関市)・高橋久助(鳴子町)・及川亀寿(千厩町)・佐藤金治郎(東山町)等が知られています。中でも目に盃を伏せて埋め込み、細い粘土紐を貼り付けて表情を豊かにし、さらに髭や眉に真綿等を使用した特徴あるカマド神を製作した陸前高田出身、桃生町脇谷住のハダカカベ(1865〜1933)は有名です。

【カマド神の分布】
カマド神の分布地域は、南は宮城県白石市から北は岩手県石鳥谷町の範囲に分布します。この範囲は、旧仙台藩領内と旧南部盛岡藩領内に属しますが、中でも仙台市以北から岩手県一関市の近隣にかけて分布し、とりわけ宮城県北東部から岩手県の東磐井郡にかけてと宮城県北西部の古川市以西と奥羽山脈沿いの地域にかけて集中します。
岩手県では一関市や大東町・藤沢町をはじめとする東磐井郡下に多く分布しますが、それより以北の藩境にかけての分布状況は激減し、数例に止まります。仙台藩と南部藩に跨がる北上市では7体が確認されていますが、この中には南部藩領の江釣子や和賀地区のものも含まれています。この他に花巻市や東和町でも祀られていることから、カマド神の分布は、この地域が北限として考えられます。南限については、宮城県白石市で1体が確認されていますが、このカマド神は、仙台市秋保から移されたもの(東北歴史資料館調べ)とされ、分布での南限は、蔵王町・村田町・柴田町・岩沼市を結ぶ東西線が、これにあたるものとみられます。
このように藩境と藩政策を越えて祀られるカマド神から、隣接する各地域間の習俗文化の結び付きを推察することができます。




香陵 第19号(宮城県気仙沼高等学校生徒会編 S61/2)

気仙沼・本吉地方の「かま(竃)神さま」について
【はじめに】
 当地方にも昔からの民間信仰を示すものは幾つか残されているが、その一つに「かま神さま」がある。
 かま神さまは、昔は当地方にも数多くみられ、広く信仰されていたようだが、現在では、ガス・電気・石油の普及、家屋の新・改築、それに津波や火災などにもより、その数は少くなり、また信仰心もだいぶ薄らいできているようだ。  そこで私たち社会部では、本年度の調査テーマとして「かま神さま」を選び、現在、当地方には、どの位の数の、またどんな形状のそれが保存され、祀られているのか、更にその祀り方や昔の人たちが「神さま」や「火」に対してどのような考え方をしていたのかなどを調査し、まとめてみることにした。
 調査方法は、社会部員二十六名を五班に分け、主に夏休みを利用して気仙沼市および本吉郡内の各関係機関(主に市役所・町役場・公民館など)やそれを祀っている各ご家庭を直接訪問し、資料収集(写真撮影を含む)並びに「聞き取り調査」により行い、顧問の先生のご指導を仰ぎ、まとめたものである。

【「かま神さま」とは】
 かま神さまとは、地方によっては「カマドガミ」「カマオトコ」「オカミサマ」「カマオニ」「カマシン」「ヒョウトク」「ショウトク」などとも呼ばれ、主に農漁家の火所であるカマド(竈)や台所付近の柱にかけて祀る神さまのことである。
 分布は、宮城県の北部から中南部(主に山間部地方の旧家)にかけてと、岩手県の南部(主に遠野・江刺・東磐井・気仙地方)に多く、いわゆる旧仙台藩領内に多く見受けられるようである。隣県の山形、福島あるいは秋田からは、その存在はまだ確認されていないようである。
 面の大きさは、上下一メートルを超える大型のもの(畳み一畳ぐらい)から十数センチメートルの小型のものまであり、また、面長のもの、丸顔のもの、角顔のものなどさまざまである。材質は、土製(粘土・壁土など)や木製のものが多く、まれに唐金(青銅)製や張り子のものもあり、現在では素焼きやコンクリート製のものまでみられる。土製のものは、左官やカマド職人がそれぞれ壁土やカマド作製の時の土を用い、木製のものは、家大工が「ウシモヂバッシャ」(大黒柱)の残り木などを利用して作製したもののようである。そして作製した面は、多くは「ウシモヂバッシャ」に祀ってあるが、中にはカマド付近の細い柱や梁に祀ってあるところもある。これらに共通して言えることは、神さまという性格上、作製の上手、下手はあまり問題とされず、また、面のすぐ下方に「カマジメ」と称する「シメ縄」を飾ったり、あるいは、面の下方に神棚を設け、御神札や御幣束を立てて、その家の守護神として祀っていることである。
形相は、ほとんどが憤怒の相であるが、まれに大黒さま、ヒョットコ、仏像に似たものもみられ、その表情もさまざまで、目を開けたままのもの、歯をむき出しにしたもの、ひげをつけたもの、おだやかな顔つきのものなどがあり、特に目や口の作りが特徴的で、これもその家によって、アワビ貝・シュウリ貝(ムラサキイガイ)・ハマグリ貝・セト製サカヅキ・石油ランプの火屋・茶わんの破片・卵殻などが用いられている。また、頭部にはちまきや冠を付けたものなどもあり、まことに千差万別で変化に富んでいる。
また、私たちが調査した当地方のかま神さまは、「聞き取り調査」ではあるが、全般的には今からおよそ380年〜100年ぐらい前(江戸時代〜明治時代)に作製されたものが多く、地域によっては、大正・昭和時代に入ってからのものもかなり見受けられた。
いずれにしても、かま神さまは、神々の中では親近感の強いもので、昔は、朝は農作業前や毎月、一日、十五日とか、あるいは、いわゆる「年中行事」(正月や節句など)に従って必ず礼拝したらしいが、現在ではそのお家によっても多少異なるが、ほとんど特定の祭日もなく、正月や節分などに「御餅」や「御神酒」を供えて礼拝する程度であるといわれている。
私たちが調査した当地方におけるかま神さまの各市町別現存分布状況(世帯数)は、気仙沼市16世帯、唐桑町3世帯、本吉町26世帯、歌津町8世帯、志津川町101世帯、津山町62世帯、合計216世帯(ただし、一部の公民館などで保存しているところも含めて)の各ご家庭に現存していることがわかった。その中には、一世帯で二個〜数個保存しているところもあったし、保存はしているものの、そのままで新たに天井板を張ったため拝見できなかったご家庭も数世帯あった。また、調査中わかったことだが、去る一九七八年(昭和五十三年)の宮城県沖地震のため破壊されてなくなったご家庭も数世帯あり、破損されたが、それを寄せ集めて保存し、祀っているご家庭も数世帯みられた。
ここで、参考までに各地域の世帯数に対する現存率を示すと、気仙沼市0.08%、唐桑町0.13%、本吉町0.82%、歌津町0.59%、志津川町2.65%、津山町5・04%、合計0・70%であった。いわゆる南高北低型を示していることがわかる。
これらからもわかるように、当地方のかま神さまの現存分布状況は、内陸および山間部を抱えている地域に多く、市街地と海岸部に少ないのが目立っている。これは、市街地は人的交流や家屋の新・改築などがはげしく、また、海岸部は特に過去二度にわたる大津波(明治二十九年と昭和八年)によって、人的被害とともに多数の家屋が流失し、激減したものと思われる。それに各地域共通的に言えることだが、前述の宮城県沖地震などによって、いくら自然災害的とはいえ、当地方の貴重な文化財資料が減少していくことは、まことに残念である。

◎気仙沼市にあるかま神さま 八瀬地区
保存者 佐藤某
住所 気仙沼市字角地
御利益 「カマド」を守る神として。孫が生まれた記念に。
作製年代 約38年前
材質 松の木製 ヒゲは「しゆろ」
大きさ 畳みI畳ぐらい。
製作者 故尾形文二郎さん(気仙沼市字細尾)
保存状況 台所の入口に“扇型の台座”に掛けてある。
祀り方 お正月に「御供え餅」と「しめなわ」をして祀っている。平日には、ほとんど礼拝していない。
こんなお話が 嫁入りした時拝んだ。また、このお家には他に100年ぐらい前に作製したといわれる土製のかま神さまも祀られてあった。

◎気仙沼市にあるかま神さま 八瀬地区
保存者 佐藤某
住所 気仙沼市字角地
御利益 火伏せ。家の守り神。
作製年代 70年ぐらい前に祖父が持ってきた。
材質 栗の木製 ヒゲは「ほうきの木」で作られている。
大きさ 約縦50cm、横45cm(カスガイ二本で支えている。鼻孔は、ニギリコブシが入るぐらい)
製作者 不明
保存状況 台所の柱に、昔からかけてあった。
祀り方 お正月、大黒様(旧二月十日)、えびす様(旧十月二十日)の時に礼拝する。また、何か珍らしいものがあった時に、それを供えて礼拝する。
こんなお話が かま神さまとも呼ぶが「オソウゼンサマ」とも呼ぶ。「スサノウノミコト」が怒ったところの顔を彫ったといわれている。

◎気仙沼市にあるかま神さま 名木沢地区
保存者 加藤某
住所 気仙沼市字名木沢
御利益 火伏せの神さま
作製年代 約160年前
材質 壁土製
大きさ 約縦30cm、横25cm
製作者 不明
保存状況 台所の「ウシモヂバッシャ」(大黒柱)の北側隣にある柱に掛けてあった。
祀り方 お正月に「しめなわ」を飾り、「御供え餅」をあげて礼拝する。 こんなお話が 妻が嫁に来た時よく拝んでいた。

◎気仙沼市にあるかま神さま 松崎地区
保存者 小野寺某
住所 気仙沼市字松崎
御利益 火伏せの神さま
作製年代 約50年前
材質 木製 ヒゲは「しゆろ」。目は墨で塗ってある。
大きさ 約縦60cm 横50cm
製作者 故尾形文二郎さん
保存状況 「かやぶき屋根」の頃は、カマドの近くに掛けてあったらしいが、現在は“飾り物”として“扇型の台座”に掛けてあった。
祀り万 飾り物になっているので、全く礼拝していない。
こんなお話が かま神さまのことを「サルダヒコノミコト」(猿田彦命)ともいい、その隣りに「アメノウズメノミコト」(天宇受売命)の面が掛けてあった。この両者は、夫婦であるといわれている。曽祖父が骨とう品を集めるのが好きで、作製してもらったものだといわれている。

◎気仙沼市にあるかま神さま 大島・横沼地区
保存者 村上某
住所 気仙沼市字横沼
御利益 火伏せの神さま
作製年代 約120年前
材質 壁土製
大きさ 約縦30cm 横25cm
製作者 宮司の故三之宮とくじゅ郎さん
保存状況 昭和50年に家を改築したので、現在では、「ウジクラサマ」(氏神さま)の後ろに置き、一緒に礼拝している。
祀り方 昔は、お正月に「御供え餅」を供え、祖母が一生懸命礼拝した。
こんなお話が 礼拝する心があれば、「御供え物」は何でもよい。昔は、何でも「神さま」を礼拝していた。

◎唐桑町にあるかま神さま 荒谷前地区
保存者 熊谷某
住所 唐桑町字荒谷前
ご利益 火伏せの神さま
作製年代 約310年前
材質 杉の木製
大きさ 約縦20cm、横20cm
製作者 不明(たぶん家大工さん)
保存状況 昔は、カマドの近くにあった大黒柱の手の届く所に掛けてあったが、改築後は部屋に飾ってある。
祀り方 現在は、特に礼拝していない。
こんなお話が 町主催の明治百年祭(昭和42年頃)に出品し、その後は“飾り物”にしている。

◎唐桑町にあるかま神さま 鮪立地区
保存者 村上某
住所 唐桑町字鮪立
ご利益 火伏せの神さま,家の守り紳さま
作製年代 不明
材質 土製
大きさ 約縦30cm 横20cm
製作者 不明
保存状況 「イロリ」や「自在鈎」の近くに柱があり、そこに掛けてあった。しかし、現在では、天井板を上げる時に柱を切断して上げたので今では天井にかくれて下からは見えなくなってしまった。
祀り方 現在は、天井板でかま紳さまは、直接、見えなくなってしまったが、お正月には、その下方の見える所に「しめなわ」を張り、「御供え餅」などをあげて礼拝している。
こんなお話が 幼い頃、“かま神さまに食われてしまうぞ”と言われ、怖かった。

◎本吉町にあるかま神さま 今朝磯地区
保存者 及川某
住所 本吉町字今朝磯
御利益 火伏せの神さま
作製年代 約210年前
材質 土製 目は、シュウリ貝
大きさ 約縦40cm、横20cm
製作者 不明
保存状況 「ウシモヂバッシャ」(大黒柱)につけてある。そのすぐ下方に神棚を設けて祀っている。
祀り方 年越し、お正月に礼拝し、旧暦の一日、一五日、二十八日には、必ずお膳をつくってあげる、また、五節句やお十八夜などにも礼拝する。




ふるさと散歩みち(著者:佐藤雄一 H18.10)

稲井水沼の竃神
稲井水沼の国東平さん(故人)は郷土のことをいろいろと調査して歩き、その貴重な成果を、私たちにも提供していただきました。写真の竃神(かまどがみ)もそのひとつです。国さんは水沼地区で十四面の竃神を調査しておられます。材料は大部分が粘土のようですが、まれには木製のものもあります。竃神のいちじるしい特徴は、完全なオリジナルだということです。
水沼舘下のおばあさんは、家を建てる棟梁をにがにがしく使うと、仕事が終わったときに、竃神の顔をにがにがしく作って置いていくものだと話してくれました。ですから、棟梁は気持ちよく仕事ができたときは、それなりに気持ちのしっかりした表情の竃神を作ってくれるものなそうです。おばあさんの話のはしはしからは人間関係の大切さといったことに対する自戒の思いが込められているように感ぜられました。
また、水沼亀山のおばあさんは、法印さんが作っていってくれるものだといっていました。これは竃神の面相が修験者に似たものが多いところから来ているものだと思います。
家内安全を願い、生活の中心であった居間の竃神柱に取りつけられて、じっと農民の姿を見守ってきてくれた竃神は次第に、その姿を消そうとしています。




栗原郷土研究第8号 (栗原郷土史研究会編 著者:佐々木信義S51/12)

竈神について
炉端を囲んで親から子へ、祖父母から孫へ語り継がれて来た昔話は古き時代のロマンでもあった。この舞台の炉端をみつめて来た主人公が『カマ神』である。地方色豊かな庶民の信仰であったカマ神も、今は残された旧家にひっそりと煤をかぶって、古き良き時代を回想している。怨讐的な異相な面を祀る信仰にひかれて文献を紐といてみた。しかし調査にあたってその文献の少なさに驚いた。あっても調査研究範囲がごく一部のものや、断片的にしか紹介されておらず、本格的に考察したものはなかった。この稿はこの道の第一人者、東京都に在住の内藤正敏氏の研究レポート「東北カマ神信仰の源流(上)と文通を通して調べたものである。

カマ神の名称
まずカマ神の呼び名であるが、圧倒的に多いのは「カマ神」であり、次に「カマ男」で「カマド神」「カマノ神」「カマ別当」「カマ大黒」「カマジン」「クド神」「オヒ神」などと呼ばれている。
宮城県では「カマ神」「カマ男」と多く呼ばれるが、岩手県では「カマ神」「カマ男」の他に「カマ別当」「カマ大黒」「カマ大仏」などと呼称も複雑になる傾向のようである。

カマ神の分布
一般的には宮城県北部から岩手県南部の東磐井郡、西磐井郡、一関市の旧仙台領の地域に多くみられるといわれていたが、内藤氏の調査によるとカマ神の分布の南限は刈田郡蔵王町や柴田郡柴田町あたりと推定し、それから北に進むほど増加しているといっている。特に郡内では花山村、鶯沢町に密集しているようで、花山御番所のカマ神がそれを象徴している。

祭祀
カマ神の祭日であるが、お供えをあげる日を調べてみると、お正月と答えたところが圧倒的に多い。その外正月と共に毎月一日、十五日、二十八日、節句や祝祭日がみられる。お供え物は、正月に餅をあげるところが多く次に赤飯や田植えの初日に苗を供えるというところもある。

材質
カマ神は台所のカマドの後の壁や柱、あるいはカマドの横のウシモチ柱に祀られ、家を建て替える時に造るといわれ、木造家屋の性質上カマ神は古くても三百年以前のものは、残っていない。特に土製のものには、柱や壁にそのまま固定してとりつけているものが多く、家をとりこわす時に家と運命を共にする場合が多い。
一般にカマ神の材質は海岸寄りは土製が多く、山間部は木製が多いといわれている。土製の場合は家を建てる時のカマド又は壁の土で、大工や左官が当主の顔に似せて造るといわれ、そのため何代か経た現在の当主の顔とどこか似ていておもしろい。カマ神の造る規格や流儀があるはずもなく、人間同様カマ神の面相も一つ一つ違って個性的で胸をうつものが多い。土製のものには、目にアワビ等の貝殻を入れてギラギラと光らせたものが多く、海岸から遠くはなれた山間部にも多くみられるが(山間部ではカラス貝の代用もある)。単に装飾という意味より何か水と関係する信仰があるのではなかろうか。
次に木製の材質は、欅、松、杉、栗、ミズの木、桑、柳、朴など一定してからず、木の材質とカマ神の信仰的な関連はなさそうであるが、ただミズの木の場合は「水の木」を使うという意味があるだろう。

形、大きさ
形は一般に怪奇な形相をして神楽面でいう「クイシメ」の面に似ているのが最も多い。前述のように当主の面相に似せて造ったとすれば、いつの世の旦那も出費の時は顔が渋るのであろう。よく子どもの頃、親のいうことを聞かないと「カマ男に連れて行くぞ」と叱られ、泣く子もだまるほど怖しい顔にみえたものだった。また、これが「カマ男」かと思うくらいの微笑をたたえ、実に福々しく観音様の面相に似た「カマ男」もあったが、これなどは例外といっていいだろう。
大きさは、土製のものは比較的小さく縦五十センチ横三十五センチぐらいのものが最も多い。木製のものは前述したような大きさから縦一三〇センチ横一〇〇センチぐらいの大型のものまでみられ、比較的流動的である。

カマ神の起り
火の神としての竈神の信仰は広く日本中にみられ、一般的には台所に神社からもらってきた御札をはる程度であるが、竈神を具象的な面として祀るのは、日本でも宮城県と岩手県南部だけに限られる。どうして、竈神がこの地域だけに、彫刻され、具象化されたのであろうか。カマ神の由来として、次のようなカマ神記原譚が伝えられている。
むかし、ある村にたいへん正直で働き者の爺さんと婆さんがいた。ある秋の雨の日一日の仕事を終えて薪を背負って家路を急ぐ 途中、山神堂の前にかかると、子どもの泣く声を耳にした。不思 議に思い、参道筋に入って見ると、御堂裏の神木の洞の中で見な れぬ子どもがずぶ濡れで泣いていた。お爺さんは可哀想にと、薪 の上にのせて我が家に連れて帰った。婆さんは早速濡れた着物を取り替え、焚火をもやして暖めてやった。ところが火明りで子どもをよくみると、頭は大きく顔は山おやじそっくりで醜いこと餓鬼のようであった。これでも爺さん婆さんは大事に面倒をみて世話したが、子どもは何時になってもデンと炉端に座り大きなヘソを出して毎日腹あぶりばかりしていた。さすがの爺さんもあきれて、ヘソを出していないで.少しは家の仕事を手伝ったらどうかと言い聞かせて、着物の前を合せてやろうとヘソにさわったところ、ジャラジャラと音がして小判が炉端に散った。爺さんはおどろいて子どもに問いただしたところこれは親切にしてくれたお礼で、明日から夕飯時にヘソをさすって下されば小判一枚ずつめぐむと答え、その後二人のくらしむきも良くなり家も栄えた。ところが、このことを知って隣の悪たれ爺さんが留守番していた子どもを訪ね、いきなり囲炉裏の火箸で大事なヘソをつつき、小判をどっさりとろうとしたが、子どもは小判を出さずに死んでしまった。仕事から帰った爺さん婆さんは嘆き悲しみ、この亡骸をていねいに葬り、子どもの厳めしい面相を永遠に伝えるお面をつくり、家神としてこれを祀り火の守り神として、家人の無病息災、災難駆除、家運隆盛の神として祀ったのがカマ神様である。
以上が玉造郡鳴子町に伝っているものだが、黒川郡富谷町、海岸部の気仙沼市、更に岩手県志田郡にも、まったく同じような内容の話が伝っている。また、次のよう奇話も伝わっている。
昔、爺さまと婆さまがいた。ある日爺さまは山に柴刈りに行って大きな穴を見つけた。こんな穴にはきっと悪い物が住みつくだろうから塞いでしまった方がよいと思い、柴の束を穴の口に押し込むと、そのままするすると中に入ってしまった。さらに一束押し込むとまたするすると入っていくので、もう一束もう一束と押し込んでいるうちに三か日もかかって刈り集めた柴を、みな押し込んでしまった。すると穴の中から美しい女が出て釆て、柴のお礼を述べ「どうか穴の中へ来てたもれ」と言って爺さまを誘った。爺さまは辞退したけれども、あまり熱心に勧められるので、女のあとについて行くことにした。穴の中には立派な館があって、その所にさっき押し込んだ柴がきちんと積まれていた。爺さまは館の中に案内されて、大へんご馳走になった。そこで楽しく二、三日をすごしたが、家のことが心配になってきたので帰ることにした。「これをけるから(あげるから)持って行け」と、帰りぎわにそう言われて、爺さまはしぶしぶヒョウトクという一人のわらし(童)をもらって来た。すこぶる醜い顔をしたわらしでずっと炉にあたりどうしで、腹あぶりをしながらひっきりなしにヘソばかりいじくりまわしていた。そこで爺さまは火箸をもってそのヘソをちょいと突いてみた。するとそこから金の小粒がこぼれ落ちたという。それからは日に三度ずつヘソから金を突き出して、たちまちのうちに豊かになった。だが婆さまは欲深者であったからもっと沢山の金を出したいと思って、爺さまの留守にヒョウトクのヘソを火箸でぐいぐいと突いた。そのためヒョウトクは死んでしまった。これを知って爺さまが悲しんでいると、夢にそのヒョウトクが現 れた。「爺さま泣かねでけろ。おらの顔に似た面を土で作って竈の柱にかけておいてけろ。そうすればこの家は富み栄えるようにしてやるから。」爺さまは粘土をこねてわらしの面を作ると竈の柱にかけた。おかげてこの家は栄えた。このヒョウトクこそ「火男」つまりヒョットコであるといわれる。
このように前の話と後の話の共通するところは、醜い子どもが火あぶりしてヘソから金を出し、欲ばりの人がいて子どもを殺し、死後その子どもの面をつくって祀ったのがカマ神の始まりと言われている点である。
しかし竈神の性格上、火の用心、いわゆる『水神様』的性格は持たなかったのであろうか。
また医学の発達しない時代に火の神から家の神となり、更に偶像に発展し病疫を払う魔除けとして家の守護神となり今日まで伝わったものであろうか。今後の課題である。
近年は売買専門の収集家に買いあらされ商店のコマーシャルまで使われるようになった竈神、先代の残した文化遺産を素朴な姿で後々まで残したいものである。




鳴子徒然草(著者:杉本宮雄 H9)より

鳴子徒然草鳴子に限ったことではないが、各地の木地玩具、木地工芸に付きものの土産品に、これは一刀彫りならではの、釜男がある。
土産品といっても、はたして観光用、土産品と言えるかどうか。どう見ても子供や女が、買うほどの関心を持つ代ものではない。成人以上の特殊な信仰的趣味、趣味または物好きという部族のものと言える。これなどは、もともと販売目的としたものでないから、荒々しく素朴なところから、魔除け、火伏せ、厄病除けなどの守り神として信仰対象として現在も生きつづけている。




読売新聞 (2010.8/1)

カマ神
家主に似せ作る火難よけ
薄暗い土間の片隅で、一対の目がこちらを凝視している。
すすけて黒ずんだ顔に、への字に結んだ口。逆さに杯をはめ込んだ両目だけが奇妙に白い。まゆ尻をつり上げた形相に一瞬たじろぐが、よく見ればどこか愛嬌もある。
石巻市の西条隆興さん(83)宅で、かまどの神様「カマ神」を見た。縦60センチ、横50センチ。見上げるような高さの柱に据えてある。

県内・岩手などに2466面
カマ神が初めて文献に登場するのは天明6年(1786年)、紀行家の菅江真澄が石巻市を訪れた際の記述とされている。
東北歴史資料館(当時、多賀城市)が1988年の企画展に合わせて行った調査では、宮城、岩手両県を中心に2466面が確認されている。火難よけにとどまらず、田の神や女性を守る神としてまつる例や、眼病予防などの信仰も見られたという。
カマ神は火の守り神、と西条さんは幼い頃から祖母に聞かされていた。電気やガスが普及していない時代、火は身近な存在だった。「薪もロウソクも、まてい(丁寧)に火を消すよう、ばばに教えられたな」。悪さをしようものなら、「カマ神様にかしぇっど(食わせるぞ)」が脅し文句だった。
かまどを使わなくなって50年。西条家では今も、正月になると両目をきれいに磨き、ほこりを払って餅を供える。
カマ神の風習は、旧仙台藩領の本県北部と岩手県南部に広がる。大工や左官職人が家を建てた際、余った木材や壁土で作り、主人に贈ったといわれている。「時間をかけて建てた家を、末永く後世に残したい。だから職人たちは火事に遭わないよう、面に願いを込めたんだね。」元大工の大場国夫さん(87)(栗原市)が、作り手の思いを代弁する。かまどがなくなり、新築の家に贈る習慣は廃れたが、大場さんは現役を退いた後も木のカマ神を細々と作り、たまに依頼があれば古い面を修理している。
石巻市の別の民家を訪ねると、すすをかぶったカマ神が、明るい台所のガラスケースに収まっていた。制作年は不明だが、主人(75)によると、5年前に改築するまで築160年の旧宅に住んでいたという。みけんにしわを寄せた面構えは、西条家と全く違う。
カマ神は家主に似せて作るといわれる。一帯のカマ神を実地調査した市文化財保護委員の千葉昌子さん(68)は、思わず「あ、似てる」と声を上げ、訪問先で憤慨されたことがある。「でも、やっぱり何となく似てるの」
そういえば、西条家のカマ神もガラスケースに入ったカマ神も―と思い当たった。土着の神への畏怖と親近感。にらみをきかせるその風貌に、家人は祖父や代々の主の姿を重ねるのかもしれない。




民俗調査の細道(著者:岩崎敏夫 H5錦正社)

宮城のカマ神について
普通カマ神と呼ばれている土製や木製の、多くは忿怒の形相をした面をかまどの上や柱にかけて、出入口をにらむようにして祀っておく風習は宮城県に多く、岩手県南にも少しおよんでいる。一般に火難よけ、魔よけ、招福、家内繁昌のためと言っている。
昔は各家に囲炉裏があり、一家の生活の中心は炉の火であった。火は最も神聖で不浄を忌むものであったから、神としてまつられることも当然であった。忿怒の姿は火のはげしい性格を表現したものである。
家を新築し、したがってかまどを新しくした際に、その材料の一部を用いて、大工や左官につくってもらうことが多かったので、どれ一つとして同じものがなく、それぞれ特色がある面相をしている。稚拙ではあるがそれぞれに趣がそなわっている。長い間家を守ってくれという信仰が感ぜられて、家の歴史を物語っているものが多い。土製の場合は、こねた粘土で顔面をこしらえ、目や歯に貝殻や陶器の破片を利用したものも多く、木製の場合は、材質はケヤキ、松、栗などが多く見られる。
現在この風習はすたれ、家屋新築の際にもカマ神を飾ることはほとんどなくなり、古い家に残存するのみである。炉やかまどの火が生活の中心であった頃の家の歴史を知る貴重な文化財であるだけに、家屋改築の際などは心して保存の道を考えておきたいもので、公共の博物館や資料館に寄贈寄託するのも良い方法かと思われる。
この宮城県の民間信仰の大きな特色とも言えるカマ神の所在確認を、県下の全市町村の教育委員会等を中心に依頼して実施したところ、報告のない町村をのぞき、1598体のカマ神の存在を知ることができた。分布状況は図のとおりであり、協力して頂いた各市町村に謝意を表したい。
ただ、以上は一応悉皆調査として確認されただけであるので、さらにこれをふまえて、歴史的信仰的特色のあるものを選んで再調査を行い保存の途を考えたいと思う。それにはその家のカマ神製作年代のわかる何か手がかりになるものはあるまいか。たてよこの寸法ももちろん知りたい。材料は土か木か、土なら眼や歯はどうつくってあるか、木なら材質は何か、そのほか縄の鉢巻があったり、馬の毛のひげが付いていたり、いろいろな特色があるはずである。顔の表情も大切である。またまつられてある場所も大切である。かまどのそばの柱にかけておく所が多い。ことに大切なのは付随している信仰で、その家のカマ神の伝承がないか、あればその家にとっての歴史を知る良い資料となるはずである。火男の昔話やその家だけの火伏せの信仰や伝承が聞かれたことがある。
いずれにしても他県などではほとんど見られない信仰が各位の協力のおかげで、県下に非常に豊富に存在していることが確認されただけでも意義あることで喜ばしい。一応まとめて将来の調査の基礎としたいと考えたゆえんである。

※いわきのカマガミ
福島県にはカマガミは全然ないと思っていたところ、いわき市鹿島町に二基あることがわかった。本家、分家らしいが、和田文夫氏から届けられた写真にそれがある。




日本民俗大事典 上(1999.10 吉川弘文館)

かまがみ 釜神
土間の竈近くの柱に神としてまつられる面の形態をした神。釜の神・竈神・カマ男などともいい、宮城県から岩手県南部にまたがる旧仙台藩領を中心にした地域に分布するが、福島県いわき市からも一例報告されている。また新潟県内各地には、トチの棒や小枝を束ねたものを釜神の神体としてまつる例もみられる。
炉や竈は煮炊きをはじめ、採暖・採光など長い間生活の中心であったことから、生活の根源としての火所は人々の結合の象徴であると同時に、宗教上の中心でもあった。火所には、神棚を設け火の神をまつる例が多いが、宮城県から岩手県南部一帯では、面を神としてまつる。家の構造が変化し竈が廃止された近年は玄関や神棚にまつりなおす例もある。材質は土や木などで多くは恐ろしい形相の顔を象る。目にアワビ貝の真珠質や瀬戸物のかけらなどを嵌め込んだ土製面もある。土製のものは大工や壁屋などが、建築時の壁土や竈の残り土で作ったものともいう。木彫の面も少なくない。宮城県豊里町のある家では竈の背後の柱の上部に、入り口に向けて飾る。眼と歯にアワビ貝を使った土製のもので、家を新築した時に左官が作ったと伝承する。正月に年縄と八本幣を飾り供え 物をするほか、旧暦二月八日にも団子を供える。
新潟県内の釜神は、正月三日の釜神様の年取りにまつり、秋山郷では甑の上に握り飯や栗飯を盛り、神体にベロ、ベロ、ベロと呼ぶ鉤型の棒を添える。宮城県周辺の釜神は一般に、特定の祭日、まつり手も決まっておらず、性格も火の神、家の守り神というように一般の竈神と違わない。こうした形態の釜神信仰は家の構造、竈の普及と無縁ではなく、成立は江戸時代をさかのぼらないであろうと推測されている。

かまどがみ 竈神
竈を中心に家の火所でまつられ単に火や火伏せの神というだけでなく、農作の神、家族や牛馬の守護神、富や生命を司る神など生活全般の神としても信仰されており、地域ごとに民間宗教者の関与や火所の分化によりその呼称や祭祀方法は多様である。
竈神のほか、オカマサマ・釜神サマ・荒神サマ・普賢サマ・ロックサマ・土公神・オミツモン・火の神・ヒョートクなどと呼ばれ、竈の近くに神棚を設けて神札や幣束を納めてまつるのが一般的であるが、東北の陸前地方では新築時に木製や土製の大きな面を竈の前などに大工や左官に作ってもらったり、近畿では普段使わない大竈の上に荒神松を供えたり、沖縄などでは原始的な竈を象徴する三つの石を海から拾ってきて竈の背後に据えて竈神の神体にしている。
なおオカマサマと荒神の両神を同じ家でまつっている場合には、荒神が新しい火の神として強い力をもち、農作神としてのオカマサマが火所から離れ天井裏などに移動することもある。一方、西日本では、荒神が農作神と火の神の二つの性格を兼ねていることが多いという。元来、家とは火所のある独立した建物や部屋を意味し、一つの火を囲んで一緒に暮らす人々が家族であった。このため、竈や囲炉裏などの火所は家自体や家の神の象徴ともみられ、家を起すことを「カマドを起す」、分家を「カマドを分ける」、破産を「カマドを潰す」などといった。また家族とくに家長や主婦が死亡したときには、竈の改火をしたり囲炉裏の灰を新たにかえたりするところもあった。逆に子供や牛馬が生まれると竈神に参って家族の成員としての承認を受けたり、花嫁が人家式の時にも竈神をまず拝んだりした。旅や外出の際に竈神に参れば無事であるといい、子供が泳ぎに行くときも竈の墨を顔に塗っていくと河童に取られないともいった。このほか、田植えが終ると竈に稲苗三束供えたり、稲刈や麦刈の際には初穂を供える民俗もあり、竈神は農作の神としての一面を有していた。
竈神は、神無月に出雲に出かける例と家に残って留守神となる例とがあり、このころに竈神をまつるとともに祭の後に田の神と同様に山と里を去来する信仰が結合した伝承ではないかと思われる。沖縄では、中国からの影響で年末に竈神が天帝のもとに昇天するという伝承もみられる。
竈神には、産神問答型の竜神起源譚が存在しており、古くは「大和物語』の芦刈説話に同様の竈神の由来が語られ、中国その他にも類話が広く分布するところから中国からの伝播が考えられている。この話は炭焼小五郎譚としても語られており、鍛冶屋などの金属加工民がもち伝えた説話ではないかとも指摘されている。
一方で、東北地方の竈神には竜宮童子型の竈神由来譚も語られており、門松を提供した社に竜宮から貰った醜い童子の顔を死後に模して作ったのが竈神であるという。




陸前の山村民俗と民間信仰 (ヤマト書店 編小野寺正人)

◎菅江真澄「はしわの若葉 続」から.....
「うらべかたやき」の項では、「考に、竃輪、東海道あたりにて、除夜に円標縄を作り、此注連のさし亘、一尺五寸、或二尺のまろきしりくめ縄を、竃の後ロの壁に掛ケて、是を荒神の輪、また竃の輪、また竃神輪、また釜神の輪とも、また日ノ輪など云、また、みちのくの牡鹿郡に座る式の御神、曽波神山の麓あたりの村々に竃の後なる壁にてまれ、柱にてまれ、その処に高ク土以て大なる醜男醜女のさまなす頸部を作り、大眼には蛤貝を入れ、口にもしら貝をこめて家ごとにあり。是を釜雄といふ。此竃男にも釜ノ輪標縄掛たる処あり。是も竃ノ輪の類にや」
と論述しているが、引用している「曽波山の麓あたりの村々」での竃神については、天明六年九月十六日の日記には次のようにある。
曽波の神の御山のかたちは、蕎麦のかたちに似たれば、しかいふとか。此のあたりの家のかまどのはしらに、土をつかねて眼には貝をこみて、いかなる人のつらを作りたり。是を「かまおとこ」といひて、「耳のみこのふるごとありと」いひつとふ。




日本人の住まい(宮本常一 百の知恵双書)

異質なカマドの神
 以上見てきたごとくカマドが単にイロリから分かれたものではなく、イロリとは別のパターンとして大陸からもたらされ、火を二つに分化していったことが推定せられるのであるが、それを裏付ける信仰習俗もまたそこに存在する。 「延喜式」の各省寮祭式によれば、大炊式と造酒式、大膳式に竈神祭が見えているが、そのうち大膳式以外の竈神祭は、春冬または春秋二回おこなわれ、アワビ、カツオ、キタイ、スシ、シオ、海藻などを供物とする外にイノシシの肉をそなえている。獣肉をそなえるのは竈神だけで、他の神は水産物神饌だけになる。つまりこの神のみが異質なのである。
 日本で古くカマドの神としてまつられている大社は京都の平野神社で、その祭神は久度(くど)神、今木(いまき)神、古開(ふるあき)神、比売(ひめ)神となっている。久度はカマドのことだとされており、今木は今来で新たにやって来たことを意味する。すなわち大陸から渡って来たものである。この神は桓武天皇の生母の家高野朝臣の祖先和史(やまとのふびと)の祖先をまつったものとい われ、あきらかに外来神なのである。
 民間においてもカマドの神は異質なものをもっている。まずカマドの神は他の神とちがって常在神なのである。西日本では十月に神々が出雲へ行くという伝承を広くもっているが、カマドの神だけはとどまっていると見られる。今日カマド神を三宝荒神と考えているのは、後の変化であろう。三宝は仏教で仏・ 法・僧をさすものであり、三宝荒神には仏家の説が入っていると思う。仏家のいう荒神は一種の障碍神であり、人の身体にそなわる神で、この神が荒ぶるときは病を生ずるからこれをまつってなごむのだといい、また『和訓栞』には「如来荒神、鹿乱荒神、忿怒荒神の三神があって、もろもろの障擬の神だから、清浄なカマドにまつって穢を忌みはばかる」のだともいっている。
 荒神に対する民間の考え方の中にたしかにこのようなものが入り込んでいるのは、仏家の説が民間で信じられたためであろう。つまり、その初めにカマド神には異邦神的な性格が強かったために、その後の解釈にも異質なものが付きやすかったのであろう。
 近畿地方から瀬戸内海へかけてはカマドの神を土公神としているところもある。なまってドクウサマ、ロックサマなどといっている。陰陽道によったものであろう。こうした説のおこなわれている地帯は多くカマドで炊事しているところであり、そうした地帯ではまたカマドばらいが盛んにおこなわれたものである。カマドばらいは地神盲僧のいる地方―九州から四国へかけては、盲僧が琵琶をひきながら地神経を読んではらいをすることが多かった。淡路地方では、人形芝居の仲間が人形をもってカマドばらいをして歩いたともいわれ、またその妻女がカマドばらいをしてまわることもあった。またカマドばらいを専門にする門付もいた。
 東日本では家の不幸を巫女にうらなってもらった際、先祖のまつり方が足らないというのが多いが、西日本ではカマドをけがしているというのがきわめて多い。カマドにはこうして仏教や陰陽道からくる俗信がきわめてつきやすい性質をもっており、土間にありながら、親しみのあるものというよりは畏怖せられるものを多分にもっていた。東北地方に見られるカマド神としての異様な仮面にも、人々のカマド神に対する心持ちを読みとることができる。




火の神話学(大塚信一著 平凡社)

「あるところに爺さまと婆さまがいた。爺さまは山へ柴刈りに行って、大きな穴を見つけた。こんな穴は塞いでしまった方がよい、と一束の柴を穴の口に入れると、するすると入ってしまう。結局、次から次へと三日のあいだ刈りためた柴を残らず穴の中へ入れてしまった。
 穴の中から美しい女が出てきて、柴の礼を言い、穴の中にくるようにすすめる。爺さまが中に入ると、立派な家があった。その傍らには柴がきちんと積んである。家に入るときれいな座敷に立派な自鬚の翁がいて、ご馳走をしてくれた。帰る時にこれを連れていけと一人の童をもらった。みっともない顔で、へそばかりいじくっている。ぜひにと言うので、爺さまは家につれて帰った。
 ある日爺さまが、火箸で童のいじくっているへそをちょいと突くと、金の小粒が出てきた。それから一目に三度ずつ出て、たちまち富貴長者になった。ところが欲ばりの婆さまが、もっと欲しいと思って、爺さまの留守に火箸で童のへそをぐんと突いた。童は死んでしまう。
「爺さまはほかからもどって来て、童が死んでいるので悲しんでいると、夢に童が出て来て、泣くな爺さま、おれの顔ににた面を作って、まい日よく眼にかかる竈前の柱にかけておけ、そうすれば家は栄えると教えてくれました。
この童の名前をひようとくといいました。それでこの土地の村々では、いまでも醜いひようとく(火男)の面を、木や土でつくって、竈前の釜男という柱にかけておくそうである。」
 この話にはさまざまなヴァリエーションがあり、柴を刈るのは三日ではなく三ケ月であったり、童の名はウントクであったりする。ウントクは、『遠野物語』の資料提供者として知られる佐々木喜善が採集した『江刺郡昔話』に出てくる。
こうした類話は、民俗学者によって、竜宮童子とか海神少童として分類されているものだが、それからも分かるように、山の穴(ウントクの場合は山の淵)と海底=竜宮とは同一のモチーフを表している。つまり、山と海底はいずれも非日常的な異界なのだ。
 ひょうとく(火男)と呼ばれるカマド神は、岩手県や宮城県などの旧家で見られるが、最近では民芸品として新しく作られてもいるようだ。カマド神の迫力ある面は、内藤正敏の写真によって広く知られるようになった。
 このようなカマド神=異界の醜い童の面が掛けられるのは、カマドのある土間である。土間は家屋の中で、厠や納戸などとともに、私的な裏側の領域に属する。つまり、公ではなく私、表ではなく裏、そして立派な成人ではなく醜い子供、といった諸要素こそが、異界への往還を可能にするものなのだ。
 だから飯島吉晴は次のように言う。「竈が異界と重要な関連を示しており、そこに宿る神霊は、少童の姿をとって、家の祓え、祝福の機能を果たし、家の守護霊となっている。」「家の神としての竈神は境界性、両義的性格をもち、媒介者として絶えず秩序を更新していく点にその機能が認められる。秩序の移行に伴う、排除されるべきもの、死すべきもののイメージが、両界の対比から神秘的な陰の神に付与されるために、竈神は黒い暗い神と考えられたのである。竈神の司祭も本来主婦である。主人との対比では日常生活で構造的に劣位である主婦が、家の裏側の司祭に当ったものと考えられる。」
 ここで、本章第一節でギリシアの火の神ヘパイストスを論じた時に指摘しておいた、マイナスのイメージを負うものこそ新しい文化の創造者になるのでは、ということを思い出していただきたい。ヘパイストスは生まれつきの(あるいは母親に投げ捨てられた結果の)不具であったし、ひょうとくやウントクは醜い少童であった。この点についても飯島は言う。「否定性を帯びたものが、しばしば神のやつしの姿であり、そういうものが富をもたらすという考えは、竈神をめぐってとくに顕著であった。」
 「家の神には、目や耳が悪い、醜い、片足などという不具性を帯びたものが多いが、……不具性は、全体性を認識させるための仕掛けなのである。」